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チョウはなぜ飛ぶのか

カテゴリー:生物

(霧山昴)
著者 日高 敏隆 、 出版 岩波少年文庫
驚きました。戦前の1930年生まれですから、敗戦当時は15歳。チョウの飛び方を探るべく、遠く高尾山にまで一人で、また、大人と一緒に出かけてチョウ道の観察に出かけていたのでした。そして、戦後になってからは、外房線の東浪見(とらみ)駅まで、はるばる4時間もかけて大人2人と3人で出かけていき、そこでチョウ道を探索して歩いたというのです。
いやはや、なんという執念というか、物好きな人たちです…。
そして発見したのです。チョウ道は時刻に関係があること。そして、地形ではなく、光と関係があることも。チョウは明るく日のあたっている木の葉の近くを飛ぶ。しかし、チョウ道は光や木の葉とだけ関係があるのではなく、温度とも関係がある。そして、チョウ道は、チョウの種類によっても違う。
しかし、チョウ道があるのは、おもにアゲハチョウの仲間に限られている。モンシロチョウやモンキチョウにはチョウ道らしきものはない。
チョウ道は、なわばりとは関係がなく、食物のありかとも関係がない。チョウ道があるかどうかは、そのチョウの幼虫がどんな植物を食べるのかということに関係している。
ずいぶん前に、『モンシロチョウの結婚ゲーム』という面白い本を読みました。キャベツ畑をひらひら飛んでいるモンシロチョウは、オスがメスを見つけて、素早く飛びかかる。しかし、人間の目ではオスもメスも真っ白で区別がつかない。どうやってオスはメスを見つけるのか…。
それは紫外線写真をとると一目瞭然。オスはまっ黒に見える。なので、オスがメスを見間違えるはずがない。
では、アゲハチョウはどうか。実は、アゲハチョウは、大変気むずかしいチョウだ。
オスがメスを見つけるときに大切なのは黄色い色。そして、縞(しま)もよう。黄と黒の縞もようにオスは惹かれて寄ってくる。さらに、アゲハチョウは、わざわざさわってみる。
今から45年も前に書かれたものなんですが、研究途上の大変な苦労を重ねて、一つひとつ発見していく過程が紹介されていますので、とてもスリリングで興味が湧きます。さすが少年文庫にふさわしい内容です。著者は惜しくも10年前の2009年に亡くなられています。
(2020年5月刊。760円+税)

