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同志少女よ敵を撃て

カテゴリー:ヨーロッパ

(霧山昴)
著者 逢坂 冬馬 、 出版 早川書房
独ソ戦、ナチス・ドイツ軍とソ連・赤軍の死闘のなかで、スターリングラードなどでは激烈な市街戦も戦われ、そのとき狙撃兵が活躍しました。ソ連軍は、女性だけの狙撃兵部隊を組織し、彼女らは目を見張るほど活躍しました。この歴史的事実を踏まえたフィクション(小説)ですが、よく調べてあり、ストーリー展開も無理がなく、最後まで狙撃兵になった気分で読み通しました。
アガサ・クリスティー賞を受賞しましたが、惜しくも直木賞は逸してしまいました。
巻末に主要参考文献一覧が明記されているのは、小説と言いながらも歴史的事実に立脚していることを裏付けています。このリストにあがっているもので有名なのは最近の本では『戦争は女の顔をしていない』(岩波書店)です。これはマンガにもなりました。読みでがあります。
日本人の書いたものでは大木毅『独ソ戦』(岩波書店)が勉強になりました。
スターリングラードをめぐる攻防戦については映画もありますし、狙撃兵を主人公とする映画もありました。
ソ連の狙撃兵は、一般の歩兵師団の中に置かれる狙撃兵部隊と、第39独立小隊のように、ソ連軍最高司令部隊予備軍に所属し遊撃する狙撃兵集団に大別される。いずれにしても、狙撃兵は歩兵と相性が悪く、仲は良くない。これは職能の違いにもよる。
歩兵は前線で敵弾をかいくぐって敵に迫り、市街戦ともなれば数メートルの距離で敵を殺すのが仕事だ。そのために必要な精神性は、死の恐怖を忘れて高揚の中で自らも鼓舞し、熱狂的祝祭に命を捧げる剣闘士のものだ。
これに対して狙撃兵は、潜伏と偽装を徹底し、忍耐と集中によって己を研鑽し、物理の下に一撃必殺を信奉する、冷静さを重んじる職人であり、目立つことを嫌う狩人だ。
歩兵から見た狙撃兵とは、自分たちを全面に出して距離を置いて敵を撃つ陰気な殺し屋集団。これに対して、狙撃兵から見た歩兵とは、狙撃兵の損耗率が歩兵より高いという事実を無視して、自分たちを蔑視し、乱雑な戦闘技術で粗暴に振る舞う未開の野蛮人。
狙撃兵は、歩兵が求めるような戦友同士の同志的結合、固い絆といったものを好む精神性をあわせて重視せず、狙撃兵同士で集まり、寡黙に過ごす者が多い。
500メートル先の敵将校をスコープでとらえ、生きている人間と分かって銃撃して殺すというのが狙撃兵の任務。自分の指の引き金で目前の人を殺すことにためらうことがないというわけです。ふつうの神経の持ち主にできることではないでしょう。私は、もちろんできません。そこらをふくめて、いろいろ考えさせられる本でもありました。
(2021年12月刊。税込2090円)

