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生きることでなぜ、たましいの傷が癒されるのか

カテゴリー:アフリカ

(霧山昴)

著者 大竹 裕子 、 出版 白水社

 アフリカ大陸の中央部にある小さな国ルワンダは、今では女性が活躍する平和な国として、経済的にも目覚ましく発展しているようです。ところが、今から30年以上も前、ここでは大変な大虐殺が起きたのでした。

 ルワンダでは1990年から2000年までの10年間、虐殺、殺戮、難民化という幾多の惨事を体験した。とくに1994年のジェノサイドは、わずか100日間(3ヶ月間)のあいだに50万人から100万人の人々が虐殺の犠牲となった。

 本書は、そのルワンダ現地に日本人学者(女性)が入って、その大惨事から人々がどうやって回復してきたのかを観察し、考察しています。

著者は日本で心理カウンセラーとして働いていた。2010年8月から、JICA青年海外協力隊員としてルワンダ北部のムサンゼ郡で、コミュニティ回復支援の仕事をした。ところが、この地方では、1994年のジェノサイドのあと、別にアバチェンゲジ紛争による殺戮があり、それによる被害も深刻なものだった。

 1997年ごろから始まったアバチェンゲジ紛争では、ムサンゼの人々は、ルワンダ愛国戦線(RPF)と旧国軍の残党(アバチェンゲジ。侵入者たち)の双方から殺戮されたのだった。

 なぜ、「生きる」こと、「生き続ける」ことで回復が導かれるのか…。著者は、この問いの答えを求めようとします。著者は2015年8月から翌年5月にかけて、再びムサンゼ郡に出かけてフィールドワークをしたのです。

 アバチェンゲジ紛争のあいだ、ムサンゼ地域は危険地帯として閉鎖されたので、住民は逃げ出すことが出来なかった。RPFとアバチェンゲジの両軍は、互いに交戦しながら難民を殺戮していた。これによって殺された難民は数十万人にのぼる。

ルワンダ国内で政府を批判したために「蒸発」した政治家やジャーナリストは、2018年までに100人近くにのぼっている。

 アバチェンゲジ紛争のなかではRPF軍(今や正規軍)による殺戮もあったが、それを語ることは政府批判と受けとられ、投獄される危険性がきわめて高い。 「家族の遺体を火葬したい」と言うと、政府から「お前は虐殺イデオロギー保持者だ」と言われて、刑務所に送られてしまうのを心配する。

 ルワンダでは、農作業は女性の仕事。家畜は重要な資産。

ここでは、誰かを助けることで、その大家族の一員として認められ、未来にいつか助け返してもらえる、そんな信頼関係で結びついている。何かを「分け合う」ことを現地語(キニャルワンダ語)で、グサンジラと呼ぶ。生き残った人々にとって、グサンジラは紛争によって奪われた人生の大切な一部であり、それゆえ、なんとしても取り戻さなくてはならないものだ。

イフンガバナは、精神的混乱を意味する現地語。人々にとって、自分たちの苦悩をよりよく表す身近な言葉だ。紛争による苦しみは、孤立と過去の想起とが相互作用しながら進行する。苦しみの底には、生と死の意味の喪失が横たわる。過去について考えるのをやめ、未来について考える。

ルワンダの伝統的な信仰は多神教。ルワンダ人の人間観は、人間であることは与えること、他者を助けることである、というもの。

ルワンダの村では、誕生から死まで、さまざまな人生の節目を、住民たちが共に祝う。

ウムガンダとは、ルワンダの地域社会で広く実践されている協働奉仕作業である。多くの場合、社会経済的に弱い立場にあるものを助けるための共同農作業を指す。

アフリカでは、子どもは、しばしば未来の象徴として、また子孫は死後に自分の命を受け継ぐ存在として語られる。死後に子どもを残すことは、「名」を残すことと同じであり、自分のいのちをこの世に残すことと同じだ。

沈黙は、否定的な影響だけでなく、保護的な役割もあわせもっている。被害者は、しばしば沈黙と語りを状況によって使い分けている。「忘れる」は、過去の記憶を否認したり回避することとは違う。自分のなかに抱きつつも、その奴隷にはならず、今を生きながら前に進んでいこうとすること。それが「忘れる」ことであり、「未来について考える」ことなのだ。過去は我々のうしろにあるのではなく前にある。

人間は、助けあい、尊びあうことを選びとることができる。それは私たちのいのちが生き続ける道なのだ。なるほど、そうなんですよね。ずっしり重たい本(330頁)でした。

(2025年8月刊。2800円+税)

ハシビロコウのボンゴとマリンバ

カテゴリー:生物

(霧山昴)

