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サラ金の歴史

カテゴリー:社会

(霧山昴)
著者 小島 庸平 、 出版 中公新書
私が弁護士になって4年目ころから長く取り組んできたサラ金問題(やがてクレジットが主になりましたので、クレジット・サラ金問題、「クレサラ問題」と略称していました)が、今では戦後史の一つとして歴史問題になったんですね…、という感慨を込めて読みすすめました。
著者は1982年生まれの学者ですから、1985年9月(?)に福岡県大牟田市で全国クレジット・サラ金問題被害者交流集会が開催されたときは、まだ幼児だったのです。なので、クレサラ問題は自分の実感としてではなく、すべて活字による知識のようです。
しかし、そこは、さすが学者です。戦前には知人間の貸し付けでも意外な高利が動いていて、ちょっとした副収入になっていたというのを初めて知りました。同僚間での貸し借りに高利がついていたというわけです。
有名な賀川豊彦の『貧民心理の研究』(1915年)によると貧民街で、貧民への貸し付けが横行していたのでした。そして、それは、毎日返済する小口の日掛(ひがけ)金融だったのです。つい最近まで日掛けのヤミ金融が横行していましたが、今ではあまり聞きません。
そして、戦前、同僚に有利子でお金を貸すのは、当時のサラリーマンにちって、資産運用の有力な選択肢の一つだった。うひゃあ、それは知りませんでした。
40年ほど前、炭鉱を定年退職した人が、退職金を元手に小口金融を始めたけれど、たいていは失敗してしまったという話を聞かされました。失敗した理由は厳しい取立ができなかったからでした。血も涙もない取立ができないような心の優しい人は、借り主から踏み倒されるばかりだったというのです。
日本昼夜銀行というサラリーマン金融をしていた銀行があり、夜間に現金が入って来る商人や飲食店を取引相手としていた。
「昼夜銀行」なんて、ええっ、ウソでしょと、つい叫びたくなりますよね。戦前の話です。1943年に安田銀行に吸収合併されました。政府(大蔵省)は、1938年に庶民金庫を設立した。こちらは敗戦後の1949年に、国民金融公庫に再編された。
今も質屋はありますが、かつてのようにおカミさんが金策のために質物をもって駆け込む…なんて状況ではありませんよね。
家計のやりくりは妻の責任という夫、そして一般社会の「常識」から、妻は質物をもって質屋に駆け込んだのでした。もちろん、給料日になってお金が入れば、質物は受け出すのです。
サラ金の始まりは、団地金融でした。つまり、団地住民なら、一定の年収基準をみたしているはずなので、審査する必要がほとんどなく、その分、経費がかからないのです。
サラリーマン金融が始まったとき、団地金融でしていた自宅訪問はせず、勤務先が上場企業のときに限った。そして、団地金融でやられていた「現金の出前」はやらなくなった。
そして、「前向きな目的」のための借金申し込みに応じるようにした。たとえば、酒、マージャン、デートなどは、「健全資金」なのだ。
貸金業者については、貸すときの地蔵顔(エビス顔)、返すときのエンマ顔、という文句がある。
債務者に対して同情心や罪悪感を覚えるという人間的な心の動きは、債権回収業務にとってはノイズ(雑言)でしかない。顧客の自殺を「そんなことくらい」と片付けられる精神的な鈍感さが、債権回収の担当者には求められる。債務の返済に苦しむ顧客を自業自得であると決めつけ、「こいつら人生の負け組なんだ」と自らに言い聞かせる。そうすると、債務者を責め立てることには「面白味」さえ感じられるようになる。
朝から電話で督促するとき、ガンガン怒鳴りまくって、ストレスを発散させるという、いかにも非人間的な話を当時よく聞かされました。
サラ金業界は、被害者を増やしすぎたため、借金問題を扱う弁護士に安定した収入を与え、被害者運動を継続して支援することを可能にした。自己破産申立が有力な解決策となった。これは逆転の発想でした。
このころ、サラ金問題の第一人者は東京の木村晋介、大阪の木村達也という、二人の木村弁護士でした。そして、少し遅れて宇都宮健児弁護士が登場します。
この本に書かれていないことをあえて指摘すれば、クレサラ被害者へのカウンセリングの有効性を認めるかどうかで深刻かつ大激論があったこと、それは破産原因はすべて生活苦なのか、ギャンブル・浪費が借金の原因だったときにどうするのか、という問題と連動していました。著者には、このあたりの視点が残念ながら欠けているようです。とはいえ、大変よくまとめられていて、勉強になりました。
(2021年11月刊。税込1078円)

