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氏名の誕生

カテゴリー:日本史(江戸)

(霧山昴)
著者 尾脇 秀和 、 出版 ちくま新書
 結婚しても姓を変えたくない人が少なくありません。それなら、江戸時代までの日本のように、つまり明治以降の日本の制度にこだわることなく、夫婦別姓を認めて何の不都合もありません。
 自民党の保守派が夫婦別姓に対して頑強に抵抗してきましたが、実は、その根元は勝共連合=統一協会の教義にあることが判明しました。でも、韓国では、昔も今も夫婦は別姓なのです。典型的な「反日」団体の言いなりに動いてきた自民党の保守強硬派は統一協会糾弾の嵐のなか、ダンマリを決めこみ、ひらすら嵐の通り過ぎるのを待っているばかりのようです。おぞましくも、いじけない人々です。
 江戸時代、名前が変わるのはフツーのことで、一生同じ「名前」を名乗る男は、むしろいない。江戸時代の名前は、幼名を除いて、「親が名づけるもの」ではない。改名が適宜おこなわれ、「かけがえのないもの」でもない。現代日本の常識は江戸時代には、まったく通用しない。
 江戸時代の人名には、生まれた順番とはまったく無関係なほうが、圧倒的に多い。甚五郎、友次郎といっても、どちらも長男でありうる。五男でも二男でもないのがフツー。
 幼名や成人名に、父祖の名を襲用することが多い。「金四郎」を父と同じく子どもが名乗るとき、四男ではない。「団十郎」も「菊五郎」も十男や五男であることは求められていない。
 江戸時代の人間は、幼名、成人名、当主名、隠居名の四種類の改名を経るのが一般的。幼名は親などが名づけるが、成人(15歳か16歳が多い)になると、自ら名を改める。このほか、一般通称としての名前に法体名(ほったいな)がある。僧侶や医者、隠居の名前。宗春、旭真、良海、洪庵など。江戸時代の医者は法律で法体であるのが通例で、長庵(ちょうあん)、宗竹、玄昌などと名乗った。
 江戸時代の大名の「武鑑」に「松平大隅守斉興」、「大井大炊頭利位」、「青山下野守忠裕」とあるとき、最後の「斉興」、「利位」、「忠裕」を「名乗(なのり)」と呼ぶ。この「名乗」は「名前」としては日常世界では使わない。江戸時代の書判には、「名乗」の帰納字を崩したものを用いる習慣が広がっていた。書判はもともとは草書体で本人が自書したものを言ったが、江戸時代中期以降は、印判(ハンコ)を用いることが広がった。江戸時代は印形を重視し、そして多用した時代である。この印を捺す行為によって、初めて、その文書に効力が発生する。たとえ自署であっても、無印であれば、それは後日に何の効力ももたない。ちなみに、江戸時代は朱は用いず、もっぱら黒印である。苗字や通称を印文にはまず使用しない。印文は多くが篆書(てんしょ)であり、判読が困難。他者に読ませることはほぼ意識されていない。
 苗字は武士から一般庶民まで持っている。ふだんは通称だけを名前とし、自らはこれに苗字をつけたものを「名前」としては常用しない。すなわち、一般庶民にも代々の苗字がないわけではない。それは名乗や本姓と同じように、設定があっても使わないものだった。
 よく、江戸時代まで一般庶民には名前(姓)がなかったので、明治時代になって戸籍制度ができて登録しなくてはいけなくなったので、あわてて、まにあわせの名前を考え出して届け出たと言われますが、これはまったくの間違いだということです。「姓」はあったけれど、自ら名乗るものではなかったのです。
一般の百姓にとって、苗字(姓)は自ら名乗るものではなく、他人から呼ばれるものとして用いられた。
 「姓名」、とくに「名」を呼ぶのを遠慮するのを「実名忌避」と呼ぶ。
 江戸時代の著名な豪商である鹿島屋久右衛門は「廣岡」、湖池屋善右衛門は「山中」という苗字を持っていた。屋号と苗字は別のもの。苗字は血縁者間で共有するが、屋号は血縁者間では必ずしも共有しない。
 ところが、江戸時代でも朝廷社会では、一般の常識とは異なる常識が通用していた。二つの常識が並行して存在していたのだ。
 江戸時代の庶民にとって、苗字は自らの人名を構成する必須要素ではない。それは、いちいち使用するものではなく、古くから代々の苗字を設定しているのもフツーだった。
苗字公称許可は特別な価値をもっていた。明治3年9月、苗字公称が自由化された。それが、突然、自由化されてしまった。
 では、なぜ、政府がそうしたのか。「国家」にとっての「氏名」とは、「国民」管理のための道具だった。つまり、「国民」に徴兵の義務を課す道具だった。徴兵制度を厳格に実行するため、国民一人ひとりの「氏名」の管理・把握を徹底する必要があった。
 要するに、徴兵事務という政府側の都合だった。そして、そのため、氏名は一生涯、最初の名前は変えないものだという新しい「常識」が誕生し、今日に至っている。
 氏名についての「常識」の変遷がよく分かりました。
(2021年5月刊。税込1034円)
 
