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「馬」が動かした日本史

カテゴリー:日本史

(霧山昴)
著者 蒲池 明弘 、 出版 文春新書
学者ではない歴史ライターと名乗るジャーナリストの書いたものだけあって、よく調べてあるうえに読みやすく、「馬」という新鮮な切り口で日本史をとらえることができました。
馬は昔から日本列島にいたのではないのですね。
縄文・弥生時代の日本列島には馬はいなかった。
馬は朝鮮半島から5世紀に持ち込まれた。古墳時代中期ころ。
日本列島にも、ところどころ「草原の国」があり、軍事利用のため馬が飼育されていた。それは、武士の誕生とも重なっている。かの『魏志倭人伝』にも日本列島に馬がいないことが記述されている。ええっ、そ、そうでしたっけ…。
日本が朝鮮半島を植民地支配していた明治43年(1901年)に、3万9千頭の馬がいたのに対し、日本国内には156万頭の馬が飼育されていた。そして、朝鮮半島といっても、済州島の馬が半分以上を占めていた。朝鮮半島には馬の飼育に必要な草原が乏しかった。ええっ、日本にそんなに草原がありましたかね…。いやいあ、それがあるというのです、日本各地に…。火山が日本に草原を生み出した。それは「黒(くろ)ボク土(ど)」という黒っぽい土による。この黒ボク地帯は武士の活躍する舞台となった。
サラブレッドは体格も見た目も立派だが、短距離レース向けに改良された馬。
日本固有の馬は、小型で不格好な体型で、走るのも遅い。しかし、粗食に耐え、長い遠征を戦うスタミナを備えている。
江戸時代の千葉には幕府直営の自然放牧の馬牧があり、5千頭以上の馬が放牧・飼育されていた。
「日本書紀」には、古墳時代の日本が朝鮮半島に馬を輸出していたことが記載されている。これまた、知りませんでした。
群馬県は、古墳時代に日本有数の馬産地であり(なので群馬という)、東日本最大の古墳がある。同じく古代からの馬産地である宮崎県に九州最大の古墳がある。
前方後円墳の数が一番多いのは千葉県。ここは国内最大の馬産地だった。
古墳時代の馬は希少な高級品だった。
7世紀に京都の朝廷が派遣した朝廷軍は、東北の蝦夷(えみし)軍と長く戦った。そのとき蝦夷軍の統率者の一人が英雄アテルイ。東北部を京の朝廷が握って離さなかったのは、ここが有名な馬の産地であり、金の産地だから、だった。
日本に住む人々と馬が古くから関わり依存しあっていたことなどが大変よく、無理なく説明されていました。面白く読めました。心より感謝します。
(2020年1月刊。900円+税)

