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アウシュビッツ潜入記

カテゴリー:ヨーロッパ

(霧山昴)
著者 ヴィトルト・ピレツキ 、 出版 みすず書房
アウシュヴィッツ絶滅収容所に潜入したポーランド人将校の手記です。潜入した主な目的は二つ。収容所の実態を外に伝えること、そして収容所仲間を組織して武装蜂起に備えること。この将校はアウシュヴィッツ収容所内で大量殺人の過程を目撃し、自らもチフスにかかって生死をさまよいながらも3年近く収容所にいて、ついに脱出に成功したのでした。
いやはや、その使命感の強さと、身体の頑健さ、タフさには驚嘆するばかりです。そして、収容所内に少しずつ増やしていき、5人組を次々につくりあげていくのでした。
ポーランド人たちが、みな座して死を待つという人々ではなかったことがよく分かりました。たたかう人々が次々にあらわれるのです。さらに、内部抗争をやめさせる努力もしました。今は、それどころではない情勢だと訴えたのです。
ピレツキの組織には、三つの主たる目標があった。一つは、外部からのニュースと支援物質をメンバーに配布して士気を高める。二つは、収容所に関する報告を外部に送る。三つは、武装蜂起を準備する。
アウシュビッツで「シャバでの仕事は何だ?」と訊かれて、聖職者、判事、法律家と答えると、殴り殺されることを意味した。ナチスは故意に専門職の人間を殺そうとした。収容所では、弁護士だからといって威張れることなどなかった。ここでは、そんなことは何の意味ももたない。
アウシュビッツの収容者は、夜寝ているときに、足の裏を見せてきれいにしているかどうか点検された。
収容所では、欲望を制御しなければならなかった。水分の取りすぎは腎臓(じんぞう)や心臓の機能を低下させる。
欲望を克服できない者、タバコほしさにパンと交換した者は、事実上、「自分の墓を握っている」ようなものだった。彼らは一人残らず死んでいった。
収容者が自殺すべく「鉄条網に向かう」のは、たいていが朝。
SSの隊員は、収容所内では、殺人者であり、拷問吏だった。そして、収容所の外にある自宅では、人間のふりをしていた。どちらに真実はあるのか…?
収容所では、一日が終わりのない悪夢のように、ゆっくりと過ぎるのが奇妙だった。作業で疲れ果てても仕事をやり終えなくてはならないときには、1時間が1年のように感じられることもあった。ところが、1週間がまたたくまに過ぎることもあった。
がんばれたのは、楽観主義のおかげ。現実は、あまりに無慈悲だった。
収容所では、お腹をこわさないことがきわめて重要だ。収容所内の病院に入院して戻ってくる人はほぼ皆無でたいていは焼却場の煙と化した。
体力のムダづかいは避けなければならなかった。
収容所で、何かを成し遂げるためには、なんとか殺されないように身を守る必要があった。
収容者のなかには生きたいと願わない者がいた。彼らはたたかおうとしなかった。あきらめた者は遠からず死んでいった。
収容所は巨大な製粉所のようなもので、生きた人間を灰に変えていった。
ピレツキの組織は飛躍的に成長していった。しかし、収容所の殺人機械は運転速度を上げていた。
収容所で生きていく唯一の方法は、友情を結んで協力しながら作業すること。互いに助けあうことだった。しかし、多くの収容者は、それを理解していなかった。
ピレツキの組織は、脱走には明確に反対していた。
勇敢に死と向きあっていた者は、通常、死の選別に選ばれなかった。
リーダーに必要なのは、ふだんは口をつぐんでいるが、いざとなればほかの者たちを鼓舞して動かせる人物、そして明らかに勇敢で、周囲がすすんでついていこうと思える人物。いざというときに、なんかの肩書に頼って周囲の人間をひっぱっていこうとするタイプではダメ。そんな肩書は、誰も知らないからだ。リーダーとなる人物には勇敢さだけでなく、抜きん出た内面の強さと、臨機応変の才も欠かせない。
ピレツキの組織は、自前の送信機を入手して、SS隊員の目の逃れる場所に設置した。ええっ、すごいですね…。そして、入所者数、死者数、収容者の状態を放送した。放送は不定期で、時間帯もさまざまだったので、収容所は容易に発見できなかった。それで、外の自由世界から、医薬品やチフスの予防注射を受けとった。
ピレツキの組織は、SS隊員もチフスに感染するよう、シラミをSS隊員服にもぐりこませていった。SSの被害は甚大だった。
アウシュヴィッツの収容者4人が、所長の最高級車に乗り、SSの制服を着て正門から脱走するのに成功した。これって映画にもなりましたっけ…。
ピレツキが仲間2人とついに脱走したのは、外部から武装蜂起の指令がなかったこと、いよいよ自分の身があぶないと思ったからのようです。1943年4月のことです。この年の1月にスターリングラードでドイツ軍が降伏し、4月には山本五十六元帥が戦死しています。ノルマンディー上陸作戦は翌44年6月のことです。
ところで、ドイツ軍の敗戦後、ピレツキはソ連軍の圧制とも戦ったため、ポーランド政府からスパイとされ、1048年5月に処刑されています。今は完全に名誉回復していますが、ポーランドがソ連の衛星国であった期間は、ピレツキの英雄的行為は評価されていなかったとのことです。勇気ある人の手記を読みながら、ついつい深く考えこまされました。
(2020年10月刊。4500円+税)

