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ウォンバットのうんちは、なぜ、四角いのか?

カテゴリー:生物

(霧山昴)
著者 高野 光太郎 、 出版 晶文社
 オーストリアに生息する可愛らしいウォンバットは知っていました。でも、そのうんちが四角いだなんて、知りませんでした。写真でみると、なるほど四角いのです。切り餅(もち)みたいです。そして、その四角い形には意味があります。
 立方体のフンは、自分の存在をアピールするためのマーキング効果をもつもの。同じ場所に長時間フンを留まらせるのに、サイコロ型のフンは最高に役立つ。丸いと、風が吹いたり、雨が降ったら、どこかへコロコロと転がっていって、なくなってしまう。
 でも、どうやって四角い形のフンをつくるのか…。それは、腸壁の硬さが場所によって違うことによる。腸壁の硬くて厚いところと、薄くて柔らかいところを交互に通過していく。すると、便には角と面が形成されていくのだ。うひぇーっ、こ、これには驚きました。そんなことが可能になるなんて…。
 ウォンバットの腸は6~9メートルもある長さで、最長14日間もかけてゆっくり消化される。排泄されるフンは基本的に非常に乾いている。
 オーストラリアにすむコアラも、ウォンバットの近縁種で、共通の祖先をもつ。
 ウォンバットは、単独行動をする生き物。野生下での寿命は長くて15年。動物園では33歳まで生きた例がある(大阪の五月山動物園)。
ウォンバットは、コアラやカンガルーと同じ有袋類。つまり、お腹の袋の中で子育てをする。
 著者は日本の大学には進学せず、オーストラリアのタスマニア大学に進学して、そのままウォンバットの研究をしています。高校を卒業して、一人でオーストラリアの大学に入って生活するなんて、とても勇気はありますよね。そして、今もオーストラリアでウォンバットの研究に従事しています。すごい、すごーい。今後も研究の成果をぜひ日本で発表してください。
 とても面白い本でした。
(2022年10月刊。税込1760円)
日曜日、フランス語の口頭試問を受けました(準1級)。3分前に問題文を渡されます。ウクライナでの戦争は日本にどんな影響を及ぼしているか、ストライキに賛成か反対か。この2問のうち1問を選んで、3分間スピーチをするのです。私は戦争の影響をフランス語で話すのは難しそうなので、ストライキのほうを選びました。
 ストライキは憲法で定められた権利だ。40年前に大きなストライキがあって以来なくなり、組合指導者がストライキをしようとしていないのは残念だ。などを、とつとつと話しました。分かってもらえたようですが、どうでしょうか。若い人がストライキをしようとしないのはなぜかと質問されましたが、私には分からないと答えるしかありませんでした。難しいことを話す能力はありませんので…。ともかく10分足らずの試験は終わりました。
この1ヶ月ほど、必死でフランス語漬けの頭にしていましたので、本当に解放感でいっぱいです。最高のボケ防止になっていると思います。

豪商の金融史

カテゴリー:日本史(江戸)

(霧山昴)
著者 高槻 泰郎 、 出版 慶応義塾大学出版会
 著者には失礼ながら、学者の金融に関する小難しい論文集だろうと、まったく期待もせずに読みはじめたのでした。ところが、予期に反して、意外や意外、とても面白くて、江戸時代の豪商の生きざまを知り、また、その息吹きを感じることができました。
 NHKの朝の連続テレビ小説「あさが来た」(2015年9月より全156回)の主人公である廣岡浅の関係する廣岡家の古文書が発掘され、それにもとづいているので、話がとても具体的で分かりやすいのです。
 旧家の大蔵に古文書が埋もれていたのです。それは2万点超もありました。
 大同生命の創業一族にあたる廣岡家は、江戸時代には、三井、住友、鴻池と肩を並べる豪商でした。姓は廣岡、屋号は加島(かじま)屋久右衛。東の大関が鴻池で、西の大関を加島屋久右衛門(加久。かきゅう)がつとめていたのでした。
 江戸の商人の多くは現金決済していたのに対して、大坂商人は手形決済を主としていた。大坂には「大坂法」と呼ばれる独特な法制度が敷かれていた。債権者を保護する傾向の強い法制度である。
 18世紀までは京都商人のほうが優位にあった。しかし、大名貸がうまくいかずに、京都商人は没落し、その代わりを大坂商人が担った。大坂は物流の拠点にある点に強みがあった。
 大坂の米市場では、米切手(米手形)が登場し、流通した。
 「加久」は、大名貸をするだけでなく、江戸幕府の経済政策のなかで知識の提供を求められた。資金と市場知識の両面で幕府の経済政策に豪商は組み込まれていた。
 大坂の堂島米市場で、帳合米(ちょうあいまい)商(あきな)いという画期的な取引方法が始まった。一種の先物取引である。しかし、今日の先物取引とは異なり、現物の受渡を予定しないものなので、今日の指数取引をみるべきもの。
 江戸幕府が堂島米市場のこの取引を公認したのは1730年8月のこと。米価が底値をつけたとき。
 「加久」は萩藩との関係では「館入(たちいり)」となった。蔵屋敷の出入りを許され、大名の資金繰りや資金調達の相談に応じたり、優先的に融資する関係にあった。
 大名は自らの詳細な財務情報を大名貸商人に開示し、そのことで安定的な融資を受ける。大名貸商人は、得られた財務情報にもとづいて大名の座性運営を監視し、規律を与えることで融資の安定性を担保する。このような長期間で密接な関係を相互に構築した。
 廣岡家(「加久」)は、全国120以上の諸家(将軍家、大名、旗本など)へ貸付していた。そして、維新政府にも協力的だった。要するに、大名貸は得られる利益が大きいかわりに、リスクも大きい。そこで、リスクを少なくする方法があれこれ考えられていたのです。さすが、江戸時代を生きのび、明治以降も苦難を乗りこえたわけです。
 2万点超の古文書を読み解いて、時系列に並べたり、項目ごとに比較したり、大変な作業だったと思います。心より敬意を表します。
(2022年10月刊。税込2970円)

