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チョンキンマンション

カテゴリー:中国

(霧山昴)
著者 ゴードン・マシューズ 、 出版 青土社
中国は香港にある17階建ての雑居ビル。重慶大厦(チョンキンマンション)には、毎日、100ヶ国以上の人々が行きかう。そこには世界中から商人が集まり、バックパッカーが来訪するところでもある。『チョンキンマンションのボスは知っている』(小川さやか、春秋社)を読んで、その存在は知っていましたので、その過去と現在を知りたいと思って読みすすめました。
チョンキンマンションも、今では、かなり変わっているようです。多くのアフリカ人貿易業者にとって、夢あふれる器としてのチョンキンマンションは、中国大陸にとって代わられた。そして、中国大陸を拠点にしているアフリカ人貿易業者の一部にとって、チョンキンマンションは、発展途上世界版の紳士クラブになった。
チョンキンマンションは、数年前より、さらにこぎれいになった。チョンキンマンションは、もはや怖いところではなく、家族を食事に連れて行くのに適した場所である。
チョンキンマンションは、酒を飲んだり、セックスワーカーを買ったり、他のさまざまな悪法行為に従事するムスリムも多くいる。すべてがイスラム教の道法的秩序にしたがってなされているわけではない。
チョンキンマンションでは、とても狭い範囲内に、非常に多くの国籍と宗教が存在しているので、不寛容でいることは不可能も同然だ。チョンキンマンションが平和なのは、新自由主義のイデオロギーだけではなく、チョンキンマンションにいるほとんど誰もが、彼がその建物の中にいるというその事実によって、人生における比較的な成功者であるということからもきている。彼らはセックスワーカーや麻薬中毒者であってさえ、多かれ少なかれ人生の勝ち組だ。
チョンキンマンションは、香港の残りの部分とは民族的に異質であり、ほとんどの香港系中国人に軽蔑され、あるいは恐れられていることによって、ゲットーであり続けている。このことに、チョンキンマンションのほとんどの人々は痛いほど気がついている。しかし、それは明らかに中産階級のゲットーであり、さらには国際的なゲットーなのだ。
そこでは、誰もが、いつの日か成功して金持ちになることを望み、信じている。客観的には疑わしいが、これが彼らの信念だ。
チョンキンマンションは、すでに17階建てであり、取りこわしても売却できる空間の大きな増加にはつながらない。この建物は、いくぶんぼろぼろの状態でありながら、驚くほどの収益を生んできた。この建物は所有者にとっては「金山」なのだ。
チョンキンマンションでは、かつてケータイ電話が主要な取扱商品だった。サハラ砂漠以南のアフリカで使われているケータイ電話の2割はチョンキンマンション経由だと推測できた。しかし、今では1%未満に低下しているだろう。
いまチョンキンマンション内にいるアフリカ人貿易業者はケータイではなく、宝石か中古自動車の部品を扱っている。宝石は密輸が簡単だし、香港の人々が比較的短期間で新車に乗り換えるため、貴重な中古部品が多く入手できるから。
今日、チョンキンマンションでコピーのケータイ電話を買うのは簡単ではない。
チョンキンマンションは、九龍半島の先端、香港の主な観光地区(ツィムシャツィ)にある。
チョンキンマンションでは驚くほど物価が安い。食事も宿も、ほんのわずかな費用しかかからない。かつて、チョンキンマンションの1階には120軒のうちケータイ電話を売る店が15軒、洋服を売る店が30軒あった。
宿泊所は90軒あり、合計すると1000をこえるベッドが用意されている。
アフリカ人が美味しいと感じる食事を出すチョンキンマンション内のほとんどのレストランが無免許で、したがって非合法だった。
チョンキンマンション内には暴力団組織が、かつては存在していたが、今はいない。
チョンキンマンションには、現に単独の所有者が存在しない。チョンキンマンションの所有権をもっている人は920人いて、その7割は中国人で、残る3割は南アジア人。つまり、アフリカ人所有者はいない。
チョンキンマンションは、一般的には、礼儀正しく、平和で、道徳的な場所だ。ここでの争いごとの多くで警察は蚊帳(かや)の外に置かれ、役に立たない。チョンキンマンションは、独自の警備隊をもっている。警備員は武器をもっていない。その主たる役目はエレベータ―付近の秩序維持にある。
チョンキンマンションを通りすぎる1万人のうち、2000人は亡命希望者、4000人は違法に働いている人々、残る4000人は貿易業者や合法的な労働者。
香港の警察に賄賂は通じない。ええっ、本当なんですか…。
興味深い学術研究書でした。2冊あわせて読むと面白いですよ。
(2021年3月刊。税込3080円)

