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カテゴリー:生物

(霧山昴)
著者 稲葉 一男 、 出版 光文社新書
細胞にも毛がある、と言われると不思議な気がします。ええっ、あんな小さな細胞に毛なんてあるわけないでしょ、つい、そう思ってしまいます。でも、あるんです。
その一つが精子。精子が活発に動きまわるために必要なのが、「細胞の毛」。鞭毛(べんもう)とか繊毛(せんもう)と呼ばれているそうです。
そして、ヒトの気管にある細胞の毛。空気中の細菌やウィルスが体の中に入ってきたとき、それを追い出そうとして、気管でさかんに動いている繊毛がそれ。
この細胞の毛を動かすには水分が必要。細胞の毛は十分な水の中にいるときこそ最大限に力を発揮するので、口の中が乾燥しないようにマスクをするなどして湿度を保つ必要がある。
ヒトの女性は一生のうちに卵子を500個つくる。男性の精子は20兆個。精子の毛は細胞膜が変形したもの。ヒトの精子の毛(鞭毛)は30から50マイクロメートル(ミクロン)。毛の太さは0.2から0.3マイクロメートル、つまり200ナノメートルから300ナノメートル。
この細胞の毛の中に、毛を動かすエンジン、つまりダイニンと呼ばれるタンパク質の分子モーターがずらりと並んで入っている。この大きさは10から20ナノメートル。こんな小さな分子がATP(アデノシン3リン酸)という物質を分解することで得られるエネルギーを用いて、鞭毛の中で力を発揮させている。
細胞の毛の中には、9本+(プラス)2本のパイプが通っている。ダイニンのついた9本のパイプは「タブレット微小管」で、筒状になっている。その内側にもう2本のパイプ「シングレット微小管」が通っている。この構造は「軸糸」と呼ばれ、微小管の本数から「9+2(きゅうプラスに)」と呼ばれている。
この鞭毛(繊毛)がすごいのは、まず自ら波打って動くこと、単細胞生物の繊毛とヒトの鞭毛の構造はほとんど同じであること、体の維持に大切なことによる。
鞭毛(繊毛)が遺伝的になくなってしまうと、精子では運動がおかしくなって受精できなくなる。また、気管では、バイ菌を外に出せなくなる。嗅覚、つまり匂いを感じるのは、鼻の奥、鼻腔の上部にある嗅上皮。
また、匂い物質は、嗅上皮の粘膜に溶けることにより、嗅細胞を経て匂いとして認識される。ヒトの周囲にはたくさんの臭い物質があるので、嗅細胞は、これらを高感度で識別できる。それが出来るのは、細胞の毛があるからこそ。
1分子のATPが分解されると、10のマイナス20乗ジュールあまりのエネルギーが放出される。
以上みてきたように、本書で扱っている毛は、細胞の毛であって、体表面にはえている毛ではありません。
なぜ猿やオランウータンなどは毛深いのに、ヒトだけ体表面がツルツルなのでしょうか。毛皮や服を着る前もツルツルだったら、冬の寒さには耐えられませんよね。ヒトは一度、水の中で生活していたので、体表面の毛をなくしたという仮説が提唱されました。私は面白いと思ったのですが、今は否定されているようです。まだまだ、この世は謎だらけですね。ぜひ、もっと深く知りたいです。
(2021年11月刊。税込1034円)
 コロナ禍がおさまりませんね。福岡県南部で、このところ急増しています。保健所をなくしてしまったツケを払わされています。PCR検査体制も不十分ですし、自宅療養という美名での放置はひどすぎます。アベノマスクも半分も残っていて(倉庫代6億円)、それを希望者に配布(その費用が10億円)するというのに、安倍元首相はお詫びの一言もありません。
 日曜日の午後、雨があがったので、庭に出て雑草を少し取りました。チューリップの芽が地上に出てきていますが、雑草に埋もれてかわいそうなのです。芽をとったらいけませんので、用心しながら雑草を抜いていきました。
 ずいぶんと陽が長くなり、夕方6時まで庭仕事ができるようになりました。春は、もうすぐそばです。

明治の説得王・末松謙澄

カテゴリー:日本史(明治)