月と日の后

カテゴリー:日本史(平安)

(霧山昴)
著者 冲方 丁 、 出版 PHP
『蜻蛉日記』についての解説本を読んだ直後に読みましたので、平安時代の朝廷内のおどろおどろしい権力抗争の実情がよくよく伝わってきました。もちろん、この本は小説であって歴史書ではありません。それでも史実をきっちり踏まえて(と思います)、ストーリーが展開していくので、興味と関心は否応でも高まります。最後まで、なるほど藤原道長の娘(彰子)はそういう立場だったのか、その言動は理解できると思いながら一気に読了しました。
『蜻蛉日記』の著者は藤原兼家の妻(名前は分かりません)ですが、兼家は道長の父にあたります。その本には兼家と息子・道綱は登場しますが、道長はまだ出てきません。
藤原道長と言えば、次の和歌があまりにも有名です。
この世をば わが世とぞ思ふ 望月(もちづき)の欠けたることも なしと思へば
権力を一手に握った道長の自信満々の心境を表明したものと一般に受けとめられている和歌です。
ところが、道長の長女・彰子(しょうし。あきこ、とは読みません)によると、父の道長は、剛胆とはほど遠い、自分がたまさか勝ちえたものをいつか失うのではないかという不安を常にかかえている小心者なのだ。よく言えば分かりやすく、裏表のない人間。喜怒哀楽を臆面もなく周囲にあらわにする。豪放磊落(ごうほうらいらく)な人間と思われているが、それは調子の良いときのこと。実際には、ちょっとした病気にかかっただけで神経質になり、しばしば亡霊を見て、ふるえあがる。しかも、道長は病気がちで、病気を理由として出家を願い出ては、ときの一条天皇(上皇)からとめられていた…。
長女の彰子は一条天皇の中宮であり、次の後一条天皇の産みの母親、つまり太公太后(たいこうたいごう)である。
彰子の同母妹である次女の姸子(けんし)は、三条天皇の中宮。
さらに、同母妹である三女の威子(いし)は、甥である後一条天皇の中宮となり、皇后となった。このようにして、天皇の三代にわたって同じ家の娘が天皇の后(きさき)となったわけである。「一家三后」という空前絶後の偉業を道長はなしとげたのだった。
平安時代の女性の出家には2段階あった。髪を肩のあたりで切り落とし、童女のようなおかっぱ頭にするのが最初の段階だ。そして死期が近づいたりして、より深く法の道を進んで、安寧を得ようとするとき、完全に剃髪してしまう。いずれにしろ、出家して尼になるということは、男でも女でもなくなるということだ。
彰子の部下の女官として紫式部が召しかかえられました。彼女が『源氏物語』を制作する途上のことです。ところが、紫式部は偉大な読みものを書きましたとひけらかすこともありません。
道長は、長年、末弟として、兄たちから見くびられてきたせいか、威圧を巧妙に、また狡猾にやってのけた。その技のすごさで、朝廷で右に出る者はいない。
ほかにも和泉式部や赤染衛門(あかぞめえもん)という文才で名高い女性がいた。そして、清少納言も…。やがて彰子は紫式部から漢文の古典を学んでいくのです。
この当時は、懐妊と出産は、常に死と隣りあわせだった。実際、貴族の妻(娘)が出産のとき亡くなった実例はたくさんある。
そして、男性のほうも、病気のために若死する人が少なくなかった。まあ、それでも、なかには80歳くらいまで長生きして活躍する貴族もいるにはいたのです…。
病気といえば、道長のライバルの伊周も道長も飲水病(糖尿病)に苦しんでいたようです。
朝廷の内裏(だいり)は、朝廷一家の住居があったのですが、何回となく火災にあっています。それも失火だけでなく、放火もあっていて、むしろ、こちらのほうが多かったといいます。恐ろしい現実です。
さらには、政争で敗れて武士を雇えなくなった公卿の邸(やしき)を賊が襲撃することがしばしば起きていた。ひえーっ、恐ろしいことですね…。
彰子は12歳の若さで入内し、(朝廷に入り)、自ら教養を求めて仁政を知り、一条天皇への愛と、人一倍強い母性に目覚め、そして実際、2児の母ともなった。
道長が権勢を思いのままにするうえで、この先、もっとも障害となる可能性があるのは、実の娘である彰子その人である。天皇の産みの母親。すなわち、国母の発言を恐れるのは、宮中においては、むしろ正しい感性の持ち主だった。
朝廷は、血筋と現実的な実力の、折衷の場である。もし血筋のみを優先すれば、現実的な実力が抗い、相克(そうこく)の難事、怨みに満ちた応酬が始まる。
女房たちは、決して同情では動かない。あくまで打算で動く。計算して、誰につくかを決める。
天皇が、自分は天皇なのだから、なんであれ願えば通るはずではないか。なぜ反発するのだという態度をとったら、所卿から反発されるのは必至だ。
后(きさき)になるというのは、晴れ晴れしいようでいて、実態はその真逆といえるほどの受難の道である。甚大な期待ばかりを背負わされ、天皇の愛を受けられると信じ、そしてことごとく絶望する。多大な後援をし続けられるほどの実力者でない限り、娘を后にしようなどと思うべきではないのだ。さもなくば、娘を不幸のどん底に落とすだけだ。彰子は39歳で出家した。
いやあ、朝廷内の抗争、政争がどういうものなのか、初めて具体的に想像することができました。実力ある作家の想像力のすごさに完全脱帽です。
(2021年9月刊。税込2090円)

