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「弁護士のしごと」

カテゴリー:司法

(霧山昴)
著者 永尾 広久 、 出版 しらぬひ新書
弁護士生活47年になる著者が、これまで扱ってきた事件などを広く市民に知ってもらおうと書いているシリーズ本で、これまで4冊が発刊されています。5冊目のサブタイトルは、「黙過できないときは先手必勝」。たしかに後手にまわると失地挽回は苦しいことが多いですよね。
いくつかのテーマごとに話はまとめられています。今回は、まずは「男と女の法律相談」。著者は20年以上も「商工新聞」で法律相談コーナーを担当しています。短いスペースで要領よく、しかも正確に回答するのは難しいけれど、なんとか続いているそうです。この分野は、弁護士にとって途切れることのない種(たね)になっているといいます。
著者のライフワークのひとつである労働災害をめぐる裁判が紹介されています。家屋の建築・解体現場での足場からの転落事故は重大な後遺障害をもたらすことがある。そんなときに元請会社の責任を問えるのか…。なんとか一定の賠償を勝ちとった話が紹介されていて、いくらか救われます。それにしても、脊髄を損傷した人の日常生活は本当に大変。家屋の改造、そして家族の付き添いなど…。
公事師(くじし)は江戸時代に活躍した、今でいう弁護士のような存在。江戸時代には、実は裁判に訴える人々は多く、公事師のいる公事宿(くじやど)は大いに繁盛していました。ええっ、そんな事実があったの…。しかも、訴状その実例が寺子屋の教材として子どもたちに教えこまれていたというのです。読み書きソロバンを教わった寺子屋の卒業生たちが公正な紛争の解決を求めて裁判所に駆け込む流れはとめられなかった。すると、裁判する側も、いい加減な対応は許されなかった。そんなことをしたら、自分たちの存在意義をなくしてしまうから。なので、当局は、必死で両者の顔を絶つ解決を目ざした、というのが実情だというのです。
そして、最高裁判所がなぜ「サイテー裁判所」と言われることがあるのか…。弁護士会の役員になるには、どんな苦労が必要なのか…。部外者からは分かりにくい当事者の「告白」が満載のシリーズになっています。
興味をもった人は、しらぬひの会(0944-52-6144)へFAXで申し込んだらよいことを紹介します。
(2021年5月刊。税込500円)