さずきもんたちの唄

カテゴリー:人間

(霧山昴)
著者 萱森 直子 、 出版 左右社
瞽女(ごぜ)の小林ハルさんの最後の弟子であった著者による瞽女の話です。とても面白くて、ぐいぐい惹き込まれて車中で一気に読みあげてしまいました。
瞽女は難しい漢字ですが、打楽器の「鼓」と「目」から成るもので、身分や生まれを指すのではなく、職業の名前。起源は室町時代と言われている。
三味線をもってうたうことで暮らしを立てていた、目の見えない女性たちの職業。新潟・越後では昭和の中頃まではその姿を見ることができた。
越後の瞽女たちは一本の三味線とその声でみずからの人生を切り開き、人々の暮らしに深く入り込んでパワーあふれる娯楽を提供する、誇り高き芸人集団だった。
瞽女は、ひとりで旅をすることはない。少なくとも親方と弟子と手引きの三人づれ。五人の組になると、縁起がいいと村人から喜ばれた。うたうときも、みんなで座を盛りあげる。
瞽女唄では、物語をうたうことを「文句をよむ」と表現する。
物語を伝えればいいのだから、機械のように毎回、一字一句、ハンで押したように同じようにうたう必要はない。繰り返し繰り返し稽古して身にしみこんだ文句と旋律で、その場で臨機応変に物語を再現していく。
瞽女唄は脚色も演出もしない。これは棒読みするというのではない。伝えるべきは物語の中身。聴く人が、それぞれに自分の頭の中で物語を思い描いていく。うたい手の作為的な飾りをつけ加えるのは、かえって、その邪魔をしてしまう。
「葛(くず)の葉の身になってうたえ」
「童子丸の身になってうたえ」
しかし、それなのに、「声色(こわいろ)を使ってはならない。声の調子を変えてはならない」と厳しい師匠。
単調、無作為と共存する感動。ここには、他の芸能とは重ならない独特の声と音の響きがある。
「あきない単調さを初めて知った」
「何の変化ももりあげもないのに、どうしてこれほどまでに心に訴えてくるのだろうか」
「単調さを貫くことが、うたい手の存在感を消すのではなく、かえって重くしている」
これらは聴衆の感想。いやあ、瞽女唄をぜひ聴いてみたくなりました。
物語を伝えるためには、自分のリズム感や自分の感覚で語ることが必要。
瞽女唄をうたうとき、見台や譜面台は決して使わない。目に頼らないでうたう。耳で伝える。これは、瞽女唄であるための、芸としての根幹に関わるもの。
瞽女は津軽三味線のルーツでもある。
瞽女だった小林ハルさんにとって大事だったのは、「お客人が喜んでくれなさるかどうか」の一点のみだった。
瞽女唄は、瞽女さんたちが、その耳で伝えてきた唄。なので、すべての文句について、できる限り、余計な解釈を加えず、耳で受けとったまま声を出すように著者はつとめている。
たとえば、牛頭(ごず)をハルさんは、「ごとう」とうたう。これはおかしいと批評されると、「おれはこう習うたから、こううたうんだ」と怒りをこめて言った。
うたう前に解説文などは下手に配らない。話と唄だけ。お客は著者の表情をじっと見つめ、あるいは目を閉じて、その瞬間の響きそのものに耳を傾ける。うたい手とお客とが一体となって物語に入り込んでしまうような濃密な時間を過ごすことになる。
知識や教養は役に立つものだけど、ときとして素直な感動を妨げることがある。
「さずきもん」とは、個人の能力や人との縁など、人生において「さずかったもの」のこと。
小林ハルさんが瞽女になると決めたのは5歳のとき、稽古を始めたのは7歳、瞽女としての初旅に出たのは8歳のときだった。最初の師匠には10年間ついた。それはとても辛かったようです。
「おれは人から悪いことをされたことは絶対に忘れない。死ぬまで忘れられない。死んだって忘れねぇ。だから、おれは人に悪いことはしないんだ」
なーるほど、そうなんですね…。
小林ハルさんは、2005年4月25日に死亡。105歳だった。
ハルさんをモデルにした映画があるそうです。著者が瞽女唄指導として関わっているとのこと。ぜひみてみたいものです。
著者は乳ガン、そしてパーキンソン病にもかかって大変のようですが、ぜひこれからも元気に瞽女唄をうたい続けてください。ご一読を強くおすすめします。
(2021年10月刊。税込1980円)

「朝日文左衛門の『事件』」

カテゴリー:日本史(江戸)

