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輝け!キネマ

カテゴリー:人間

(霧山昴)
著者 西村 雄一郎 、 出版 ちくま文庫
著者は佐賀出身で、今も佐賀大学で映画論を教えているようです。私たち団塊世代のすぐ下ですから、映画館全盛時代も味わっているはずです。
私の子どものころの映画館では、鞍馬天狗の嵐寛寿郎が馬を走らせて満員盛況の観客が総立ちとなり、一斉に拍手し、声援を天狗に送るのです。スクリーンの向こう側(といっても布一枚でしかありませんが…)と観客席が一体となって、興奮のるつぼに浸っていました。無事に悪漢たちから助け出すと、満足、満足、大満足の気分に浸って映画館をあとにしました。
『七人の侍』は、なんといってもピカイチの日本映画ですよね。あの雨中のなかの戦闘シーンといい、最後の平和な農村の田植え光景といい、一見すると、馬鹿で非力の農民たちが、実はたくましく生きのびる力を持っているなんて、いやはや、歴史を見る目を一変させますよね…。世界的にも評価が高い映画だというのは当然だと私も思います。
著者は、小津と原節子、溝口と田中絹代、木下と高峰秀子、そして黒澤と三船敏郎の関係を論じています。
小津安二郎と原節子は男と女の恋愛関係、しかし、忍ぶ恋のようなプラトニックな愛。溝口健二と田中絹代は溝口の片思いに終わった。木下恵介と高峰秀子は、お互いが引き寄せられた。黒澤明と三船敏郎は、男と男の関係で、反発しあいながらのものだった。
女優を美しく魅力的に撮るには、そこに尋常ならざる愛情・信頼関係が介在していたからにちがいない。
溝口健二は、役者の演技に対して、ただ「違います」としか言わない。何度やっても「違う」を繰り返すので、役者が切れると、溝口はこう言った。
「あなたは役者でしょ?それで給料をもらっているんでしょ?自分で考えなさい」
いやあ、こ、これは困りますよね…。役者は、一体どうしたらいいのでしょうか…。
でも、そう言われると役者は自分の頭で考えるしかありません。じっくり、人物の人となりを理解したうえで演じるしかない。そうすると、自然に役者としての腕前は上がってくる。うむむ、なるほど、そういうものなんでしょうね…。
高峰秀子は、どこか冷めていて、女優で食っているのに、どこかその女優という職業を軽蔑し、クールに見つめていたのではなかったか…。
木下恵介は『二十四の瞳』、『喜びも悲しみも幾歳月』を撮り、リリシズムあふれる叙情派の監督と思われがちだが、実はまったく正反対のリアリストだ。
逆に、黒澤明のほうが涙もろい、センチメンタリストだ。
木下恵介は、「女って面白いよね。自分でも意識してないで、非常に複雑なものを持っているでしょ。男だったら、腹の中なんて、たかが知れている」と言った。そして、黒澤明の「男って、みんな単純でしょ。バカじゃないかと思うくらい単純」だと評した。
ところが、黒澤明には、この単純さ、シンプルさがあったおかげで、国際的に受け入れられた。それに対して、木下恵介のほうは、外国人には分かりにくくて、日本の評価は高くても国際的には評価されなかった。うむむ、なーるほど、ですね…。
1998年9月6日、黒澤明が亡くなり、その葬儀の参列者は3万5千人。同年12月30日、木下恵介が86歳で亡くなり、翌1月8日の葬儀の参列者は600人。いやあ、こんなにも違うものなんですね…。
黒澤明は、世界のクロサワです。フランスでもロシアでも…。そんなことも知りました。映画愛好家の私には、たまらない文庫本でした。
(2021年6月刊。税込880円)

信長徹底解読

カテゴリー:日本史(戦国)

(霧山昴)
著者 堀 新、井上 泰至 、 出版 文学通信
信長が今川義元を討ち取った桶狭間(おけはざま)の戦いの実相が語られています。
この本の結論は、桶狭間での信長の劇的な勝利は、いくつかの偶然と、戦国武将の心性が原因だったというものです。それは、①義元が伊勢・志摩侵攻を目指していたこと、②信長は、今川の尾張素通りに激怒し、軍議もなく、突然に出陣したこと、③思いがけない信長の出陣に、義元は作戦を一時変更して鳴海城方面へ前進したこと、④信長は目前の今川軍を「くたびれた武者」と誤解したまま、家臣の制止をふり切って正面攻撃したこと。
つまり、天候の変化があったとしても、信長に計算された作戦はなく、戦国武将の心性にもとづく軍事行動が勝利を呼んだ。ということになっています。うむむ、そうだったのですか…。
義元は、このとき大高城下に武者千艘を終結させていたというのは初めて知りました。
そして、今川義元が京の貴族が乗るような「塗輿」を持参していたのは事実として認めながらも、それは京都で使うつもりのもので、ふだんの義元は乗馬していたのだろうとしています。なーるほど、です。
長篠の戦いで、信長が鉄砲三千挺を三弾撃ちで待ちかまえていたので、武田軍が惨敗したというのは、今の通説は、これを否定している。ただ、鉄砲勢が三段構えをすること自体はありえたのではないかと今でも主張する人はいますよね…。
この本では、信長も武田軍も、どちらも長篠の戦いで両軍激突というのは考えていなかったとしています。信長は大坂の本願寺との戦いを重視して兵力を温存したかった、というのです。
信長を知るためには、やはり安土城に行くしかありません。私は二度、行きました。ここに400年ほど前に信長が歩いていて、立っていたのかと思うと感慨深いものがありました。
信長の話は尽きません…。
(2020年7月刊。税込2970円)

