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第32軍司令部壕

カテゴリー:日本史(戦前・戦中)

(霧山昴)
著者 牛島 貞満 、 出版 高文研
沖縄戦司令官・牛島満中将(死後、大将)の孫である著者が沖縄戦の実相に迫っている本です。
なにより私が驚いたのは、先日、焼失してしまった首里城の近くに長さ1キロメートルに及ぶ第32軍首里司令部壕があったということです。何回か調査され、米軍も沖縄占領直後に調査したようですが、現在は途中で崩落したりして、立入できない状態です。坑道は1050メートルの長さで、1000人がいたとのこと。司令官室があり、浴場もありました。
沖縄の第32軍は1944年に創設されたが、大本営から下達された命令は、「沖縄の土地や沖縄県民の防衛」ではなく、本土決戦準備のための時間稼ぎ、すなわち持久戦だった。この目的を知っていたのは、第32軍の将校たちだけで、沖縄県民は知らされなかった。
そして、アメリカ軍が沖縄に上陸して、すぐに2つの飛行場を占領したことを知った大本営は、持久戦の方針を撤回し、飛行場奪回と、敵の出血強要を命じた。
持久戦から攻勢へと変更されたが、この大本営の攻勢命令はその後、撤回されることはなかった。その結果、日本軍は6万4千人が戦死し、兵力の3分の2を喪った。アメリカ軍の戦死者は5千人だった。
アメリカの軍事専門家は、この多大な犠牲者を出した沖縄戦の推移について疑問を投げかけています。つまり、沖縄に籠って抵抗する日本軍を放っておいて、先に九州か房総など、本土を叩いたほうがよほど犠牲者が少なく、目的を達成できたはずだ、というのです。なるほど、そうかもしれないと思いました。
そして、第32軍が南部へ移動(撤退)せずに、首里にそのままとどまっていたら、住民の犠牲がもっと少なくてすんだはずだと、著者は批判しています。というのも、南部への撤退が始まった6月に、70%の人が亡くなっているからです。
6月22日に、牛島司令官が自死したあと、終戦の8月15日を過ぎてからも9月5日にまで日本兵の戦死者が出ている。降伏調印式は9月7日のこと。
ところで、牛島司令官が自死したのは、6月20日、22日、23日のどれが正しいのか議論があるようです。著者は6月22日説です。戸籍は6月22日死亡になっているのです。6月22日の日付で、牛島司令官を陸軍大将に任命して大本営は沖縄の兵士たちの士気をあげようとした。しかし、実際には士気は上からなかった。大将への昇進は牛島司令官は生前に知ることはできなかったし、ありえなかった。
1キロメートルもある司令部壕の中央辺に司令官室が位置していたようですが、酸素欠乏で苦しかったとのことです。攻めたアメリカ軍は、首里城の地下に日本軍が洞窟陣地を築いていることを知っていました。
壕の写真もたくさんあり、よく調べてあると驚嘆しています。
(2021年12月刊。税込1650円)

