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続・新中国に貢献した日本人たち

カテゴリー:中国

(霧山昴)
著者 中国日中関係史学会 、 出版 日本僑報社
1945年8月15日、日本敗戦後、ソ連軍の次に満州に入ってきた八路軍(中国共産党の軍隊)は、日本人に次のように言った。
「日本に帰るまで八路軍に入りませんか。腹いっぱいご飯が食べられるし、時期が来たら必ず帰国させます」
翌日、数十人の日本人が八路軍に加わることにした。それは脅しに屈したというより、腹ペコの毎日だったので、食べさせてくれるのなら、それでいい。あとは帰国の日を待つだけだと考えたことによる。八路軍の共産思想に共鳴したからでは決してない。だいいち八路軍とはどういう軍隊か知らないし、共産思想については怖いというイメージしかなかったから。
ところが、八路軍とともに行動するなかで、多くの日本人が民衆を尊重し、共に戦うという点を文字どおり実践している八路軍に共鳴し、本心から八路軍を支えるように変わっていった。そして、それは多方面にわたった。多くの医師・看護婦が中国に残った。あたかも日本人経営の病院であるかのように…。工場の技術者として、また鉄道技師として…。新聞を発行し、映画製作にもあたった。
それだけでなく、中国人とともに最前線で八路軍の兵士として戦う日本人も多数いた。中国空軍のパイロット養成にも大きな力を発揮した。器材が乏しいなかで飛行機を飛べるようにしたうえで、中国人飛行士を養成していったというのです。すごいですね。
少なくない日本人が勤勉であり、創意・工夫に長(た)けているという特色を生かして毎日のように奮闘していたとのこと。
八路軍では階級の上下の差を少なくし、集団討議を重んじ、教育・学習の優先順位が上位にあった。ある日本人医師は連隊長級の待遇を受けて、毎月230万元をもらっていたとのこと。これは当時の日本のお金で3万円に相当し、日本人にとってもかなりの高収入を意味した。
日本敗戦後、中国の戦後復興は、国共内戦もあって本当に大変だったと思いますが、そのなかで少なくない日本人が新中国の建設に寄与していた事実を知るのはうれしい限りです。私の叔父(父の弟)も八路軍の要請に応じて紡績工場の技術員として戦後8年間、中国にいて、1953年5月に日本に帰国しました。
(2005年11月刊。税込2900円)
 お盆休みは遠出することなく、天神へ出かけて韓国映画「キングメーカー」を見ただけでした。庭にブルーベリーの青い実がぎっしりなっているのを摘み、夕食のデザートとしました。玄関脇の朝顔がとてもきれいで、自然に「お早よう。がんばってるね」と声をかけたくなります。雨も多いので、あっというまに雑草だらけになってしまいますので、雑草とりもしました。
 子どもたちがいなくなった子ども部屋を書庫としていますが、どうしても捨てられない愛着のある本、資料として残しておきたい本を選んで、この基準にあわないものは捨てるようにしています。そして、ジャンル別にまとめつつありますが、これが楽しい作業です。もう少ししたら、「私の本棚」シリーズとして私の個人ブログにジャンル別で紹介していくつもりです。
 お盆前まで、孫たちが来ていました。来てうれしい、帰ってうれしい。孫たちが来るたびにそう思います。「柱のキズ」を測ったら、この2月から半年間で3センチも身長が伸びていました。私のほうは身長が縮んでいくばかりです。
 室内でフワフワボールのキャッチボールをして遊んでもらったり、絵本を読んでやったりしました。今回は、「ダンプ園長やっつけた」が大人気でした。