著者 南幅 俊輔 、 出版 辰巳出版

 一日中でも動かず、じっと立っている大きな鳥として有名なハシビロコウのオスとメスを紹介する、写真たっぷりの本です。

 ハシビロコウがいるのは、神戸どうぶつ公園です。ここのハシビロコウ生態園は広々としています。なんと、テニスコート6面分もあるのです。そして、ハシビロコウの生息地であるアフリカの湿地帯を再現するための工夫がいろいろと凝らされています。

 部屋は屋根のある温室構造で、自然光が入り、気温は15~30度Cです。「湿地」は400メートルもの大きな池と池に流れ込む小川から成ります。川の深さは30センチ(乾季)から70センチ(雨季)。水温は20~25度C。アフリカの雨季と乾季にあわせて、雨季は1日中雨を降らせます。

 ハシビロコウは絶滅危惧種であり、動物で繁殖に成功したのは世界で2例のみ。この動物園でも繁殖を試みています。それで、たとえば、人間とあまり接触しないようにする。制服を着ているスタッフの通行を禁止する。それでも、ボンゴは飼育員を見分けているそうです。賢いのですね。

 ここのハシビロコウのオスはボンゴ(13歳)と名付けられています。メスのマリンバ(10歳)よりも少し大きい。リンバが身長1メートルなのに対して、ボンゴは1メートル20センチある。

 大写しになったハシビロコウの顔は迫力満点。どこか、とぼけた印象すら感じます。

 ボンゴ(オス)はクチバシの中央にへこみがあり、好奇心旺盛でよく動き廻る。いつもじっとしているのではないということです。

 マリンバ(メス)は、目の瞳はやや黄色で、くちばしの先が黒っぽく、警戒心が高く、じっとしている。こちらが、いつものハシビロコウのイメージにぴったりです。

 泰然自若としている様子のハシビロコウをじっと見ていると、俗世間の煩わしい思いが結晶となって、心の中で新陳代謝がすすんでいく気がしてきます。

 私に騙されたと思って、この写真たっぷりの本をご覧になって下さい。

(2025年5月刊。1650円)

「おくのほそ道」を読む

カテゴリー:日本史(江戸)

(霧山昴)

著者 長谷川 櫂 、 出版 ちくま文庫

 古池や蛙(かはづ)飛びこむ水のおと

松尾芭蕉が、この句を詠(よ)んだのは1686(貞享3)年の春、43歳のとき。

 「おくのほそ道」の旅に出発したのは1689(元禄2)年春なので、その3年前になる。このとき46歳だった。

芭蕉というのは、38歳のときに門人から株を送られ、翌39歳に自ら芭蕉と号した。

芭蕉は51歳のとき最後の旅に出かけ、大坂で病気になり、「旅に病(や)んで夢は枯野をかけ廻(めぐ)る」を詠み、10月12日、そのまま亡くなった。

 「蛙飛びこむ水のおと」が先に生まれ、「古池や」があとで出来た。つまり、芭蕉は草庵の一室にいて、蛙が跳びこむところも古池も見ていない。どこからか聞こえてくる蛙が水に飛び込む音を聞いて、芭蕉の心の中に古池が浮んだ。つまり、この古池は、芭蕉の心の中にある。地上のどこかにある古池ではない。古池は、芭蕉の心の中に現れた想像上の池。

 芭蕉の心の世界を開くきっかけになったのは、音だった。

 古池の句を詠んでから、芭蕉の句風は一変した。広々とした心の世界が句の中に出現する。蕉風とは、まさに、この現実のただ中に開かれた心の世界のこと。

閑(しづか)さや岩にしみ入(いる)蝉(せみ)の声

この「蝉の声」も、同じく心の世界を開くきっかけになっている。したがって、この句も典型的な古池型の句と言える。

 このとき芭蕉が感じた静けさは、現実の静けさではなく、宇宙全体に水のように満ちている静けさ。現実の世界の向こうに広がる宇宙的な静けさを芭蕉は感じとっている。

 芭蕉が考えた不易流行は、何よりもまず一つの宇宙観であり、人生観。この宇宙は暗転きわまりない流行の世界なのだ。一見、暗転きわまりない流行でありながら、実は何も変わらない不易である。この流行即不易、不易即流行こそが芭蕉の不易流行である。

 芭蕉は、「おくのほそ道」の旅のあと、句風を一変した。悲惨な人生を嘆くのではなく、さらりと詠むという句風への変化、「かるみ」が誕生した。

 ちくま新書として刊行されたものが、ちくま文庫となってとても分かりやすい解説が加えられていて、勉強になります。

(2025年5月刊。1100円)

史実 山田長政

カテゴリー:日本史(戦国)

(霧山昴)

著者 江崎 惇 、 出版 新人物往来社

 戦国時代が終わり、江戸に徳川幕府が始まったころ、シャム(現タイ)には日本人町があり、何千人もの日本人が生活していたのです。そのなかには、キリシタンの人々が日本でキリスト教の禁令によって逃げてきた人々もいました。そして、まだ海外貿易が許されていましたので、それで儲けようとしていた人々もいたのです。

