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SF脳とリアル脳

カテゴリー:人間・脳

(霧山昴)
著者 櫻井 武 、 出版 講談社ブルーバックス新書
 人間は脳の能力の10%しか使っていないという俗説は間違い。ええっ、そ、そうなんですか…。
 人間の脳は何もしていないときでも、すべての領域が活発に働いている。まったく機能していない部位は脳には存在しない。
 脳全体が常に活発に動いているので、特定の課題で活動が上がる部分はわずかでしかない。ぼーっとしているときでも、すべての脳領域で、活発な活動と情報交換が行われている。脳は、状況によって使う領域や神経回路のパターンを変えているが、どんな状況でも、ほぼすべての領域に活動がみられる。
 脳は、右半球・左半球を問わず、全体で、もてるリソースを総動員して、情報をやりとりしながら作業している。
 人間の行動は「意識」がなくても起こる。睡眠中に、起きあがって絵を描き、本人は、まったく自覚していないということが起こりうる。いやあ、そんなこともあるんですね…。
 脳は成長が期待できる臓器である。脳は学習や経験にともなって変化する可塑性をもつ組織だから。
 睡眠は脳にとって「休んでいる」のではなく、能動的に心身をメンテナンスしている過程。
 マウスを完全に断眠(眠らせない)と、わずか4日で8割が死んでしまう。断眠は、視床下部の恒常性維持機構の破綻を招く。断眠させられると、ラットは感染症のため次々に死んでいく。免疫系の機能に重篤な影響を与える。
 睡眠を断つと、脳の記憶システムにとどまらず、恒常性の維持機構や免疫系、ひいては全身の機能を狂わせてしまう。人間が眠っているとき、脳も「眠っている」のではなく、実はさまざまな作業をしている。その一つが記憶の固定化。
 人間の脳は1000億もの神経細胞(ニューロン)から成り、高次機能をつかさどる大脳皮質だけで140億個のニューロンが稼働している。
 人間が見ているのは、ばらばらな情報を脳が組み合わせたヴァーチャルリアリティ。たとえば、色は脳がつくり出したもので、脳がつくり出したもので、脳が感じないかぎり、色というものは存在しない。これって不思議ですよね。色は物質に付着したものばかり思っていました。でも、あの
玉色の金属光沢は複雑な構造が生み出したものなんですよね…。
 情動は、脳の中の「大脳辺縁系」と呼ばれる領域が、視床下部との共同作業によって引き起こされているもの。感情を生むのは、大脳辺縁系だ。脳機能のうち、意識ののぼるのは、ごく一部だけ。
 海馬は、新たな記憶をつくるために大脳皮質の働きを助ける装置。記憶後の初期の段階では、海馬がないと、記憶の成立も想起もできないが、記憶は最終的には大脳皮質、とくに側頭葉の皮質で保持され、数ヶ月から2年くらいの期間を経て、海馬の助けがなくても、大脳皮質から取り出し、前頭前野で認知できるようになる。これが長期記憶だ。
脳の話は、いつ聞いても(読んでも)面白さにみちみちています。今回も、とても刺激的な内容でした。
(2024年12月刊。1100円)