(霧山昴)
著者 大下 武 、 出版 ゆいぽおと
『元禄御畳奉行の日記』(神坂次郎、中公新書、1984年)で有名となった名古屋の朝日文左衛門の日記をもう少し詳しく知りたいと思って読みはじめました。この出版社(同じ名古屋市のゆいぽおと)からシリーズものとして刊行されています。この本は7冊目です。
朝日文左衛門の日記には、天候、災害(地震と富士山の噴火)、料理、芝居(大変な芝居好きでした。武士の芝居見物は禁止されていたのに、143回もみに行っています)、武芸、文人仲間のことから寺社詣(もうで)、葬儀、生涯4度の出張旅行まで、事細かく記されている。出張は上方で、2ヶ月に及んだが、京坂滞在記のうしろに名古屋の出来事も必ず書き込んでいる。
市井(しせい)の出来事、たとえば博奕(ばくち)、心中、密通、離婚、火事、ケンカなどを好奇心のおもむくまま書きつらねている。
本書では、名古屋城に泥棒が入った事件、藩主の生母「本寿院」の大変なスキャンダルが強く目を惹きます。
朝日文左衛門は、百石取り御城代組同心の家に生まれ、本丸・御深井丸(おふけまる)御番を5年間つとめたあと、御城代管轄下の「御畳奉行」となり、お酒を吞みすぎて亡くなる前年の享保2(1717)年暮れまで、ひたすら『鸚鵡(おうむ)籠中記(ろうちゅうき)』を書き続けた。
正徳5(1715)年8月、名古屋城の本丸に盗人が入った。本丸御殿は、ふだんは誰も出入りしない無人。将軍が上洛するときだけ使われていた。門の錠前が外されていたのに当番の武士たちは気がついていないから、前の番の人たちがかけ忘れたと考え見て見ぬふりをして、誰も報告しなかった。この発見の遅れのため、犯人は結局つかまらなかった。
そして、結局、城代組同心の山田喜十郎が責任をとる形で自殺してしまった。ただし、1年後に責任を問われ、閉門とされていた人々も晴れて無罪放免となった。
次に、藩主の生母「本寿院」のスキャンダルについて…。尾張徳川家では出生した人は、吉通を除いた21人はすべて6歳までに死亡した。
四代藩主吉通の生母である本寿院(下総)について、驚くべき紹介がされている。
「資性軽薄、美にして淫(いん)」
お城勤めに上がる前、近所の男と情を通じ、周りに知れると駆け落ちし、ほとぼりも冷めぬうちにのこのこと帰ってきた。
「すぐれて淫奔に渡らせ給う。江戸へ下りし者は、時にふれてお湯殿へ召され、女中に銘じて裸になし、陰茎の大小を知り給い、大いなれば喜ばせ給い、よりより当接給うこともありき。又、お湯殿にても、まま交合の巧拙を試み給う事ありしとなり」
四代藩主吉通(25歳で死亡)が酒色に溺れたのは、母親(本寿院)の悪いところだけを見習ったせいだ。
「本寿院様、貧淫(どんいん)絶倫(ぜつりん)なり。或いは寺へ行きて御宿し、また昼夜あやつり狂言にて諸町人役者ら入り込む」
「夫」であった綱城が48歳で亡くなったとき、本寿院はまだ35歳。幕府(老中)から注意を受けたのは38歳ころ。1739(元文4)年に75歳で亡くなっているから、40年間も独り身の躰(からだ)を持て余していたことになる。
本寿院が亡くなった同じ年に七代藩主宗春は幕府から謹慎を命じられている。
名古屋藩につとめる奉行の一人が長く個人として日記をつけていて、それがそっくり残っているなんていうのも珍しいですよね。この本は、書かれていることに関連する歴史的事実についての考察もあり、当時の社会の実情がよく分かって大変勉強になりました。
(2019年10月刊。税込1760円)
 チューリップの花が咲きはじめました。これから1ヶ月ほど、庭のあちこちで咲いてくれます。ジャガイモの芽も地上に出ています。黄水仙が咲き終わって、首の長い白水仙が咲いています。
 ロシアのテレビに「戦争反対」を手にした勇敢な女性が登場したのを見て、大いに励まされました。やはり、戦争反対の声を上げることは大切なんですよね。一刻も早くロシアは撤退して、平和を取り戻してほしいものです。

西南戦争のリアル、田原坂

カテゴリー:日本史(明治)