(霧山昴)
著者 山口 謡司 、 出版 インターナショナル新書
福岡県行橋市に生まれた(1855年)末松謙澄(けんちょう)という人物を初めて認識しました。西郷隆盛への山縣有朋からの降伏勧告状、大日本帝国憲法、下関条約の締結文(草案)を起案した人です。1920(大正9)年、スペイン風邪のため66歳で亡くなりました。
英・仏・独語に通じていた。格好にまったく気をつかわず、どんなことがあっても人に嫌な思いをさせることのない自然児のような謙澄は、人を惹きつけてやまなかった。
謙澄は若いころイギリスのケンブリッジ大学で学んだ。イギリスに8年いて、ケンブリッジ大学を卒業し、32歳で日本に戻った。
謙澄は24歳のとき、英国公使館付一等書記見習としてイギリスに留学した。
謙澄は28歳のとき、『源氏物語』の英訳本を出版した。これはすごいことですよね…。
謙澄は、乱を起こした大塩平八郎を、全国民の思いを代弁するヒーローとして、もっともふさわしい人物だと考えた。
謙澄は学者の道を選ばなかった。その最大の理由は、伊藤博文の娘と結婚したことにある。末松謙澄の妻は伊藤博文の次女(生子)。
謙澄は、説得術の天賦があった。そして、それを磨くことに余念がなかった。
謙澄は、衆議院議員になったあと、法制局長官、内閣恩給局長、逓信大臣、内務大臣、枢密院顧問官など政治の世界でも要職を歴任した。
いやあ、すごい政治家だったのですね、ちっとも知りませんでした。まあ、知らないことが山ほどあることを自覚することが私の思考力を鍛える原動力です。
(2021年6月刊。税込968円)

江戸の旅行の裏事情

カテゴリー:日本史(江戸)

(霧山昴)
著者 安藤 優一郎 、 出版 朝日新書
コロナ禍のせいで、私はこの2年間、福岡県の外へ一歩も出ていません。本当は、国内どころかフランスにも旅行するはずだったのですが…。
日本人は昔から旅行が大好きでした。それは戦国時代の宣教師たちのレポートでも明らかです。江戸時代は治安が良く、道路網も旅館も整備されましたから、殿様の参勤交代だけでなく、庶民も連れだって旅行に出かけていました。それは伊勢であったり、温泉であったりしました。成田山詣でには講が組織されていました。
伊勢参宮には御師(おんし)が活躍した。御師は、祈祷に携わる神職ではあるものの、営業部員ないし、旅行代理店のような仕事もしていた。800家を数えた。
御師と講が団体の参詣宮を増加させ、ひいては江戸の旅行ブームを牽引した。
また、江戸後期には、身分の上下にかかわらず、湯治(とうじ)つまり温泉旅行がブームになっていた。湯治は7日を一廻りと数え、三廻りするのが一般的だった。東は熱海・箱根、西は有馬の人気が高かった。
女性も旅行に出かけていた。関所破りも珍しくはなかった。
江戸も旅行の対象となり、『江戸名所記』や『江戸買物独案内』が刊行されて喜ばれていた。
吉原は人口8千人のうち遊女は2千人。吉原には男女を問わず、昼も夜も全国からの観光客でにぎわい、観光客相手の飲食業が盛んだった。
そして、江戸では、全国の寺社が出開帳(でかいちょう)を企画した。
私は最近『弁護士のしごと』という冊子を刊行しましたが、そのなかで、江戸の庶民がいかに旅行を楽しんでいたか、また、男女を問わず旅日記を書いていたことを書きつづったのですが、これが予想した以上に驚きをもって受けとめられ、大好評でした。
江戸時代の250年間というのは庶民にとって決して暗黒の時代ではなかったのです。ほとんど戦争のない、平和な時代を庶民はそれなりに楽しく過ごしていたのだと私も今では考えています。
(2021年11月刊。税込891円)

もっとディープに!カラス学

カテゴリー:生物

(霧山昴)
著者 杉田 昭栄 、 出版 緑書房
著者はカラス博士として著名です。カラス研究をはじめて25年になります。
カラスの脳は、機能性の高い大脳皮質に相当する部分が多くを占めていて、さらに高次の働きをする外套(がいとう)の連合部位が、他の鳥よりも発達している。
カラスのくちばしは、人間の指のように敏感、かつ器用だ。
カラスのくちばしは、武器というより巣づくりや羽繕(つくろ)い、子育てのときのエサ運びやような働きをする。また、くちばしは、体温にも関係している。くちばしには、多くの血管が分布している。
カラスの神経節細胞は360万個もある。これは、ニワトリの250万個、フクロウの200万個に比べても多い。
鳥の視覚が優れている理由として、網膜の血管がないことがあげられる。
カラスは、紫外線をふくめて4種の光波長で色覚の世界をつくっている。紫外線がなくなると、カラスは繊細な色彩の区別がつかなくなる。紫外線は鳥類の生活で、重要な役割を担っている。
カラスには怖い色とか嫌いな色はない。ごみ袋を黄色にすると、中の物が見えなくなるというだけ。カラスが物を識別するとき、色は非常に重要。
カラスは鳴き声による意思疎通が豊富な鳥。
ハシブトガラスの終脳の神経細胞数は2億3千万個。カモは6千万個、ニワトリが4千万個に比して、断然多い。
カラスはヒトの顔写真を認識できる。これは、どのような向きになっていても言える。
カラスは、少なくとも12ヶ月間は記憶を保つことができる。
その年に生まれたカラスの半数近くは、厳しい冬をこせずに死亡する。飼育したハシブトガラスは12歳まで生きた。
カラスは共喰いする。死んだカラスを食べてしまう。
カラスは水浴び、砂浴びを1年中好む。それは、身体についたダニなどの虫を払い落すため。カラスは清潔好きの鳥。
カラスの体と心の不思議にせまった本です。
(2021年6月刊。税込1980円)

