法律相談センター検索 弁護士検索

中国共産党、その百年

カテゴリー:中国

(霧山昴)
著者 石川 禎浩 、 出版 筑摩書房
2021年に結党100年を迎えた中国共産党は、今9200万人の党員を擁する超巨大政権党である。結党からわずか30年足らずで中国(中華人民共和国)を建国し、70年以上にわたって中国を統治してきて現在に至っている。
中国共産党については、先日もこのコーナーで紹介しましたが、本書も一般向けの通史とは思えないほど良質であり、また大変読みやすいものです。
1945年8月の時点で、中国戦線は膠着(こうちゃく)状態にあり、日本軍が敗北するとは思えなかった。毛沢東も、この8月上旬の時点で、日本の降伏まであと1年ほどかかるだろうと見ていた。つまり、8月15日の日本降伏の知らせは突然やってきたのだった。そして、毛沢東は国民党軍との内戦を決意して、指令を出していた。ところが、スターリンがそれに待ったをかけた。
スターリンは、ソ連の在東北権益を保証してくれる蒋介石の国民党を選択した。その代わり、中国共産党に対しては、東北部への転進を認め、旧日本軍の武器弾薬を共産党側に引き渡した。このことによって、共産党は東北に広大な地域政権を樹立することができた。これによって、ようやくスターリンのソ連は中国共産党を認めることになった。
人民共和国建国当時の共産党員は450万人。内戦開始期から4倍に急増していた。そして、党員の4分の1は25歳以下という若い世代だった。ちなみに、当時の平均寿命は35歳でしかなかった。戦火のすさまじさですよね、きっと…。
指導者のほうも若い。毛沢東55歳、劉少奇50歳、周恩来51歳、鄧小平45歳だった。
中国(人民共和国)の建国のとき、共産党は旧来の六法全書を廃止し、体系ある法典をもっていなかった。刑事法の分野であるのは「反革命処罰条例」と「汚職処罰条例」の二つのみ。
中国建国(1949年)からまもなく、12月に毛沢東(56歳)は列車でモスクワに向かった。北京に戻ったのは翌年(1950)3月。新しい国家が誕生し、まだ国民党軍との内戦も続いているなかで、国家の最高指導者である毛沢東が3ヶ月も中国を離れたというのは、異例のこと。まったく同感です。
中国は国家運営について、経験豊富なソ連の専門家の派遣を要請しています。
ところが、帰国して3ヶ月後の1950年6月に朝鮮戦争が勃発した。毛沢東の知らないところでスターリンがGoサインを金日成に送って始まった。周恩来らは、このとき参戦に反対したようです。
毛沢東は朝鮮戦争に、中国軍が義勇兵として参戦し、それなりの成果をあげたとして権威をより一層高めた。
毛沢東は、自ら暴君になったというより、暴君となることを支持された。
鄧小平は胡耀邦と趙紫陽の二人を天まで高く持ち上げていたが、あとになって、この二人を権力の舞台から引きずりおろした。
今や、2010年には、中国のGDPは日本を抜いて、「世界2位」になっている。
大変興味深い分析がオンパレードとなっている本です。ご一読ください。
(2022年2月刊。税込1980円)
 日曜日の午後、チューリップが終わりましたので、最後に咲いている1本のみ残して、全部堀りあげました。今はフェンスに色とりどりのクレマチスが咲き誇っています。赤紫色、白色、赤い筋の入った花、いろいろです。
 チューリップを掘りあげたあとには、いつもヒマワリを植えています。今度、昨年のヒマワリのタネをとっていますので、まくつもりです。
 ジャガイモの地上部分が元気よく茂っています。問題は地中なんですが…。
 庭に出ると、もう風薫る季節になったことを実感させてくれます。

リーダーたちの日清戦争

カテゴリー:日本史(明治)