クラクフ・ゲットーの薬局

カテゴリー:ヨーロッパ

(霧山昴)
著者 タデウシュ・パンキェヴィチ 、 出版 大月書店
 ポーランドの南部、クラクフにナチス・ドイツはユダヤ人を集めたゲットーをつくった。
 このとき、ユダヤ人ではない著者の営む薬局がそのままゲットー内での営業を認められ、ゲットー内での出来事を目撃していったのです。それはナチスによる殺人が日常的に起きる異常な光景でした。
 始まりは1941年3月のこと。ユダヤ人でない「アーリヤ人」は誰ひとりとしてゲットー内に住むことが許されなかった。例外は薬局を営む著者と拘置所(翌年、移動)の看守のみ。
 ゲットーの住民は1万6千人ほど。大勢の人が集まったことで、経済生活は活性化し、オーケストラ演奏のあるレストランまで生まれた。
 人々は日常につきまとう緊張、生活不安からイライラを募らせ、意気消沈することが多かった。ナチスの親衛隊員は粗野な本能に息抜きを与えるかのように通行人を殴ったり、蹴ったりした。
 ゲットー内ではユダヤ人の抵抗組織が活動していた。そして、それをナチスに通報する密告者(スパイ)がいた。密告者はあらゆる事業所そして作業場にいた。これらの密告者のほとんどはゲシュタポの手によって、あるいはレジスタンスの地下組織によって殺害された。
 ゲットーには銃声が鳴り響き、死者と負傷者がバタバタと倒れ、歩道と車道に残った血痕がドイツ人の犯罪を物語った。
 人々が水を手に入れることは出来なかった。万一、そんなチャンスがあったとしても、与えることを禁じられた。
薬局の前には小型の軍用車が停っていて、親衛隊員がトランクを次々に社内に運び込んでいった。それは家宅捜索のとき、ユダヤ人から奪ったトランクで、中には指輪、腕輪、金時計、シガレットケース、ライターなどの貴重品が入っていた。
 行列をつくっているユダヤ人の顔には無感動と諦観の表情が浮かんでいた。もう何事も、どうでも良かったのだろう。
 親衛隊の秘密メンバーでもあったドイツ人警察官ブスコは、ナチスに加わった最初の一人であったが、ナチスに背を向けた最初の一人となった。ユダヤ人に対して比較的に誠実な態度をとり、可能な限りの支援を惜しまなかった。「自分が怒鳴るのは偽装のためだ」と言ったが、それはみんな理解していた。やがて前線に召集されそうになって逃亡した。しかし、ついに見つかり、1944年10月、銃殺された。
 ユダヤ人たちは祈った。
 「神よ、あなたはどこにいるのですか?」
 「神はいる。神は休暇で出かけているが、戻ってくる」
 そうなんですよね、私が神を信じないのも、この現実があるからです。
ゲットーで自然死するのは、決して容易なことではなかった。移送行動の際、多くの人が自殺した。
 ワルシャワではゲットー蜂起が起きたけれど、クラクフのユダヤ人はそれほどの規模の自由を求める闘争は起こさなかった。それでも、ユダヤ人たちは決して自尊心を失わず、占領者に対して自らを卑下することなく非業の死を遂げた。
 さまざまな事業所の労働者はほとんど全員が意識的に一貫性のあるサボタージュ行為を起こした。それは作業ペースを落とし、納入期限を守らず、ゲットーで製品の重要部分を取り除き、破壊し、燃やし、ドイツ人の手に入らないようにするサボタージュ行為だった。
 ゲットーでは、ユダヤ戦闘団が壁の外の地下組織と協力して活動していた。ユダヤ戦闘団の闘争手段はサボタージュと占領者に対する破壊工作だった。ユダヤ戦闘団はポーランド語の「民主主義者の声」という新聞を発行した。部数は40部で、60号まで発行された。
 大変貴重なゲットーの目撃記録です。
(2024年11月刊。2400円+税)

算数を教えてください!

カテゴリー:社会

(霧山昴)
著者 西成 活裕 、 出版 かんき出版
 フルタイトルは「東大の先生!文系の私に超わかりやすく算数を教えてください」です。
 私の場合、大学入試は文系一択でしたが、高校3年まで理系クラスにいて、「数Ⅲ」まで履修しました。微分・積分も理解でき、不得意科目ということではありませんでしたが、図形問題は苦手でした。そこは直観がモノを言う世界で、私には直観が欠けていたのです。つまり、図形を眺めて、ひらめくところがありませんでした。こればかりは練習問題や過去をいくら積み上げても身につかないと決断し、高校2年の終わりの春休みに文系志望を固めたのです。今考えても正解だったと思います。論理的思考力とちょっとした文章力(たとえば「30字以内に大意を要約せよ」といった設問を得意としていました)で生きていくことにしたのです。これは今に生きています。
 さてさて、この本です。「実は、算数は奥が深い」と表紙に書かれています。まったくそのとおりです。小学校の算数を身につけ、中学校の数学が理解できたら、世の中に理解できないものはない。私は、そう考えています。
 なので、今回は小学生を対象とする算数の本に挑戦してみました。少し前には中学数学にも挑戦しました。高橋一雄の『語りかける中学数学』(ベレ出版)です。800頁をこす大部の本なのですが、私は中学数学を真面目に学ぼうと思って、最後まで読み通しました。6年前のことです。ただし、「最低でも3回は復習してください」とありましたが、1回通読しただけなので、理解できたという自信はありません。でも、この本には著者の数学を理解してもらいたいという真剣な情熱はよくよく伝わってきました。
 この算数の本に戻ります。ひらめきが必要。あれ、なんか違わない?こっちじゃないの?そんな動物的嗅覚が大切。
 意識的に直感と論理を行き来する脳を鍛えることは算数や数学に限らず、大人になったときに絶対に役立つ。
日本は、計算は10進法、時刻などは12進法と使い分けてきた。
 干支(えと)も12進法。和算は算木やそろばんを使っていたので、計算を紙に書く習慣がなかった。1,2,3…。そして0(ゼロ)を導入したことによって初めて、紙での計算ができるようになった。
 数学とは言語。算数の世界を旅するためには、その世界の言語を覚えないといけない。無駄がなく、解釈の違いが起きないからこそ数学は世界共通言語になれた。
 文章の理解とは、その状況を頭の中でイメージできるかどうかの勝負。
 九九を習う目的は「掛け算の筆算が出来るように、81パターンが暗算できるようにすること。九九のなかで、絶対に覚えないといけないパターンは36しかない。
小数は中国生まれで、ヨーロッパに伝わったのは、わずか500年ほど前のこと。
 分数は数ではなく、計算途中をあらわしたもの。時間、速さ、距離の関係は、実は割合。
 図形は、数学の原点。図形の決め手は、妄想力。想像力や妄想力、イメージをする力をどうやって養うか…。それは、小さいときから、どれだけ遊んできたかによる。いろんな「形」に実際に触れる体験を伴う遊びをどれだけしたか…。円は三角形の集まりでできていると、イメージする。
 予備校で講師のアルバイトをしていた経験を生かした本でもあるそうです。なんとなく分かった気にさせるのは、さすがです。400頁近い本なのに、2000円しないのもいいですよね。
(2024年10月刊。1980円)