百姿繚乱

カテゴリー:人間

(霧山昴)
著者 嵐 圭史 、 出版 本の泉社
前進座で活動していきた嵐圭史の舞台生活70年の雄姿を紹介する写真集です。そのすごさに思わず息を呑みます。
嵐圭史の初舞台は、なんと1948年。私の生まれた年です。8歳で初舞台とは…。そして80歳の今も、前進座こそ離れましたが現役の役者です。すごいものです。並の根性ではありません。残念なことに、私が前進座の舞台を観劇したのは2回か3回ほどしかありませんし、何をみたのかも覚えていません。
ながらく前進座を支える柱である幹事長をつとめていて、70歳のときに後進に託したとのこと。いさぎよい身の退き方です。たくさんの舞台が見事な写真で紹介されています。1972年の「子午線の祀り」の嵐圭史は凛々しい若武者です。
1991年には「国定忠治」を演じ、唐丸籠(とうまるかご)に入れられています。
1997年に新しい国立劇場がオープンしたときには「夜明け前」を加藤剛とともに演じています。
嵐圭史が佐倉宗五郎を演じた「佐倉義民伝」はみた気がしますが、定かではありません。
嵐圭史が太閣秀吉をコミカルに演じた「大いに笑う淀君」という舞台があるそうです。
時代劇も嵐圭史の雰囲気にぴったりですよね。「瞼(まぶた)の女」の忠太郎は、いなせな浪人姿で決めています。
私は、ひところ山本周五郎にしびれていました。嵐圭史も「さぶ」を演じています。ぜひ、みたかったです…。
私の敬愛する井上ひさしの「たいこどんどん」では、アホな若旦那役を嵐圭史は見事に演じました。楽しい舞台だったと思います。
ちょっと変わったところでは、嵐圭史は親鸞になったり、日蓮になったり、また蓮如にも、と大忙しです。また、鑑真にもなっています。プロは本当になんにでもなれるのですね。さすがです。100頁足らずの濃密な写真に圧倒されました。
(2020年8月刊。2700円+税)
 
 歩いて5分の小川にホタルが乱舞しています。孫たちと一緒に見に行きました。ちょうど目の前に飛んできたので、両手でそっと包みこみ、孫の手のひらに移してやりました。小学1年生の孫は、つまんでみようとしますので、「見るだけ、見るだけ」と注意します。2歳の孫のほうは初めてのホタルに、少しおっかなびっくりで、こわごわ兄の手のひらのホタルをのぞきこみました。上の孫が、そっと手を開いてやると、ホタルはフワフワと飛び去ります。いつ見てもホタルはいいですよ。童心に返ることができます。