音声学者、娘とことばの不思議に飛び込む

カテゴリー:人間

(霧山昴)
著者 川原 繁人 、 出版 朝日出版社
 うちの子が幼いころ、「とうもろこし」は「とうもころし」と、「ヘリコプター」は「ヘークリッパ」と呼んでいました。今でもよく覚えています。
 この本によると、よく似た例として、「オタマジャクシ」は「オジャマタクシ」に、「ジャガイモ」を「ガジャイモ」と言う子もいるそうです。「テレビ」を「テベリ」と言うに至っては、聞く側は少しばかり想像力を働かせなくてはいけませんね。
 著者の幼い娘たちは、着換えのとき、「ばんざーい」を「じゃんばーい」と言ったそうです。すかさず録音したのは、さすが音声学者。
 子どもたちの発音を録音して分析し、それに意味づけしていくのが学者の仕事なのです。
 ことばの順番がひっくり返る現象を「音位転換」と呼ぶ。
 「ピカチュウ」は「カプチュウ」に、「おさかな」は「おかさな」となる。
 著者は夫婦そろって音声学者。アメリカにも留学し、中学生のときから英語が好きになって、アメリカに留学して、ペラペラになったとのこと。なので、幼児のときから無理して英語を勉強する必要はなく、好きになったら英語は話せるようになるものだと自らの体験をもとにしています。同感です。もっとも、私のように好きでフランス語を始め、今なお続けていても、ちっともうまく話せないような人もいるわけですが…。
 一般に「声を出す」というと、ノド(声帯)を意識しがちだが、呼気(肺から出てくる空気)がなければ、声は出せない。声は肺から始まる。よって、肺の仕組みを意識的に理解すると、声が出しやすくなる。ふむふむ、そうなんですか…。
 保育園児の著者の娘は、「うさぎぐみ」、「たんぽぽぐみ」にいたので、「あたしの『ぐみ』では…」と「ぐみ」と濁って言った・
 そして、一匹、二匹を、「いっぴき」、「にぴき」と言った。なるほど、それは、そうなりますよね。同じように「さんぴき」、「しっぴき」、「きゅっぴき」です。いやはや、ホントそうですね。
 著者は都内・渋谷のコギャルたちにも突撃取材しています。勇敢ですね。
 「ちょべりば」は、「ちょーべりーばっど」。「ちょべりぐ」は、「ちょーべりーぐっど」。「ちょばちょぶ」は、「ちょーばっど、ちょーぶるー」。「けろんぱ」は「毛がロングで、ぱつきん」。「カリパク」は、「借りたまま、ぱくる」。いやはや、すごい略語です…。日本人は、このように、4文字リズムが好きだ。
 赤ちゃんに話しかけるときは、高い声で話したほうが赤ちゃんの注意をひきやすい。高い声を出すと、赤ちゃんの共感を得やすい。
 女性の名前は、「共鳴音を含んだ名前」が魅力的で、男性名は、「阻害音を含んだ名前」が魅力的とされる傾向が強い。共鳴音は、マ・ナ・ヤ・ラ・ワ行。阻害音は、パ・タ・カ・バ・ガ・サ・ザ・ハ行。この区別は「濁点をつけられるか、つけられないかで判断できる。とはいっても、『魔女の宅急便』の「キキ」は阻害音だけど、魅力的な女の子だ。日本人の女性名に含まれる子音のうち67%が共鳴音で、男性名に含まれる子音は64%が阻害音。怪獣の名前は、濁音を含むものが73%にのぼる。
 この本の結論は、音声学を知ると、人生がとても豊かになるということ。ええーっ、そ、そこまで果たして言えるのでしょうか…。それにしてもわが娘を、いわば実験台にして音声学を深く研究した著者のご苦労に対して、心より敬意を表します。面白い本でした。
(2022年6月刊。税込1925円)

八路軍の日本兵たち

カテゴリー:日本史(戦前・戦中)