文革下の北京大学歴史学部

カテゴリー:中国

(霧山昴)
著者 郝 斌 、 出版 風響社
1966年の春、中国で突如として文化大革命なるものが始まりました。私が東京で大学生になる1年前のことですから、まだ福岡の田舎の高校生でした。
初めのころは、文化面での批判と自己批判くらいに思っていたのですが、そのうち指導層のなかの激烈な主導権争いだということが分かりました。旧来の支配的幹部が次々に失脚していくだけでなく、激しい糾弾の対象となりましたが、あわせて知識人も主要な攻撃対象でした。
中国で北京大学と言えば、日本の東大以上の存在感がある大学だと思いますが、その歴史学部の助教授だった著者も糾弾されて、牛棚(牛小屋)に3年あまり監禁されたのでした。文化大革命の終結したあとは再び北京大学につとめ、副学長になっています。
1966年6月2日付の「人民日報」の一面トップは北京大学哲学部の聶元梓(じょうげんし)による大家報を紹介した。北京大学の陸軍・学長などを名指しで批判したのだ。
文化大革命の期間中に全国で摘発された人は100万人をこえ、「牛鬼蛇神」と呼ばれた。北京大学・清華大学の大学関係者のみ「黒幫」とよばれた。北京大学歴史学部に在籍する教職員100人のうち、批判され摘発されたのは3分の1をこえた。
学生たちは教師の頭髪を刈って「陰陽頭」にした。右半分は根っこから刈られ、左半分もバラバラの状態にされた。
学生たちの行動は、一個人によってなされたものではなく、その背後には幾千の学生たち、ひいては幾千万もの同世代の青少年が立っていた。
社会がここまで乱れた以上、国家の正常な状態はもはや期待のしようもなかった。社会に「疫病」がはやり、青少年層は全体として感染し、「狂熱的暴力集団性症候群」になった。
群集が理性を失い、感情的なイデオロギーにマインドコントロールされてしまったときには、どんなに荒唐無稽な行動でも起こすことがありうる。これは古今東西において例外はない。
清末の義和団も、その一例。義和団に入った群衆たちは、口で呪文を唱え終わると、自分の体に、「刀では切れないし、鉄砲の弾も通らない」不思議な力がついたと本心から信じ、目前にある西洋の鉄砲にも恐れず立ち向かっていった。
「牛棚」(牛小屋)のなかでは、甘言を弄したり、人の危急につけ込むようなことがさまざまな局面で起きていたが、その反面、善なる人間性の美しい部分も、こうした環境のなかでも粘り強く生きていた。
1968年春、北京大学の校内で武力闘争が起きた。
東大闘争が始まった(全学化した)のは1968年6月からですが、ゲバルト闘争は10月ころからひどくなりました。それでも、北京大学の武力闘争に比べると、まるで子どものチャンバラゴッコのレベルでした。
北京大学では巧妙な教授たちの自死が相次いでいますが、日本ではそんなことはまったく起きていません。
毛沢東による奪権闘争とその軍事的衝突の激しさは、日本人の私たちからは想像を絶するものがあります。中国の状況が複雑かつ混迷をきわめたのには、次のような違いもありました。
当時、北京大学には上層部幹部の子女が多く通っていて、その両親の大半は文革中に打倒された。しかし、青春まっ盛りの世間知らずの若者たちは、父母が打倒されても、それは自分とはまったく無関係であり、父母に問題があっても、それは父母のことであるから、自分は変わらず革命の道を進む。なので、やるべきことはやり、言うべきことは言うとしていた。地主・官農・資本家の子女を糾弾することがあっても、それは革命幹部の子どもである自分たちにはあてはまらないと信じていた。しかし、それが見事にひっくり返されてしまった…。
著者が名誉回復したのは1978年のことですから12年間も苦しめられていたわけです。
毛沢東の権力欲のおかげで中国の人々は大変な苦難を押しつけられたことになります。
読みすすめるのが辛い回想記でした。
(2020年3月刊。3000円+税)

政治部不信

カテゴリー:社会

(霧山昴)
著者 南 彰 、 出版 朝日新書
東京・大阪で10年あまり政治部記者をつとめ、新聞労連委員長として2年のあいだ活動してきた著者による、政治部記者のありようを問いただした新書です。著者は古巣の政治部に戻ったのですから、今後ますますの健闘を心より期待します。
菅首相は、自分の言葉で国民に向かって話すことがありませんが、それはもともと政治家として国民に訴えるものを自分のなかにもっていないからとしか思えません。つまり、菅首相が政治家になったのは、国民はひとしく幸せな毎日を過ごせる社会にしようとか、そんなことはてんで頭になく、ひたすら自分と周囲の者の安楽な生活のみを求めて政治家(家)というのを職業選択しただけなのではないでしょうか…。
そして菅首相にあるのは、敵か味方かという超古典的な二分論です。恐らく、それを前提として権謀術数をつかって政界を泳ぎ、生き抜いてきたのでしょう。そんな人が日本の首相になれただなんて、まさに日本の不幸です。これも小選挙区制の大いなる弊害の一つです。中選挙区とか比例代表制では菅首相の誕生はありえなかったでしょう。なぜなら、菅には国民に訴えるものが何もないからです。「自助、共助、公助」という「自助ファースト」というのは政治は不要だと宣言しているようなのです。そんな政治家は必要ありませんよ。
菅が首相になる前、官房長官のときに何と言っていたか…。
「ご指摘はまったく当たりません」
「何の問題もありません」
まさしく問答無用、一刀両断に切り捨ててしまい、質問に対してまともに答えることはありませんでした。議論せず、説得しようともしない政治家ほど恐ろしいものはありません。
前の安倍首相は平気で明らかな嘘を言ってのけました(原発災害はアンダーコントロールにある、とか…)。しかし、そこには嘘が嘘でないかを議論する余地が、まだほんの少しは残されていました。
ところが菅首相になると、「嘘」の前に、「何の問題もない」とウソぶいて議論しないのですから、よほどタチが悪いです。国会でまともな議論をしなかったら、どこで日本のこれからをどうやって決めていきますか…。私は不安でたまりません。
ボーイズクラブという言葉があるのですね。知りませんでした。
体育会系などで顕著にみられる男性同士の緊密な絆でお互いを認めあっている集団のこと。日本の閉鎖的な記者クラブもその一つでしょうね。
安倍前首相はマスコミの社長連中そして局長連中、さらにはヒラの記者たちとよく会食していたようです。例の官房機密費(月1億円をつかい放題…。領収書は不要)でしょうね。
そして、菅首相は、3社くらいずつ、オフレコのある「記者会見」を繰り返しているようです。
エセ「苦労人」の化けの皮がはがれないように手を折っているのでしょうね。こんなにセコいのは、やはり官房長官として仕えた安倍首相譲りなのでしょう。
日本の政治部記者よ、記者魂を呼びもどし、目を覚ませと叫びたいです。
(2020年9月刊。790円+税)

