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エルサレム以前のアイヒマン

カテゴリー:ヨーロッパ

(霧山昴)
著者 ベッティーナ・シュタングネト 、 出版 みすず書房
ショッキングな本でした。580頁もある大部な本ですが、アイヒマンの本当の正体を知りたいと思って必死の思いで読み通しました。
エルサレムでのアイヒマンの裁判を、ずっと傍聴していたアンナ・ハーレントはアイヒマンについて「悪の陳腐さ」、「凡庸な普通の人間」の犯した凶悪犯罪と評しましたが、それが正しかったのかどうかという点に関心がありました。
この本によると、アイヒマンは、エルサレムに拉致・連行される前に、自らすすんでユダヤ人600万人を大虐殺したことを誇らし気に仲間内で語っていた(録音していた)というのです。なので、エルサレムで尋問されるとき、初めて問われて答えているとは思えなかったと尋問官は感じていたとのこと。これには本当に、驚きました。
もう一つ、アイヒマンがアルゼンチンにいることは、イスラエルのモサドによって拉致されるより何年も前に情報が寄せられていたという事実がありました。しかし、それは、アイヒマンが中近東あたりに潜んでいるというガセネタと同じレベルで扱われてしまい、重要視されなかったというのです。
いずれにしても、アイヒマンは戦後、ドイツにしばらく潜伏し、そこから元ナチスの逃亡ルートに乗ってアルゼンチンにたどり着いたこと、アルゼンチンでは元ナチのメンバーの助けを得て、それなりの市民生活を送っていたこと、そのうえで妻子をドイツから呼び寄せ、アルゼンチンで赤ん坊をもうけたことなど、驚くべき事実を知りました。
アイヒマンはナチス時代にしたことをまったく反省しておらず、録音つきの取材でも、ユダヤ人の大量虐殺を得意気に話していたのです。となると、ハンナ・アーレントの裁判傍聴によるアイヒマン像は大幅に修正する必要があるのではないでしょうか。
アイヒマンは、ユダヤ人絶滅の全体像を大まかにでも見通せた。わずかな人間の一人だった。アイヒマンは、直接にユダヤ人の拷問や殺人に加担していいなかったため、つまりユダヤ人絶滅の現場から距離があったことから、かえって全体を見通せた。
アイヒマン一家は、最初はベルリンに、その後ウィーン、最後はプラハに住んだ。
アイヒマンは1956年3月19日に50歳の誕生日を迎えた。3番目の息子が生まれたばかりだった。
アイヒマンがサッセンに語り始めた(録音された)のは1957年4月からだ。アイヒマンは、シリーズ本の1巻を出せることを得意に思っていた。この本は、アイヒマンの死後に出版されることになっていた。
アイヒマンはドイツで戦犯として法廷に立たされたとしても、せいぜい4年か6年の刑ですむだろうと考えていた。アイヒマンは妻に対して、ユダヤ人を一人も殺していないし、殺すように命令したこともないと言っていた。戦争で、ドイツが700万人もの戦死者を出しているので、ユダヤ人の600万人という絶滅収容所での死者と相殺できるとアイヒマンは考えていた。
アイヒマンが仕事の帰り、自宅近くでモサド(イスラエルの秘密機関)によって拉致されたのは1960年5月11日のこと。このアイヒマンの拉致は、1945年5月の敗北以来のどんな出来事より、SS隊員など、ユダヤ人の大量殺戮に加担した共犯者たちの生活に深刻な変化をもたらした。
アルゼンチンにおいて、アイヒマンの正体を知らない人にとって、アイヒマンはときにバイオリンを弾いてくれる、子どもから好かれる存在だった。アイヒマンは、アルゼンチンでニワトリ5000羽と、アンゴラウサギ1000羽を飼っていた。
アイヒマンについての確実な情報は、1952年6月24日、ドイツのゲーレン機関への通報だった。「アイヒマンは、エジプトにはおらず、クレメンスという偽名で、アルゼンチンにいる」
しかし、この情報に対して西ドイツでは8年間、何もしなかった。
アイヒマンは、この年(1952年)7月28日、7年のあいだ、別れていた妻と2人の子どもをアルゼンチンに呼び寄せた。
アイヒマンは自分のやったことを何も忘れてはいなかった。ただ、自分の歴史観を相手にあわせて変え、偽装の腕前を上げていった。
アイヒマンは、ユダヤ人の大量射殺、労働による殺人、飢餓による殺人、ガス殺のすべてを知る唯一の人間とみなされていた。これはアイヒマン本人が自分で築きあげた「名声」だ。
1957年4月以降、毎週土曜日と日曜日にユダヤ人の「最終解決」について議論した。このとき、アドルフ・アイヒマンとして議論に参加した。アイヒマンは、この時、戦争終結から12年後、誰からも強いられることなく、この大量殺戮者は、一同の前で、録音テープのまわる部屋で、ユダヤ人絶滅はあった、それは、何百万人もの殺人まさに完全なジェノサイドであることを、そしてアイヒマンもそれを望み、計画したことを、そして、この計画を今も正しいと考えていること、それに関与したことに満足していることを繰り返して言った。
アイヒマンは、国民社会主義者(ナチス)であり、それゆえにこそ、確信犯的な大量殺戮者だった。
アイヒマンがアイヒマンとして自分のやったことをトクトクと語った録音テープがあるというのも信じられません。幸か不幸か、それは本になっていません…。アイヒマンとは何者なのか…、というのを知るには欠かせない資料だと思いました。大部だし、高価ですが、一読の価値が大いにあります。
(2021年6月刊。税込6820円)