酸素同位体比年輪年代法

カテゴリー:日本史(古代史)

(霧山昴)
著者 中塚 武 、 出版 同成社
酸素同位体比年輪年代法とは、年輪編の代わりに年輪の主成分であるセルロースにふくまれる酸素同位体比という科学的指標を測定して、その酸素同位体比の変動パターンを年代が既知の資料と未知の資料のあいだで比較するという手の込んだ方法。この方法は、パターン照合で年代を決定する作業において成功する確率が高く、あらゆる種類の年輪に等しく応用できる。そして、夏の気候の年々の変動にも精度よく復元できるというメリットがある。
この方法は2011年から日本では、弥生時代以降の、3000年間の遺跡や建築物の年代決定に応用され、急速に発展してきて、日本は、この分野で一人勝ちの状況になった。
今では、日本には過去3000年分のスギとヒノキの年輪幅のマスタークロノロジー(標準年輪曲線)ができあがっている。これは、世界でも抜きんでた研究の成果だ。
この方法は低コストで誤差なく年代が決定できる。この方法によると、年単位での年代決定が可能。
なぜ酸素なのか…。酸素の同位体比は、過去の気候変動を記録しやすい。水は気候変動の主役であること、酸素は必ずふくまれていることによる。
セルロースは、いったんなくなったら、二度と周囲の物質と交換しない。
ヒノキやスギ、マツなどは針葉樹。紀元前にさかのぼると、日本でも広葉樹が繁茂していた。シイ、カシ、クスノキ、クヌギ、クリ、ケヤキ、サクラなど…。針葉樹は、深い山の奥にはえていて、古代の人々には、切り倒して低地まで運び出すのが困難だった。広葉樹のほうは、低地の集落の周辺に生えていたので、利用するのに都合がよかった。
この方法による年代判定の結果が、文献史学や考古学的な推定と整合的であったことから、大きなスポットライトがあたった。分析コストも、非常に安いというメリットがある。
年輪によって建造年を安定しているというのは前から知っていましたが、今はもっと進んでいることを知ることができました。軍事方面でない、こちらの人類の発展史における学問の技術・向上には刮目(かつもく)されます。
(2021年6月刊。税込2970円)

監獄の回想

カテゴリー:アメリカ

(霧山昴)
著者 アレキサンダー・バークマン 、 出版 ぱる出版
19世紀末のアメリカ。労働者の要求が無慈悲な経営者たちによって無残にも暴力的に制圧されていた。ロシアで生まれ育ってアメリカに渡ってきた主人公の青年は、まだ2歳だった。アメリカで大きくなって無政府主義者になったのです。
この若者はピストルで経営者を襲った(死んではいないようです)。
取るに足らない虫けらにすぎないフリックを襲っただなんて…。
無政府主義者・アナキズムの信奉者だった学生が軟弱だとは思えないし、思わない。アナーキストの若者は法廷で弁護人による弁論は必要ないと言って断った。唯一の関心は、法廷で自分の所説を伝えること。もし弁護士が代弁したら、本人が自己の所説を展開できなくなる…。つまり、民衆に若者の行為(殺人には至っていません)の目的と状況を明らかにして伝えることにある。
「私が裁判にかけられていると見るのは間違っている。実際の被告は、社会である。不公平なシステム、組織的な民衆搾取のシステムを暴きたてたい」
近代資本主義において、民衆の真の敵は圧制ではなく、搾取である。圧制は搾取の侍女にすぎない。
この若者は主義として恩赦に反対した。若者は14年間も刑務所内に入っていました。
刑務所の房内で紙に書くのは困難を伴った。大量のメモ用紙が必要。そして、筆記用具を手に入れるのが大変。
19世紀末のアメリカの刑務所で検診の結果、収容者の4割が結核にかかっていて、20%を精神異常者が占めていた。
アナーキストの信念は14年間の刑務所生活を経ても変わらなかったというのです。すごいことですね。当時のアメリカの刑務所の実情を知ることができました。
(2020年12月刊。税込3080円)