この生あるは

カテゴリー:中国

(霧山昴)
著者 中島 幼八 、 出版 幼学堂
中国残留孤児だった著者が3歳のとき中国と実母と生き別れ、16歳のときに日本に帰国するまでの苦難の日々をことこまやかに描きだしています。
それは決して苦しく辛い日にばかりだったというのではありません。人格的にすぐれ、生活力もある養母から愛情たっぷりに育てられ(いろんな事情から養父は次々に変わりますが…)、近所の子どもたちとも仲良く遊び、また教師にも恵まれ、ある意味では幸せな幼・少年期を過ごしたと言える描写です。読んでいて、気持ちがふっと明るくなります。
この本には底意地の悪い人間はまったく登場してきません。「日本鬼子」と言って幼・少年期の著者をひどくいじめるような子どももいなかったようです。
著者の育ったところが、そこそこの都会ではなく、へき地ともいえる環境(地域社会)なので、お互いの素性を知り尽くしていたからかもしれません。
子どものころの自然環境の描写もこまやかで、見事です。車に乗って出かけるというと、それは自動車ではなく、牛車です。
靴は布を何枚も重ねた布靴で、養母の手づくり。友人のなかには、布靴がすり切れたらもったいないので、裸足で学校に来る子もいます。
3歳の日本人の男の子を引きとった養母は「私が育てます」と宣言し、消化不良でお腹だけが大きくふくらんでいたので、夜と朝、お腹を優しく揉んでやった。食べ物も消化のいいものにして、主食の粟(あわ)をお粥(かゆ)にして、それを口移して食べさせた。
実母は日本に帰る前に著者を引き取ろうと養母の家にやってきた。村の役人は、3歳の著者に実母か養母か選択させることにした。3歳の子は、まっしぐらに養母のもとに駆け込んだ。そのころの子どもって、やっぱりそうなんですよね。毎日、面倒みてもらっていたら、そちらになつくのが自然です…。
なので、著者は3歳のときに実母と生き別れ、16歳で来日するまで実母とは会えませんでした。それでも、その後の中国での日々は養母に愛情たっぷりに育てられたことがよくよく分かる話が続きます。
小学生のとき「小日本」と蔑称でいじめられた。そのことを教師に告げると、言った生徒は教師から補導された。しかも、行政当局から小学校に連絡がきて、日本の留置民に対して侮辱的な言葉をつかう生徒がいる。その傾向を是正するよう教育を強化せよというものだった。それは全校で徹底された。当時の中国は理想に燃えていたのですね。
あとの文化大革命のときには、日本人はスパイとか外国に内通しているとか、無謀な罪名をつけられましたが、幸いにして著者はその前に日本に帰国しています。
著者は小学校ではクラスメイトにも教師にも恵まれて楽しく過ごしたようです。章のタイトルも「愉快な学校生活」となっていて、養母に愛情たっぷりに育てられていたため、変にいじけることもなく、教師からもきちんと評価されて少しずつ自信をつけ、のびのびと楽しく過ごしたのでした。ここらあたりは、読んでるうちに楽しさがじんわり伝わってきます。
河でザリガニを捕まえて自宅にもち帰る、穀物の精製に使うローラー状の石臼で圧搾する。その絞り汁をスープに入れると、蟹(カニ)豆腐のようになる。なんとも言えない美味の感覚が今も舌先に残っている。うむむ、ザリガニをスープに入れて味わうなんて…。
著者は1955年、日本に帰国するが尋ねられたとき、次のように返事した。当時13歳なので、今の日本の中学1年生に当たるだろう。
「ぼくを無理矢理に汽車に乗せても、汽車から飛び降ります。絶対に日本へ行きません」
これは著者の本心で、誰からも強制されたものではなかった。養母の顔をうかがって言ったというものでもなかった。これは、中国で育つなかで、日本は他国を平気で侵略する恐ろしい国だという強いイメージをもっていたことにもよる。
ところが、さらに年齢(とし)をとると、外の世界への憧れ、親しい物事への好奇心が強まり、背中を押してくれた教師の言葉から日本へ帰国することになった。
このあたりの心理描写はよくできていて、なるほどと説得力があります。そして、ついに16歳のとき慌しく日本に帰国したというわけです。
400頁をこす大著ですが、なんだか自分自身も子ども時代に戻って、そのころの幸せな気分を味わうことができました。いい本です。一読をおすすめします。
(2015年7月刊。税込1650円)

福岡県弁護士会報(第30号)

カテゴリー:司法

(霧山昴)
著者 会報編集室、 出版 福岡県弁護士会
弁護士にとってきわめて大切な弁護士自治については、他の論稿とは異って対話形式で展開しています。とても重要なテーマが、大変わかりやすいものになっています。
まずは、弁護士自治は戦後に苦闘の末に認められたということが紹介されています。
イソ弁:え?弁護士自治って司法制度ができたときから認められていたものじゃないんですか。
ボス弁:とんでもない。わが国で弁護士自治が認められたのは、司法の歴史の中でも最 近の話だよ。
戦後も、すんなり認められたわけではなく、依然として裁判所の監督下に置こうという動きがあったのでした。
ボス弁:先達の奮闘にもかかわらず、残念ながら結局は、弁護士自治は戦後の1949 (昭和24)年の現行弁護士法の成立によってようやく獲得されたといえる。しかし、その成立過程も極めて厳しいものだったんだ。
姉弁:当初は弁護士に関する事項も最高裁判所が規則を定めることになっていたのよ。
イソ弁:ええっ、そうだったんですか。
ボス弁:裁判所法要綱案でも、弁護士や弁護士会の監督は裁判所が行うという案が作成されていた。
弁護士の人数が増えていること、会費が高いなかで、会員の意識が多様化していることも紹介されています。
姉弁:ちなみに、1998(平成10)年の福岡県弁護士会の会員は527名だったけれど、2020(令和2)年の会員数は1377名よ。実に2.6倍になっているわ。
 日弁連の会費年額18万円を含めた年間総額でいうと、高いところでは100万円を超える会もある一方、安いところではその半額以下にとどまる会もあるのよね。
イギリスで、弁護士会が自治権を失ってしまったという衝撃的な事実が紹介されています。日本も他山の石とすべきものと思われます。
ボス弁:イギリスでは、弁護士会は、人事権、規則制定権、予算編成権の独立をいずれも奪われ、自治権を失ったと評価されているよ。
イソ弁:イギリスで弁護士自治が奪われた背景にはどのような事情があったのですか。
ボス弁:イギリスの弁護士自治の崩壊は、「英国病」といわれた長い閉塞状態を打破するためにサッチャー政権、ブレア政権の強い意志で進められたといわれている。
イソ弁:日本の場合は、ときの政権が弁護士会に対して直接圧力をかけてくるという可能性は低いですよね。
姉弁:油断は禁物よ。弁護士自治を確立する歴史にあったように、権力側が活動を妨げようとすれば、それは可能だ…。
司法修習生の給費支給がいったん停止されましたが、弁護士会の粘り強い活動によって、ほぼ復活させることができたことも紹介されています。
ボス弁:実に7年の歳月をかけて弁護士会、日弁連を挙げて取り組み、遂に市民、社会からも共感を得ることができた。
姉弁:その結実が2017(平成29)年の修習給付金制度ですね。
以上のように、弁護士自治は昔からあって当然というのではなく、まさしく「油断は禁物」という状況にあることが語られています。ぜひ本文を手にとってお読みください。

