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眼述記

カテゴリー:人間

(霧山昴)
著者 髙倉 美恵 、 出版 忘羊社
 脳梗塞で倒れた「毒舌」の夫と文字盤でバトルしながら駆け抜けた10年の記録。
 これが本のオビのフレーズです。夫は全身マヒになったので、その意思表示はアイコンタクト。文字盤を目線で指し示し、それを読みとるのです。いったい、どうやって…。
 透明の塩ビ板(厚さ1ミリ、幅30センチ長さ45センチ)を挟んで、互いの目と目の間を60センチほど空けて見つめあい、視線がぶつかりあう真ん中の文字を読む。
 これって意外に難しそうですよね。でも、慣れたら、それなりのスピードで読みとれ、意思疎通が出来るそうです。
 目線が動くことで見えていること、脳がその限りでしっかりしていることが判明してからのことです。脳梗塞と脳出血で倒れてから4ヶ月たったときでした。そして、初めてのコトバが「されるな」だったのです。夫からすると、食事のあと、すぐにマッサージするのは止めてくれという意思表示でした。もちろん、あとで分かったことです。妻からすると、夫のために一生けん命マッサージしているのに、「されるなって、何やねん」という思いでした。戦争のため植物人間のようになった「ジョニーは戦場へ行った」という映画をつい思い出しました。
 新聞記者をしていた夫は、気がついたときには体が動かず、声も出せない。しかし、意識のほうは清明。それを妻や家族そして周囲の誰にも伝えることが出来ないという苦しみに陥っていたのです。作家の葉室麟の担当をしていたので、葉室麟がよく病室にも自宅にも見舞いに来たそうです。残念ながら葉室麟のほうが先に亡くなりました(2017年12月)。
 夫が病院を退院するときの担当者会議には、なんと22人もの参加者があったとのこと。驚きました。病院スタッフと自宅でのケアに加わる人たちなどです。このときの心境を夫は、「地面に落ちたあめ玉みたい」だったと号泣した。
 介護が辛いのは、家族の世話をすること自体ではなく、そのために介護以外のことをする時間がとれなくなること。なーるほど、それは辛いですよねゆっくり本を読んだり、テレビを見たり音楽を聞いたり、はたまたコンサートに出かけたりが、ほとんど無理になりますよね。
 そして、車イスで動けるようになってから、映画好きの夫の希望で車イス席のある映画館に出かけるようになります。博多駅の9階にあるTジョイにはよく行っているようです。
 訪問入浴は週2回、日額1万3千円。45分間のうちに洗いあげ、健康状態チェックまでしてくれる。
車イスでの外出介助は、担当に骨の折れる仕事だ。道路のデコボコや歩道の傾きに気をつけておかないと車イスごと転倒しかねない。街中は命に関わる危険に満ちている。
体が疲れるというより、神経がすり減ってしまう。深刻で大変だけど、笑える部分は大いに笑ってほしいと著者は書いています。私も遠慮なく、ところどころ大いに笑わせてもらいました。
 夫はずっと笑えなかったようです。それどころか、よく号泣しました。感情失禁という、脳出血にともなう後遺症なのです。感情のコントロールがしづらくなり、すぐに怒ったり泣いたりするのです。夫は、ちょっと心が動くと、勝手に嗚咽(おえつ)が出てしまうので、あまり気にしなくてよいと説明。そうなんですか…。
 まあ、本当に大変な介護生活ですが、すでに10年も続けているわけです。これからも、適当に息抜きしながら、やっていってくださいね。心温まる、いい本でした。
(2025年2月刊。1750円+税)
 日曜日、午後からジャガイモを掘り上げました。まず、試し掘りをしてみたら、大きいものが出てきましたので、これなら大丈夫だと、掘り上げていきました。月曜日は雨が降るというので、それなら全部を掘り上げようと思い、がんばりました。
 今年は大豊作でした。皮の紅い、サツマイモのようなジャガイモが半分です。これで、ポテトサラダそしてコロッケをつくってもらったら最高です。
 小さいのは、そのままオーブンで焼いて食べました。ホクホクして美味しい味でした。
 夕方、暗くなってから近くの小川にホタルを見に行きました。歩いて5分のところです。今年は、たくさんのホタルに出会えました。フワリフワリと飛んでいるホタルをそっと手の平に乗せてみます。すると、またフワリと飛んでいきます。ゆっくり、あわてず、そして一斉に明滅するホタルの姿を見ると、まるで夢幻の里にいるかのようです。