身近な鳥のすごい事典

カテゴリー:生物

(霧山昴)
著者 細川 博昭 、 出版 イースト新書Q
私にとってもっとも身近な鳥はスズメのはずでした。でも、今ではそうとは言えません。わが家には、2ヶ所、スズメの巣があり、その一つはトイレの窓のすぐ上にありました。トイレに入ると、スズメたちが巣を出入りし、また、子育てのときには、仔スズメの可愛らしい声を聞くことができました。今はまったく見かけません。それは、すぐ下の田圃が稲作をやめてからのことです。
スズメは森や林には住まない。また人間が住まなくなった空き家にはスズメも住まない。スズメは人間を恐れるのに…、です。
今や全国的にスズメは減っていて、20年前の2割しかいないとみられている。
「万葉集」にはスズメを詠んだ歌は一つもない。でも「枕草子」や「源氏物語」にはスズメの子を育てて楽しんでいる話が出ている。
わが家の庭によく来るのはヒヨドリです。けたたましく鳴き、自己主張の強い鳥です。平安時代の貴族たちは、ヒヨドリを飼っていて、持ち寄って優劣を競っていたとのこと。鳥に名前までつけていたというから驚きです。ヒヨドリは意外に賢く、好奇心も強い。そして、自分を大事にしてくれる人間を好きになることもある。
うちの庭のスモークツリーの木の上のほうにヒヨドリが巣をつくって子育てを始めたことがありました。あるとき、2羽のヒヨドリが常と違ってけたたましく鳴いて、それこそ騒動しはじめたので、どうしたのだろうとよく見ると、ヘビが木をするすると登っているのです。木の上の巣といっても大人の背よりはるかに高く3メートルほどもあります。よくぞ地上をはうヘビが見つけたものです。なんとか巣のなかのヒヨドリの仔を救ってやりたくて、ヘビを叩き落したのですが、仔のほうまで落ちてしまいました。そこで、鳥籠を買ってきて育てようとしたのですが、結局うまくいかず、哀れにもヘビのエサになってしまいました。鳥籠からいつのまにか逃げ出していたのです。それ以来、ヒヨドリが庭の木に巣をつくることはありません。
秋になると、モズが甲高い鳴き声で飛びまわります。モズは百舌鳥と書いて、たくさんの鳥の鳴き声を上手にまねるらしいのですが、私は聞いた覚えがありません。
モズのオスは、多くの多種のさえずりを正確に真似できるものはメスにもてるというのです。
ツバメがわが家に巣をつくったことは残念ながらありません。前年の巣に戻って、同じ場所で子育てするツバメが多いのは、コストが安くなるから。ゼロから始めると1週間以上かかる巣づくりが補修ですめば2日もかからない。
ツバメは群れをつくることなく、単独で東南アジアの島々やオーストラリア北部から4千キロも飛んでやって来る。体重わずか20グラムもない鳥が、こんなに飛べるなんて、世界の七不思議の一つでしょう…。しかも、眠りながらも海の上を飛行するなんて、すごいことですよね。
ゴミ出しはカラスとの知恵くらべです。わが家は生ゴミはコンポストに入れて肥料にしますので、外にゴミとして出すことはありません。ところが、生ゴミをそのままゴミ袋に入れて路上に放置すると、たちまちカラスの餌食(えじき)になってしまいます。
昔からカラスが嫌われていたのではなく、むしろ、長い時代の日本人はカラスに対して悪くは思っていなかった。「万葉集」のころカラスの声は「愛しい人がやってきた」と告げていると解されていた。
ハシボソガラスは、ガーガーと濁った声で鳴く。これに対して、カーカーと澄んだ声で鳴くハシブトガラスは、森のカラスで、両足をそろえてピョンピョンとホッピングする。
いやあ、鳥をよく研究している人がいるのですね。おかげで、よく分かります。
(2018年1月刊。税込968円)

輝ける闇の異端児、アルチュール・ランボー

カテゴリー:ヨーロッパ

(霧山昴)
著者 井本 元義 、 出版 書肆侃侃房
ランボー没後130年。
アルチュール・ランボーが生きたのはパリコミューンが誕生したころ。ヴィクトル・ユーゴ―も生きていた。ランボーは、コミューン兵士にもぐり込んだ。しかし、コミューン兵士のなかで、ランボーは挫折を味わった。澱んだ空気の充満する兵舎の中で、ランボーは詩を書けなかった。
1871年5月、ランボーはコミューン兵舎から逃げ出した。残った兵士たちは政府軍に虐殺された。
パリの詩人たちの前でランボーは自作の詩を朗読し、賞賛の歓声を受けた。ポール・ヴェルレーヌの紹介だった。しかし、ランボーは誌人たちとなじめなかった。
著者は私とフランス語をともに学ぶ仲間です。先に上梓していた『ロッシュ村幻影』を大幅に修正し、再構成してまったく新しい本となり、贈呈をうけました。
アルチュールは、幼少のころから教会に反抗し、神を愚弄し憎悪していたと言われている。そして、最期のとき、アルチュールは弱りきった肉体のかすかな力で、それでも必死の力で反抗した。何のために己は存在して生きてきたのか。俺は神を信じない。しかし、神が存在するなら、それを激しく憎む。そして、己の存在をも憎む。しかし、司祭は、アルチュールの中に深い信仰心を見た。
なかなか不可解なやりとりです。これが神への信仰の本質なのでしょうか…。宗教心の乏しい私には理解できません。
(2022年1月刊。税込1650円)