ぼくは挑戦人

カテゴリー:社会

(霧山昴)
著者 ちゃん へん 、 出版 集英社
日本で生まれた育った在日コリアンの著者はジャグリングを用いた芸をするプロのパフォーマー。日本だけでなく、世界中をかけめぐって芸を披露しているとのこと。
在日コリアンということで、小学校から中学校まで教室で陰湿ないじめを受けていた。子どもって、親のヘイトスピーチを真に受け、行動にあらわすのですよね…。読んでて、辛くなりました。
ところが、母親が我が子がいじめにあっていることを知って小学校に乗り込んで、いじめっ子に向かって言った言葉が圧巻です。
「素敵な夢もってる子はな、いじめなんてせえへんのや。お前らのやってることは、ただの弱いもんいじめや。強さと自慢したかったら、ルールのある世界で勝負せえ」
そして、子どもである著者にはこう言ったのでした。
「朝鮮人とか母子家庭とかで今まで散々ナメられてきたけど、わしは絶対負けへんで。一緒にがんばろな」
そして、家に帰ったら、ひいばあちゃんもこう言って励ました。
「いじめられたくなかったら、他人(ひと)より努力せな、あかん。いつか自分が頑張られるもんに出会ったら、それを一生懸命がんばって一番になりなさい。一番になったら、いじめられるどころか、お前を守ってくれる人がたくさん集まってくるんや。だから、そういう人生を歩みなさい」
この言葉を著者は実践していったのでした。偉いです。
中学3年生のとき、アメリカに単身渡って、パフォーマー・コンテストでヨーヨーの演技をして優勝した。いやはや、すごいですね。
高校3年生のときには、夏休みだけで300万円を稼いだ。なんともはや…、すごい、すごーい。
大道芸W杯のヤジウマ人気投票1位という肩書をもらっていた。
休日は10時間、平日でも毎日7時間から8時間は練習。それくらいすると、身体が覚えてしまうのでしょうね…。
著者は恐る恐る韓国に行きました。うまくいったようです。そのあと、なんと北朝鮮にも入って、平壌にも行っている。公演も2回していて、なんと金正恩本人から話しかけられたとのこと。
なるほど、タイトルどおり挑戦人です。自分の人生を自分の努力で切り拓いている様子が生き生きと伝わってきて、たくさんの元気をもらいました。ぜひ、ユーチューブで芸をみてみましょう。
(2020年8月刊。1800円+税)