(霧山昴)
著者 中原 幹彦 、 出版 親泉社
1877(明治10)年の西南戦争で最大の激戦地だった田原坂の戦いについて、現地の発掘状況も踏まえた本です。92頁と薄い冊子ですが、写真や地図が豊富で、よくイメージをつかむことができます。
まず名称ですが、戦争とは、国家間の武力による闘争をさすコトバなので、本当は西南戦役(せんえき)か西南役(えき)と呼ぶのが正しいとのこと。この本は通例にしたがい、西南戦争といいます。そして、英訳は「薩摩反乱記」となっていることが多いそうです。これも、「西南内戦」が適切だとされています。いずれも知りませんでした。
政府軍は熊本と福岡の境の豊前街道上野の南関に本営を置いた。ここから熊本城に至るコースは3つあったが、北の山鹿コースと南の吉次峠コースは、熊本まで数十ヵ所の難所があるのに、田原坂は抜けたらもう一つ向坂の難所があるだけなので、田原坂コースが選ばれた。
当時は自動車がありませんので、馬や牛に頼れないところでは人力しかありません。そして、重たい大砲を運び上げるには、この田原坂を人力でのぼっていくしかなかったのです。
田原坂の戦いは3月4日から20日までの17日間。この17日間のうち6日間、雨が降った。そして最終日の3月20日は大雨だった。「雨は降る降る、人馬は濡れる」という歌のとおりでした。
動員した兵力は薩摩軍が5万人、政府軍は全国から集められた8万人。政府軍の戦費は4157万円で、国家予算の7割に匹敵する巨額だった。
そして田原坂の戦いに政府軍はのべ最大8万人を動員し、死傷者が3000人、戦死者1700人だった。これは政府軍の前線死者の25%で、1日あたり100人だった。薩摩軍のほうは数千人規模で、実数は不明。
政府軍は田原坂の戦いで、548万発、1日32万発もの銃弾(砲弾ふくむ)を消費した。薩摩軍のほうは無駄撃ちせず、政府軍10発に対して1発と、銃弾を惜しみ、必要に応じて猛射した。
薩摩軍が17日間も持ちこたえて激戦になったのは、第一に地形、第二にその将士が一丸となって決死の覚悟で守り抜く気魂があったから。
田原坂は険しい坂道で、トンネルのようであり、細く曲がりくねった険しい山道で、兵略上、守りやすく攻め難い地勢である。薩摩軍は、私学校党の精鋭とここにそろえて死力を尽くし、堅固な陣地を両崖の十数ヵ所に築いた。両軍の距離は、わずかに5、6メートルとか20メートルというほど近接していた。
そして、薩摩軍は150人の集団抜刀で攻撃してきたので、政府軍は当初たちまちやられていった。政府軍は狙撃隊で対抗したが、1週間で全滅。その後、東京警視抜刀隊200人が活躍した。この抜刀隊には元東北諸藩士で構成されたというイメージがあるが、必ずしも正しくない。出身地が判明している45人のうち東北地方出身者は14人、薩摩藩出身者も16人いた。
この本には、薩摩軍にいた兵士のうち政府軍に投降した兵士のみからなる政府軍部隊(231人)が存在していたとのこと。途中から、薩摩軍は集団投降者が続出していたようです。田原坂の現地には何度か行ったことがありますが、この冊子を読んで、もう一度行ってみたいと思いました。
(2021年12月刊。税込1760円)