分隊長殿、チンドウィン河が見えます

カテゴリー:日本史(戦前・戦中)

(霧山昴)
著者 柳田 文男 、 出版 日本機関誌出版センター
下級兵士たちのインパール戦というサブタイトルのついた本です。
私と同じ団塊世代(1947年生まれ)の著者がインパール戦の現地ビルマからインドを訪問し、その体験で知りえたこと、戦史や体験記も参考資料として書きあげた物語(フィクション)なので、まさしく迫真の描写で迫ってきます。実際には、もっと悲惨な戦場の現実があったのでしょうが、それでも、インパール戦に従事させられ、無残にも戦病死させられた末端の兵士たちの無念さが惻惻(そくそく)と伝わってきます。
インパール戦には、1万5千人の将兵が従事し、1万2千人の損耗率、戦死より戦病死のほうが多かった。インパール作戦は、1944年(昭和19年)1月7日、大本営から正式許可された。すでに劣勢にあった日本軍がインドにあるイギリス軍の要衝地インパールを占領して、戦況不利を挽回しようとするものだった。インパールはインド領内にあり、日本軍は、そこにたどり着くまえに火力で断然優勢な英印軍の前に敗退した。
インパールに至るには峻険な山地を踏破するしかなく、重砲などの武器と弾薬そして食糧補給は不可能だった。ところが、反対論を押し切って第15軍司令官の牟田口廉也(れんや)中将と、その上官にあたるビルマ方面軍司令官の河辺正三(まさかず)のコンビが推進した。大本営でも作戦部長(真田穣一郎)は反対したが、押し切られてしまった。
主人公の分隊長である佐藤文蔵は、京都の貧しい農家の二男。師範学校を退学させられ、応召した。そして24歳のときに軍曹に昇進して一分隊の指揮官に任命された。
英印軍は、山域に機械化部隊をふくむ精強な第20師団を配置し、強力な重火器類による砲列弾に日本軍は遭遇した。日本軍は小火器類しかなく、食料が絶対的に不足していた。そして、ビルマの激しいスコールは日本軍将兵の体力を消耗させていった。
第一大隊は、チンドウィン河を渡河した時点で1000人いた将兵が、これまでの戦闘によって、現時点では、1個中隊に相当する200人足らずの兵力に激減していた。そして、この将兵は、食料不足、マラリア、赤痢などの熱帯病におかされ、激しい雨によって体力を奪われてやせ衰え、その戦闘能力は極度に低下していた。
インパール作戦が大本営によって正式に中止されたのは、7月3日のこと。第15軍司令部が正式に知らされたのは1週間後の7月10日だった。あまりに遅い作戦中止決定だった。7月18日には東条内閣が総辞職した。
「戦線整理」という名ばかりの指揮系統のなかで、戦場に遺棄された将兵たちは、密林地帯から自力で脱出することを課せられた。激しいスコールに見舞われる雨季に入っていた。「白骨街道」が誕生することになった。
佐藤軍曹は2人の一等兵を鼓舞しながら、山中をさまよい歩きチンドウィン河を目ざしていくのでした。涙なしには読めない苦労の連続です。でも、ついに目指すチンドウィン河に到達し、やがて日本に戻ることができたのでした。もちろん、これはめったにない幸運な人々の話です。こんな無謀な戦争にひきずり込んだ軍部の独走、それを支えていた「世論」の怖さを、しみじみ実感しました。
あたかも生きて帰還した人の手記を読んでいるかのように錯覚してしまう物語(フィクション)でした。
(2020年1月刊。1600円+税)