(霧山昴)
著者 香川 孝志 ・ 前田 光繁 、 出版 サイマル出版会
 八路軍(戦前の中国共産党の軍隊)による百団大戦で負傷して捕虜となった日本兵たちのなかに八路軍に共鳴して、その兵士として活動するようになった日本人がいました。
 1940年8月、陸軍伍長だった日本兵(25歳)が戦闘で負傷して昏倒したまま八路軍の捕虜として、八路軍の前線司令部に連行されたのです。八路軍は捕虜を殺さないというのは知っていたけれど、日本軍は中国で聖戦を遂行していると思い込んでいたので、八路軍を容易に使用できなかったのでした。
 戦前の日本軍兵士にとって、生きて虜囚の辱(はずかし)めを受けるなと叩き込まれていたので、日本軍に戻ることは危険だった。
 そこが米英軍の兵士との大きな違いですよね。彼らは捕虜となって助かる道を選ぶのは当然のこととされていました。ところが、日本軍は自ら捕虜にならないというだけでなく、敵の兵士を捕虜としたとき、簡単に殺害していました。手間がかかるうえに、食糧確保の問題もあったからです。
やがて八路軍の言っていることのほうが正しいことが分かると、延安で日本労農学校を設立し、そこで学習を重ねるのでした。この状況を、アメリカ軍代表部からも視察に来ていました。このアメリカ軍将校は、アメリカ本国への報告のとき、蔣介石の軍隊より八路軍の方が断然良いとしたら、左遷されてしまったようです。
 八路軍の幹部兵士には、日本に留学して日本語ペラペラの人が何人もいて、捕虜となった元日本兵と親密な交流をしました。
 陸軍伍長としては死亡し、別の名前の人間として八路軍の兵士に生まれ変わったのです。八路軍の兵士となった元日本兵たちは、日本軍との最前線に出かけていって、日本兵に投降を呼びかけています。最前線にマイクなんてありませんから、メガホンを使った肉声です。50メートル先は敵(日本軍)の陣地。実際、元日本兵2人が戦闘中に死亡しています。
 7年間に捕虜となった日本兵は2407人、自発的に投降してきた日本兵は115人いた。
このなかから、のべ300人が延安の労農学校に入って教育を受けた。
 反戦兵士が日本軍の部隊に慰問袋(石けん、タオル、日記帳、下着類)を送ると、返礼として、みそやコンブが送られてきた。そこで、さらに酒やニワトリを送ったこともあるという。日本兵から慰問袋のお礼状が3通届いたとのこと。中国の戦場の最前線で、そんな交流があっていただなんて・・・、信じられませんね。第一次大戦中、最前線のドイツ軍とフランス軍の兵士がクリスマス停戦して、交歓していたのは映画にもなりました。
 日本敗戦後、野坂参三は随行員3人を連れて長春(新京)に入り、ソ連軍中佐と少佐の肩章をつけたソ連軍将校の軍袋を着用したので、ソ連軍からそれなりに処遇された。
 そして、野坂参三ともどもシベリア鉄道でソ連に行き、モスクワに1週間ほど滞在した。その後、朝鮮経由で日本に帰国した。博多港に入港したのは、1946年1月12日だった。
 貴重な体験記だと思いました。
(1984年6月刊。税込1320円)