中国共産党の歴史(2)

カテゴリー:中国

(霧山昴)
著者 高橋 信夫 、 出版 慶應義塾大学出版会
国共内戦で、紅軍は初めのうち後退を余儀なくされていた。蒋介石の国民党軍のほうが最新鋭の武器を持っていたから。そこで、毛沢東は、紅軍部隊に指示した。
「勝利が確信できなければ戦闘を避ける。チャンスがあれば攻撃対象を速やかに殲滅せよ」。「敵軍より少なくとも3倍の兵を終結させ、砲兵隊の大半を集中させて、敵の陣地の弱点をひとつ選び、猛烈に攻撃して確実に勝利する」
国民党軍の将軍は、最後にはアメリカ軍が助けてくれると期待していたので、懸命さに欠けていた。兵士の多くは、農村から強制的に連れてこられた男たちなので、はじめから戦闘精神をもっていなかった。そのうえ、兵士たちには十分な給料と食事が与えられていなかったので、村々を頻繁に略奪してまわった。これに対して紅軍兵士は相対的に士気が高く、略奪にもめったに手を染めなかった。
これでは、人心が国民党から離れて、紅軍に傾くのは当然ですよね。
国共内戦に勝利した毛沢東は、1950年夏に台湾解放作戦を考えていた。しかし、朝鮮戦争の勃発により消えてなくなった。それに、ソ連へ海軍と空軍(パイロット)の参加を求めていたが、スターリンはきっぱり断った。
毛沢東が1950年夏に台湾への武力侵攻を考えていたことを初めて知りました。
朝鮮戦争は1950年6月に始まりましたが、金日成がスターリンの攻撃同意を取りつけたのは1月30日のこと。毛沢東は、同年5月に金日成と北京で会ってスターリンの開戦同意を取りつけたことを知らされ驚いた。というのも、1950年の段階では、中国の沿海部分は蒋介石の空軍による爆撃にさらされていて、国共内戦はまだ終結していなかったから。
中国共産党の指導部内部でも、朝鮮戦争に参戦することには消極意見もあった。
中国の政治で驚き、かつ恐ろしいと思うのは、1950年10月ころの反革命鎮圧運動のすさまじさです。このころ開かれた全国公安会議において、中国の全人口の0.1%を殺害することが決議され、各地で、実行に移されていったということです。対象となる人物の行動から反革命分子と認定して殺害するというのではなく、まず「0.1%」を目標人数として、その分だけの氏名を特定し、そのうえで、「事実」を発見して、殺害する。
まことに手荒い、信じられない乱暴なやり方です。これで、3年間に70万人が「反革命分子」として殺害された。いやはや大変な人数です。過去のAB団、そして文革中の弾圧とその体質、手法は共通しています。
このあと、中国の農村社会では人民公社運動がまき起こり、そして、その失敗から大量の餓死者を生み出すわけですが、それでも集団化に対して大々的な抵抗運動は起きなかった。それは、「反革命分子」を鎮圧・除去していたから、共産党に抵抗する用意のある人々は除去されていたことによる。そのうえで、ソ連と違って、農村部にまで党組織が確立していたからだ。
1056年2月のフルシチョワによるスターリン批判は、中国共産党に対しても大変ショックを与えた。このとき、中国共産党はスターリン批判の大合唱に加わらず、むしろスターリンを弁護した。なぜか…。中国共産党は、当時、政権を握ってまだ日も浅く、権力基盤が盤石ではなかった。スターリンを一途に礼賛してきたのに、急に犯罪者だと決めつけようものなら、人々が共産党に背を向ける危険性がある。スターリンの偶像を簡単に破壊するのは難しかった。
毛沢東は、1958年3月の会議で、自らに対する個人崇拝を解禁した。このころ、毛沢東は「大躍進」を打ち出した。これは、製鉄熱を生み、また人民公社をつくりあげることになった。
「大躍進」は華々しく大成功をおさめた。1958年夏から秋にかけて、毛沢東は得億の絶頂にあった。しかし、実際には、深刻な飢餓が各地にあらわれはじめていた。
(2021年7月刊。税込2970円)

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