世界の起源

カテゴリー:人間

(霧山昴)
著者 ルイス・ダートネル 、 出版 河出書房新社
知らないことは世の中にたくさんありますが、この本を読みながら、地球と人間(生命)の関係が深いことに今さらながら大いに驚かされました。
我らが地球は、絶え間なく活動し続ける場所であり、常にその顔立ちを変えている。地球が変化する猛烈な活動すべての原動力となるエンジンがプレートテクトニクスであり、それは人類の進化の背後にある究極の原因となっている。
過去5000万年ほどの時代は、地球の気候の寒冷化を特徴としてきた。長期にわたる地球寒冷化の傾向は、主としてインドがユーラシア大陸と衝突して、ヒマラヤ山脈を造山させたことによって動かされてきた。
東アフリカが長期にわたって乾燥化し、森の生息環境を減らして細切れにし、サバンナに取って代わらせたことが樹上生活をする霊長類からホミニンを分岐させた。
歴史上で最初期の文明の大半は、地殻を形成するプレートの境界のすぐ近くに位置している。現在、我々は間氷期に生きている。地球は存在してきた歳月の8割から9割は、今日より大幅に高温の状態にあった。南・北極に氷冠がある時代は、実際にはかなり珍しい。
地球がまっすぐに自転していたら、季節はなかっただろう。ミランコヴィッチ・サイクルは、北半球と南半球で太陽からの熱の配分を変えるので、季節の変化の度合いが変わる。
75億人もいる人間(ヒト)のあいだの遺伝的多様性は驚くほど乏しい。アフリカから6万年前に脱出したヒトは、恐らく数千人だっただろう。そして、アフリカを出てから5万年内に人類は南極大陸をのぞくすべての大陸に住み着いた。
地球が温暖化するなかで、1万1000年前ころに、ヒトは農業と定住に踏み出した。
恐竜は草がまったくない大地をうろついていた。ヒトは草を食べて生きのびた。草を熱と火をつかって栄養素を吸収できるようにした。
地球だけでなく、ヒトの体の分子までも、星屑(ほしくず)からできている。
金(キン)は、地球がその鉄の中心部と珪素のマントルに分離したのちに、小惑星の衝突によって地表にもたらされたもの。
地球の外核にある溶けた鉄の激しい流れが、ちょうど発電機のように磁場を生み出す。地球上の複雑な生命体の存在は、それ自体が鉄の中心部に依存している。ヒトの血に流れる鉄は、それを生み出した太古の星の核融合の鍛冶場(かじば)に結びつけるだけでなく、地球の生命を守って世界に張りめぐらされている磁場にもつながっている。
地球の生涯の前半において、世界には大気中にも海洋にも酸素の気体は存在しなかった。初期のシアノバクテリアが地球に酸素を送り出した。
地球の歴史の9割には、地上に火は存在しなかった。火山は噴火したが、大気には燃焼しつづけるだけの酸素がなかった。酸素の増加は、複雑な生命体を進化させただけでなく、人類に道具としての火を与えた。
地球は生きていて、変化し続ける存在であること、ヒトをふくむ生命はその変化に対応して存在しているということが、実に明快に説明されていて、声も出ないほど圧倒されてしまいました。大いに一読に値する本です。
(2019年11月刊。2400円+税)

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