ディズニーとチャップリン

カテゴリー:人間

(霧山昴)
著者 大野 裕之 、 出版 光文社新書
チャップリンとヒトラーは同じ年の同じ月に生まれた。チョビヒゲをはやしはじめたのも偶然に同じころのことで、一方が他方を真似たのではない。
ディズニーはチャップリンに憧れて役者になった。つまり、チャップリンよりもぐんと若い。
二人はある時期までは仲が良く、チャップリンはディズニーに大切なことを教えた。
「自分の作品の著作権は他人の手に渡したらいけない」
ディズニーのミッキーマウスは今も生きている。そして、チャップリンだって、何度も何度もリバイバル上映され、その浮浪者姿は今でもアイドルのように人気がある。
著者は日本のチャップリン協会の会長をつとめるだけあって、いくつかのチャップリンの伝記は、格段の深さがあります。
チャップリンは貧しい芸人夫婦の下で育ち、5歳のときから舞台に出ている。庶民向けの劇場で幕間の芝居を演じる。短い上演時間、ほとんど一人芝居で客の心をつかむ演技術を身につけた。5歳から24歳までの20年間に、さまざまなジャンルの舞台に立ったことが、のちに映画において監督、脚本、プロデューサー、作曲を一人でこなす多面的な才能と、喜劇と悲劇とを融合させた、独自の作風を生みだす礎(いしずえ)になった。チャップリンは、早くから海外講演を経験し、地域によって笑いの嗜好に大きな差があることを知っていた。
チャップリンが映画にデビューした当時、1914年の週給は150ドルから1250ドルになった。そして、1916年には、週給1万ドル、ボーナスもあわせると年間67万ドル(今の年収11億円)の映画俳優になった。
チャップリンは、動いている姿が世界中に知られた初めての人物。
チャップリンとディズニーには、家族関係で、とても重要な共通点がある。チャップリンは4歳上の異父兄シドニーを、ディズニーは8歳上のロイを、それぞれ心から慕っていた。二人の兄は、有能なビジネスマンとして弟をよく支えた。
チャップリンの映画『サーカス』(1928年)のなかのライオンの檻に閉じ込められるシーンから、高所での綱渡りシーンまで、命がけのギャグはすべてスタントなし、チャップリン本人が演じた。すごいですね。香港の映画スターのジャッキー・チェンも本人が演じていますよね。
チャップリンは想像力の躍動と、観念の脱構築で笑いを生み出した。チャップリンは、ただのモノも、想像力によって生きている身体に変えてしまったのだ。
ディズニーは、どんな苦境に陥っても、それを物語の一シーンのように捉えて力に変える前向きな気持ちと、独立心だけは失わなかった。これこそが、ディズニーをディズニーたらしめる才能だった。ディズニーは信頼していた人たちの裏切に直面し、「もう絶対に他人(ひと)には使われない。生きている限り他人のためには働かない。自分は自分のボスなんだ」と決意した。
 猫のフィリックス、うさぎのオズワルドときて、次は、キュートで小さな動物ならネズミ(マウス)だ。ミッキーのアイデアは、チャップリンに借りがあるとディズニー自身が認めた。ミッキーは、ディズニー本人そっくり。冒険心や正義感にあふれているが、知的教養とはあまり縁がないという存在。ミッキーマウスは、ディズニー自身であると同時に、ディズニーが憧れてやまなかったチャップリンそのものだった。
トーキー(音声付き)映画になって、ミッキーの声は、ディズニー本人が担当した。これまた恐るべきことですね。
チャップリンの放浪紳士は、報われなくても愛する人のために献身的に尽くし、ときに権力の象徴たる警官のお尻もけりあげる。そして、きれいごとだけでは生きていけないことを知っているので、生活のためには、少しの悪事も働く。なので、決して聖者ではないが、厳しい現実とたたかう武器はユーモアしかないことを教えてくれる、心優しい放浪紳士だ。
チャップリンとディズニーに共通するのは、子どもの視点だ。二人とも子どもと同じ視点で、遊び、考えることができた。
チャップリンはユダヤ人ではない。祖母の家系にジプシーがいて、チャップリンは、それを誇りに思っていた。ところが、ヒトラー・ナチスはチャップリンをユダヤ人評論家が絶賛したことから、チャップリンもユダヤ人に違いないと決めつけ、徹底的に攻撃した。
信じられないことに、このころ、アメリカの世論の大部分がヒトラーを支持していた。恐慌を切り抜けたリーダーとして、ヒトラーはアメリカでも英雄視されていた。
これに対して、チャップリンは映画『独裁者』をつくって、ヒトラーを笑い者にした。
ヒトラーをはじめ、ナチスの幹部はディズニー作品のファンだった。
ディズニーの父親は社会主義を信奉していた。ディズニーは、その反発もあって、労働組合を憎んだ。労働者の権利を叫ぶ労働組合は、アメリカの理想に敵対するソヴィエトの共産主義が送り込んだ毒と思い込んでいた。
最後まで大変深い分析が続き、290頁あまりの新書を3日間で読みあげました。一読をおすすめしたいと思います。でも、今の若い人って、『街の灯』とか『キッド』って、いったいどれだけみているのでしょうか…、ぜひみてほしい映画です。
(2021年6月刊。税込990円)