ウィルスの世紀

カテゴリー:人間

(霧山昴)
著者 山内 一也 、 出版 みすず書房
ウィルスと細菌を区別するのは難しい。細菌は、もっとも原始的な細胞であり、独立した生物。ウィルスは、細胞に寄生しなければ増殖できない。
細菌は二分裂で増殖する。ウィルスの増殖方法は細菌とはまったく異なる。ウィルスは、まず粒子の表面にあるウィルスのタンパク質(鍵)を細胞の受容体(鍵穴)に結合して、細胞の中に侵入する。細胞は、いわばウィルスの生産工場。
ウィルスは、工場の機能をハイジャックして、ウィルスの設計図(核酸)の情報にしたがってウィルスの部品(タンパク質)を生産させる。そして、細胞の中でそれらを組み立ててウィルス粒子をつくりあげ、細胞外に放出する。このように、部品を大量生産する方式で、二分裂と比べて非常に高い高率で子孫粒子を生産する。
ポリオウィルスは、試験管内で、1日で1個のウィルスから数万ないし数十万のウィルスが産生される。
ウィルスは、ほかの生物に依存すれば、生物界にしか見られない仕事ができる有機体である。したがって、ウィルスは生物でもなければ無生物でもないとみるほかない。
天然痘ウィルスや麻疹ウィルスは、人間集団の中でしか生存していけない。
ヒトのウィルスの多くは、困ったことにマウスでは増えない。
人類は気づかないまま、ながいあいだウィルスと共生してきた。
コウモリのだ液、尿、糞便、交尾によって、コウモリのあいだでウィルスは受け継がれている。フィリピンのニパウィルスは、感染源のオオコウモリから、ウマを介してヒトに移り、ヒト―ヒト感染が起きた。コウモリは、いわばウィルスの貯蔵庫になっている。ある調査では、コウモリから137種ものウィルスが見つかった。そのうち61種はヒトに感染できる。コウモリの平均寿命は20年ほど。
中国では、伝統的に野生動物を食べると健康に良いと信じられている。とくに外国産の動物は高価で、接待につかって自分のステータスを示す。また、漢方薬の原料としても、野生動物の需要は増加している。
ウィルスには抗生物質は効果がない。ウィルスは細胞の機能を乗っとって増殖するため、ウィルス治療薬は細胞に影響を与えずにウィルスの増殖を阻止するものでなければならない。
新型コロナウィルスのワクチンが簡単にできるとは思えません。トランプ大統領は、風邪みたいなものだと言って、軽視しましたが、とんでもない暴言です。アメリカでは1日に10万人もの感染者が出て、死者も多数でていますが、それは、国民皆保険ではないからだと思います。
日本もGO、TO、トラベルで人々が全国を駆けめぐっていますが、それによって感染者が爆発的に増えないか本当に心配です。ウィルスとは何かを知るうえで、とてもタイムリーな本だと思いました。
(2020年8月刊。2700円+税)

日本を開国させた男、松平忠固

カテゴリー:日本史(江戸)