(霧山昴)
著者 佐々木 雄一 、 出版 吉川弘文館
日清戦争について、大変勉強になりました。
その一は、日清戦争で敗北したことから、中国(清)は欧米の列強からたちまち狙われてしまったことです。
その二は、日本の支配層は一枚岩でなく、計画的・意図的に日清戦争を始めたわけではないということです。明治天皇は中国(清)を相手に戦争を始めてしまったことに恐れおののいていました。さらに、明治天皇は陸奥宗光を信用できない男だとして嫌っていたというのです。
その三は、日清戦争では、そのあとの日露戦争とちがって、戦死者よりも戦病死者が圧倒的に多かったということ、日本軍の戦死傷者は千数百人だったのに、戦病死者は1万人をこえた。日露戦争では、総率された近代軍同士の全面衝突があったので大量の戦死傷者が出たが、日清戦争では、それがなかった。日清戦争のときには兵站(へいたん)や衛生への配慮が十分ではなかった。
その一に戻ります。日清戦争を通じて、それまで東洋の大国と考えられていた清の評価は大きく下落し、ヨーロッパ列強は清への進出意欲を高めた。清は東アジアにおいて圧倒的な存在感のある大国だったが、日清戦争の敗北によって、つまりアヘン戦争でもなく、アロー戦争でもなく、地位を大きく低下させた。
その二。かつての学説の通説は、朝鮮進出を早くから日本は目ざしていたので、明治政府と軍は、計画的・必然的に日清戦争を起こしたというものだった。しかし、今や、日清戦争は、日本政府内で長期にわたって計画・決意されたものではないというのが通説的地位を占めている。たとえば、伊藤博文や井上馨は、清との紛争や対立はなるべき避けようとしていた。伊藤博文は、対清協調と朝鮮独立扶持を一貫して主張していた。また、明治天皇は大国の清と戦って勝てるのか不安であり、できることなら戦争を避けたいと考えていた。開戦に前のめりになっている陸奥宗光外相を信用せず疑惑の目を向けていた。天皇は開戦したあと、「今回の戦争は、朕(ちん)、もとより不本意なり」と言っていた。
日清戦争のとき、清は一元的に強力な国家の軍隊を有してはいなかった。人数や外形はともかく、指揮・訓練などの点で問題をかかえていて、本格的な対外戦争を遂行するのに、十分な内実を備えていなかった。すなわち、清軍は、十分に訓練され明確に統率された軍隊ではなかった。
日清戦争とは何だったのか、改めて考え直させてくれる本です。
(2022年2月刊。税込1980円)

ニュースなカラス観察奮闘記

カテゴリー:生物

(霧山昴)
著者 樋口 広芳 、 出版 文一総合出版
私と同世代、団塊世代の鳥類学者がニュースに登場してくるカラスをじっくり観察したレポート集です。とても面白くて、車中で読みはじめて、いつのまにか終点に到着していました。もうちょっとでしたので、喫茶店に入ってついに読了。
カラスの観察や研究を続けて50年近くになるとのこと。私も同じく弁護士生活が50年近くになり、人間観察を続けています。
ハシボソガラスは「ガアー、ガアー」とにごった声で鳴き、地上では両足を交互に出して歩く。ハシブトガラスは、「カアー、カアー」と澄んだ声で鳴く。地上では両足をそろえてホッピングすることが多い。ハシブトのほうがハシボソよりやや大きく、くちばしが太い。ハシボソは農村地帯、ハシブトは森林や大都市にすむ。
横浜の公園の水飲み場で、カラスが栓を回して水を飲んでいた。よく観察すると、一対のカラスのうちのメスだけが栓を回し、オスのほうはできない。しかも、水を飲むときには栓を少し回し、水浴びするときには大きく回している。目的に応じて栓の回し方と出す水の量を変えている。うむむ、なんとなんと、すごーい。
カラスはオスもメスも同じように黒いけれど、メスのほうが少し小さく、また、卵を暖める抱卵はメスしかない。それで、メスが栓を回していることを確認できた。なーるほど、ですね。
カラスのつがいの2羽は、いつも互いに見える範囲にいて、しばしば一緒になる。
公園にポテトチップスが落ちていると、水飲み場にもっていって、水に浸してやわらかくなったのを食べる。ちなみに、カラスは栓を回して水を飲んだり、水浴びするけれど、終わって栓を元に戻すことはしない。公園なので、気がついた人間が栓を閉める。
路上にクルミを置いて車にひかせてクルミを割ってもらって食べるカラスがいる。これには車にひかれない工夫も必要になる。勇気というか度胸が必要。かしこさと度胸をあわせもった個体だけが車の利用を可能とする。
線路の置き石事件の犯人はカラスだった。なぜ、そんなことをするのか…。カラスは手にした食料を隠しておく(貯食)習性がある。線路の砂利はもらったパンを隠しておくのに都合がよい。目の前の小石が邪魔なので、ひょっとつまんで線路に置くということ。
石齢とか和ろうそくをカラスが持ち去るのは、石齢や和ろうそくにカラスの大好物の油脂分が含まれているから。和ろうそくに火がついていても気にせず、炎の下でとろける熱い蝋(ろう)をなめとる。ハシブトガラスのくちばしは肉切り包丁のようなもので、スパッと和ろうそくを切りとってしまう。
カラスは独特の生き方をしている。型にはまらない、きわめて柔軟性に富んだ生き方だ。カラスは何でも屋、ジェネラリストとしての道を生きている。
人への攻撃は、カラスの繁殖時期である5月と6月に起きる。これは主として都市にすむハシブトガラスによるもの。
カラスの知能は高い。特定の人の顔を覚えてしまう。カラスの大脳全体の神経細胞は2億3000万。これに対してハトは1800万ほどしかない。カラスの大脳は、すばらしくよく発達している。
わが家の周囲のゴミを狙ってやってくるカラスは、ボソかブトか、今度こそたしかめてみましょう。
(2021年11月刊。税込1760円)