人生を変えた韓国ドラマ

カテゴリー:朝鮮・韓国

(霧山昴)
著者 藤脇 邦夫 、 出版 光文社新書
私は韓流ドラマはまったくみていませんので、この本で紹介されているドラマもみたものはありません。でも、今や韓流ドラマは日本だけでなく、インターネットを通じて全世界に流れて流行しているというので、その謎を知りたくて読みました。
「冬のソナタ」が日本で大人気になったのは20年ほど前の2003年ころ。第一次の韓国ドラマブームが起きた。第二次は、2011~2015年。2016年から第三次ブームが起きて、アメリカドラマに匹敵するようになった。そして、第四次は、2019~2021年、「愛の不時着」、「梨秦院(イテウォン)クラス」、「賢い医師生活」が登場した。
韓国ドラマは日本のドラマよりずいぶん先を歩いていて、21世紀中に日本が韓国に追いつくのは、もはや不可能な状況にある。
韓国ドラマとアメリカドラマは、視聴ソフト・コンテンツとしては、ほぼ同一線上にある。
韓国ドラマのすべてが傑作ではないが、その打率は6割強に達している。これは、驚異的なクオリティの高さ。
「冬のソナタ」は女性に受けたが、「チャングムの誓い」は男性にも受けた。また、50代中心から、40代~60代にまで幅が広がった。
日本のドラマが停滞しているのは、制作のスタッフ、演出、脚本、俳優が劣っているからではない。広告スポンサーのつくドラマの企画が20代、30代の若い女性向けしか求められていないから。企画がこのように硬直しているからだ。
そして、韓国ドラマは、2億人の視聴者を保有するネット配信による全世界同時公開だ。
アメリカドラマは、シナリオライター集団からのアイデアで全体のコンセプトを決定していく。
これに対して韓国ドラマは、一人の脚本家が単独で書く傾向が強い。
韓国ドラマには、メロドラマの通俗性をさらに強固にするため「復讐」の要素が付加されるという特有の傾向がある。
韓国ドラマほど、日本人(とくに女性)のメンタリティに自然に浸透した映像文化は他にない。なんといっても企画の斬新さと脚本が大切。
韓国ドラマの日本リメイクは、可もなく不可もなくというのがほとんど。ところが、日本ドラマの韓国リメイクは、みんな成功している。韓国俳優が演じて、演技に深みが出ている。
日本では、不倫と復讐ドラマは、一般的な支持が得られない。
年齢・性別を問わず、韓国は世界有数の俳優大国。生活力旺盛で、感情表現の豊かな俳優が多く、たとえば患者を演じる俳優たちの感情過多で、過剰なほどの喜怒哀楽の振り幅は、ドラマに不可欠。日本の視聴者にとって韓国ドラマが新鮮だったのは、ドラマ内の人間の喜怒哀楽の感情表現が素直で、しかも生(なま)で、ストレートだから。
人物造形も善悪の二項対立が分かりやすく、基本的な筋立ても理解しやすいので、親近感が自然と湧いてくる。これに音楽効果もあり、全身で感じる「何か」があって、「心に沁(し)みる」のだ。
韓国ドラマはまるでみていませんが、韓国映画はかなりみています。本当にいい映画が多いと思います。人間社会の現実を見て、改めて考えさせられるようなもの、政府にタテついて堂々とモノを言うようなものが少なくありません。みなさん、ぜひ映画もみてください。
(2021年11月刊。税込1320円)