パピルスが語る古代都市

カテゴリー:ヨーロッパ

(霧山昴)
著者 ピーター・パーソンズ 、 出版 知泉書館
 1897年、パピルスがエジプトの都市の周りの、砂で覆われたゴミ捨て場から出土した。
 パピルスの残存に必要なのは乾燥。エジプトの中部と南部では雨がほとんど降らず、砂に守られ、滅失しやすい遺物(パピルス)が数千年間も保存することができた。
 1897年に発見されたのは「イエスの御言葉」。
 エジプトのプトレマイオスの王国は、土地と職業に課税した。たとえば、ブドウ園と果樹園の収穫の6分の1が税として徴収された。油、塩、ビール、亜麻、パピルスなどの重要な生産物や輸出品は、国家が独占して売買するか、管理した。
 ローマ帝国のなかでも、豊かで肥沃で攻めるのが難しいエジプトは傑出した存在であり続けた。エジプトは都市ローマが必要とする小麦の3分の1を供給し、皇帝位を狙う人物の拠点となりえた。
あまり教育を受けてない者たちは、エジプト人のアクセントで話し、子音のLとR、またDとTを区別できなかった。こりゃあ、まるで日本人ですね。
 ミイラづくりにはお金がかかった。遺体をミイラにする処置のための費用は高かった。肖像画は生前に描かれ、死後にミイラの棺に差し込まれた。ミイラ肖像画は、古典古代世界から残存する、ほぼ唯一の肖像画。
 口絵写真に何枚かの肖像画が紹介されていますが、とても鮮明な人物画です。
 パピルス紙は、書物や記録簿のような長いテキストや日常生活に用いる短いテキストのために使われた。ナイル河谷では、貧乏人でなければ、パピルス紙は豊富に手に入れられた。
 パピルス紙の製造は、まず、パピルスの茎を収穫し、皮を剥ぎ、髄組織の内部を長く切り、スライスして、薄く細長い短冊状にする。短冊を互いに接するように平らに並べ、その上に別の層をつくるように直角に短冊を置く。この2層を押し合わせると、樹液の多い髄が融合し、隣りあう短冊が、そして上下の層が結合して、柔軟で滑らかなシートができあがる。
 文字を書くのはエジプトでは古くから行われていて、高い名声を伴っていた。神官と官僚は、ファラオの王国で職務を果たすため、書くことを求められ、異なる形の複雑な文字を習得した。
 国家は現金と穀物の形で税を求めた。それを得るためには、農民と地方の役人の労働を必要とした。なので、土地台帳、税の会計、そして定期的な戸口調査からの情報という詳細で精緻な記録に頼っていた。大量のパピルス紙、文字を書く習慣、そして増大する官僚制のおかげだ。
 浴場は、旅行者だけのものではなく、むしろ市民生活にとって重要だった。
 家にはトイレがない。家具として尿瓶(しびん)や室内用便器があった。
 都市には、エリートが存在した。都市社会のピラミッドの頂点には、公職者と都市参事会が君臨していた。
 相続により財産の集積も分散もあった。
競技祭は、都市生活にさまざまな影響を与えた。市民も競技祭に参加し、代理としてであれ、栄冠を手にする機会を得た。
 ローマ皇帝はファラオ。つまり、君主であり、神だった。ほとんどの皇帝はエジプトに姿を現さない神という存在だった。
 パンは、たいてい自家製。パンづくりは伝統的に女性の仕事で、裕福な家では女奴隷が担い、早起きが必要だった。
 手紙の形式には流行があった。プトレマイオス朝時代のギリシア人は横に長く縦に短い紙に短い手紙を書いた。ローマ時代には、横が短く、縦長の紙が好まれた。
 パピルスを判読していった学者・研究者のみなさんの地道な努力には、今さらながら心からの声援を送ります。
(2022年8月刊。税込5500円)

