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シルクロードとローマ帝国の興亡

カテゴリー:ヨーロッパ

(霧山昴)
著者 井上 文則 、 出版 文春新書
ローマ帝国にとって、シルクロード交易のメインルートは陸路ではなく、海路だった。海のシルクロードが活躍していた。
いやあ、これには驚きました。もちろん陸路のシルクロードがあったことは間違いありません。しかし、大規模交易は陸路ではなく、海路だったというのです。ローマからインドへ行くのにも、陸路ではなく海路のほうが大規模交易に向いていた。なるほど、そうなんですね…。
交易品のリスト。布類とガラス器、金属、金属加工品、ローマの貨幣(金・銀・銅)、ブドー酒、オリーブ油など…。ガラス器はローマ帝国の特産品だった。ブドー(葡萄)酒もローマ帝国を代表する輸出品だった。当時の葡萄酒は今のワインとはかなり異なっていて、アルコール度は高く、たいてい水で割って飲み、蜂蜜や香料を加えていた。
地中海で揺れていた珊瑚も輸出品だった。乳香は、樹木の樹液の塊で、半透明の乳白色をしていた。加熱すると、香気を発する薬種としても用いられた。没薬は、同じく樹木の樹液が固まったもので、色は黄赤褐色。絹はぜいたくの象徴であり、価格は非常に高かった。
ローマ帝国は交易について、25%もの高額の関税をかけていたので、交易が盛んになればなるほど、関税収入が増え、帝国はもうかる仕組みになっていた。
ローマ帝国の国家予算は、軍事費が6~7億セステルティウスだったので、関税収入が4億セステルティウスだと、軍事費の大半がまかなえたことになる。
ローマ帝国の繁栄とは、都市の繁栄にほかならなかった。そして、都市の自治に関わる役職は無給でしかなかった。
ローマ帝国は、紅海に艦隊も配備していた。
ローマのシルクロード交易は、1世紀の後半にピークを達し、五賢帝時代の始まる5世紀末には早くも衰退しはじめていた。
中国人がローマ帝国について、「大秦国」と呼んだのは、「多くの中国人にとって、山の向こうに自分たちと同じような世界があると信じていたが、そのローマ人は背が高いと聞いて、背の高い自分たちと同じ中国人の国」という意味で「大秦国」と呼んでいた。
このころ、西方は東方より貧しかった。東方の諸地域は古くから文明が栄えていた。
ホント、世の中は知らないことだらけですね。
(2021年8月刊。税込935円)

恵比寿屋喜兵衛手控え

カテゴリー:日本史(江戸)

(霧山昴)
著者 佐藤 雅美 、 出版 講談社文庫
1994年の第110回直木賞受賞作です。27年も前の本を今ごろ読んだ理由(わけ)は、先ごろ江戸時代の公事師(くじし)は江戸の訴訟で重要な役割を果たしていたことを各種文献によって私が論証したのを読んだ弁護士仲間から、この本を紹介されたからです。うかつでした。公事師の活動状況が、こんなに見事に小説になっているなんて、まったく知りませんでした。
公事師は刑事裁判にも関わりますが、基本は民事裁判です。といっても、この小説もそうですが、江戸時代の裁判は民事と刑事が混然一体となっているところがありました。もちろん奉行所はどちらも扱えます。
裁判は、手付金返還請求の被告とされた人の弟が公事宿(くじやど)に駆け込んでくるところから始まります。なので、純然たる民事訴訟のはずで、奉行所は証文を当事者双方に出させて、口頭で双方を審問します。公事宿の主人(公事師)はその場に立会していますが、代理人ではありませんので、代弁はしません。
被告として受けて立ち、裁判を争いたいという「六助」に宿の主人は、裁判にはお金がかかることをじっくり説明した。ところが、「六助」は、それでもいいと言いはった。
「御白州(おしらす。裁判所)では、間違っても小賢(こざか)しく振る舞ってはいけない。公事訴訟にはまったくもって詳しくない。見てのとおりの田舎者。と、むしろ愚直をよそおうのがいい。賢くはないが、頑固一徹者、という印象を与えられたら、なおいい」
これって、今の裁判にも十分通用する注意です。
公事買(くじかい)といって、買ってまで公事訴訟をおこす、公事になれた家主が江戸には少なくなかった。
そうなんですね、昔から日本人は裁判が好きだったんです…。
金公事(かねくじ。金銭貸借を扱う裁判)は、役人が当事者を脅かしたりすかしたりしているうちに、なんとなく内済(ないさい。和解・示談)の方向へ話がすすんでいく。そして、金銭支払いのときは、無利息・長期月賦の「切金(きりがね)」を利用することで決着が図られることが少なくなかった。これを歓迎する人も、もちろんいるが、庶民には不評だった。
この本では、旅人宿と百姓宿とがニラミあっていて、お互いに先方の縄張りに浸食しようとして、しのぎを削っている様子も描かれています。
あと、この本が読ませるのは、公事宿の主人が、自らの妻が病床にいるあいだに、妾を囲って子を産ませ、そのことを気に病んでいる、といった心理描写も出てくるところにあります。
まことに幅の広い、そして奥の深い人間観察をふくむ、公事師が大活躍する人情話でもある文庫本です。あなたもぜひ、ご一読ください。
(2019年9月刊。税込713円)

