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夫婦別姓

カテゴリー:社会

(霧山昴)
著者 栗田 路子ほか 、 出版 ちくま新書
夫婦同姓が法律で強制されているのは、世界中で日本だけ。あきれたことに自民党のなかに強硬に反対する議員がまだいます。今では自民党のなかでも少数になっているのに声高に叫びたて続けて、選択的夫婦別姓制度の実現を妨害しているのです。
彼(彼女)らは、夫婦同姓の日本古来の伝統のように言うことがありますが、日本も江戸時代までは夫婦別姓でした。明治になって、旧民法が夫婦同姓を義務づけて出来あがった「伝統」にすぎません。これって、日本に女性天皇がいなかったかのように言っているのと同じで、まったくの間違い、俗説にすぎません。
この本は、韓国・中国といった昔から今も夫婦別姓の国だけでなく、イギリス、フランス、ドイツ、ベルギーについても夫婦別姓のさまざまなパターンを紹介しています。要するに、夫婦とか家庭といったものは、ペーパー(形式)ではなく、生身の人間の結合だということ、そして、それはさまざまなパターンで(違い)があるということだと思います。
イギリスは、姓も名前も自由に変えることができる。そして、改名の理由を明らかにする必要はないし、変えたことを公式に登録する義務はなく、あくまで任意。
イギリスでは、結婚して10年内に4割近くが離婚する。そして全国2000万のファミリーのうち、結婚しているのは67%で、年々減り続けている。4割近くが事実婚。
フランスでは、出生したときに出生証明書に登録された姓名が一生を通じてその人の法律上の本姓名。ただ、夫の姓を通称としている既婚女性が圧倒的に多い。子どもの姓は父親の姓とするのが多数派。
ドイツも、しばらく前まで夫婦同姓が法律で定められていたが、現在は、同姓、別姓、片方だけが連結姓という三つの選択肢がある。男性の9割が結婚しても姓を変えておらず、女性の8割は姓を変えている。子どもの姓は生まれた時点で、どちらの姓にするか決める。ドイツでは親と子で姓が違うのは珍しくないので、学校などで奇異な目で見られることがない。
ドイツでは、離婚するには少なくとも1年間の別居が必要であり、どちらかが裁判所に離婚を請求したら必ず離婚になる。また、離婚するのに、理由は問われない。なお、浮気があったとき、その人やその相手に慰謝料を請求するのも認められない。これは、大人なのだから、結婚生活破綻の原因はどちらにもあるという考え方から。
ベルギーでは、婚姻は個人の姓名に何の影響も与えない。
いやはや、家族というものは実質も形式も、どんどん変化していることがよく分かる本でもありました。日本でも夫婦別姓にしたいと思う人がいたら、好きにしていいですよという制度を早く実現したいものです。それで被害を受ける人なんて、誰もいないのですからね。自民党の一部議員の皆さんは、世界に目を見開いて真剣に反省してほしいです。
(2021年11月刊。税込1034円)

柳河藩の政治と社会

カテゴリー:日本史(江戸)