 この本の主人公・山田長政は、海外で一旗あげようと考えた、冒険心あふれる日本の若者でした。時代が要請したのでしょうね。シャムの王様に大変気に入られて、将軍として忠実に仕えて、大活躍しました。ところが、肝心のシャムの王様が若くして亡くなったのです。そうすると、外国人の傭兵のような立場ですから弱いものです。みるみるうちに日本人の武装勢力は邪魔者扱いされ、ついには日本人町も消滅してしまったのでした。昔も今も、外国人が現地社会に溶け込むことの難しさを思い知らされます。

 山田長政は、慶長15年(1610年)冬、20歳のとき、シャムに渡った。

 日本人町は、アユタヤの南に、3万坪の広さもあり、2千人の日本人が生活していた。日本人は、シャム王の近衛兵をつとめた。戦争では外人部隊として活躍し、平時には貿易の監視人として活動した。

 日本人町だけでなく、オランダ人町、ポルトガル人町、支那人町、マレー人町、コーチ人町などもあった。国際色豊かだったようです。

 山田長政は若かったので、シャムのコトバ、宮廷用語(会話)もすぐに身につけたようです。日本では、かごかきをしていた山田長政は、シャムでは最下級の将校となることができました。そして、一つずつ位を上げていくのです。

 30歳になると、山田長政は日本人の頭領になりました。このころ、日本人町には、小西行長や加藤清正の遺臣が1000人ほどもいた。

 山田長政は、寛永3年(1626年)に、日本の幕府あてに「戦艦図」を奉納している。

 山田長政が仕えたシャム王が亡くなったあと、シャム王朝では醜い戦争が起き、ついに山田長政は奸計にはまって毒殺されてしまうのです。まだ40歳でした。

 今や、タイの日本人町は、わずかな痕跡が残るだけのようです。はかない盛名でした。

(1986年1月刊。1500円)

南方抑留

カテゴリー:日本史(戦後)

(霧山昴)

著者 林 英一 、 出版 新潮選書

 1945年8月、日本敗戦のあと、ソ連軍によって北方(シベリアなど)に抑留されたのは130万人(うち軍人軍属57万5000人)。これに対してアメリカ・イギリスなどで南方(東南アジア)に抑留された日本人も、ほぼ同数の119万人(うち軍人軍属107万人)いた。

 北方については体験記が2000点ほどあるのに対し、南方については100点もない。この本は、その南方抑留者の置かれた実情を当事者の日記などによって明らかにしています。

ソ連はスターリンの意向によって日本人を無償労働させたわけですが、イギリスも同じように日本人を無償労働させていたのでした。このときの論理は、「捕虜」ではなく、「降伏日本軍人」として扱ったことによる。ええっ、どうして、「降伏日本軍人」なら無償(賃)労働させてよいのでしょうか…。不思議な話です。

 アメリカ政府が批判したことから、イギリスは1947年3月から元日本兵の日本への帰国を再開したのでした。

 日本軍がその敗戦前に英米の捕虜を手荒く扱った(たとえば、「バターン死の行進」のように)ことから、イギリスやオランダ軍には日本軍兵士への報復の気持ちが強かったようです。

 オランダ軍は、戦犯容疑者136人に死刑判決を下しています。捕虜収容所や憲兵隊関係者の責任が厳しく追及されました。

 インドネシアでは、現地のインドネシア人が独立戦争に立ち上がりましたので、元日本兵を兵器ごと必要として取り込もうとしたのでした。

 敗戦直後の日本政府は海外にいる日本人が、兵士も民間人も、すぐに日本に帰国しないことを願った。なぜなら、日本本土には330万人もの失業者がいて、50万人の餓死者が予想されるほど、食糧事情が悪化していたから。まあ、それも分からんじゃありませんが、日本政府が国の方針として海外に送り出しておきながら、現地に残って自分の力で生活の安定を期せというのは、あまりにも責任放棄というか、無責任きわまります。

 ビルマにあったモバリン収容所には、日本人による劇団が2つもあって、交互に毎週、上演していたとのこと。すごいです。

 フィリピンの収容所では食糧不足のなか、炊事員たちは「特権階級」のように振る舞った。もはや旧軍の階級差は消滅していた。兵隊が将校を殴るということも起きていた。そして、親分が炊事場を掌握して子分を集めて「暴力団」をつくって、暴力的に支払するようになった。ひどいものです。

 レイテ島に日本人が5万人もいて、元日本兵による壁新聞がよく読まれていたことも紹介されています。大岡昇平の「レイテ島戦記」で有名ですし、私も一度、レイテ島に視察に行ったことがあります。ODAによって日本が公害を輸出している現場を確認しました。

 貴重な記録を掘り起こした労作です。日本人が昔から日記をよく書いていることにも改めて驚かされます。

(2025年7月刊。1650円+税)

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