蜥蜴(とかげ)の尻っぽ

カテゴリー:人間

(霧山昴)
著者 野上 照代 、 出版 文芸春秋
山田洋次監督の映画『母(かあ)べえ』の原作者が映画との関わりを縦横無尽に語っている興味深い内容の本です。
著者の父・野上巌は、山口高校(旧制)から東京帝大独文科に入り、共産主義思想に傾倒。日大予科教授になったものの、思想的によろしくないというのでクビになり、高円寺で古本屋を開業した。そして、警察に何度も逮捕された。小林多喜二が築地警察署で虐殺された(昭和8(1933)年)ころのこと。やがて、父は転向声明に署名したので、保釈で拘置所から出てきた。そこは映画と事実が異なっている。そのあとは、ドイツ大使館で翻訳嘱託として雇われた。
映画づくりにずっと関わってきた著者の話は、やはり映画づくりの現場に関するものが一番面白いです。映画『たそがれ清兵衛』の撮影現場を著者は間近でみていて、それを文章化しています。決闘の相手になった余吾善右衛門を演じた前衛舞踏家の田中泯について、著者はこう描いている。
山田組の現場は、黒澤(明)組の喧々(けんけん)囂々(ごうごう)に比べたら静かなもの。
山田洋次監督の脚本は、いつもその土地の方言に忠実なことが魅力のひとつだ。このときも原作者である藤沢周平の郷里、山形県庄内地方の方言が味わいを深くしている。
田中泯さんは大変。アグラのときには足を見せる。膝も叩かなければいけない。「熱が出ただろう」で指さすのも忘れてはいけない。それから、体をキャメラのほうへ向ける必要がある。映画俳優の仕事は本当に難しい。キャメラに写る、何センチ単位の位置、動作のスピード、台詞(セリフ)の明瞭さなど、制約が厳しい。これらをコナしながら、もっとも大事な感情移入という状態にならなければいけない。
山田監督は忍耐の人。じっと耐える。怒鳴ったところで、うまくいくわけではない。
山田監督は、俳優の芝居を大事にするからだろう。脚本どおりの順番に撮っていく。いわゆる「中抜き」はしないし、できない。
山田監督は、田中泯に対して、余吾の心境を伝え、なんとか感情移入して余吾になり切るよう、声を出し続ける。
「『16歳』、哀しみをこめてね。大きくふくらむ蕾(つぼみ)の時に…。そこへ『やせ細って』をいれましょうか。そのイメージを描いて下さい。美しい娘がガイコツみたいになったイメージを思い浮かべながらね…。骨と皮ばかりになった娘を抱きあげたら、ガチャガチャって、音がしそうだった…、ね」
山田監督は、キャメラが回り出すギリギリまで俳優に魔法をかけ続ける。まるで、ピノキオに命を吹き込むように。
「いいですか、本番。…哀しい物語なんだからね。哀しい、哀しい話なんだから…。16歳、に感慨をこめて…。ヨーイ、…やせ細った娘を抱いたともの感覚というのか…。本番、ヨーイ、スタートッ!」
まるで相撲の仕切りのよう。時間いっぱい待ったなし、まで粘る。
「ワンカット、ワンカット、祈るような気持ちですよ、何とかうまくいってくれってね…」
これが『男はつらいよ』を46本も撮った大ベテラン監督のコトバ。
監督生活41年、この作品が77本目になる。プロ中のプロ。その山田監督が、まるで1本目の新人監督のようにひたむきに真剣に、ワンカットの中に命を吹きこんでいる姿に感動した。
いやあ、これは、その場にいなくて、読んでいるだけの私でも、心が激しく揺さぶられるものでした。これほどの真剣さが、人生には求められているのですね…。
著者は、天才とは記憶だと断言した黒澤明監督のコトバを紹介しています。
「読んだ本、見たこと、会った人たちの記憶を、どれだけ蓄積するか、必要に応じてそこから引き出す才能をもつ人が天才なのだ」
なーるほど、そういうものなんでしょうね…。映画好きの私には、とても面白い本でした。
(2007年12月刊。税込1980円)