古代ローマ帝国軍マニュアル

カテゴリー:ヨーロッパ

(霧山昴)
著者 フィリップ・マティザック 、 出版 ちくま学芸文庫
強大なローマ帝国の軍隊の実際を知ることのできる文庫本です。図解と再現写真があって、古代ローマ帝国軍の具体的なイメージをつかむことができました。
残念なことに、私は古代ローマ帝国軍に入隊できないことも分かりました。身長173センチ以上だというのです。もう少しで170センチあると思っていた私なんですが、年齢(とし)をとると身長が縮んでしまうのですね。今では残念ながら165センチを切ってしまいました。いやはや…。
ローマ軍団の最後尾にいるトリアリイというのは「3列めの古参兵」が直訳です。つまり、歴戦の古参兵なんですが、これは前の2段階の戦列が崩れたあと、戦列を維持するための兵集団で、このトリアリイの出番というのは、あとのあい崖っぷちの事態を意味している。なーるほど、ですね…。
古代ローマ帝国軍の1軍団の定員は6000人だけど、これは最大人数であって、実際には4800人ほど。それでも多いですよね。
ローマ帝国軍における騎兵は予備戦力であり、歩兵隊の両側を固めていた。馬は人間より分別があるので、敵の歩兵や騎兵が密に並んでいるところには突っ込んでいこうとはしない。敵の部隊が敗走をはじめたようなときに騎兵隊が出動する。騎兵隊は、およそ控えの戦力として待機している。馬は疲れやすい。敵を追撃するとき、また退却する味方を援護するために必要となる。
1個軍団に、百人隊長が60人ほどいる。
ローマ帝国軍の敵であるゲルマン人による猛攻は4分で終わる。なので、5分後まで生きのびるのがコツ。なるべく長く戦闘を避けていると、ゲルマン人は内輪もめを始める。
ユダヤ人は誇り高く、頑固だ。独自の長い歴史と伝統があるため、なかなか友好関係にならない。問題なのは、味方のユダヤ人と敵のユダヤ人との区別がつかないことにある。
ダキア人は恐ろしく人数が多く、強暴だ。
パルティア軍の貴族戦士はずばぬけた乗馬技術をもった。パルティア軍と戦ってみても、それはムダな努力でしかない。
古代ローマ帝国の旅行ガイドブック本の翻訳もした訳者が、分かりやすいコトバで訳文を刊行してくれました。なんとありがたいことでしょう。
(2020年12月刊。税込1485円)

ちひろ、らいてう、戦没画学生の命を受け継ぐ

カテゴリー:人間

(霧山昴)
著者 小森 陽一 ・ 松本 猛 ・ 窪島 誠一郎、  出版 かもがわ出版
2020年の秋、「信州安曇野・上田、文学美術紀行」というツアー旅行が企画され、そのときの対談が本になっています。
私は日本全国、すべての県に行ったことが自慢の一つなのですが、まだ信州・安曇野にある「ちひろ美術館」をはじめとする美術館めぐりをしていません。実は昨秋、行くつもりだったのですが、コロナ禍によって流されてしまいました。そこで、今回はツアーの記録を読んで追体験しようと思ったのです。
この本で語られているのは、予想以上に深いものがありました。びっくりしました。
まずは、ちひろの絵です。「枯葉のなかの少年」で、男の子の服装が白いのは、秋の空気の色合いを見せるため。そして、足元に赤がないと絵が締まらないので、靴下は赤。なーるほど、ですね…。
ちひろが丹下左膳など剣豪を描くのが好きだという話には腰を抜かしてしまいました。ちひろのかれんな絵と剣豪の絵のイメージとのミスマッチからです。ところが、剣豪が瞬間的にピッと斬るときの気合がちひろには分かったという。いわさきちひろの絵は気合の勝負の絵なのです。
ちひろは、画用紙に向かって描き始めるまでの時間が長い。しかし、筆をおろしてからは早い。多くの場は、いっきに描いてしまう。そして、締め切りが必要だった。
ちひろは、「見せない」、「隠す」ところがあって、みる人の創造力をかきたてる。ふむふむ、すべては書き尽くさないのですね…。
少女の微妙な心理を連続した絵で描いたり(「あめのひのおるすばん」)、男の子の悲しみを表現するために、紙がむけるほど消しゴムで消しては描いている(「たたずむ少年」)。いやあ、こんな解説を聞かされると、ちひろの絵の深さにしびれてしまいますよね…。
らいてうの本名は平塚明子(はるこ)。夏目漱石の教え子だった森田草平と駆け落ちし、心中未遂事件を起こした。そして、漱石は森田草平をひきとって、自宅に2週間かくまった。さらに、漱石はらいてうの親に対して、草平が小説を書くことを了承しろと迫ったというのです。教え子の草平の苦境を救うためでした。
ところで、漱石の「草枕」に出てくる女性(那美)は、らいてうをモデルにしていたというのです。みんな同時代に生きていたのですね…。
この本の最後は、「無言館」の窪島誠一郎と小森陽一の対談です。これがまた読ませます。窪島の実父は水上勉。35年たって実父と面会し、また実母とも再会した。しかし、実母とは2回しか会わなかったというのです。いろいろあるものなんですね…。
窪島誠一郎の実父が水上勉だと分かってまもなく朝日新聞が大スクープとして紙面に紹介したいきさつは、不思議な人間社会の縁を感じさせます。要するに、このとき朝日新聞のデスクをしていた田代という人が、水上勉と同じ東京のアパートの隣室に暮らしていて、窪島のおシメを取り替えたこともあったというのです。こんな偶然も、世の中にはあるのですね…。
コロナ禍のせいで、思うように旅行できませんが、ますます信州の美術館めぐりをゆっくりしたいと思いました。このツアーに参加した元セツラー仲間から贈ってもらった本です。ありがとう。いいツアーでしたね。うらやましい。
(2021年3月刊。税込1870円)

