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この国の「公共」はどこへゆく

カテゴリー:社会

(霧山昴)
著者 寺脇 研、前川 喜平、吉原 毅 、 出版 花伝社
原発反対の声をあげたユニークな城南信用金庫の吉原毅理事長(当時)は、文科省の事務次官だった前川喜平氏と麻布学園の中学・高校の同級生。ともにラグビー部でがんばった仲だという。そして、寺脇氏は前川氏の3年先輩で、文科省の先輩・後輩の関係。
寺脇氏は、前川氏を入省当時から、いずれ文科省トップの事務次官になると見込んでいたという。
たしかに官僚の世界ではそれがあると思います。私の司法修習同期同クラスのO氏も司法修習生のときから、いずれ検事総長になると周囲からみられていました。本当にそのとおりになりました。頭が良いだけではダメで、腰の低さも必要です。柔軟に対応できる人がトップにのぼりつめます。もちろん、運も必要です。
市場にまかせておいたら何が起きるか…。お金持ちだけが安全地帯をつくって、そこに逃げ込む。その外側では、パンデミックで倒れる人がどんどん出てくる。新自由主義の行きつく先は、地獄の沙汰も金次第ということ。命もお金で買える。お金のない奴は死ねという話。だけどパンデミックは地球規模で広がっていくのだから、安全地帯にいるはずのお金持ちだって、いずれは生きていけなくなる。
人間の価値観の根っこの部分には、経験してきた学校生活、そのときの仲間や教員によってつくられている。なので、学校は、たとえ授業がなくても、子どもたちがたむろしているだけで学べることはある。
ふむふむ、これは私の経験に照らしてもそう言えます。私は市立の小学校と中学校、そして県立の普通(男女共学)高校の卒業ですが、それこそ種々雑多な庶民層の子どもたちと混じりあっていました。今は、それが良かったと本心から思っています。
超有名校である麻布学園では、親はエリート、金持ち層で、ほとんど似たような階層の子弟とのこと。それはそれで居心地がいいとは思いますが、異質な人々との出会いを経験できないというハンディもあるわけです。
安倍首相が2020年2月27日に全国一斉休校を要請した。法律上の根拠のない「要請」に全国の学校が応じてしまった。政治権力が無理やり学校を閉じた。
とにかく権力を握っている人の言うことを聞いていたらいい、聞かないとまずいことになる。そんな風潮が強まっているのが心配だ。本当に、私も心配です。
城南信用金庫は、年功序列を復活させた。抜擢(ばってき)人事はしない。一度や二度のミスでも厳しい降格人事はしない。なるほど、これも一つの考え方です。
前川氏は中学校で人権について話をしたとき、あえて自由を強調し、「きみたちは自由だ」と話した。自分で考えて行動するということは人に騙されないことでもある。大人の言うことを鵜呑みにしない。親や教師の言うことであっても、ただ、そのままには信じるな。なーるほど…、ですね。
「公共」とは何か、深くつっこんだ話が盛りだくさんで勉強になりました。出版社(花伝社)の平田勝社長より贈呈を受け、一気に読みあげました。ありがとうございます。
(2020年12月刊。1700円+税)