明の太祖・朱元璋

カテゴリー:中国

(霧山昴)
著者 檀上 寛 、 出版 ちくま学芸文庫
明の太祖(朱元璋)は、一人で聖賢と豪傑と盗賊の性格をかね備えていた。
歴代の皇帝中、明の太祖は漢の高祖・劉邦と並んで最下層の出身。
元末の反乱軍の中から身を起こし、当初は盗賊まがいの活動をし、やがて地方政権を樹立すると、一方の豪傑となり、皇帝となってからは諸々の制度を制定して聖賢の働きをした。
洪武(朱元璋)は複雑怪奇な性格の持ち主だった、だからこそ、元末の争覇戦に勝ち抜き、強大な専制国家の創設に成功した。
中国では宋代に皇帝独裁体制が成立し、明の初めに朱元璋によって最終的に確立した。そのため、10万人以上の官僚・地主等を粛清し、機構の大改革を断行し、皇帝一身に権力を集中させなければならなかった。
この本を読んで面白かったのは、皇帝となった朱元璋の地位が必ずしも強固ではなく、絶対的な権力を握って官僚たちを統制していたのではないとされているところです。朱元璋は皇帝として各集団の利害調整をしつつ、そのバランスの上で皇帝の地位を維持しているのが実情だった、というのです。
官僚は、その地位を利用して不正蓄財に務め、国家建設など眼中になかった。官僚と地主の癒着は相変わらずひどく、改善の兆しを見せず、腐敗は蔓延する一方だった。
明国の建国に功のあった功臣たちは、時間の経過とともに傲慢となり、かつて鉄の規律を誤った朱軍団の面影はすでに消え失せていた。大半の功臣は、おのれの地位を盾に傍若無人にふるまい、それがまた新たな社会問題になっていた。
朱元璋は、科挙を廃止した。科挙がわずか3年で廃止されたのは、合格者の「質」に問題があった。文詞のみに長じて、何の役にも立たない若造ばかりが合格していた。
また、科挙を廃止することで、南人層の官界への進出に歯止めをかけようとした。
朱元璋直属のスパイは検校(けんこう)と呼ばれていた。政界内部には、朱元璋の機嫌をとって出世を企むような不逞の輩が目立つようになってきた…。功臣・官僚を摘発するため、弾圧の嵐が吹き荒れていたころ、功臣・官僚を摘発するため、多くの監察官が動員された。
元璋のおこした文字の獄は、元璋個人の恣意性にもとづく。朱元璋は、自分の出自への強いコンプレックスがあった。
朱元璋にとってもっとも気がかりなのは、後継者の皇太子のことだった。
朱元璋の晩年は、まことに寂しいものだった。最愛の妻と皇太子に続き、第二子、第三子を失った。戦友の大半が死に、今いる者は朱元璋の顔色をうかがうようなものばかり。
結局、永楽帝が皇帝となるまで、大波乱があった。
いやあ、独裁者というのは、いつの世も後継者については大変な苦労を余儀なくされるようですね。
(2020年9月刊。税込1320円)

福岡県弁護士会 〒810-0044 福岡市中央区六本松4丁目2番5号 TEL:092-741-6416

Copyright©2011-2025 FukuokakenBengoshikai. All rights reserved.