(霧山昴)
著者 関 良基 、 出版 作品社
日本の開国を断行したのは井伊直弼ではない。これがオビのキャッチフレーズです。
松平忠固(ただかた)は、幕末のころの信州・上田藩の藩主。老中のとき、徳川斉昭、井伊直弼と対立し、終始一貫して日本の開国と海外交易を主張し、日米和親条約、日米修好通商条約を調印のほうに引っぱっていった。その一方で、養蚕業を推進し、海外輸出の地盤を固めた。
聞いたこともない人物ですが、井伊直弼と対立し、三度も失脚したというのですから、タダ者ではありませんよね…。
日米和親条約が調印された翌年、徳川斉昭によって松平忠固は失脚に追い込まれた。
ところが、日米修好通商条約の交渉に際して老中に返り咲き、大老の井伊直弼とも対立したが、ついに条約の調印にこぎつけた。しかし、忠固は調印4日後に失脚させられた。
開国に反対していた政敵たちは忠固を憎み、敵視していたので、「政権内にはびこる俗論の根源」とか「元来姦詐にして僻見ある人」などと酷評した。
忠固の三度の失脚のうちの一番目は、水野忠邦の天保の改革を批判したことから奏者番と寺社奉行の双方を罷免されたことにある。水野が失脚したあと復権し、その後、大阪城代となった。このとき、信州・上田藩の絹織物の大阪での直営販売を推進した。城代による国元産品のトップセールスは、国元の上田と赴任地の大阪の双方から歓迎された。これまた、すごいですね…。
松平忠固は、徳川斉昭と城中で夜8時まで丁々発止とやりあった。これまた、すごいですね。斉昭の日記に本人が書いていることです。
斉昭は、ロシアの軍艦ディアナ号が下田に寄港しているとき、安政東海地震による大津波で大破したのを知って、ロシア人を襲撃して全員皆殺しにしろと建言した。いやはや、目先しか見ない狂人ですね。まるで、トランプです。
実際には、日本の大工が協力して新しく船をつくることにしたことで、日本の造船技術が飛躍的に向上したのです。他人(ひと)を助けると、結局は、自分たちも助けられるという典型です。
開国したらキリスト教が日本に広まることを心配する声に対して、忠固は、日本人の一部がキリスト教に改宗したところで、なんら不都合なことは起こらないと確信していた。なーるほど、広く自由な、リベラルな心の持ち主だったようです。
日米修好通商条約のとき、日本は輸入品の関税率を20%と定めていて、輸出品への関税率は5%とされている。この税率は日本が自らの意思で主体的に選択したもので、自主性のないまま押しつけられたものではない。そして、日本自らの意思で関税率も変更可能なように制度設計されていた。つまり、関税自主権だけはあったのだ。
そ、そうだったんですか…。知りませんでした。
松平忠固の子ども(忠厚)は、アメリカに留学し、アメリカ人女性と国際結婚した第1号となった。その子(キンジロー)は、メリーランド州エドモンストン市の市長に当選した(1927年)。アメリカ史上初の日系市長。
日本の関税率が20%だったのに、5%に引き下げられたのは、長州藩による下関海峡での砲撃事件のあと、その完敗によって、アヘン戦争による中国・清と同じように引き下げられた。下関戦争は、日本の関税自主権喪失をもたらした点で、日本における「アヘン戦争」だった。
なるほど無闇な攘夷運動は、かえって日本を奴隷状態に陥れる危険があるわけです…。
信州・上田藩は幕末から明治初期にかけて、日本最大の蚕種の輸出藩だった。明治3年(1870年)の日本からの蚕種輸出の半分近い45%が上田産だった。
幕末期の実際をこの本によって、また新しく知見を得ることができました。著者は信州・上田出身です。郷土愛に燃えた本でもあります。
(2020年7月刊。2200円+税)
 1週おきに大阪そして東京へ新幹線で行きました。本をたくさん読めて良かったのですが、片道3時間、5時間、席でじっとしていたのが良くなったようで、帰宅した翌日から腰にきました。長くすわっていて立ち上がるとき、車からおりようとして腰をひねるとき、ぴっぴっと鋭い痛みが走ります。福岡まで電車に1時間も乗っていると、すぐには立ち上がれないほどの痛みです。歩くのはなんともありません。
 1週間、様子をみて、ついに整形外科に行きました。レントゲンで骨に異常はないとのことで安心しました。腰に注射をうってもらい、コルセットをつけて、痛み止めの薬を飲んでいます。
 これも年齢(とし)をとったせいですね。やはり東京へは飛行機に限ります。