ぼくの昆虫学の先生たちへ

カテゴリー:生物

(霧山昴)
著者 今福 龍太 、 出版 筑摩書房
本の初めにカラー図版があります。写真だと思うと、そうではなく、著者が描いた昆虫の画(絵)でした。すごいです。写真より、はっきりしています。よく分かります。
「少年!」という響きが好きだ。いくつになっても…。誰でも少年に還(かえ)ることができる。自らの内にある少年を引っぱりだし、対話するためには、一つの隠された秘密のスイッチを入れる必要がある。
どんなスイッチなんでしょうかね…。私にとって昆虫と少年というのは、小学校低学年のころの記憶です。夏休みになると、ひとりで少し遠くのため池にザリガニ釣りに行っていました。トンボが飛んでいました。シオカラトンボ、ギンヤンマそしてオニヤンマです。トンボ捕りは難しくて、うまくいきませんでした。セミ捕りは簡単すぎて、あまり面白くありませんでした。わが家の前にある工業高校の広い校庭には雑草の生い茂る野原があり、そこには子どもたちの秘密基地をつくることができました。背の高いカヤに囲まれて、発見しにくい隠れ家でした。池にカエルたちがいて、ワラのストローをお尻に突き刺して思い切り息を吹き込み、カエルの腹をパンパンにふくらませて池に投げ込むと、カエルは腹を上にして水面でアップアップしていました。子どもたちの残酷な遊びです。ザリガニ釣りのときには、小さなカエルを捕まえると、地面に叩きつけ、両脚を割りさいて、その片方に糸をつけてザリガニ釣りをするのです。これが一番よく釣れました。まったく子どもは残酷です。カエルを殺すことに、まったく何のためらいもありませんでした。
小学生の頭は、とても単純だった。これは著者のコトバですが、まったくそのとおりです。何の疑いもなく、自分のために世の中すべてが動いていると考えていました。
著者の手本は熊田地下慕(ちかぼ)先生。私も、この熊田先生の絵に接して、その細密画というか、緻密で精確な昆虫の絵に接して驚嘆したことを覚えています。
蝶は音を出す。仲間に、その音を聴かせている。それを聞き分ける繊細な耳も持っているということ。
『どくとるマンボウ昆虫記』に、トンボがいたら、子どもたちは、追いかける。それが子どもであり、残された最後の本能というものだ、という文章があるとのこと。まったく、そのとおりですよね…。
トンボを見て、すぐにアミを持って追いかけようと思わなかったら、子どもではありません。なので、大人になってもアミを持ってトンボを追いかけようとする人がいて、何も不思議ではないのです。
それにしても、チョウ(キアゲハ)の幼虫を飼うため、スーパーのパセリを買って与えたところ、まもなく死んでしまったという話はショックでした。その原因は残留農薬のせいでした。いやあ、これって、恐ろしいことですよね…。
昆虫採集に没頭するのは、一人きりになりたいという激しい願望があったことにもある。ひとたび野原に出たら、蝶と自分とのあいだの関係は、誰も入り込むことはできない。昆虫採集は、原理的に、たった一人でしか成り立たない行為。つまり、それは豊かな孤独を条件として成立するもの、孤独を求める者こそが昆虫の世界に自然と引き寄せられてしまうのではないか…。
なーるほど、きっとそういうことなんでしょうね。だって、自然豊かな山林や山里って、蛇はいるし、クマもいて、蚊やブヨなど、不快いさせるものが周囲をぎっしり取り囲んでいるから…。それでも、みんな昆虫を求めて自然に入り込むのですよね…。大変勉強になりました。
(2021年7月刊。税込1870円)