俺の上には空がある広い空が

カテゴリー:司法

(霧山昴)
著者 桜井 昌司 、 出版 マガジンハウス
1967年8月、茨城県の利根町で62歳の男性が殺され預金が奪われた。強盗殺人事件。布川(ふかわ)事件と呼ばれるのは、その男性の自宅のあった地名から。
犯人として、10月に利根町出身の2人の不良青年(20歳と21歳)が逮捕された。窃盗容疑での別件逮捕。警察は2人の若者を「お前は人殺しだ。認めなければ助からない」と責め立てて、ついに2人とも自らの犯行だと認めて「自白」する。
2人と事件をむすびつける物証は何もなく、目撃者も当初はこの2人とは違うといっていたし、現場の毛髪も2人のものではなかった。しかし、検察庁は自白調書をもとに起訴した。裁判所は「やっていない者が自白できるはずがない」として有罪(無期懲役)。高裁も最高裁も一新有罪を是認し、2人は、ついに刑務所へ。29年間、2人は刑務所の中。そして、仮出所後に申立した第二次再審請求が認められて、完全無罪。事件発生から43年がたっていた。
事件が起きた1967年(昭和42年)というと、私が上京して大学1年生(18歳)の秋のことです。貧乏な寮生でしたが、10月ころは試験あとの秋休みで寮生仲間の故郷の長野へ遊びに行っていました。同時に、セツルメント活動にも本格的に身をいれていたころのことになります。
著者は自由を縛られた刑務所の中で、20代を失い、30代を失った。
人間の心をも断ち切る刑務所の中で、母も失い、父も失い、何もできないままに、ひたすら耐え続ける歳月。
裁判のたびに誤判が重ねられて、それでも本人はやめるわけにはいかない。
20歳の秋に始まり、64歳の初夏に終わった冤罪との闘い。43年7ヶ月に及んだ歳月は、まったく無駄な時間ではなかった。自分にとって必要な時間だった。
20歳のころ、著者は意思が弱くて、怠け者で、小悪党のような生活をしていた。
なぜ、無実の人が嘘の自白をしてしまったのか…。当事者になると、それは意外に簡単だった。「やった」と認めた以上は「知らない」とは言えないため、事実の記憶を、日付や時間を事件にあわせて置き換え、嘘を重ねていく。
最初は、「おまえが犯人だ」と責められる目の前の苦痛から逃れたかった。そのうえ、杉山が犯人だと思わされたので、自分の無実は証明されると楽観視があった。警察に戻されると、今後は「死刑」と脅された。そして、後任の検事から「救ってやりようがない」と言われた。ここまでくると、嘘でも「やった」と言ってしまった自分のほうが悪いという気持ちになった。せめて死刑にだけはなりたくなかった。まさか嘘の自白で無期懲役の有罪が確定するとは思わなかった。こんなメカニズムがあるのですね…。
警察は犯人と疑いはじめたら最後、話を聞く耳をもたない。人間は、自分の話を聞いてもらえると思うから話ができる。何を話しても否定され、責められたら、人間は弱いもので心が折れてしまう。警察・検察・裁判所の過ちによって冤罪にされたが、そもそも冤罪を招いたのは自分自身だ。疑われるような生活をしていた自分が悪い。逮捕のきっかけをつくったのは自分なので、誰も責めないし、誰も恨んでいない。
刑務所は不自由が原則だった。自由が許されたのは、考えることだけだった。著者は詩を書き、作詞作曲に励んだ。そのことを自分の生きた証(あか)しにしようと思った。
刑務所は寒さも熱さも敵だ。でも、本当に大変なのは、人間関係だ。もめごとは尽きなかった。刑務所ではケンカ両成敗だ。片方だけを処罰すると遺恨を生んで、さらに深刻なもめごとに発展する恐れがあるから…。下手に仲裁して、ケンカ沙汰になったら、仲裁者も無事ではすまない。そこに意地の悪い刑務官が加わると、ますます面倒なことになった。
靴を縫う仕事を内職でした。1足250円で、月に1万2000円にもなった。10年続けて100万円をこえるお金をもつことができた。
社会に戻ってしたいことの一つが、闇の中を歩くこと。これには驚きました。というのは、拘置所にも刑務所にも闇がない。夜になっても、常に監視する常夜灯がついているからなのです。そして、2011年に四国巡礼を始めた。
著者の歌を聞いたことはありませんが、その話は間近で聞いたことがありました。長い辛い獄中生活の割には、明るくて前向きの生き方をしているんだなと感じました。
この本を読んで、一層その感を深くしました。ご一読をおすすめします。
(2021年4月刊。税込1540円)