(霧山昴)
著者 白石 直樹 、 出版 柳川市
柳河藩がどういう藩なのか、初めてその全体像を知ることができました。大変詳細なのですが、読みやすい文章になっていて、すいすいと読みすすめることができました。この本には、知らなかったことがたくさんあると同時にいくつも驚かされました。
その第一が、藩主すりかえ作戦に成功したということです。鑑広が8歳(幕府には12歳と届けた)で藩主となったものの、わずか3年後、11歳で病死してしまった。大名当主が17歳未満の場合には養子が認められなかったので、幕府に藩主の死亡を届けたら、お家断絶になってしまう。そこで、藩主の鑑広は生きていることにして身替りを立てることになった。誰を身替りに立てるかでいくつか案を検討したが、結局、鑑広の弟・保次郎(5歳)を鑑広に仕立てあげることになった。中継ぎで藩士の誰かを立てたとき、もしもその藩士に子どもが出来たら、その母親が藩主だと主張する危険もあり、ともかく弟の保次郎を身替りでいくことにした。ただ、保次郎まで17歳になる前に死んだらどうするのかという心配があった。幸いにも保次郎は若死しなかった。
いやあ、そんなことまでしたのですね…。藩主の顔が広く知られていなかったというのが作戦成功の前提だったのでしょう。
柳河藩の財政状態はずっと苦しかったようです。七代藩主鑑通のとき、藩主の主導で藩財政を改革し、立て直すことを宣言した。これは、逆に家老・奉行たちから意見書が出されたことへの対抗策でもあった。鑑通は、財政難は家老や奉行、役人たちの「不埒(ふらち)」に起因していると考えていた。たとえば、さまざまな名目で年貢が納められていない土地があるのをやめさせようとした。そして、これは、鑑通が藩財政再建で頼りにした大坂の大名貸・加島屋(かじまや)の要求によるものだった。加島屋は蔵元就任の条件として、藩財政の改善を要求し、鑑通はこれを承諾したのだった。
大名貸の茨木屋が柳河藩へ貸し付けた金員の返済を求めて、柳河藩の大庄屋8人を相手どって大坂町奉行所に訴え出たというケースも面白いです。
茨木屋が貸し付けた相手はあくまで柳河藩。しかし、借用証文に大庄屋8人が名を連ねていたので、大庄屋を被告として訴え出た。ところが、大坂町奉行は、大庄屋たちを大坂まで呼びつけておきながらも、審理を開かないまま、茨木屋の訴を却下した。それは、武士身分者の金公事(かねくじ。金銭貸借訴訟)についての裁判権はないという理由だった。柳河藩は訴訟を回避すべく大庄屋は藩士であるとして、帯刀を認めていた。
ところが、茨木屋はあきらめず、今度は、江戸の幕府寺社奉行に提訴した。茨木屋は、柳河藩が茨木屋に返済すべき米(または銀)を大庄屋たちが横領していると新しく主張した。評定所で審理されたが、この評定には、町奉行大岡忠相も出席している。評定所では、茨木屋からの借銀の主体は大庄屋なのか柳河藩なのか、大庄屋とは農民の代表ではないのかという2点が主たる争点となった。
評定所は即日結審し、大庄屋による横領の事実は認められないとして、茨木屋の訴えはまたもや却下された。ただし、滞っている返済金は多額なので、柳河藩は茨木屋が納得する返済方法を協議するよう勧告された。そこで、柳河藩は茨木屋に対して年賦返済をすることになったようで、享保10年冬から返済しはじめた。
このように大名貸は、藩側が返済しないときには控訴も辞さないという事実が、その後の大名貸との関係で教訓となった。
柳河藩では、久留米藩で起きたような大規模な一揆は起きていない。ただ、上内村(大牟田市上内。かみうち)の農民600人が熊本藩領南関へ逃散するという事件が起きた。享保13(1728)年11月のこと。村役人が高い年貢をかけたことへの反発を理由としたもののようだが、幕府の老中や勘定奉行の介入もあり、結局、逃散した農民たちは全員、帰村した。その処分として、村役人のほうは家財を没収したうえ領外へ追放、頭取の百姓12人は死罪、頭取同然の者13人は没収・追放という厳しいものだった。
享保17(1732)年に始まる飢饉によって餓死者が1000人ほども出た。病死者も同数ほどいたので、藩としての対策がとられた。藩は領内の「極難者」が4千人以上いるとみていた。こんなときには、村内の富裕者が米などを拠出して困窮者に対して施行していた。
400頁以上もある大作ですが、休日にじっくり読み、大変勉強になりました。
(2021年3月刊。税込1500円)
日曜日に孫たちに手伝ってもらってジャガイモを植えつけました。メークイン、男爵、キタアカリそしてアンデスの乙女です。6月に収穫できるはずです。
 コロナ第6波の急速な感染の広がりに、恐れおののいています。学校や保育園で閉鎖も増えているようです。PCR検査が十分でないとか、検査キットが払底してしまったなど、政府の無策ぶりに怒りを覚えます。「中国の脅威」に備えて軍事予算を増大させていますが、国民の健康を守るのが先決です。

五・一五事件

カテゴリー:日本史(戦前・戦中)