チョウはなぜ飛ぶのか

カテゴリー:生物

(霧山昴)
著者 日高 敏隆 、 出版 岩波少年文庫
驚きました。戦前の1930年生まれですから、敗戦当時は15歳。チョウの飛び方を探るべく、遠く高尾山にまで一人で、また、大人と一緒に出かけてチョウ道の観察に出かけていたのでした。そして、戦後になってからは、外房線の東浪見(とらみ)駅まで、はるばる4時間もかけて大人2人と3人で出かけていき、そこでチョウ道を探索して歩いたというのです。
いやはや、なんという執念というか、物好きな人たちです…。
そして発見したのです。チョウ道は時刻に関係があること。そして、地形ではなく、光と関係があることも。チョウは明るく日のあたっている木の葉の近くを飛ぶ。しかし、チョウ道は光や木の葉とだけ関係があるのではなく、温度とも関係がある。そして、チョウ道は、チョウの種類によっても違う。
しかし、チョウ道があるのは、おもにアゲハチョウの仲間に限られている。モンシロチョウやモンキチョウにはチョウ道らしきものはない。
チョウ道は、なわばりとは関係がなく、食物のありかとも関係がない。チョウ道があるかどうかは、そのチョウの幼虫がどんな植物を食べるのかということに関係している。
ずいぶん前に、『モンシロチョウの結婚ゲーム』という面白い本を読みました。キャベツ畑をひらひら飛んでいるモンシロチョウは、オスがメスを見つけて、素早く飛びかかる。しかし、人間の目ではオスもメスも真っ白で区別がつかない。どうやってオスはメスを見つけるのか…。
それは紫外線写真をとると一目瞭然。オスはまっ黒に見える。なので、オスがメスを見間違えるはずがない。
では、アゲハチョウはどうか。実は、アゲハチョウは、大変気むずかしいチョウだ。
オスがメスを見つけるときに大切なのは黄色い色。そして、縞(しま)もよう。黄と黒の縞もようにオスは惹かれて寄ってくる。さらに、アゲハチョウは、わざわざさわってみる。
今から45年も前に書かれたものなんですが、研究途上の大変な苦労を重ねて、一つひとつ発見していく過程が紹介されていますので、とてもスリリングで興味が湧きます。さすが少年文庫にふさわしい内容です。著者は惜しくも10年前の2009年に亡くなられています。
(2020年5月刊。760円+税)

文革下の北京大学歴史学部

カテゴリー:中国

(霧山昴)
著者 郝 斌 、 出版 風響社
1966年の春、中国で突如として文化大革命なるものが始まりました。私が東京で大学生になる1年前のことですから、まだ福岡の田舎の高校生でした。
初めのころは、文化面での批判と自己批判くらいに思っていたのですが、そのうち指導層のなかの激烈な主導権争いだということが分かりました。旧来の支配的幹部が次々に失脚していくだけでなく、激しい糾弾の対象となりましたが、あわせて知識人も主要な攻撃対象でした。
中国で北京大学と言えば、日本の東大以上の存在感がある大学だと思いますが、その歴史学部の助教授だった著者も糾弾されて、牛棚(牛小屋)に3年あまり監禁されたのでした。文化大革命の終結したあとは再び北京大学につとめ、副学長になっています。
1966年6月2日付の「人民日報」の一面トップは北京大学哲学部の聶元梓(じょうげんし)による大家報を紹介した。北京大学の陸軍・学長などを名指しで批判したのだ。
文化大革命の期間中に全国で摘発された人は100万人をこえ、「牛鬼蛇神」と呼ばれた。北京大学・清華大学の大学関係者のみ「黒幫」とよばれた。北京大学歴史学部に在籍する教職員100人のうち、批判され摘発されたのは3分の1をこえた。
学生たちは教師の頭髪を刈って「陰陽頭」にした。右半分は根っこから刈られ、左半分もバラバラの状態にされた。
学生たちの行動は、一個人によってなされたものではなく、その背後には幾千の学生たち、ひいては幾千万もの同世代の青少年が立っていた。
社会がここまで乱れた以上、国家の正常な状態はもはや期待のしようもなかった。社会に「疫病」がはやり、青少年層は全体として感染し、「狂熱的暴力集団性症候群」になった。
群集が理性を失い、感情的なイデオロギーにマインドコントロールされてしまったときには、どんなに荒唐無稽な行動でも起こすことがありうる。これは古今東西において例外はない。
清末の義和団も、その一例。義和団に入った群衆たちは、口で呪文を唱え終わると、自分の体に、「刀では切れないし、鉄砲の弾も通らない」不思議な力がついたと本心から信じ、目前にある西洋の鉄砲にも恐れず立ち向かっていった。
「牛棚」(牛小屋)のなかでは、甘言を弄したり、人の危急につけ込むようなことがさまざまな局面で起きていたが、その反面、善なる人間性の美しい部分も、こうした環境のなかでも粘り強く生きていた。
1968年春、北京大学の校内で武力闘争が起きた。
東大闘争が始まった(全学化した)のは1968年6月からですが、ゲバルト闘争は10月ころからひどくなりました。それでも、北京大学の武力闘争に比べると、まるで子どものチャンバラゴッコのレベルでした。
北京大学では巧妙な教授たちの自死が相次いでいますが、日本ではそんなことはまったく起きていません。
毛沢東による奪権闘争とその軍事的衝突の激しさは、日本人の私たちからは想像を絶するものがあります。中国の状況が複雑かつ混迷をきわめたのには、次のような違いもありました。
当時、北京大学には上層部幹部の子女が多く通っていて、その両親の大半は文革中に打倒された。しかし、青春まっ盛りの世間知らずの若者たちは、父母が打倒されても、それは自分とはまったく無関係であり、父母に問題があっても、それは父母のことであるから、自分は変わらず革命の道を進む。なので、やるべきことはやり、言うべきことは言うとしていた。地主・官農・資本家の子女を糾弾することがあっても、それは革命幹部の子どもである自分たちにはあてはまらないと信じていた。しかし、それが見事にひっくり返されてしまった…。
著者が名誉回復したのは1978年のことですから12年間も苦しめられていたわけです。
毛沢東の権力欲のおかげで中国の人々は大変な苦難を押しつけられたことになります。
読みすすめるのが辛い回想記でした。
(2020年3月刊。3000円+税)