私は私のままで生きることにした

カテゴリー:朝鮮・韓国

(霧山昴)
著者 キム・スヒョン 、 出版 ワニブックス
心にしみる言葉のオンパレードです。韓国で100万部、日本40万部が売れたというのも、なるほどとうなずけます。
私の知人(弁護士)に、ときどきネット上で自分の悪口が書かれていないか確認するようにしているという人がいます。一喜一憂するのだそうです。私は一度もしたことはありません。もちろん、ほめ言葉なら、シャワーのように浴び続けたいのですが、悪口ばかりだと落ち込んでしまいそうで、それが怖いのです。
この本は、根拠のない悪口だったら犬が吠えているだけだと思えばいいとしています。
それでも犬が吠え続けたら、黙って聞いていないで、しっかり責任を追及しようと呼びかけています。弁護士である私は、責任追求するのも、相手の人によりけりだと思います。かえって、反応があったとばかり、相手を喜ばせてしまうだけのこともあるからです。
お互いに傷つけあうような社会では、誰も幸せになんかなれない。
人を侮辱するのが一番の楽しみだという人は、「負け犬」そのもの。
韓国の社会は、日本と同じように、自分の感情を尊重するよりも、他人の考えや感情に注意を払うような教育を受けてきた。
社会的地位、経済的安定そして周囲の人々から認められること、こればかりを追い求めてきて、自分を見つめることを知らずに生きてきたため、内面が空虚なままだった。なので、幸せという実感がもてない自分がいる。これって悲しいことですよね…。
韓国社会には反共主義が深く根づいているが、それは決められた答え以外を口にするのは思想的に不純であるとみなすような社会をつくりあげてきた。韓国社会は、正解とされた少数派の傲慢と、誤答とされた少数派の劣等感が凝縮された、病みきった社会だ。
韓国には、「6.25心性」というものがあるとのこと。朝鮮戦争という非人間的な惨事を経験した韓国人が身につけた、極端な生存競争、物質万能主義、手段を選ばない個人主義をさす。
人生を豊かにするには、自分の好みを探さないといけない。そのためには、自分の感覚に正直になること。
自分の好みを見つけ、それを深く掘り下げるために、いろいろなものに触れる努力も大切。でも、好みというのは開発するものではなく、感じるもの。
「政治から目を背けることの最大の代償は、もっとも俗悪な人間たちに支配されることだ」
これはプラトンの言葉だそうです。まるで、いまの日本のアベ・スガ政治と投票率50%の状況を言いあてている言葉ではありませんか…。
「機械のように毎日を送ってきた人は、80歳まで生きたとしても短命だ」
毎日、似たようなパターンの生活をするのは、人生の無数の可能性と多様性を圧縮し、自分の人生を失うこと。だから、週末には海を見に行こう。仕事の帰り道に違う道を歩いてみたり、新しい人に会ったり、勇気を出して、これまで経験したことのないことをやってみよう。
自分に対する固定観念を脱ぎ捨てて、自分にも予測できない自分になってみよう。
ふむふむ、なるほど、なるほど…。うんうんと強くうなずきながら、読みすすめ、一気に280頁ほどの、絵本のような本を読み終えました。
(2020年10月刊。1300円+税)

草原の国キルギスで勇者になった男

カテゴリー:人間

(霧山昴)
著者 春間 豪太郎 、 出版 新潮社
いやはや、いまどきの日本の若者(男性)にも、こんな無茶な冒険をする人がいるんですね、驚き、呆れ果ててしまいました。いえ、決して非難しているのではありません。私なんか絶対に真似できない(したくない)冒険をあえてしている話に接して、指をくわえて、ひたすらうらやましがっているというわけです。
どんな冒険かというと、キルギスの草原を馬と一緒に行く、2頭の羊そして犬と一緒に同じく草原を行くというのです。
まあ、馬と一緒に行くというのは分かりますよね。でも、羊と犬を連れて歩いていくというのにどんな意味があるのか…。とくに意味はないのでしょうね。
ところが、著者は、なんとそれをどちらも成功させるのです。しかも、パソコンは自由自在どころか、ドローンまで飛ばすのです。そして、各地で親切な人々と出会い、そこで何泊もさせてもらったりもします。
そのとき、京都・祇園や新宿・歌舞伎町でキャッチをした経験をいかすのでした。つまり、この人は信じられるか否かを、一瞬で見抜く技(ワザ)を見につけているというのですから、たいしたものです。
著者の自己紹介によると、主なスキルとしてまず語学があげられています。英語、フランス語、アラビア語、ロシア語ほかが話せるようです。たしかに、キルギスの草原では、せめてロシア語くらい話せないといけないでしょうね…。
著者のスキルには、まだほかに、気象予報士、応用情報処理技術者、そしてキックボクシングもできるといいます。まさしくスーパーマンですね、これって…きっと…。
見知らぬ大地を冒険するには、それくらいの資格が必要なのでしょうし、また、とれたらチャレンジしたくもなるのでしょう…。
(2020年10月刊。1900円+税)