黒人と白人の世界史

カテゴリー:ヨーロッパ

(霧山昴)
著者 オレリア・ミシェル 、 出版 明石書店
フランスは奴隷制と植民地制度を、おそらくもっとも高度に強力に推進した国。
フランス革命のあと、画期的な人権宣言をしたフランスは、別の顔をもっていたのです。
そして、2001年のトビラ法(トビラという国会議員が法務大臣になって制定した法律)は、学校では歴史の学習指導要領に大西洋地域の奴隷や奴隷貿易についての教育を導入するよう義務づけた。
戦前の日本が中国大陸や朝鮮半島から人々を強制的に連行して日本国内の鉱山等で労働させていた事実を学校で教えるよう義務づけたようなものです。佐渡金山で強制連行してきた朝鮮人等を労働させていた事実は、地元の史書にも明記されている史実なのに、自民党政府は躍起となって否定しようとしています。まさしく恥ずべき政府というほかありません。
モンテスキューは、黒人奴隷制に反対する立場から、皮肉をこめて次のように言っている。
「この人たちが人間であると想像するのは、我々にとっては不可能だ。なぜなら、人間だと認めれば、我々自身がキリスト教徒ではないと思い始めるだろうから…」
アメリカ征服の初期には、ヨーロッパ人は自分たちを「キリスト教徒」と定義すれば、現地のインディアンと区別するのに十分だった。ところが、次第に混血児が増えてくると、白い色は支配階級の印になっていった。
非白人は、次のように分類された。ムラートは、白人と黒人の混血。メスティーソは白人とインディアンの混血、カルトロンは黒人の血が4分の1、オクタロンは黒人の血が8分の1。いずれも、社会の上層部に上ることを妨げられた。
奴隷制の極端なまでの暴力は高くつく。それによって引き起こされる反抗や反乱を抑止して労働強制する体制を維持するだけでも、大変な代償だ。表面的には繁栄していても、奴隷制は身体的暴力や法律によって絶えず再構築しなければならない脆弱な制度だった。そのため、奴隷制は非常に利益が上がっていても、その擁護者でさえ急速に廃止を受け入れざるをえなかった。
紀元後1世紀のローマ帝国には、200万人の奴隷がいた。同じ時期の漢王期にも100万人の奴隷がいた。日本でも少なくとも10世紀までは奴隷がいたとされている。これって、平安時代の日本に奴隷がいたということですよね。「安寿と厨子王」も奴隷の話だったということでしたっけ…。
インドでは、1860年にイギリスが禁止するまで900万から1000万人の奴隷がいた。
2016年ですら、本質的に奴隷とみられる人が世界中に2500万から4600万人いる。
7世紀から19世紀にかけて、1700万人のアフリカ人がアフリカ東部ルートで売られた。さらに1200万人が大西洋地域に売られ、900万人が北アフリカに送られた。
奴隷は、生産はするが、再生産のサイクルには貢献できないので、親族とみなされない。これは人間性からの永久追放に相当する。
奴隷は子どもを持ったとしても、親の資格は与えられない。子孫を持つこともできない。奴隷である父親や母親は、自由な子に対して親権を行使できない。
奴隷は象徴的かつ決定的に排除されると同時に、慣れ親しんだ人、召使であり、犬のように割り当てられた立場にとどまる。
奴隷制をつくり出すのは戦争だ。また、奴隷売買は商業経済の一部でありうる。
奴隷船には500人から600人が積み込まれた。2ヶ月半の航海で18%から11%の死亡率。反抗や逃亡の試みは日常茶飯事。乗組員の6倍の奴隷がいた。あまり残酷に扱って商品を死なせてはいけないし、反抗する力をもたせてもいけなかった。水と食事は最小限に抑え、病気を避ける必要があった。
目的の港に到着すると、男女各1人、子ども1人で4人か5人でひとまとまりとして売られる。これは実際の家族関係でないことが多い。
アメリカ独立宣言の起草者の一人であるトマス・ジェファーソンは、奴隷制を肯定し、奴隷を厳罰化する法律をつくった。
「博物学の観点から、赤い人種と黒い人種は、肉体と精神のあらゆる完成度において白人に劣っている」とジェファーソンは書いた。
人種とは、あいまいな概念で、ほとんど無意識であるため、奴隷制よりもさらにいっそう暴力を生み、本来は筋道をつけるべき社会関係を常に攪乱する。つまり、人種は奴隷制のあとを引き継ぐとしても、奴隷制に相当するものではない。
ニグロの家族をつくること、自由労働者を再生産し定住させることは、解決不能な矛盾だ。住民の定着・増加と奴隷労働は両立しない。
奴隷制は人種差別から生まれたのではない。正確に言えば、人種差別が奴隷制に由来するものだった。
奴隷と人種との関係をふくめて、いろいろ考えさせられる本でした(難解なところも多々ありましたが…)。
(2021年12月刊。税込2970円)

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