加耶/任那

カテゴリー:朝鮮

(霧山昴)
著者 仁藤 敦史 、 出版 中公新書
 古代の朝鮮半島に大和朝廷の出張拠点として「任那(みまな)日本府」があったという近年までの通説は現在、明確に否定されている。私もここまでは認識していました。
 この本によると、「日本府」の「府」というのは「臣」だそうです。つまり、「日本府」は「倭臣」なのです。大宰府というと、大宰府政庁があって、九州における大和朝廷の出先官庁でしたが、それとはまったく異なるものです。
 そして、「倭臣」といっても、大和王権(朝廷)とは独立した存在であって、臣従関係にはありませんでした。
5世紀後半の雄略天皇以降、加耶(かや)諸国には倭系加耶人が多く居住していたが、ヤマト王権とは独立した存在として、加耶諸国の独立を維持する活動をしていた。つまり、新羅(しらぎ)と百済(くだら)の侵攻を排除し、加耶諸国の独立を維持しようとしていた。
 朝鮮語では、カヤ(加耶)とカラ(加羅)の発音は通用する。狗邪(くや)韓国も同じ。
高句麗の広開土王の功績を記念して建設された広開土王碑が今の中国吉林省集安市に残っている。高さ6.4メートルの方柱碑。四面に1775字が刻まれている。
この碑文については、日本の軍人が石灰を塗布して文面を一部改ざんしたという説もあったが、現在では改ざんは否定されている。ただし、広開土王の業績を誇るため、「倭」の脅威が誇張されていると考えられている。つまり、広開土王碑の碑文から、大和朝廷が任那を支配していたとすることはできない。
 朝鮮半島の西端には前方後円墳が存在する。これは、5世紀後半から6世紀前半にかけて筑紫(つくし)出身の倭系の人々がつくったものと考えられるが、ヤマト王権の任那支配とは関係ない。
古代朝鮮に大和(ヤマト)朝廷(王権)の支配する拠点はなかったとしています。それでも朝鮮半島の南部に北部九州の倭人が進出していて、交流していただろうともしています。
 筑紫の君・磐井(いわい)の反乱もあったわけですから、大和朝廷が日本を統一したうえで、朝鮮半島の一部まで支配していたかのような考えが明確に否定されています。大変勉強になりました。
(2024年12月刊。990円)