中世の写本ができるまで

カテゴリー:ヨーロッパ

(霧山昴)
著者 クリストファー・デ・ハメル 、 出版 白水社
古代の写本は、もちろんパピルス。エジプト産の葦(あし)を原料としている。パピルスは製造費が安く、巻物の書写材には適していたが、冊子の形態にとじられたテキストには不向きだった。
紙は中国で2世紀に発明された。これが千年もかけてゆっくりとアラブ世界を経由して西洋に到達した。13世紀にスペインとイタリアに本格的な製紙場ができ、フランスには14世紀(1340年ころ)、ドイツでも1490年までに普及した。イングランドはさらに遅く、15世紀後半。
印刷術の発明は1450年ころのこと。それまでは写本である。1100年ころまでは大部分の書物は修道士が手がけ、1200年以降は、ほとんどが修道院から離れて独自に製作されるようになった。
洋皮紙は動物の皮からつくられる。成長した牛の皮は分厚くて、使えない。子牛または若い雄牛の皮を原料としている。
洋皮紙をつくるのは手間ひまのかかる込み入った工程だ。動物の原皮を、石灰水の入った木か石の水槽に3日ないし10日間浸けて(冬場はもっと長い)、1日に何度か木の棒で水槽をよくかき混ぜる。そのあと、持参した弓形のナイフで毛をこすり取る。脱毛したあとの生皮はさらに2日間も水に浸け、ようやく木枠に張り伸ばす。洋皮紙は並はずれて耐久性に富み、保存状態がよければ、千年ないしそれ以上も長持ちする。これに対して、中世の紙は亜麻のぼろ布からつくられていた。
写本とは、手で書かれたもの。ガチョウの風切羽のうちから、羽根ペンをつくる。これがもっとも筆写に適していた。羽根ペンは、ペン先にインクをつけながら使う。
製本するのは書籍商。書籍商は、写本制作の注文を受け、折丁をその町の複数の写本画家にふり分ける。
中世につくられた写本は、いまなお数万冊が現存している。
洋皮紙が誕生するまで、また、そのつくり方がたくさんの現物の写真とともに詳しく紹介されていて、目を見開かされました。
(2021年8月刊。税込4950円)

シルクロードとローマ帝国の興亡

カテゴリー:ヨーロッパ

(霧山昴)
著者 井上 文則 、 出版 文春新書
ローマ帝国にとって、シルクロード交易のメインルートは陸路ではなく、海路だった。海のシルクロードが活躍していた。
いやあ、これには驚きました。もちろん陸路のシルクロードがあったことは間違いありません。しかし、大規模交易は陸路ではなく、海路だったというのです。ローマからインドへ行くのにも、陸路ではなく海路のほうが大規模交易に向いていた。なるほど、そうなんですね…。
交易品のリスト。布類とガラス器、金属、金属加工品、ローマの貨幣(金・銀・銅)、ブドー酒、オリーブ油など…。ガラス器はローマ帝国の特産品だった。ブドー(葡萄)酒もローマ帝国を代表する輸出品だった。当時の葡萄酒は今のワインとはかなり異なっていて、アルコール度は高く、たいてい水で割って飲み、蜂蜜や香料を加えていた。
地中海で揺れていた珊瑚も輸出品だった。乳香は、樹木の樹液の塊で、半透明の乳白色をしていた。加熱すると、香気を発する薬種としても用いられた。没薬は、同じく樹木の樹液が固まったもので、色は黄赤褐色。絹はぜいたくの象徴であり、価格は非常に高かった。
ローマ帝国は交易について、25%もの高額の関税をかけていたので、交易が盛んになればなるほど、関税収入が増え、帝国はもうかる仕組みになっていた。
ローマ帝国の国家予算は、軍事費が6~7億セステルティウスだったので、関税収入が4億セステルティウスだと、軍事費の大半がまかなえたことになる。
ローマ帝国の繁栄とは、都市の繁栄にほかならなかった。そして、都市の自治に関わる役職は無給でしかなかった。
ローマ帝国は、紅海に艦隊も配備していた。
ローマのシルクロード交易は、1世紀の後半にピークを達し、五賢帝時代の始まる5世紀末には早くも衰退しはじめていた。
中国人がローマ帝国について、「大秦国」と呼んだのは、「多くの中国人にとって、山の向こうに自分たちと同じような世界があると信じていたが、そのローマ人は背が高いと聞いて、背の高い自分たちと同じ中国人の国」という意味で「大秦国」と呼んでいた。
このころ、西方は東方より貧しかった。東方の諸地域は古くから文明が栄えていた。
ホント、世の中は知らないことだらけですね。
(2021年8月刊。税込935円)

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