終わりなき探求

カテゴリー:アメリカ

(霧山昴)
著者 パール・S・バック 、 出版 図書刊行会
パール・バックの本を久しぶりに読みました。ノーベル文学賞をもらっていたのですね。もちろん『大地』は読んでいます。
宣教師だった両親とともに生後3ヶ月から42歳まで中国で暮らした経験をふまえた作品です。1934年、日中戦争の「はじまり」のころにアメリカに帰国しました。
『大地』は1931年に書きあげ、1932年にピューリッツア賞、そして1938年にノーベル文学賞を受賞したのです。戦後の中国政府からは入国禁止処分を受けていたとのこと。
1973年にアメリカで亡くなりました。80歳でした。この本は80歳で亡くなる直前に病室で書かれたものだそうです。384頁もある長編小説ですが、まさか80歳の女性が書いたとは思えない、みずみずしさです。
主人公は、12歳で大学入試に合格し、16歳でヨーロッパへ旅立つ青年です。
その心理描写は、とても80歳という高齢の女性の手になるものとは思われません。まことに作家の想像力は偉大です。うらやましい限りです。私も、こんな豊かな想像力を働かせて、「ホン」を書いてみたいと思います。あすなろうの気分です。今にみていろ、ぼくだって…。
それにしても、12歳で大学に合格するほどのズバ抜けた才能をもつ人が何を考えているのか、ひたすら凡人の私にはまったく想像できません。
ニューヨークの超大金持ちの邸宅にすむ高齢の祖父の日常生活も想像して描写することができません。イギリスの古城にすむ貴族女性の生活なんて、まるで雲をつかむような話です。そして、パリに住む高級古物商の営業と生活、さらには韓国でのアメリカ兵の生活…。
いくら想像力があっても、裏付け調査がなければ難しいと思います。そして、それを一つのストーリーにまとめあげるのです。いやはや、さすがパール・バックだと驚嘆してしまいました。
世界は、いろいろな種類の人間で成り立っている。できるだけたくさん、異なるタイプの人間と知りあうことが大切だ。というのも、そうした人々が基本的に我々の人生を構成しているからだ。
間違ったことをしているということだけで、それをしている人たちを避ける必要はない。そうした行為になぜ走るのか理解してはいけないということもない。世の中は、美しく、秩序ある人々ばかりではない。あるがままの相手を理解するのだ。そのためには、人々から少し距離をとっておく。
モノカキは二通りいる。その一は、技巧や描写のしかたを詳細に検討して、道具としてのコトバを知り尽くしていて、小説や物語の構成要素を研究し、初めから終わりまで筋立てに工夫をこらし、知識のすべてを投入して書きはじめる人たち。このタイプは、だいたいうまい書き手で、養成もできる。
その二は、ひとつの考えや状況にとりつかれて、それを紙に書きつけるまで解放されないというタイプ。ひたすら状況を述べるだけで、解答を示さないかもしれない。答えがあるとは限らないから。このタイプは、書かずにおれないのだ。
私は、まさしく第二のタイプのモノカキです。書かずにはおれないのです。私という人間の理解できたことのすべてを文字としてあらわしたいのです。もちろん、売れる(広く読んでもらう)ための構成を少しばかり考え、工夫したいとは思っているのですが…。
知識は、人を世間ばかりか賢明な人々からも孤立させるので、知りすぎると不安になる。なので、毎日が本の一頁だと思って、丁寧に、隅々まで味わって読むのが一番いい。
人間が知りえない理由によって、その先に真理が存在するという確信を得ようとする。それこそ、永遠の探求心こそが、人間のすべての営為の根源なのだ。
384頁という長編でしたし、じっくり読もうと思い、とびとびに3日間かけて、じっくり味わいながら読了しました。
(2019年10月刊。2700円+税)