「中国」の形成

カテゴリー:中国

(霧山昴)
著者 岡本 隆司 、 出版 岩波新書
中国の清朝といえば、強大な王権を内外ともに誇示していた存在だと思っていましたが、この本を読むと、その内実はまるで違うようです。
清朝は、明末の政体・体制をそっくり受け継いだ。権力を握った満州人は、数のうえでも組織のうえでも、そして経験のうえでも、漢人の歴史ある制度を根底からつくりかえるには、あまりに非力だった。その立場からすると、当面の苦境を克服し、眼前の混乱を収拾して生きのびるだけで精一杯の実力だった。非力な分、清朝はモンゴルに対しても、チベットに対しても、彼我の力関係に対する鋭敏で冷徹な認識をそなえていた。
ジェシェン(女真)人は、かつて12世紀に金王朝を建てた種族の末裔(まつえい)。ジュシェンのヌルハチがマンジュ(満州)として自立した。豊臣秀吉の朝鮮出兵のころのこと。
ヌルハチは、1619年のサルフの戦いで、明朝と朝鮮の連合軍を破って大勝した。
ところが、1626年、ポルトガル製の大宝(紅夷砲)に屈して、まもなく亡くなった。
後を継いだのは8男のホンタイジ。ホンタイジは、チンギス裔の血縁で権威の高いチャハル家をとりこんで皇帝に即位した。そして、大清国を自称するようになった。ホンタイジ亡きあと、ドルゴンが摂政として国を治めたが、明から清への交代は、漢人が裏面で動いてなされたものだった。ドルゴンは39歳で亡くなり、順治帝も10年おさめて、24歳で死亡した。後をついだ康熙帝はまだ9歳。8年間、辛抱したあと、権臣を排除して康熙帝はようやく実権を握った。
満州人・清朝がカオスのなかを勝ち抜き、勝ち残ることができたのは、多分に偶然であり、もっというと奇跡だった。彼らは、同時代の集団としては、必ずしも強大な勢力ではない。人口だけでみても大陸の明朝はおろか、半島の朝鮮にも及ばなかったし、モンゴルと比べてもそうだった。
相次いで押し寄せる目前の難しい局面に、生きのびるべく懸命の対処をくりかえした蓄積が、自立と興隆につながった。清朝は、それだけ自らの非力な力量・立場をよくわきまえていた。虚心な自他分析と、臨機応変の感覚に富んでいた。それが偶然・僥倖(きょうこう)を必然化させ、多元化した東アジア全域に君臨しうる資質を生み出したばかりか、清朝そのものに300年もの長命を与えることになった。
清朝はリアリズムに徹し、現状をあるがまま容認し、不都合のないかぎり、そこになるべく統制も干渉も加えようとはしなかった。漢人に対する清朝の君臨統治は、かつて「入り婿」政治と言われたこともある。
外形的に清朝の建設を完成に導いた康熙帝の当世は、内実を見たら、派閥の横行・暗闇が絶えない時代でもあった。次の雍正帝の当世は13年間。父の康熙・息子の乾隆の60年に比べると、決して長くない。だが、その治績は、父・子をはるかに上回って重要だ。
清朝が漢人を支配して大過なかったのは、漢人とのあいだにズレがあることを自覚し、緊張感をもち続けたからだ。
祖父の康熙帝は、大局的なケチ、節倹の鬼だった。これに対して孫の乾隆帝は、贅沢の権化。乾隆帝が即位したとき、清朝の在立は、なお、盤石ではなかった。最大の敵対者、ジュンガルが健在だった。
漢人社会が巨大化していき、バランスが崩れていった。清朝・満州人の複眼能力は、相対的・絶対的に衰えた。白蓮教の反乱が起きたとき、常備軍の八籏・経営が軍事的に役に立たなかった。
清朝の内実を詳しく知ることができる、面白い本でした。
(2020年9月刊。税込902円)