ナチズム前夜

カテゴリー:ドイツ

(霧山昴)
著者 原田 昌博 、 出版 集英社新書
 ワイマル共和国と政治的暴力というサブタイトルがついています。ヒトラーのナチスが政権を握る前、ワイマル共和国体制の下で、政治的暴力が日常茶飯事だったことを初めて認識しました。主としてナチスのSAと共産党のあいだでの暴力です。それは銃器も用いていて、たびたび人が何人も死んでいます。
 当時のベルリンは人口400万人というドイツ最大の都市。市の西側に高級住宅街やブルジョア地区が広がり、東側はプロレタリア的色彩の濃い地区だった。
 政治的にみると、ベルリンでの左翼陣営の得票率は常に50%をこえていて、1930年に入ると共産党への支持が社会民主党を上回っていた。1930年初頭のベルリンでは、ナチ党、共産党、社会民主党が三つ巴(どもえ)の闘いを展開していた。
 ナチスと共産党は、互いを明確な敵として認識していた。共産党は「ファシストを見つけたら叩きのめせ」というスローガンを唱えた。ファシストとはナチスだ。
 ナチスのSA隊員は急増した。30年春に3千人だったのが32年初めに1万人をこえ、夏には2万2千人となった。その50%以上が労働者であり、失業者と若者から成った。
 SAの急成長と労働者地区への侵入の本格化は、そこを牙城とする共産党の敵愾(てきがい)心を刺激し、ベルリンの治安状況を悪化させた。
 ワイマル共和国の不安定さの中で、暴力で状況を変えられるという誤った信念が社会に浸透していった。
 共産党は1928年以降、コミンテルンの方針を受けて戦闘的な極左路線をとり、社会民主党についてファシズムの片棒を担(かつ)ぐ「社会ファシスト」と呼び、ときにナチス以上の主要敵とみなした。そのため、1930年代にフランスやスペインで成立する社共統一の人民戦線はドイツでは非現実的だった。
 ベルリンの東側に位置する労働者地区は、老朽化した建物が密集し、生活環境は劣悪で、人口密度や犯罪発生率の高さ、ひどい衛生環境が特徴的だった。
 住民たちにとって何より重要だったのは、侵入してくる「敵」に対して自分たちの「縄張り」を守り通すことだった。
 ワイワル期には、政治的党派ごとにメンバーやシンパがたむろする酒場が発展した。「常連酒場」と呼ばれSAの酒場は「突撃隊酒場」と称した。1930年2月に、ベルリン市内に共産党の常連酒場が193軒、ナチスの酒場が51軒あった。その後、ナチスSAの酒場は急増し、同年末には144軒となった。酒場の出入り口には歩哨を立てて周辺を警戒した。
 政治的暴力が日常化した結果、人々が行きかう街頭は暴力で対抗した。ナチスであれ、共産党であれ、若者たちの一部が暴力に魅せられ、日常生活の中で暴力に手を染めていった。
 1933年1月30日、ヒンデンブルグ大統領はヒトラーを首相に任命した。ナチスは政権成立から1ヶ月足らずでSA隊員を補助警察官とし、経済界から半ば強制的に資金援助を受け、政敵(共産党)を撲滅に乗り出した。
 ワイマル前期から中・後期にかけてのドイツ社会には左翼から右翼に至るまで暴力を忌避しない政治文化が広がり、「暴力の政治化」あるいは「政治の暴力化」とも呼ぶべき状況が生み出されていた。社会に蔓延(まんえん)する政治的暴力は、それを忌み嫌う市民感情とは別に、暴力に魅力を感じ、積極的にコミットしようとする人々(とくに若者と失業者)を惹きつけ、各党派の「政治的兵士」を生み出した。暴力に直接的に関わらなかった人々も、暴力を公然と行使する政党に票を投じた。1932年7月の国会選挙において、ベルリンではナチ党と共産党の得票率の合計は56%であり、投票者の過半数が両党のどちらかを選択した。逆に暴力に消極的な政党の得票は減少した。暴力を忌避しない政党であるからこそ、ナチスや共産党を支持したという人々が多数存在した。
 暴力で「こと」を動かそうとすると、その結果として生まれる新たな状況もまた暴力の洗礼を受ける。暴力は結局のところ暴力で回収せざるをえなくなり、暴力が暴力を呼ぶ負のスパイラルが生じていく。
 皮肉なことだが、意見表明の自由が保障されたワイマル憲法の下で、党派間の激しい対立が暴力の行使を常態化させた。
 ワイマル共和国の実態、人々が政治的暴力の日常化するなかで生きていて、結局、ナチスの暴力という圧政を招き入れたという教訓は今日なお大切なものだと痛感します。
 ウクライナもガザも、暴力の連鎖を断ち切る必要があります。それもトランプ流のやり方ではなくて…。大変刺激的な内容で、とても勉強になりました。今日に生かすべき教訓にみちた新書だと思います。
(2024年8月刊。1320円)

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