私は八路軍の少年兵だった

カテゴリー:日本史(戦前・戦中)

(霧山昴)
著者 藤後 博巳 、 出版 岡本企画
著者は1929(昭和4)年生まれですから、1945年の終戦時は15歳。
関東軍の兵士とともにシベリア送りにされようとしたところを少年だからとして免れたのに、今度は八路軍に協力させられ、いつのまにか、その兵士となって中国各地を転戦し、ついには朝鮮戦争にまで従軍させられそうになったという経歴の持ち主です。
幸い、1955(昭和3)年に日本へ帰国し、その後は、日本で日中友好運動に従事してきました。実は、私の叔父(父の弟)も同じように終戦後、八路軍と一緒に何年間か行動していました。
八路軍は「パーロ」と呼ばれた、今の中国人民解軍のこと。第二次国共合作(国民闘争と中共軍の合体)によって、国民党政権が、赤軍を「国民革命軍第八路軍」と呼ぶようにした。第八番目の部隊という意味。そして、日本敗戦後、八路軍は「連軍」に編成された。連軍(八路軍)は、中国内でアメリカの支援を受けた国民党軍と内戦を始めた。
このとき、八路軍は、「三大規律、八項注意」ということで、高い規律を守り、中国の民衆から絶大な支持を得て、武器に優れ、人員も多い国民党軍を圧倒していった。
著者たち元訓練生たちは、中国の革命戦争のために「留用」ということで参加させられた。連軍(八路軍)は人材不足のなかで国民党軍との戦いで苦戦を強いられていたので、日本人技術者の協力が必要だった。分野別では医療関係が際だって多く、続いて鉄道・電気技術者。医師やエンジニアが不足していた。衛生人員だけで3千人をこえた。
日本人の「参軍」は受動的・後向きで、進歩的・積極的なものではなかった。著者も、生活のためには連軍に従うほかなかった。そして、連軍担架兵として100人ほどの日本人と一緒に八路軍に組み込まれた。16歳のとき。少年兵としての好奇心は強かったが、内心では八路軍・中共への反発心も非常に強かった。
著者は第四野戦軍に配属されたが、司令官はかの有名な林彪だった(1971年にモンゴルへ逃亡しようとして失敗し、死亡)。
当初は、日本人たちは八路軍の兵士たちとよくケンカしていたとのこと。やがて、分散配置されて、兵士に溶けこんでいったようです。
著者は、凍傷でやられてハルピン近くの病院に入院したところ、そこの医師・看護婦のほとんどが日本人だったとのこと。
1万人ほどの日本人が中国の内戦に深く関わっていたようです。そう言えば、国民党軍に組み込まれた日本軍の部隊もありましたよね…。
そして、朝鮮戦争が始まってから、中国人民志願軍のなかに日本人兵士が少なくとも300人、1000人近い人数だったと推定されているとのこと。これは知りませんでした。
著者は1955年に12年ぶりに日本に帰国しました。26歳になっていました。
著者は92歳。お元気のようです。叔父も90歳をはるかに超えて、長生きしました。中国では粗食だったようですが、それがためにかえって頑健になるのでしょうか…。
(2020年1月刊。1000円)

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