ある日の入管

カテゴリー:社会

(霧山昴)
著者 織田 朝日 、 出版 扶桑社
マスコミが報道しない、知られざる入国管理庁の実態をマンガでリポート。これはオビにあるキャッチフレーズです。本のサブタイトルは、外国人収容施設は生き地獄。
信じられないヒドイ処遇です。マンガなのでイメージがよくつかめます。そして、このマンガはプロの漫画家が描いたものではありません。本人が言うとおり稚拙な絵です。それだけにかえって迫真力があります。
東京は港区港南に東京入局管理局のビルがあり、建物の7階から上が収容施設になっている。近代的な外見の高層ビルだが、その内側は前近代的。
茨城県牛久(うしく)に収容送還専用の施設がある。JR牛久駅から路線バスで30分以上かかるところにある。2019年春、牛久の入管では、収容者による抗議のハンストがあり、最大時には100人もの収容者が参加した。
コロナ禍の下で、被収容者が解放され、2020年4月に224人いたのが、2021年2月には100人未満となった。その判別基準は明らかにされていない。
2020年6月にやってきた若い男性常勤医は驚くほど高圧的。
「犯罪者、私のいうことが絶対だ。嫌なら国に帰れ」
そして、制圧を先導し、自らも被収容者の身体を押さえつけたりしている。さらには、シャワーを2週間も使わせなかったり、外部からの差し入れを認めなかったり…。
入管当局は被収容者に対して「ルール違反」と言うけれど、本当は日本のほうが、世界の、国連の難民を受け入れのルールを守っていない。
被収容者たちは、「私たちは人間です」と叫んでいる。
入館の職員から「戦争がない国から来たのだから、難民じゃない」と言われたフィリピン女性がいる。フィリピンで反政府活動をしていたのに…。
難民認定の要件は、戦争があっている国に人に限られているわけではない。イラクやシリアなど、実際に戦争があっている国から来た人でも、日本はめったに難民として認めない。
日本の2019年の難民申請者は1万人をこしている(1万375人)。ところが、認定されたのは、わずかに44人。なんと認定率は1%にもならない(0.4%)。これは異常。ヨーロッパ諸国は毎年数万人の難民を受け入れている。
入管法違反は1万6千人超。そのうち不法残留が1万4千人超。不法入国は400人超で、不法上陸は140人。つまりビザのない外国人のうち不法入国はわずか3%のみ。
大半は、正規の観光ビザで入ってきて、オーバーステイになった人がほとんど。
高度成長期には、日本政府はビザを発給せず、黙認していたので、ビザがなくても警察につかまることはなかった。ところが不景気になったので、急にビザがないので犯罪者扱いするようになった。
日本の社会は、すでに、外国人労働者がいなければ機能しないようになっている。それなのに、外国人を差別したり、犯罪者視するのは人道に反するだけでなく、日本(人)にとってもマイナスになる。
入管に収容されているうちに亡くなる人が19人いる(1997~2021年)。大半は自殺または病死。2019年6月にはナイジェリア人男性がハンストを続けた結果、餓死してしまった。
入管の職員にひどい人が少なくないことは事実のようですが、なかには被収容者と仲が良く感謝されている職員もいるとのこと。マンガでも紹介されています。
目の前の仕事をこなしているだけで、入管制度について分かっていない職員がほとんどだと著者は書いています。きっとそのとおりなのでしょう。残念です。だったら、国民世論をぶつけるしかありませんね…。知られざる実態を広く世の中に知らしめる、いい本です。
(2021年2月刊。税込1430円)