政治部不信

カテゴリー:社会

(霧山昴)
著者 南 彰 、 出版 朝日新書
東京・大阪で10年あまり政治部記者をつとめ、新聞労連委員長として2年のあいだ活動してきた著者による、政治部記者のありようを問いただした新書です。著者は古巣の政治部に戻ったのですから、今後ますますの健闘を心より期待します。
菅首相は、自分の言葉で国民に向かって話すことがありませんが、それはもともと政治家として国民に訴えるものを自分のなかにもっていないからとしか思えません。つまり、菅首相が政治家になったのは、国民はひとしく幸せな毎日を過ごせる社会にしようとか、そんなことはてんで頭になく、ひたすら自分と周囲の者の安楽な生活のみを求めて政治家(家)というのを職業選択しただけなのではないでしょうか…。
そして菅首相にあるのは、敵か味方かという超古典的な二分論です。恐らく、それを前提として権謀術数をつかって政界を泳ぎ、生き抜いてきたのでしょう。そんな人が日本の首相になれただなんて、まさに日本の不幸です。これも小選挙区制の大いなる弊害の一つです。中選挙区とか比例代表制では菅首相の誕生はありえなかったでしょう。なぜなら、菅には国民に訴えるものが何もないからです。「自助、共助、公助」という「自助ファースト」というのは政治は不要だと宣言しているようなのです。そんな政治家は必要ありませんよ。
菅が首相になる前、官房長官のときに何と言っていたか…。
「ご指摘はまったく当たりません」
「何の問題もありません」
まさしく問答無用、一刀両断に切り捨ててしまい、質問に対してまともに答えることはありませんでした。議論せず、説得しようともしない政治家ほど恐ろしいものはありません。
前の安倍首相は平気で明らかな嘘を言ってのけました(原発災害はアンダーコントロールにある、とか…)。しかし、そこには嘘が嘘でないかを議論する余地が、まだほんの少しは残されていました。
ところが菅首相になると、「嘘」の前に、「何の問題もない」とウソぶいて議論しないのですから、よほどタチが悪いです。国会でまともな議論をしなかったら、どこで日本のこれからをどうやって決めていきますか…。私は不安でたまりません。
ボーイズクラブという言葉があるのですね。知りませんでした。
体育会系などで顕著にみられる男性同士の緊密な絆でお互いを認めあっている集団のこと。日本の閉鎖的な記者クラブもその一つでしょうね。
安倍前首相はマスコミの社長連中そして局長連中、さらにはヒラの記者たちとよく会食していたようです。例の官房機密費(月1億円をつかい放題…。領収書は不要)でしょうね。
そして、菅首相は、3社くらいずつ、オフレコのある「記者会見」を繰り返しているようです。
エセ「苦労人」の化けの皮がはがれないように手を折っているのでしょうね。こんなにセコいのは、やはり官房長官として仕えた安倍首相譲りなのでしょう。
日本の政治部記者よ、記者魂を呼びもどし、目を覚ませと叫びたいです。
(2020年9月刊。790円+税)