 祝日、サツマイモを掘りあげました。地上部分は縦横無尽に葉と茎がはびこっていますので(これがかえって悪いかなと心配しました)、地下のイモはどうだろうかと思ってスコップを入れてみると、出てきたのは、なんと細いものばかり…。昨年と同じ状況で、小粒のイモばかりでした。植えつけを研究してみます。
 日曜日に、アルミホイールにくるんで1時間、オーブンで焼いて食べてみました。黄色い果肉は、ねっとりとまあまあ美味しく食べられました。ほくほく型ではありません。家人からは甘味が足りないから売り物にはならないと不評でした。
 玄関脇の青い朝顔は終わりました。ピンクのフヨウが咲いています。
 そろそろチューリップを植える季節です。サツマイモのツルや葉を穴を掘って埋め込みました。畳一枚分の作業は大変です。リコリスの花の第2波が咲いてくれました。

東北の山と渓(Ⅱ)

カテゴリー:人間

(霧山昴)
著者 中野 直樹 、 出版 まちだ・さがみ総合法律事務所
1996年から2018年まで、著者が東北の山々にわけ入って岩魚(いわな)釣りをした紀行文がまとめられています。いやはや、岩魚釣りが、ときにこれほど過酷な山行になるとは…。
 降り続く大雨のなか、道なき藪(やぶ)の中を標高差500メートルをはい上れるか、幅広い稜線に濃霧がかかって見通しがきかないときに目的とする下り尾根の起点を正しく把握することができるか、三人の体力がもつか、などなど心配は山積み。でも、より危険のひそむ沢筋を下るより、このルートしかない。
 夕食は、昨夜までと一転して酒もなし、おかずもなし、インスタントラーメンをすするだけ。
 源流で釣りをしていて夕立に見舞われ、雨具を忘れたので、Tシャツ姿でびしょ濡れになった。雨に打たれながらカレーを待っているとき、空腹と体温低下のために悪寒が走り、歯があわないほど、がたがた震える状態になった。
 カレーが各自にコッフェルに盛りつけられたので、待ってましたとばかり口にしようとしたら、先輩から叱責された。みんな同じ状況にあるのだから、自分だけ抜け駆けしたらだめ、苦しいからこそ、みんなを思いやり、相手を先にする姿勢が必要。それが苦楽を共にする仲間というものだ。こんこんと説教された。そして、三人で、そろって「いただきます」をして、カレーを食べた。
 いやはや、良き先輩をもったものですね。まったく、そのとおりですよね。でも、なかなか実行するのは難しいことでしょう。
 午前5時、藪に突入して、藪こぎ開始。枝尾根とおぼしき急勾配を登りはじめる。足下にはでこぼこの石があり、倒木があり、ツタがはう。足がとられ、ザックの重さによろめく。背丈(せたけ)をこえる草木からシャワーのように雨しずくが顔を襲う。
 予想をこえて悪条件の藪こぎに体力が消耗し、1時間半、果敢に先頭でがんばった先輩がばてた。昨夜、インスタントラーメンしか食べていないことから、糖分が枯渇しまったのだ。頼みのつなは、昨夜つくったおにぎり6個だけ。いつ着けるか、何があるか分からないので、おにぎり1個を3つに割って、3人で口に入れる。精一杯かんで味わい、胃袋に送る。こんなささやかな朝食だったが、さすがは銀舎利。へたった身体に力がよみがえった。
 よく見ると、ブナの幹に細い流れができている。コップを流れに差し出し、たまった水を飲み、喉をうるおし、あめ玉をほおばった。
 午後1時半、ついに廃道と化している山道にたどり着いた。やれやれ、残しておいたおにぎり2個を3人で分け、ウィスキーを滝水で割って乾杯。
 なんとまあ、壮絶な山行きでしょうか…。軟弱な私なんか、とても山行なんかできません。
 それにしても著者は、こんな詳細な山行記をいつ書いたのでしょうか…。帰りの車中から書きはじめ、家に着いたら、ひと休みするまでも書き終えたのではないでしょうか…。それほど迫真的な山行記です。くれぐれも本当に遭難などしないようにお願いします。
 この冊子は、奥様の中野耀子さんの素敵な絵が随所にあって冊子の品格を高めています。また、先輩弁護士である大森剛三郎さん、岡村新宜さんを偲ぶ冊子にもなっています。
 つい行ってみたくなる、ほれぼれする、写真集でもあります。贈呈、ありがとうございます。
(2022年7月刊。非売品)