叛乱の六〇年代

カテゴリー:社会

(霧山昴)
著者 長崎 浩 、 出版 論創社
安保闘争と全共闘運動というサブタイトルのついた本です。1937年生まれの著者は東大闘争に助手共闘として参加しています。共産主義者同盟(ブンド)の一員でした。
この本では、まず理論的な記述のところは、私にはさっぱり理解できませんでした。あまりに抽象的な議論なので、ついていけなかったのです。次に、島泰三の『安田講堂』(中公新書)の間違った記述と同じ間違いをしているところは、私には納得できませんでした。
1969年1月10日の秩父宮ラグビー場での大衆団交で「議長をつとめたのは、後の文部大臣、町村信孝だったという」と、この本に書かれていますが、このときは議長が1人いたというものではありません。当時の写真は何枚もありますが、学生側は代表団が大学当局と交渉していましたし、それを7千人もの東大生が見守っていたのです。「あの広大なラグビー場の観客席の片隅で」交渉が行われたのでは決してありません。ただし、「全共闘系の小さなデモ隊が集会粉砕を叫んで、ラグビー場の芝生を踏んで走り抜けた」というのは事実です。
また、全共闘を本郷の総合図書館で「完敗」させたのが「代々木の防衛部隊」(日本共産党系の暴力部隊)というのもまったく事実に反しています。島泰三も著者も、どうやら現場にいなかったようです。私をふくめた東大駒場の学生たち(民青もそうでない人も)が最前線にいて全共闘のゲバ部隊を撃退したのです。周囲に1500人ほどの東大生・院生・教職員がいて、その見守るなかの衝突でしたから、そう簡単に「外人部隊」は最前線に立てませんでした。もっとも外人部隊200人くらいはいたようで、私もそれは否定しませんが、宮崎学の『突破者』はあまりに自分たちの「あかつき戦闘隊」なるものをオーバーに語っています。自慢話は、例によって話半分に聞くべきなのです。
ところが、この本では学生大会で大いに議論していたことの実情を紹介し、その意義を認めていることについては、私もまったく同感します。東大駒場では学生大会ではなくて代議員大会ですが、九〇〇番教室に1000人をこえる代議員とそれを見守る学生が夜遅くまで延々と何時間も徹底的に議論していました。会場内でときに暴力がなかったわけではありませんが、基本は言論でたたかう場だったのです。
島泰三(動物学者としての本はすばらしいと私は思っています)の集計によると、全共闘支持派34%、民青支持28%、スト解除派39%というのが1968年の末の状況だと紹介されていますが、これは間違いではないような気がします。とはいっても、「スト解除派」とされている39%の大半はアンチ全共闘で、民青との連携やむなしだったと思います。だからこそ次々にストライキが終結し、授業再開に向かったのです。
要するに私が言いたいことは、東大闘争は全共闘の理不尽な暴力が横行したものの、基本的には学生大会での言論戦と採決、駒場では代議員大会と全学投票で事態は推移していったこと、そのなかで全共闘の理不尽な暴力は一掃されていったということです。
全共闘の「失敗」を認めない人の多くは、本書もそうですが、自分たちのやった理不尽な暴力についてまったく反省することなく、日本共産党の暴力部隊(外人部隊)によって闘争が圧殺されたとするのです。私は、それは恥ずべき間違いだと思います。暴力で東大を解体しようとする運動に未来があるはずもないのです。
批判するばかりの本をこのコーナーで紹介することは、これまでも、これからもありませんが、この本には東大生の多くが実は東大闘争に多かれ少なかれ関わっていたという事実が紹介されていて、その点はまったく同感なので、紹介することにしました、ただし、10年前に発刊された本です。
(2010年11月刊。2500円+税)

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