彼は早稲田で死んだ

カテゴリー:社会

(霧山昴)
著者 樋田 毅 、 出版 文芸春秋
早稲田大学文学部といえば、昔も今もワセダのなかでも一目置かれる存在なのではないでしょうか。吉永小百合も女優活動の合い間に通学していましたよね。ところが、私の大学生のころは、革マル派が暴力支配しているという悪名高いところでした。暴力「的」支配という生やさしいものではなく、むき出しの暴力でもって文学部を支配していたのです。革マル派にクラスの中で批判的なことを言おうものなら、暴力的糾弾の対象となり、やがて授業を受けられなくなるのでした。
そんな状況のなかで起きたのが川口大三郎君のリンチ殺人事件です。1972年11月8日のことです。早稲田大学構内で学友と一緒に談笑していたところを拉致され、革マル派の支配する文学部自治会室でメッタ打ちされ、ついに虐殺されてしまいました。
革マル派は、川口君が中核派のメンバーで、スパイ行為をしたので原則的な自己批判を求めていたときに突然ショック死したと弁明しました。こんな弁明はあとの刑事裁判では事実として認められず、虐殺行為に及んだ学生たちは有罪になっています。その場にいた人間が「裏切」って自白したことから、虐殺行為の全容が判明したのです。
革マル派に対して、早稲田大学当局は批判するどころか、完全な癒着状態にあり、一般学生から徴収した自治会費(授業料と同時に1人1400円を徴収していた)900万円を革マル派に渡していた。革マル派の貴重な活動資金となっていたので、革マル派は当然、死守しようとする。
当時の村井資長総長は、革マル派による川口君殺害事件について、自らの責任はまったく問うことなく、まるで他人事(ひとごと)のような口ぶりでしかなかった。事件の原因について、「派閥抗争」とまで言った。
学生たちの怒りは大きく、革マル派を徹夜状態で学内の教室において缶づめにして追及していると、午前8時ころ、50人ほどの警察機動隊がやってきて、追及されていた革マル派6人を救出した。これは早稲田大学当局が警察に救出要請したのに警察がこたえての行動だった。
いやはや、一般学生に取り囲まれた革マル派が警察機動隊に救出されただなんて、ひどい話です。内ゲバがそこであっていたのでもなんでもありません。ただひたすら革マル派の虐殺行為についての追及・糾弾の集会があっていただけなのです…。
直木賞作家として有名な松井今朝子さんも、このとき早稲田一文の1年生であり、ノンポリ学生として革マル派による虐殺糾弾の学内デモに参加したとのことです。それほど盛り上がっていました。
そして、学生たちの怒りは革マル派自治会をリコールして臨時執行部を選出し、著者は委員長になるのです。ところが、大学当局は、なかなかそれを認めません。そして、革マル派はお得意のマヌーバーを駆使し、学生を個別撃破して、反転攻勢に出てきます。
そこで、革マル派の暴力に対して暴力で立ち向かうのか、という問題をめぐって著者たちの側で大激論となるのです。そのとき、著者は、あくまで非暴力を貫くべきだと主張しました。ここは本当に難しいところです。
東大闘争の最終盤で、東大駒場では全共闘の暴力に対して、クラス討論の結果として少なくない学生がヘルメットをかぶりました。身を守るものとしてのヘルメットです。神田で買ってきたと言う学生もいました。そして、そのヘルメットはセクトの色とは違うものにし、しかも、ヘルメットには「ノンポリ」とか「非暴力」といった自分の主張をマジックインキで書いて、セクトメンバーでないことをそれぞれ明らかにしていました。
私は、闘争の中盤生のころ、銀杏並木での押しあい(もみあい)をしているとき(まだ全共闘のほうもヘルメットをかぶっているのは少なかったころです)、全共闘の学生がうしろの方から投げた小石が頭にあたって出血し、学内の診療所で頭を包帯でグルグル巻きにされて、いかにも「暴力学生」からのような格好で電車に乗ったり、とても恥ずかしい思いをさせられましたので、ヘルメットをかぶるのは当然でした。
そして、最終盤のときには仲間と一緒に私も角材を手にしました。本郷の図書館前広場の衝突時が初めてで、そのあと明寮攻防戦のときには、私が手にしていた角材を全共闘の学生に奪いとられて、うしろに下がりました。このように、革マル派のすさまじい暴力を前にして非武装で立ち向かうというのは、理屈ではありえても、実際にはとてもとても勇気のいることだと私の体験からも思います。
なにしろ、革マル派はいかにも場慣れした鉄パイプ部隊が襲ってくるのです。著者も、革マル派につかまり、この鉄パイプで打ちのめされました。
致命的なダメージを一瞬にして与える刃物や銃などの武器とは違い、鉄パイプは殺傷効果では劣るが、それだけに何度も振り下ろされることで、激痛とともにその恐怖で心身が冒されていく。まさに、あらゆる意欲が削(そ)がれていくのだ。これって、すごく分かる気がします。
著者は、早稲田大学を卒業して朝日新聞の記者になった。そして、当時の革マル派の自治会幹部(副委員長)だった「辻信一」にインタビューした。「辻信一」は革マル派から逃げてアメリカに渡り、今は学者になっている。当時の川口君虐殺について、心から反省しているとはとても思えない自己弁護を延々と述べてたてた(と私は受けとめました)。
早稲田大学当局が革マル派と縁を切ったのは1994年に奥島孝康総長となってから。それまで商学部自治会費として年に1200万円を革マル派に渡していたのをやめ、早稲田祭もやめた。いやはや、長い年月がかかったものです。
早稲田大学を正常化するために苦労し、今回改めて活字にして世に問うた著者の努力と心意気に心から拍手を送ります。全共闘をもてはやす人が今でも少なくありませんが、そのすさまじい暴力、「敵は殺せ」というスローガンとともに暴力を振るっていた全共闘の行為は根本から否定されるべきだと本書を読みながら改めて思ったことでした。
(2021年11月刊。税込1980円)

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