スコットランド全史

カテゴリー:ヨーロッパ

(霧山昴)
著者 桜井 俊彰 、 出版 集英社新書
 スコットランドの歴史を「運命の石」を軸として説明する新書です。
 「運命の石」は、エディンバラ城の宮殿2階に安置されている、重さ152キログラムの直方体の石。サイズは、670×420×265ミリメートル。何の装飾もない。 この「運命の石」が、1996年7月イギリスからスコットランドの700年ぶりに返されたのでした。
イギリスとスコットランドは、伝統的に違いがあるようです。スコットランドアは伝統的に親フランスで、イギリスのEV離脱には一貫して反対した。
 ふえっ、スコットランドって、親フランスなんですか、知りませんでした。
スコットランド人は、ヨーロッパ文明の母体であるギリシアの亡命王子と、その妻であるエジプトのファラオの娘の末裔(まつえい)。いやぁ、これこそ、ちっとも知りませんでした・・・。
 スコットランド人は、ピクト人、ブリトン人、アングロサクソン人、ヴァイキング、ノルマン人などが、時期を違えてやって来て、時間をかけて混じりあうことで、形成された。スコットランド人という単一の民族がはじめから住んでいたのではない。
 それが、イングランドとの13世紀終盤に勃発したスコットランド独立戦争のなかで、自分たちはスコットランド人だというアイデンティティ国家意識をもつようになった。なるほど、そういうことなんですね・・・。
 スコットランドの初めにいたピクト人については今もよく分かっていないようですが、身体中を彩色したモヒカンカットとして映画で描かれたとのこと。ふむふむ・・・。
 スコットランド女王メアリとエリザベス1世女王との確執。そして、やがてメアリによるエリザベス暗殺計画とその発覚、ついにはメアリの処刑に至る話は有名です。
この話も、スコットランドとイングランド、そしてフランスとのつながりの中で考えるべきものだと改めて認識されられました。さらに、処刑されたメアリの息子のスコットランド王ジェイムズ6世が、イングランド王としてジェイムズ1世になったというのです。世の中は、分かったようで分かりませんよね。
 国王の戴冠式にずっと使われ続けてきた「運命の石」なるものがあることを初めて知りましたが、それだけでも、本書を読んだ甲斐があるというものです。
(2022年6月刊。税込1040円)

アンネ・フランクはひとりじゃなかった

カテゴリー:ヨーロッパ

(霧山昴)
著者 リアン・フェルフーフェン 、 出版 みすず書房
 アンネ・フランクの『アンネの日記』は、私も、もちろん読んでいます。残念なことに、アンネの隠れ家の現地には行ったことがありません。アウシュヴィッツ収容所にも行っていません。本当に残念です。
 この本は、アンネたち一家が隠れ家に潜む前の生活を紹介しています。立派な高層アパートに住み、大きな広場で、アンネたちは自由に伸び伸びと走りまわり、遊んでいたのでした。そんな楽しそうな息づかいの伝わってくる本です。
 1939年6月12日、アンネが10歳の誕生日を迎えた日に、広場で8人の友だちとうつっている写真が表紙になっています。女の子たちは、みな屈託ない笑顔です。まだ、オランダにまでナチスの脅威はきていなかったのでした。
 アムステルダムには、高さ40メートル、13階建ての超モダンなマンションがあった。それは「摩天楼」と呼ばれていた。そして、その周囲に4階建ての中層アパートが立ち並んでいる。そこにアンネ一家は住みはじめた。
 大勢のユダヤ人がドイツから逃げて住むようになった。広々としたメルウェーデ広場でアンネは友だちと遊んだ。
 ナチスによるユダヤ人迫害が強まり、1935年には、アムステルダムは、ヨーロッパで最大級のユダヤ人居住地となり、6万1千人に達した。その大部分は労働者階級だった。
 1937年の時点でも、オランダのユダヤ人は、ドイツのような迫害がオランダで起きるはずがない、そんなのは、「まったくバカげた考えだ」と言っていた。
 1938年の末、戦争が起きるかもしれないと考え、オランダ国民は念のためにガスマスクを用意した。1万個以上のガスマスクが売れた。
 1940年5月10日、ドイツがいきなりオランダの「中立」を侵犯して攻めてきた。戦争だ。
 1942年、アンネ・フランクは、恐ろしい話を知らないまま、楽しさいっぱいで13歳の誕生日を迎えた。
そうなんです。子どもは、戦争なんて知らないで、そんな心配をせずに毎日を楽しく過ごすのが一番です。でも、ロシアのウクライナ侵略戦争は、それを妨害しています。
 オランダからユダヤ人4万人が強制・絶滅収容所に送られた。1943年6月20日、ユダヤ人一斉検挙で、この地域のユダヤ人たちが広場に集められている様子をとった写真があります。この日、アムステルダムだけでも捕まったユダヤ人は5500人もいたのでした。
そして、ユダヤ人一家が退去させられると、そのあとすぐに「ヘネイケ隊」と呼ばれる集団が入りこんで、目ぼしい家財道具を運び出して、私腹も肥やすのです。
戦後まで生きのびたアンネの父・オットー・フランクは、ひどく弱ってしまい、体重はわずか52キロだった。そして、隠れ家に残されていたアンネの日記を手渡されたのでした。日記を読むと、自分の娘として知っている少女とはまったく異なるアンネがそこにいた。知人は、「少女の書いた日記って、そんなに面白いものなのかね…」と疑問を口にしたという。
いやあ、そうなんですよね。でも、「アンネの日記」を読んで心を動かさない人がいるでしょうか…。私は、ベトナム戦争のときに書かれた『トゥイーの日記』(経済界)も、ぜひ多くの人に読んでほしいと考えています。これまた、すごい日記なんです。ぜひぜひ読んでみてください。
(2022年6月刊。税込4620円)