ぼっちのアリは死ぬ

カテゴリー:生物

(霧山昴)
著者 古藤 日子 、 出版 ちくま新書
 アリは他者と出会うと、まず触角を使って注意深く相手が何者なのかを探る。それによって、自分の家族と、そのほかのアリをはっきり認識できる。外から来た侵入者だと分かれば、すぐに攻撃を開始し、殺してしまうことも多々ある。
反対に、自分の家族が窮地にあると知れば、積極的に助けに行く。仲間が負傷すると、巣に連れ戻し、抗菌物質を含む分泌液を塗布され、治療を受ける。仲間の足を切断することもあるが、これも治療の一環として行われる。
 負傷したアリは自分の感染具合いがどれくらい重篤かを判断し、仲間のもとに帰るかどうかを決める。受け入れ側の仲間たちも、受け入れるか、接触するか判断する。
 アリ全体の2割が外勤の仕事を担当する。アリは仲間同士で栄養を交換しあう。口移しで食べものを分けあう。餌(エサ)の共有は、外勤アリから順繰りに巣のなかにいる内勤アリや幼虫そして女王アリにまで続いていく。こうやって巣の仲間全体に餌が行き渡る。アリの社会は女性(メス)社会。
 交尾の季節に向けて、一年のうち一時的にオスアリは誕生する。
 クロオオアリの女王アリの寿命は10年以上。そして、生涯、産卵を続ける。労働アリの寿命は1年ほど。アリの幼虫は(ハチも同じ)、自分で食べることが出来ない。内勤アリから食べさせてもらうだけ。
 ムネボソアリは、10匹で飼育すると、20日たっても半数以上が生存しているのに対して、1匹で飼育すると5日で半数は死に至る。
 この報告書どおりになるのか、著者も飼育室で観察したのです。すると、孤立アリは、7日で半数の個体が死んだ。グループで飼育したら、2ヶ月たっても半数は生き残った。2匹だったら、1ヶ月で半数が死んだ。
 コロニーからひき離されたアリは、生物の根本原則における生きる意味を失ったから、早く死んでしまう。孤立アリは、餌を与えられても、自分で消化してエネルギーに変えることが出来ない。
 孤立アリは、酸化ストレスを増悪させてしまう。エネルギー代謝の中心である脂肪体で大きな酸化ストレスがかかっていることが判明した。労働アリにとって、コロニーや女王アリから離れるということは、すなわち子孫をチャンスを失い、自らの生きる意味を失ったことなのだ。これは、ヒトの孤立とは、生物学的にまったく異なる意味をもつ現象である。
 なーるほど、そういうことなんですか…。それにしても、それを実験で証明することの大変さもよくよく伝わってくる本でした。
(2025年4月刊。840円+税)

南北戦争英雄伝

カテゴリー:アメリカ

(霧山昴)
著者 小川 寛大 、 出版 中公新書ラクレ
 アメリカの南北戦争は1861年から1865年までの4年間です。日本では明治維新のころになります。明治10年に起きた西郷隆盛の起こした西南戦争のときにも、南北戦争が終わって不用となった銃砲が大量に日本に入ってきたとされています。
南北戦争は、アメリカ史上、事実上唯一の内乱で、当時34あった州が、北部に23州、南部に11州に分かれて4年間争い、60万人近い戦死者を出すという非常に大きな戦いだった。
当初は、なぜか南北双方とも、「この内乱は、ほんの数ヶ月ほどで終わる」とみていた。
 開戦後初の本格的開戦(1861年7月21日の第一次ブルランの戦い)は、お互いが急ごしらえでつくり上げた素人同然の軍隊で、まともな統制もなく、戦場で支離滅裂な衝突をくり返し、北軍は敗北して潰走し、勝った南軍も極度の混乱状態に陥り、敵の追撃など不可能だった。
 当時のアメリカに存在した黒人奴隷制度がなければ、この巨大な内乱は決して起きなかった。トラクターなどの農業機械のない時代なので、黒人奴隷なくしてプランテーションは維持できなかった。
 アメリカ北部は寒冷なので、綿花の栽培には向いていなかった。だから、北部にはそもそも黒人奴隷を必要とする産業が存在していなかった。
南部連合の指導者たちは貴族的な上流階級であるので、協調性に欠け、他者とじっくり話し合うのを苦手とした。
 南部連合の政府は、何かを誰かに強制できる権限をほとんど持っていなかった。
 アメリカ建国の父の大半は、社会の上流階級であり、ジョージ・ワシントンやトマス・ジェファーソンは富裕な農園経営者であり、黒人奴隷の所有者でもあった。
南北戦争の前半期では、南軍は北軍よりも強かった。南部は人材の力で支えられていた。
南部は遅れた農村社会だったので、人々は、自然に射撃や乗馬に親しんでいた。つまり、軍人として高い適性をもつ人々の割合が南部では高かった。
 北軍が、経済力や兵力で南軍に勝っていながら、戦争の主導権を握れなかった原因は、国家指導者であるリンカーン大統領と軍上層部の意思疎通があまりうまくいってなかったことにある。リンカーンを田舎者だと馬鹿にしていたようです。
丸4年も続いた南北戦争で北軍に35万、南軍に20万の戦死者を出した。ベトナム戦争で死んだアメリカ人は5万人だった。
北軍の多くの一般兵には、黒人のために自分の命を投げ出すことへの違和感があった。独立戦争後、アメリカ人はイギリスのような強力な常備軍をもつことを選択しなかった。
リンカーンの共和党は、北部のみを基盤とする地域政党でしかなかった。それでも民主党の候補に勝てたのは、1828年に設立された全国政党である民主党が、このとき分裂していたから。
北軍が海上封鎖に成功したことから、南部は綿花をヨーロッパに輸出できなくなり、経済が大打撃を受け、南部の経済は滅茶苦茶なインフレに襲われ、市民生活はほとんど破綻していた。
 南部連合のジェファーソン大統領は、お山の大将気どりの気難しい人物で、閣僚や将軍たちと口論ばかりしていた。それで、南軍には、総司令官職がおかれていなかった。
 このころ、アメリカの白人たちは、インディアン(先住民)について、「なぜか人の言葉を理解できる害獣」くらいにしか思っていなかった。
 なーるほど、同じ人間だと思わないどころか、「害獣」だとみていたのですね。そうだとすると、インディアンをだまし討ちして皆殺しするのに、何のためらいもなかったのも、よく理解できます。
 少し前の映画「ダンス・ウィズ・ウルブズ」は本当によく出来た映画でしたね。「狼とともに踊る男」という意味でしたか…。インディアンを人間として交わった白人の話でした。
アメリカのシヴィル・ウォー(南北戦争)について少し勉強することができました。
(2024年11月刊。1100円)