ダチョウはアホだが役に立つ

カテゴリー:生物

(霧山昴)
著者 塚本 康浩 、 出版 幻冬舎
ダチョウとつきあって24年。ダチョウ博士は、今や大学(京都府立大学)の学長。そんな著者による面白くて、ためになるダチョウの話です。いやあ、すごい鳥なんですね…。
ダチョウという鳥はびっくりするほどのアホ。重傷を負っても気にしないくらい鈍感(回復するのが早い)。自分の家族は一瞬で分からなくなる。どれだけ世話しても人間の顔は覚えられない。おまけに気が荒くて、原因不明でキレてしまう。ダチョウの行動には規則性がないという規則がある。
ところが、そんなダチョウが人間には大変役に立つ。ダチョウには並外れた免疫力があり、花粉症やアトピー、そしてインフルエンザからコロナまで、いろんな感染症から人を守ってくれる。
ダチョウの体重はメスが120キロ、オスは160キロ。身長は2メートル50センチ。大きいダチョウだと体重200キロ、身長3メートルにもなる。
走る速さは時速60キロ、しかも、30分間も走ることができる。
ダチョウは瞬発力と持久力を両方もっている。筋肉が特殊で、血液中のへもグラビンの量が多い。ダチョウは1.5メートルの高さの柵も飛びこえる。足のキック力はひと蹴り4トンの力。
ダチョウは草食だが、ときにヘビの死骸や昆虫も食べる。土を食べてミネラル類を補給している。もやしを4キロ食べても、出すウンチは、わずか200グラム。ほとんど消化吸収してしまう。
視力は良い。眼球の直径は5センチで、重さ60グラム。10キロ先まで見える。40メートル先のアリも識別する。ところが脳のほうは目玉よりも小さく、なんと40グラムしかない。シワはほとんどなく、ツルツル。なので、アホなのでしょう。自分の家族まで見分けられないというのですから、あきれてしまいます。
ダチョウの目ん玉、そして涙は甘い。ムコ多糖がとても多いから。
ダチョウの卵は、重さが1,5キロから2キロもあり、殻の厚さは3~4ミリ。硬くて頑丈。
健康なメスは、春から秋にかけての半年で100個は生む。
コロナ禍のもと、ダチョウ抗体製品の需要が増えて、9000万枚のマスクが売れ、今や700億円もの経済効果がある。ダチョウの卵から取り出す抗体は質が良い。卵1個から抗体が4グラムとれ、これで8万枚のマスクがつくれる。注射してわずか2週間で卵に抗体が出きる。
薄毛に悩む人の6割にこのダチョウの抗体は効果がある。私にも効くのでしょうか…。
ダチョウ抗体は、経口で服用しても、胃酸でやられることはなく、腸まで届く。
いま、日本で500羽、アメリカのアリゾナに3000羽のダチョウが飼われている。
今や大学の学長をしている著者が小学生のころ不登校児だったというのにも驚きました。学校に行かず、鳥の世話をし、解剖までしていたそうです。よほど心の広い両親だったのでしょう…。子ども時代は不登校で、まわりからアホと思われていた少年が、こんな立派な研究者になっているなんて、世の中は本当に不思議なことだらけですよね…。悩める人には必読の本ですよ。
(2021年7月刊。税込1540円)

室町は今日もハードボイルド

カテゴリー:日本史(室町)