城郭考古学の冒険

カテゴリー:日本史(戦国)

(霧山昴)
著者 千田 嘉博 、 出版 幻冬舎新書
かつて日本列島には3万もの城があった。北海道にはアイヌの人々が築いたチャシがあり、沖縄には琉球王国のグスクがあった。江戸時代に、城は集約され300城ほどとなり、巨大化した。京都府だけでも1200もの城があった。
「天守閣」というのは近代以降の呼び方であって、正しくは「天守」あるいは「天主」である。「閣」はつけない。
江戸時代に建てた本物の天守が残るのは全国に12だけ。熊本の天守も残念ながら違いますよね…。
織田信長の安土城跡には2回行きました。山城です。天守跡に立ち、なんだか信長になったかのような気分をほんの少しだけ味わうことができました。なるほど、いかにも信長が君臨するにふさわしい城郭構造になっています。
著者は吉野ケ里遺跡の柵と塀の復元は完全に間違っていると厳しく指摘しています。「すき間のない板塀」はありえないというのです。なるほど、と思いました。
姫路城は天守や櫓(やぐら)を白漆喰(しっくい)で覆っているが、これは当時の最高の防災対策だった。
肥前名護屋城跡にも私は2回行きました。すぐ近くに立派な博物館もあり、秀吉の朝鮮出兵の無謀さを実感することもできます。近くに呼子(よぶこ)の美味しいイカ料理店もあり、ぜひまた行きたいところです。
信長の岐阜城にも行ったことがありますが、ここは典型的な山城です。ふもとにも信長の御殿があり、宣教師のルイズ・フロイスはふもとの御殿で信長と面会したあと、翌日、山城の御殿でも信長と面会したと書いています。
山城の御殿は、信長と家族が日常的に居住した常御殿としての機能を中心とし、人格的な関係を醸成した会所的建物を持っている。
安土城内に天正8年まで信忠や信雄の屋敷がなかったことは、安土城は信長と、信長に仕えた家臣たちの城であって、織田政権全体をまとめる城として、もともと意図していなかったろう…。
安土城は、あくまで信長の城であり、信忠は岐阜城、信雄の田丸城といって、織田政権にとっての要(かなめ)の城だった。
安土城の内覧は、圧倒的な上位者としての権威を見せつける意図があった。
豊臣政権の本拠は、実は大城城ではなく、聚楽第または伏見城だった。大城城は豊臣家の「私」の城だった。
日本の城についての詳しい知見を深めることができました。
(2021年3月刊。税込1034円)

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