南極探検とペンギン

カテゴリー:生物

(霧山昴)
著者 ロイド・スペンサー・ディヴィス 、 出版 青土社
エンペラー・ペンギンはペンギンの中でもとくに「貞操観念」が低い。離婚率は85%にも達する。多くのつがいが1年で別れ、翌年にはまた新しいパートナーとつがいになる。
エンペラー・ペンギンには、そもそも巣というものがない。そのため、同じ相手と続けてつがいになる動機に乏しい。したがって、エンペラー・ペンギンは愛の偶像などではなく、むしろ「離婚の守護聖人」とでも呼ぶべき生物なのである。いやあ、うっそー、と叫びたくなりました。
動物の2個体が戦っていれば、それはオス同士の戦いであり、卵を抱いて温めるのはメスの役目。これが疑う余地のない常識だった。しかし、両方とも間違っている。
ペンギンの卵も雛も、その世話には大変な手間がかかる。卵を生むのはメスだけど、メス一羽だけでは卵をかえして雛を立派に成長させることは不可能。
卵は年にたった2個しかつくれない。メスは卵1個に大きな投資をしているから、誰とどこで交尾するか慎重に選ばなくてはならない。失敗したら、その年の繁殖機会は失われてしまう。
ペンギンの繁殖が成功するために何より重要なのは、タイミングだ。親は、雛が十分な食べ物を得られるように、急いで行動しなくてはいけない。適切なタイミングで十分に大きく成長できるようにする。一定の期間で必ず、自力で生きられる程度にまで成長させる必要がある。羽毛が大人のものになるだけでは不十分で、その時点で十分な体重がないと、長く生きのびることはできない。
オスのペンギンにとって、交尾はそう簡単な仕事ではない。うつ伏せになったメスにただ飛び乗るだけではなく、同時に、自分のクチバシを震わせてメスのクチバシに当てなくてはならない。メスを興奮させるためだ。オスが精液を正しくメスの標的に命中させられるのは、わずか3分の1。そのうえ、交尾が成功しても南極では繁殖を失敗させる要因が無数にある。その最大のものが天候。
アデリー・ペンギンのメスの10%は、つがいの相手(オス)がいるにもかかわらず、近くの別のオスと交尾し、またすぐに元のオスのところに戻る。なぜか…。オスのなかに生殖能力のないオスがいる。なので、2羽のオスと交尾すれば、どちらかのオスに生殖能力がなくても、子どもが生まれる可能性が高くなるから…。うむむ、な、なるほど、ですね。
エンペラー・ペンギンのオスは、寒い南極の冬のあいだ、合計で3ヶ月間も、何も食べずに生き抜く。オスはメスが帰ってくるのを待つあいだ、雛に食べさせるために、自らの身体の組織を削って雛のエサをつくり出す。そのエサは「ペンギン・ミルク」と呼ばれている。