アンデス文明ガイドブック

カテゴリー:アメリカ

(霧山昴)
著者 松本 雄一 、 出版 新泉社
 南アメリカの古代アンデス文明には大いに心が惹かれます。マチュピチュ遺跡を見てきたという人は私の身の回りにも何人かいますし、ナスカの地上絵は今なお新発見が続いています。そして、シカン文化は黄金製品で有名ですよね。
 私は現地に行くことはとっくにあきらめましたので、こうやって本を手にとって写真を眺めて心を踊らせ、解説文を読んで、なるほどそうだったのかと膝を叩いています。
 アンデス山脈は、南アメリカ大陸の西側、南北8千キロに及びます。アンデス文明は、この地域で4000年以上にわたって盛衰した文明です。
アンデス文明の特色は三つ。その一つは、他の文明から何の影響も受けていない、独自のもの。その二は、文字、鉄、車輪がない。それでも、絵文字とキープはありますよね…。その三は、自然環境の多様性。砂漠、山地そして熱帯雨林まで…。
アンデスでは、土器が出現するより前に神殿が出現した。土器がなくて、いったい料理と食事はどうやってしていたのでしょうか…。
 神殿は「王様」が君臨して人々に強制的につくらせたものではなく、小規模な集団で、階層化も進んでいない社会が何百年にもわたって造り続けたもの。「王様」が命令して造らせたのではないなんて、驚きです。「王」はいなくてもリーダーはいたようで、女性のリーダーもいたようです。
 紀元前後ころのモチェというアンデス最初の国家は、北海岸により、1億4千万個の日干しレンガによって神殿をつくった。そして、戦争捕虜を人身供犠していた。
 同じころ、南海岸ではナスカ文化が興隆していた。地上絵だけでなく、地下水路の技術も発達させた。
北海岸で黄金文化を誇ったシカンは単一王朝による国家ではなく、複数の有力な家系に連なる人々が支配階層を構成する連合政体、多民族的な社会だった。黄金の仮面には圧倒されますよね。
インカ帝国を構成するインカ族は80以上もの民族集団を支配下におさめていた。インカ帝国というのは、スペイン人征服者がつけたもので、当時の人々が使っていたのは「タワンティンスーユ」というもので、これは「4つの地方」を意味している。
インカ帝国の王は、誰が次の王になるか決まりがなかったので、継承をめぐる争いが頻発した。新たな王は、大地や建物をはじめとする先代の財産を引き継ぐことはできなかった。インカの王は、それぞれが自分自身を支える「パナカ」という親族集団をつくりあげ、首都クスコに王宮を構えた。新たな王は、自分のパナカを養うための土地を初めとする財を一からつくりあげる必要があった。
 インカ帝国は総延長4万キロという「インカ道」という幹線道路を整備した。宿駅を配置し、飛脚をつかった情報伝達システム、キープ(結縄)という記録手段をもっていた。キープは誰でも解読できるものではなく、キープカマヨックという解読専門家がいた。
マチュピチュは都市ではない。最大でも750人ほどしか居住できない。宗教色の濃い建築物がほとんど。男女比は男3:女2で、さまざまな民族集団に属する人々がいた。
 アンデス文明の解読に日本人が大いに役立っているというのもうれしい話ですね。
(2025年1月刊。1980円)