(霧山昴)
著者 清水 克行 、 出版 新潮社
「日本人は温和」なんて、大嘘。これが本のオビに書かれています。むしろ、日本人は昔から好戦民族だったのです。
戦後76年間、一度も日本人が戦争していないなんて、過去の歴史からすると、泰平の江戸時代に匹敵するほどの大事件なのです。
室町時代の日本なんて、それこそ武力=暴力をもっている人間がまかり通っていたのでした。
「士農工商」は、中国の古典に由来する言葉で、あらゆる職業の人とか全国民という意味。その順番には、何の上下関係もない。江戸幕府が成立する前からある言葉であって、江戸幕府の政策スローガンというものでもない。私も、このことはごく最近になって知りました。
鎌倉時代150年間のうちに、年号は、なんと48回も変わった。ほぼ3年に1回の割合で改元された。甲子園球場の「甲子」は、1924年に出来たということ。
天皇の在位と年号を一体化させた近代(明治以降)は、決して一般的なものではない。年号には、「時間のものさし」としては期待されず、むしろ世の中がリセットされたことを世間に示す「厄払い」の意味でしかなかった。
世の中、知らないことが多いものです。とりわけ、明治以降の日本を江戸時代より前と同じものだと考えると、まったく間違ってしまいます。その勘違いをしている最大集団の代表が自民党の国会議員団です。江戸時代まで、女性は嫁に入っても自分の姓を変えることはなく、死んだあとに入る墓も実家のそれだったのです。知らないということは恐ろしいことです。
(2021年7月刊。税込1540円)

彭明敏

カテゴリー:アジア

(霧山昴)
著者 近藤 伸二 、 出版 白水社
蒋介石と闘った台湾人というサブタイトルがついています。
失礼ながら、私は、彭明敏という人を知りませんでした。台湾政府のトップになった李登輝と同じ年に生まれ、彭は東京帝国大学、李は京都帝国大学に学び、いずれも日本敗戦後に台湾に戻って台湾大学に編入します。
彭は国際的に名の知れた法学者となったが、李が国民党政権の内部に入って出世し、ついにトップにのぼりつめたのとは対照的に、彭のほうは国民党の独裁体制を厳しく批判し、ついに反乱罪容疑で逮捕された。特赦を受けて自宅に戻ってからも軟禁生活が続いたが、厳重な監視の目をかいくぐって1970年に海外へ脱出し、長くアメリカで台湾の民主化を独立運動にうち込んだ。
そして、ようやく1992年に、22年ぶりに台湾に帰国し、4年後、初めての総統直接選挙で民進党の候補者として国民党現職の李登輝とたたかい、一敗地にまみれた。
この本は、彭への膨大なインタビューをもとにしたもので、1970年の海外脱出の実情が語られていて興味をひきます。
自宅軟禁のとき、24時間体制の監視は三交代制だったが、深夜から早朝にかけては監視員が現場を離れることが多かった。共同通信の横堀洋一記者は、特務にチェックされることなく彭宅に入り込みインタビューした。脱出計画の資金200万円は、東京で病院を開設していた台湾人医師がカンパした。
当時のパスポートは、顔写真が直接印画されているものではなく、紙の写真を張りつけて上から割印を押すものなので、割印さえ偽造できれば、写真を貼り変えて完成する。彭の体型に近い日本人Aを見つけ、彭の変装した顔写真に似せたパスポートを取得する。
日本人A役の日本人を探すのに難航するかと心配していると、ちょうど、南米から帰国した日本人(阿部賢一)が事情を知って引き受けてくれた。海外旅行に慣れていて、勇気があって口が堅い人物にぴったりだった。
自宅にいる彭は、特務の目をくらますため、ひげを伸ばし放題にしたり、坊主頭にしたりと、次々に外見を変えた。
また、1ヶ月間は、日中は外出せず、家にこもった。
どうやって日本人Aが日本からもちこんだパスポートを彭に渡すのか、連絡のための暗号も12種類も用意した。
アメリカのアグニュー副大統領が台湾に来る日程にあわせたので、警備はそちらに関心が向いていた。左腕がない彭は、三角巾で左腕をつっているように見せかけた。
そして、香港行きの飛行機についに乗り込むことに成功した。失敗したときには闇に葬られる危険があったので、目撃者も同じ飛行機に乗っていた。
成功率は50%。失敗したら生命はないと彭は覚悟していた。
結局、彭の向かった先はスウェーデンでした。ベトナム反戦運動のなかで「べ平連」の人たちが脱走したアメリカ兵を贈り届けたのもスウェーデンでしたよね。
台湾当局は、彭が脱走してから3週間もそれを知らずに自宅の監視を続けていた。彭の脱出成功は国際的にビッグニュースとなり、台湾の国民政権は面目を失ってしまった。
彭の脱出については、アメリカのCIAが関与したという説が有力だったようですが、実際にはCIAの関与はなく、日本人をふくめてごく少数の有志による計画と実行だったのです。すごいことです。
それでも、彭は22年間のアメリカ滞在中、台湾当局によって暗殺される心配をしていたそうです。もちろん、これは現実的な危険でした。
台湾民主化運動において彭の果たした大きな役割の紹介は、申し訳ありませんが、割愛します。
(2021年5月刊。税込2750円)

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