血族の王

カテゴリー:社会

(霧山昴)
著者 岩瀬 達哉 、 出版 新潮文庫
松下幸之助はやはり神様ではなかったというのが、私の読後感です。
幸之助の発想は、すべて、どうやったらもうかるか、だ。なので、目先の話ではない。長く、確実にもうけるには、どうしたらいいか。日本にとって、アメリカの意向に従うしかない。そうしたら経済援助も市場開放もしてくれて、みんながもうかる。そのなかで自分も多いにもうけさせてもらう。そんな考えだ。
幸之助の感性は鋭い。人情の特徴を敏感につかみとり、体験に根ざした言葉で訴えかける、それで販売店の心をつかんだ。そのために、コンピューターを一掃してしまった。
コンピューターに幸之助は偏見をもっていた。その点では遅れていた。
娘婿の松下正治は東大卒で、頭はいいが、物づくりの経験をしていないし、商売の苦労もしていない。人使いも下手。何か問題が発生すると、ただ、怒るだけで、しかも居たたまれないくらいに理詰めでやってしまうので、重役陣からも事業部長からも、いまひとつ信用がなかった。なーるほど、なんとなく分かりますね…。
幸之助の真骨頂は、粘りだった。いったん取り組んだ仕事は、結果が出るまでやめない。良い結果が出るまで続けるので、失敗がない。ふむふむ、これも分かります。
幸之助は、社員の待遇改善につとめた。35歳で自分の家がもてる従業員持ち家制度、死亡した従業員の妻子への遺族育英制度、定年延長したうえ退職金の増額…。また、企業年金として破格の支給率を保証する福祉年金制度…。これはこれはいいことですね。
幸之助は、いくらか出来が悪くても、金太郎飴のように自身に従順で、忠誠という点で変わらない部下をかわいがった。逆に、どんなに功績があっても。幸之助に断りなく独断専行する者を決して許さなかった。ワンマン経営者にありがちな誤まりですよね、これって…。
録画の点で、ベータ方式より、VHS方式のほうが録画時間が長くなるので、幸之助はVHS方式を選んだ。というのも、ベータ方式の1時間に対して、VHS方式は2時間が基本のうえに、4時間録画に向けて開発中だったから。アメリカではアメフトの試合が3時間以上になるので、VHS方式が好まれた。なーるほど、ですね。
社長が松下正治から57歳の山下俊彦になるとき、80歳の幸之助は抵抗した。
それは、幸之助の言いなりになる番頭たちを経営陣から外すことを意味するものでもあったからだ。幸之助は、自分に仕えた役員OBを集めて山下社長を辞めさせる会までつくった。うひゃあ、まさしく典型的な老害ですね…。
幸之助もまた、おそろしく凡人だった。幸之助は孫の松下正幸を社長にしたかった。しかし、山下俊彦は正幸を棚上げしてしまった。
幸之助には世田谷夫人と呼ばれる第二夫人がいた。それを清水一行が『秘密な事情』で明かした。幸之助は世田谷夫人とのあいだに4人の子をもうけ、成人すると、松下関係の会社で面倒みさせた。世田谷夫人は、幸之助より30歳も年下。幸之助は東京・神楽坂の一番人気の芸者(20歳前)を見初めて、大阪に連れていった。
子どものころ、ナショナルの家電製品は身のまわりにいくつもありましたし、テレビのコマーシャルにも身体がなじんでいました。立志伝そのものの幸之助の負の面もふくめて、あまりに人間臭い評伝となっています。
神様とか天才ともてはやすほどの人物だったのかという疑いが確固として強まり、私は「ますます尊敬」という心境には、とてもなれない本でした。
(2019年7月刊。630円+税)
 
 日曜日、1年ぶりに仏検(準1級)を受けました。6月はコロナ禍のため中止になったのです。前の日はホテルに泊まり込んで過去問を復習し、当日も朝早く起きて万全の体調でのぞみました。
 自己採点では120点満点で71点でした。6割が合格点ですので、きわどいところです。最近は毎朝、NHKフランス語応用編の2日分を必死で書きとりしています。すぐに忘れてしまい、いつもいつも新鮮な思いですが、なんとかフランス語力を少しでも落とさないようにがんばっています。
 試験会場の大学に行くと、学生がサッカーの練習試合をしていました。また、各種の資格試験の受験生がたくさん構内にたむろしていましたが、対面授業はやられているのかなと心配になりました。

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