ナチスが恐れた義足の女スパイ

カテゴリー:ヨーロッパ

(霧山昴)
著者 ソニア・パーネル 、 出版 中央公論新社
アメリカ人がイギリスに協力してナチス統治下のフランスに潜入してスパイとして大活躍していたという実録ものです。その名は、ヴァージニア・ホール。伝説の諜報部員ですし、戦後まで奇跡的に生きのびて栄誉も受けているのですが、一般に広く知られているとは言えません。それには、フランスのレジスタンス運動内部の対立、そしてイギリスから派遣された工作員同士でも、やっかみと足のひっぱりあいがあったことも影響しているようです。
スパイ(特殊工作員)として行動するには信頼できる協力者を獲得しなければいけませんが、信頼できる相手と思って頼っていると、ドイツ側との二重スパイだったりするのです。ほんのちょっとした油断が生命を失うことに直結してしまう、あまりに苛酷な世界です。フツーの人だったら、神経がすり減ってしまいます。
そして、スパイをして入手した情報をイギリスに報告できたとしても、その情報を受けとって評価し、対応する側がきちんとしないと意味がありません。たとえば、戦前の日本にナチス党員を装って潜入したソ連赤軍スパイのゾルゲの場合には、せっかくの貴重な情報をスターリンはあまり重視しなかったという話もあります。こうなると、まったく猫に小判ではありませんが、宝のもち腐れです。
でも、ヴァージニア・ホールの場合には、イギリスの特殊作戦執行部(SOE)からは、幸いにも高く評価され、求めた軍需物資やお金、そして薬などが大量に飛行機で運ばれフランスに投下されたとのこと。
そのとき一番必要なのは無線機でした。ですから、この無線機をめぐっては、、ナチス側も無線探知車を使って発信元を必死で探りあて、イギリスから送り込まれた多くの無線技士がナチスに捕まり、死に至ったそうです。
ヴァージニア・ホールがフランスに潜入した当時のフランスは、ドイツが北半分を占領したばかりで、フランス人はあきらめムード、そしてイギリスもどうせそのうちドイツに降伏するだろうという冷ややかなあきらめムード一杯で、とてもレジスタンスなんて無理という雰囲気だったとのこと。なるほど、ですね。フランスがドイツに占領された直後からフランス人がずっとずっとレジスタンスをしていたのではないようです。
フランスのある地方では、住民の少なくとも1割が直接ドイツのために働いていて、密告したらもらえる賞金(上限10万フラン)を得ようとレジスタンスの位置情報を売っていた。フランス解放のために命をかけようとする住民は、せいぜい2%しかいなかった。ところが、連合軍のノルマンディー上陸作戦が近づいたころになると、フランス全土で武器をもってレジスタンスが立ち上がっていた。やはり、そのときどきの情勢が、こんなに国民を動かすのに違いが出てくるのですね。今の日本をみていると、ナチス占領当初のフランスのように思えてなりません。やがて、日本だって、きっと多くの日本人が目をさまして立ち上がってくれるだろうと心から祈るように願っています。
秘密の生活を送るということは、一瞬たりともリラックスできないということであり、常にもっともらしい説明を考えていなければならなかった。生きのびた人々には、生まれながらの狡猾(こうかつ)さと、高度に発達した第六感が備わっていた。
ヴァージニア・ホールはモーザック収容所から12人もの収容者を脱走させることに成功しました。この収容所は私も行ったことのあるベルジュラック近郊にあるようです。私は、サンテミリオンのホテルに3泊したとき、かの有名なシラノ・べルジュラックの町へ列車に乗って出かけたのです。
収容所に差し入れたイワシの缶詰は、再利用可能な金属になる。ドアのカギの型をとるのには、パンを使う。車椅子の年老いた神父を慰問のため収容所に入れたとき、その神父は衣服の下に無線機(送信機)を入れて持ち込んだ。さらに、収容所の衛兵を買収し、また反ナチス運動にひっぱり込んだ。そして、最後はアルコールに睡眠薬を混入して、衛兵を眠り込ませ、ついに収容所から12人が脱走。もちろん、受け皿の隠れ家も用意していて、そこに2週間ほど潜伏したあと、無事に国外へ脱走できた。いやはや、たいしたものです。
ヴァージニア・ホールの最良の協力者の一人は、娼婦の館の経営者である女性でした。娼婦たちも、ナチス軍の情報を集めて協力したのです。残念ながら、これは、戦後、あまり評価されることはありませんでした。
370頁の大作をじっくり味わい尽くしました。それにしても、私にはスパイ稼業なんて、とてもつとまりそうにありません。拷問されたら、いちころで「転向」してしまうでしょうし、あれこれ「自白」してしまうでしょう。なので、必要以上のことは知らないようにしているつもりなのです…。
(2020年5月刊。税込2970円)

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