寝ても覚めてもアザラシ救助隊

カテゴリー:生物

(霧山昴)
著者 岡崎 雅子 、 出版 実業之日本社
 北海道は紋別(もんべつ)市に日本で唯一のアザラシ保護施設「オホーツクとっかりセンター」があり、そこでアザラシの保護活動に従事している著者によるワクワクドキドキのレポートです。
 アザラシって、ほんと可愛いですよね。著者は小学3年生のときにアザラシに魅せられ獣医となって、その保護のために日々たわむれながら働いているのです。幼いころの夢を実現しているって、素晴らしいですね・・・。
 アザラシは人間と同じ哺乳類。アザラシには18種いる。
アザラシはアシカに比べて前肢が小さく、主として後肢を使って泳ぐ。デコボコの少ない流線形の体形は、水の抵抗を減らし速く泳ぐし、体熱の放散を最小限に抑えるのに適している。
 アザラシの個体識別、つまり全頭を見分けるのは、とても大切なこと。
 紋別のとっかりセンターでは、27頭のアザラシを飼育している。保護されるアザラシは漁網に迷いこんでつかまったり、ケガした個体がほとんど。
 アザラシは乾いても大丈夫で、かえって、水をかけると体温を奪われ、衰弱させてしまうことがある。うひゃあ・・・、そうなんですね。
 アザラシは、一般にはとても臆病な生き物。どころが、例外はあり、人間を怖がらないアザラシもいる。
 保護の必要なアザラシは、いったん海へ逃げても、陸上にとどまるような個体だ。保護したアザラシの生存率は、この10年間で、70%。残り30%は助からない。その死因に、寄生虫感染も多い。
 アザラシは個体によって、好みが異なる。イカが好きなアザラシは多い。ホッケ(魚)は頭、胴、尾のそれぞれについて好みが分かれる。なので、飼育員は、アザラシの好みに応じてエサを与える。いやぁ、これは大変ですね・・・。
 アザラシは頭が良い。飼育員にある名前を覚えている。本名だけでなく、ニックネームも分かっている。そして、他のアザラシの名前も分かっているので、その名前が呼ばれると、その周囲に近づいて、エサを横どりしようとするものもいる。
 アザラシの寿命は30年。保護したアザラシはなるべく海に戻してやる。健康なアザラシは、1週間くらい食べなくても、なんともない。
 ゴマフアザラシは、メスがオスを選ぶ。相性が悪いと、メスはオスをまったく寄せつけない。
 ワモンアザラシのメスは、気が強くて、怒りっぽい。オスはメスの尻に敷かれて、うまくいく。
 ゼニガタアザラシは、一夫多妻制。それでも激しい闘争は見られない。幼いころから顔見知りなので、順位関係ははっきりしているからのようだ。
 アザラシは、飼育員を見分けるのに、声を重要視している。
 アザラシが死亡して解剖しているのを見たアザラシは、そこにいた飼育員を敬遠するようになる。アザラシは賢いだけでなく、仲間の死をいたむ気持ちがゾウのように強いようです。
 たくさんのアザラシの写真があって、とても楽しい飼育日記になっていました。
(2022年7月刊。税込1650円) 

江戸の道具図鑑

カテゴリー:日本史(江戸)

(霧山昴)
著者 飯田 泰子 、 出版 芙蓉書房出版
 江戸時代の人々がどんな生活をしていたのかが、ビジュアル(視覚的)に分かる図鑑です。なので楽しく眺めることができました。
 たとえば、江戸時代の歴代天皇はすべて土葬された。これは、昭和天皇まで続いた。
 庶民の棺は桶型の座棺。依頼されて素早く作るので、早桶ともいった。
 子ども時代の遊びは、時代で変わるけれど、春のタコ揚げと、四季のコマ廻しは相当の努力が必要になっている。子どもの遊びとして「タコ揚げ」があるが、京阪では「いかのぼり」と称し、単に「いか」と呼ばれることもあった。全国的には「いか」が優勢だった。
 銭湯では洗髪を禁止するところも多かった。大量の湯を使うことになるためで、洗髪を禁止させる銭湯が多かった。洗髪するのは、せいぜい月に1回くらい。江戸時代には、かなりの高家でも内風呂がないのはフツーだった。洗髪のための市販の洗剤はなく、なんと自作していた。
江戸時代、女性はみな、結婚すると歯を黒く染めた。
箪笥(箪笥)は、一般庶民には無縁だった。部屋に箪笥はなく、行李(こうり)に入れるか、風呂敷に包んで、部屋においていた。
 畳は、古くは座るところだけに敷く敷物だった。室町時代のあと、部屋全体に敷きつめるようになった。
 囲碁の歴史は古く、平安時代に始まる。下々に流行しはじめたのは、江戸後期。碁会所ができ、人々は町の碁会所に通った。女人禁制の銭湯の2階は、やりたい放題で、そこで碁をうつ人々もいた。
 江戸時代、識字率はかなり高かった。それは高家に奉公するにしても、職人になるにしても、読み書きは大切だったから。侍の子弟はもちろん、町人の子も寺子屋で学んだ。
 紙は貴重品だったので、書き損じても捨てずにとっておき、紙屑屋に買いとってもらい、これを専門の漉返(すきかえ)し屋が再生する。このようにして再利用されるのがフツーだった。江戸時代の風俗について、大変勉強になりました。
(2022年5月刊。税込2750円)

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