(霧山昴)
著者 小山 俊樹 、 出版 中公新書
久しぶりに五・一五事件について書かれたものを読んで、いくつも新鮮な驚きがありました。五・一五事件が起きたのは1932(昭和7)年。「イクサになるか、五・一五」として年号を暗記しました。二・二六事件は1936(昭和11)年。「ひどく寒い日の二・二六」です。
五・一五事件には海軍将校グループと陸軍士官候補生だけで、陸軍の青年将校は一人も参加していないのですね。
五・一五事件のとき、チャーリー・チャップリンが来日中であり、首相官邸にチャップリンが訪問する予定だったのに、チャップリンが急に気が変わって遭難を免れたというのは知っていました。この本によると、首相官邸を襲撃するのを5月15日に設定したのは、チャップリンがこの日、首相官邸での歓迎会に出席するとの新聞記事を読んだからとのこと。15日は日曜日なので、休日に海軍将校が外出しても怪しまれないからだったのです。
なぜ犬養(いぬかい)毅首相が狙われたのか。それは、犬養首相個人の言動から来る個人的な怨恨ではなく、あくまで権力の象徴として打倒された。この計画は犬養首相が誕生する前からあったことから明らか。
首相官邸にいた犬養首相は銃を向ける海軍将校たちに向かって、「そう騒がんでも、静かに話せばわかるじゃないか」と言った。そして「話せばわかる。話せばわかる」と繰り返した。そして座って「まあ、話を聞こう」と言った。これに対して、「問答無益、撃て」と叫んで、黒岩と三上の二人が犬養首相の頭を狙って銃弾を撃ち込んだ。犬養首相は即死したのではなく、夜、容態が急変して死亡した。
五・一五事件の犯人たちの裁判は日本中から注目され、減軽嘆願書が殺到した。
被告人となった海軍将校たちは、海軍服を新調してもらって法廷にのぞんだ。逆に襲撃を受けた被害者であるはずの犬養家が、かえって世間から糾弾された。
被告人たちは「英雄」となり、事件は「義挙」となり、人々は被告人の供述に「涙」した。
報道はそのようにエスカレートしていった。犯人の海軍中尉たちは死刑を求刑されたのに、判決では禁固15年。そして、実際には、6年で仮出所している。
軍法会議における被告たちの主張は、「私心なき青年の純真」というイメージとして流された。「政党による軍部の圧迫」、「政党・財閥ら支配層の腐敗」、「農村の窮乏」。いわば軍を圧迫する腐敗した支配層、政党・財閥などの既得権益層に向けた「欠席裁判」として、軍法会議が利用されたのでした。
今の自衛隊の上層部と同じで、昔の陸海軍の上層部は、まさしく腐敗した支配層・既得権益層を構成していたのですが、そこには、もちろんメスが入りませんでした。
他にも、なぜ五・一五事件のあと政党政治がほろびたのか、など大切な視点があり、とても勉強になりました。
(2020年4月刊。税込990円)

本能

カテゴリー:生物

(霧山昴)
著者 小原 嘉明 、 出版 中公新書
きれいな花に成りすまして、ハチやチョウなどの昆虫をおびき寄せ、これをまんまと仕留めて食べるハナカミキリ。メスを装って騙し、生殖相手のメスを横取りするサケのオス。何千キロにも及ぶ長距離を、羅針盤を用いることなく飛び続けて目的地にたどり着く渡り鳥…。こんな超能力を動物たちは、いったい、どうやって身につけたのだろうか。それが本能…。
でも、本能とは、いったい何なのか…。
キタオポッサムやアカシカのメスは、体調がいいときには息子を多く産む。
アカゲザルのメスは、メスだけから成る母系社会を形成している。そして、社会的順位の高いメスはメスの子を、逆に社会的順位の低いメスはオスの子をより多く産む。それがそれぞれのメスの繁殖にとって有益。上位のメスの高い地位を引き継ぐのは、母系社会ではメスの子だから。
マダラキリギリスは、2桁の種類のセミのメスに成りすまし、近寄ってきたセミを肢で捕まえて食べる。一度も遭遇したことがない種のセミのメスも模倣する。いやあ、不思議ですよね…。
シロアリは排泄物を室内に積み上げる。すると、それに含まれていた共生菌が排泄物を栄養源にして生長し、キノコが育つ。シロアリは、このキノコを食べ、キノコの上に排泄物を積み上げる。これが再びキノコの生長に利用される。シロアリは、これを繰り返して、キノコを持続的に栽培している。これに似ているのが、ハキリアリ。
ワタリガラスは、エサを隠して貯め込む。しかし、仲間が近くにいるときには、仲間に対する警戒心から、貯蔵するエサが少ない。
ヨーロッパにすむスゲヨシキリのオスは、さえずりでメスにアピールする。さえずりのレパートリー数が多いオスほど、メスを強く惹きつけてつがいを形成する。
セアカゴケグモは、オスがメスに比べて、とても小さい。体重は256ミリグラムなのに対して、オスは、なんと4ミリグラムしかない。オスは、チャンスをとらえてメスの腹部に取りつき、メスの精子受容器官の中に差し込んで精子をメスに送り込む。そのあと、オスは、「でんぐり返し」をして、メスの口の中に投身自殺する。メスは、もちろん、このオスを食べてしまう。メスは、オスを食べたあとは、ほとんど再交尾しないので、オスは自死によって自分の子を確実に残すことができる。うむむ、なんということか…。
アオガラは、表面上は一夫一妻で繁殖する。しかし、実のところ、メスが産む子の中には夫以外のオスの子が含まれていることがある。これはDNA検査で判明したこと。
ウズラのメスは、一緒に育ったオスには関心を示さない。近親交配を避けているということ。
シジュウカラのメスは、オスのさえずりを手がかりとして、生殖相手として近親者を避けている。つまり、昔聞いた父親のさえずりに似たさえずりをするオスを避けている。
両親から受け継いだ46本の染色体に含まれるDNAの長さは約2メートル。人体を構成する細胞30兆個以上のすべての細胞に、この2メートルのDNAが格納されている。
本能とは、行動にかかわる組織や器官が、経験に依存することなしに適切に発生し、適切に機能して発現する行動と定義される。つまり、経験がかかわっていたら本能ではない。それは学者効果があがっているということ。
男が好む女は、細いウエストと大きめのヒップ。くびれたウエストは、女が妊娠していないか処女だと思わせる。女は男ほど肉体的特徴を問題にしない。女が好む男は、平均して3歳だけ年上。
女子学生は、自分のタイプと異なる体臭の男子に好感を抱く。それは近親交配の回避の意味がある。
まことに本能とは、いかにも摩訶不思議なものですよね…。
(2021年8月刊。税込946円)