FREE、歴史の終わりで大人になる

カテゴリー:ヨーロッパ

(霧山昴)
著者 レア・イピ 、 出版 勁草書房
 アルバニアという国は、日本人の私からはあまりにも遠い国です。北朝鮮のように閉ざされた国というイメージがありました。今ではイギリスの政治理論学者として活躍している著者がアルバニアでの少女時代を生き生きと語っています。
 ピオニールに同学年一番で加入を認められた著者は、両親について指導者への崇拝心が足りない、欠けているのを問題だと思い、叔父さんに不満をぶちまけます。すると叔父さんは著者を叱りつけたのです。
 「きみは賢い子だと思っていた。今、きみが言ったことは賢い子の言うことではない。とても馬鹿なことで、きみから聞いたことのなかで一番馬鹿なことだ。こんな馬鹿なことは、もう誰にも言ってはいけないよ」
 そうなのです。党と指導者は絶対なのです。しかし、それはホンネと違うタテマエです。
 エンヴェルおじさんが亡くなった。1985年4月11日のこと。保育園のフローラ先生は「恐ろしいことが起こったの」と、園児たちに言ってきかせた。
 エンヴェルおじさんって、一体、誰かな…、そう思っていると、エンヴェル・ホッジャでした。アルバニアの指導者はホッジャとしか聞いていませんでしたから、別人かと思ったのです。
 1990年12月12日、アルバニアは、自由選挙がある複数政党制の国家だと宣言された。その1年前にルーマニアではチャウシェスク共産党書記長が銃殺されていた。湾岸戦争も始まっていた。アルバニアは社会主義の国ではなくなった。すると、両親は著者に隠語の本当の意味を告げた。
 親類が卒業したというのは、刑務所から最近釈放されたということ。
 学位を取ったというのは、刑期を終えたということ。
 専攻科目の名称は罪名に対応していて、国際関係論は反逆罪、文学は煽動とプロバガンダ、経済学は金の隠匿などの軽犯罪。
 教師になった学生というのは、スパイになった元囚人のこと。
 厳しい教師とは、多くの人の命を奪った役人のこと。
 「優秀な成績を収めた」とは、刑期を短く無事に終えたということ。
 「退学処分を受けた」とは死刑判決を受けたということ。
「自主退学した」とは自殺したということ。
子どものころ著者が軽蔑していた元首相は、曾祖父、つまり父の祖父だった。著者の父は、その重圧に希望をつぶされて生きていた。祖父(父の父)は、スペイン内乱に共和派の一員として戦おうとして、刑務所で15年間も過ごした。祖母はトルコのパシャの姪、20歳で首相の顧問となり、23歳のとき、社会主義者の祖父と結婚した。祖母はフランス語を自由に話せて、著者にもフランス語で話しかけた。
著者は、両親をふくめて大人たちがずっと嘘をついていたのを知った。政治と教育が生活のあらゆる側面に浸透した社会で育った著者は、家族と国家、その両方の産物だ。その二つの衝突が明るみに出て、著者は困惑せざるをえない。一体何を頼ったらいいのか、誰を信じたらいいのか…。
解説によると、父方の家族は反体制派で、母方の家族は元大地主だった。どちらも、処刑、拷問、刑務所で数多くの親類を失っていた。この国は野外刑務所だった。祖母は財産のすべてを失った。祖母は著者に、こう言った。
「それでも自分自身は失われなかった。尊厳は失わなかった。なぜなら、尊厳はお金や名誉や肩書きとは何の関係もないから。私はずっと同じ人間なの」
1990年12月、著者が11歳のとき、アルバニアは根本的に変わった。
ところが、構造改革と「ショック療法」によって多くの人が失業した。出国できるようになったが、行った先で入国を拒否された。海路で出国しようとした人の多くがアドリア海に沈んだ。出国に成功した女性たちは性的人身被害にあった。ネズミ講によって人口の半分以上が財産を失った。1997年には内戦状態に陥った。社会主義も資本主義も、自由を標榜(ひょうぼう)しながら、実のところ自由とは言いがたかった。
著者はアルバニアを離れてイタリアの大学で哲学と文学を学び、イギリスで博士となり、今や教授として政治理論を教えています。どうやら、今もマルクス主義者を自称しているようです。たいしたものです。私は尊敬します。
(2025年2月刊。3300円)

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