分隊長殿、チンドウィン河が見えます

カテゴリー:日本史(戦前・戦中)

(霧山昴)
著者 柳田 文男 、 出版 日本機関誌出版センター
下級兵士たちのインパール戦というサブタイトルのついた本です。
私と同じ団塊世代(1947年生まれ)の著者がインパール戦の現地ビルマからインドを訪問し、その体験で知りえたこと、戦史や体験記も参考資料として書きあげた物語(フィクション)なので、まさしく迫真の描写で迫ってきます。実際には、もっと悲惨な戦場の現実があったのでしょうが、それでも、インパール戦に従事させられ、無残にも戦病死させられた末端の兵士たちの無念さが惻惻(そくそく)と伝わってきます。
インパール戦には、1万5千人の将兵が従事し、1万2千人の損耗率、戦死より戦病死のほうが多かった。インパール作戦は、1944年(昭和19年)1月7日、大本営から正式許可された。すでに劣勢にあった日本軍がインドにあるイギリス軍の要衝地インパールを占領して、戦況不利を挽回しようとするものだった。インパールはインド領内にあり、日本軍は、そこにたどり着くまえに火力で断然優勢な英印軍の前に敗退した。
インパールに至るには峻険な山地を踏破するしかなく、重砲などの武器と弾薬そして食糧補給は不可能だった。ところが、反対論を押し切って第15軍司令官の牟田口廉也(れんや)中将と、その上官にあたるビルマ方面軍司令官の河辺正三(まさかず)のコンビが推進した。大本営でも作戦部長(真田穣一郎)は反対したが、押し切られてしまった。
主人公の分隊長である佐藤文蔵は、京都の貧しい農家の二男。師範学校を退学させられ、応召した。そして24歳のときに軍曹に昇進して一分隊の指揮官に任命された。
英印軍は、山域に機械化部隊をふくむ精強な第20師団を配置し、強力な重火器類による砲列弾に日本軍は遭遇した。日本軍は小火器類しかなく、食料が絶対的に不足していた。そして、ビルマの激しいスコールは日本軍将兵の体力を消耗させていった。
第一大隊は、チンドウィン河を渡河した時点で1000人いた将兵が、これまでの戦闘によって、現時点では、1個中隊に相当する200人足らずの兵力に激減していた。そして、この将兵は、食料不足、マラリア、赤痢などの熱帯病におかされ、激しい雨によって体力を奪われてやせ衰え、その戦闘能力は極度に低下していた。
インパール作戦が大本営によって正式に中止されたのは、7月3日のこと。第15軍司令部が正式に知らされたのは1週間後の7月10日だった。あまりに遅い作戦中止決定だった。7月18日には東条内閣が総辞職した。
「戦線整理」という名ばかりの指揮系統のなかで、戦場に遺棄された将兵たちは、密林地帯から自力で脱出することを課せられた。激しいスコールに見舞われる雨季に入っていた。「白骨街道」が誕生することになった。
佐藤軍曹は2人の一等兵を鼓舞しながら、山中をさまよい歩きチンドウィン河を目ざしていくのでした。涙なしには読めない苦労の連続です。でも、ついに目指すチンドウィン河に到達し、やがて日本に戻ることができたのでした。もちろん、これはめったにない幸運な人々の話です。こんな無謀な戦争にひきずり込んだ軍部の独走、それを支えていた「世論」の怖さを、しみじみ実感しました。
あたかも生きて帰還した人の手記を読んでいるかのように錯覚してしまう物語(フィクション)でした。
(2020年1月刊。1600円+税)

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