洪流

カテゴリー:中国

(霧山昴)
著者 程 極明 、 出版 KKブロス
 日中戦争のころ南京に生まれ育ち、国共内戦下の上海の復旦大学で学生運動の幹部として活動した学生群像を生き生きと描いた小説です。
 1937年夏の南京から物語は始まります。日本が日中戦争を始め、中国に対して無法にも侵略戦争を仕掛けてきました。蒋介石の中国軍は戦わずして撤退し、日本軍によって人々の住む町は無残にも焼き払われ、虐殺が始まります。日本軍に対する抵抗はまだまだ弱いものでした。中国共産党は南京に地下党を建設し、8回も市委員会を設けたが、すべて失敗した。みな殺されるか逮捕された。勇敢なだけでは革命に勝利できない。過去の路線は、あまりにも「左」寄りで、大衆から離反していた。地下党の規律は、もっと厳格でないと、すぐに破壊されてしまう。
 党中央は、密かに素早く、長期に埋伏し、力を蓄え、時期を待つ方針を打ち出した。せっかちにならず、「左」の過ちを犯さず、一時的な衝動に走らない。豪放的なものを利用し、大衆を団結させる。これを少しずつ実践していったのです。まさしく、苦難にみちた粘り強い取り組みがすすめられました。
 大学生たちは、南京のアヘン撲滅運動に立ち上がり、実力行動を起こしました。これには多くの民衆が賛同しましたし、南京政府も日本憲兵隊も手が出せませんでした。
 1945年夏、日本敗戦のあと、蒋介石の国民党政府が南京を支配した。南京の大学に対して、国民党の特務組織(公安当局の手先。スパイ・弾圧機関)が目をつけ、すきあらば弾圧しようと目を光らせた。国民党政府は、3ヶ月で共産党を負かすことができると豪語した。
 アメリカのトルーマン大統領はマーシャル将軍を中国に特使として派遣し、国共両党の軍事衝突を防ぐため、調停を試み、1946年1月10日、双十協定が成立し、停戦が実現した。
 1946年4月、国共内戦が中国の東北地方で始まった。
 1947年2月、毛沢東は「中国の政局は新たな段階に発展しようとしている。全国的に反帝・反封建闘争が発展し、今は新たな人民革命の前夜である」と指示した。 
 学生たちが南京でも北京、上海でも立ち上がった。蒋介石は、学生運動の鎮圧にふみ切った。これに対して、共産党の側は戦略を弾力的で運用することで抵抗した。
中間分子の意識の高まりも見なくてはいけないが、彼らの進歩が高いとみるべきではない。民衆には、休養し、考える時間がいる、進歩分子のレベルだけで大多数の学生を推し量ってはいけない。学生運動は波状的に前進するもので、直線的には発展しない。
 なかなか考えられた指示ですね。革命に勇敢さは必要だが、勇ましいだけで無謀なら、革命大衆の情熱と生命をムダにしてしまう。そのとおりなんでしょうね。よく分かります。
 1948年5月の上海解放の日までが描かれた、手に汗を握るストーリー展開でした。
 地下党活動の様子が、その困難さと知恵・工夫のあり方をふくめて具体的に紹介されています。訳者の井出叔子氏に注文して入手した本です。読みごたえ十分の本でした。
(2022年6月刊。税込1300円)

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