かこさとしと紙芝居

カテゴリー:人間

(霧山昴)
著者 かこさとし、鈴木万里 、 出版 童心社
私は大学生時代の3年間ほど、川崎市幸区古市場でセツルメント活動にうち込んでいました。1967年4月に入学し、1970年9月ころまでのことです。著者のかこさとしは同じ古市場のセツルメント子ども会の大先輩のセツラーだということは聞いていました。
かこさとしは1970年まで現役のセツラーとして活動していたとなっていますが、私は同じ古市場でも子ども会ではなく、青年部に所属していましたので残念ながらまったく接点はありませんでした。そして、学生時代はかこさとしの絵本にも紙芝居にも縁がなかったのです。
かこさとしの絵本は、私が結婚し、子どもたちが保育園児となり、小学校低学年まで、よく読んでやりました。「カラスのパン屋さん」、「わっしょい わっしょい ぶんぶんぶん」は子どもたちに大人気でした。でも、この一冊と言うと、やはり「どろぼうがっこう」です。本当によく出来た絵本で、何度も何度も読み聞かせをしました。
かこさとしはセツルメント活動をしたといっても、東大工学部を卒業して化学会社に就職したあとのことです。大学時代は演劇研究会に入って、舞台美術を担当していたとのこと。
かこさとしは、大学生になったらセツルメント活動に加わりたいと高校生のときから思っていたそうですが、戦時でセツルメントは閉鎖されていたのです。戦前の帝大セツルメント活動はイギリスに発祥の地があり、関東大震災のあと、被災者救援活動に始まっていて、医学部生や法学部生が中心になっていたようです。
私が大学生のころは、学生セツルメントは全国にあり、全国交流集会も年2回あり、毎回1000人もの参加者があるほど活発でした。東大駒場にも、氷川下、川崎、亀有、菊坂などいくつも実践の場があって、その連合体(駒セツ連)のメンバーは50人ほどもいたように思います。そして、東大闘争が1968年6月に始まると、セツラーの多くがアンチ全共闘の立場で民青かクラス連合(クラ連)の活動をしていました。
かこさとしは、会社員とセツラーという二足のわらじを履いていましたが、子ども会では、広場で紙芝居をすることが多かったようです。人形劇とか劇団だと何人かいないといけませんが、紙芝居だと一人で演じられるからです。
セツルメントの子ども会にやってくる近所の子どもたちには、かこさとしは思いきり遊び、自分たちで楽しむために、さらに工夫を重ねて遊びをつくりだしていってほしい。それを手伝うのが自分の仕事だと考えていた。なので、かこさとしは自ら紙芝居をつくるだけでなく、子どもたちにも一緒に紙芝居をつくりあげていたようです。
一人ひとりの子どもはガキでしかないが、集団にまとまると、恐るべき力を発揮するものだ。
「大事なことは、すべて子どもから教わった」
これは、かこさとしの言葉です。私の場合は、「大事なことは、すべてセツルメント活動に教わった」と言っています。
「どろぼうがっこう」など、いくつもの絵本は、もともと紙芝居として子どもたちに読み聞かせていたものでした。私も小学生のころ、広場に紙芝居のおじさんがやって来たのを遠まきにして眺めていました。親がこづかい銭をくれなかったので、参加資格がなかったのです。
紙芝居の魅力は演じる人にある。先生とか母親が、常日頃の人格とは違うことをやってくれる。人格を通じてのコミュニケーションに、その魅力がある。かこさとしは、このように強調しています。
紙芝居のうしろに顔を隠すのではなく、素顔をさらして、いろんな役を演ずることから子どもの心に響くものがあるというのです。なーるほど、ですね。それにしても、かこさとしはたくさんの紙芝居を考え、絵を描いています。そのアイディアは尽きることがありませんでした。この本には、その多くが紹介されています。
かこさとしの生地の福井県越前市には、「かこさとしふるさと絵本館」があります。コロナ禍がおさまったら、ぜひ行ってみたいと考えています。
(2021年8月刊。税込2420円)

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