ペンギンは、実は「売春」もする。アデリー・ペンギンのメスは巣を補強するための石を求めて、独身のオスに近づく。独身のオスは石を集めている。メスは交尾させるふりをしてオスの気を引き、石から注意をそらさせ、さっと石の一つを失敬してしまう。メスがオスから、この手口で62個もの石を奪いとったことがある。石はペンギンのコロニーの中で、通貨のような役割を果たしている。交尾させ、その代わりに石を受けとる。オスも石という通貨を支払って、交尾を買っている。
ペンギンは、同性愛、離婚、不倫、強姦、売春をしている。これは、繁殖を成功させるのが容易ではない環境の下で長年生きていた結果、そういう行動をすることになったということ。
自然選択とは、単に勝った者が生きのびるということであって、良い手段をとったから生きのびるというわけではない。
ペンギンほど、外見の個体差のない動物はいない。外見からだけでは、ペンギン自身でさえ、オスとメスを見分けることができない個体の識別も不可能だ。
オスはメスと交尾したら、メスのそばにとどまって、共に助けあって子育てしなくてはならない。ペンギンの雛が卵からかえって4日から6日間は食べ物を与えられなくても生きられるが、与えられなければ、餓死してしまう
アデリー・ペンギンは、冬の移動中に多くの個体が死んでいく。6羽のうち1羽、ひどいときには4羽のうち1羽が死ぬ。そして、つがいだった2羽が両方とも無事にコロニーに戻ってきても3組のうち1組は再びつがいにはならない。つまり離婚する。
はじめてのメスは、低い声のオスを好む。一般に身体が大きいほど声は低くなる。メスが新たなパートナーを選ぶには、いくつかの重要な条件がある。決定権は常にメスだけにある。
アデリー・ペンギンでは、コロニーにおける戦いは、オスをめぐってメス同士が戦うものが多い。
南極の夏はあまりにも短いので、オスの帰りが遅いと、メスには長々と待つ余裕はないので、別のオスを選ぶ。つまり離婚する。
前年に繁殖に成功しなかったつがいは、たとえ再びつがいになっても、結局、別れてしまうことが多い。そして、そのつがいは、互いの絆を強める行動をとらない。
ミューチュアル・コールのとき、2羽は胸と胸をつきあわせるように立ち、同じように大きな声で鳴く。クチバシを空に向け、互いに頭を振りあう。
ペンギンたちが同じ相手と一生添いとげることはせず、頻繁に離婚し、パートナーを変えるのには十分な理由がある。なによりペンギンたちには時間がない。繁殖につかえる期間はごく短いので急がなくてはいけない。そして繁殖の成功率は高くない。なので、親鳥たちは、条件が良くなり次第、できるだけはやく繁殖行動を開始すべきことになる。
1912年3月、南極探検のアムンゼン隊とスコット隊との違い、そして、スコット隊の中にジョージ・マレ・レビックというペンギン研究の研究の生存者がいたことを紹介しつつ、ペンギンの性生活を明らかにしていくという興味深い本です。少しでもペンギンに関心のある人には超おすすめの本です。
(2021年5月刊。税込3080円)

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