検証・同和行政下の解放運動の光と闇

カテゴリー:社会

(霧山昴)
著者 植山 光朗 、 出版 小倉タイムス出版部
 もう40年も前のことです。開業医の妻が相談があるとやってきました。話は、息子の結婚相手が部落出身の娘だと分かったので、やめさせたい、どうしたらやめさせられるか、というのです。私は呆れ、また怒りを覚えました。結婚は当事者の決めること、たとえ親であっても介入してはいけない。ましてや部落出身者を差別するなんてとんでもないことだと言って説教して帰ってもらったという記憶があります。それから40年たちましたが、そのあと1回も、そんな結婚差別に関わる話を聞いたことはありません。
30年前までは、あの地域は部落だと言う人がいました。でも、私の住んでいる町には、明らかに他と異なる雰囲気というところはまったくありません。実感として、部落差別は解消したと思います。いえ、一部には残っているのかもしれませんが、まったく気がつきません。
でも、差別は、いろんな場面で、現に日本社会に存在します。聞くに耐えないヘイトスピーチの対象となっている在日朝鮮(韓国)人への差別がなくなったとは、とても思えません。ゲイ(レズビアン)の人への差別、アイヌの人々への差別、そして「アカ」という思想差別も今なお強烈なものがあります。また、フィリピンやベトナム人などの東南アジアから働きに日本へやってきている人たちへの差別がないと言えるでしょうか。私は言えないと思います。
みんな違って、みんないいという金子みすずの言葉を実践するには、それだけ気持ちにゆとり(余裕)がないとできないように思います。自分が苦しいと、そのはけ口を求めて、誰かを見下して、攻撃する行動に走りがちになるのが人間の悲しい現実です。
「解同」の暴力と利権あさりは、私の町でも目に余るものがありました。私の住む町では「解同」の言いなりにならない社会党の地方議員が暴行される事件も起きました。なので、「解同」は怖いと思われ、かえって差別が温存される状況も続いていました。それも、今では過去のことです。国が、宣言したことは大変大きかったと思います。
1969年に始まり、全国4607の「同和地区」を対象に実施された同和対策特別対策事業は、33年間で16兆円を投入し、2002年3月、事業の所期の目的は達成したとして終結しました。総務省は、「国、地方公共団体の長年の取り組み等によって、劣悪な生活環境が差別を再生産するような状況は改善され」た。「特別対策をなおこれ以上続けることは、差別解消に有効ではない」としたのです。
この本で、著者は、「部落差別」は今では深刻にして重大な社会問題とはいえないとしています。たとえば、結婚について、20代、30代では8割から9割が結婚差別を体験することなく結ばれている。そして、部落差別は、人間として恥ずべき行為だとする市民的常識が確実に広がっていると強調しています。まったく同感です。
ところが、部落差別解消推進法が制定されようとしています。そこには、部落差別について、明確な定義がありません。そして、「差別意識」という個人の心の問題を法律で規制しようとしているのは問題です。抽象的で漠然とした法律は拡大解釈が容易ですから、非常に危険な法律としか言いようがありません。
私が弁護士になった年(1974年)11月に兵庫県立八鹿高校で、「解同」による教職員への集団暴行、長時間吊し上げ事件が起きました。このとき、白昼、大変な暴行、傷害事件が起きたのに、警察の対応は信じられないほど生ぬるく、しかも、一般の新聞・テレビはまったく事件を報道しませんでした。強烈な「解同」タブーがマスコミを支配していたのです。
北九州にあった「同和地区」では、10人に9人が中卒以下、新聞を購読している家庭も1割しかいなかった。ところが、生活が苦しいのに、生活保護の申請をする人は少なかった。
1964年、北九州市の生活保護率53%は全国平均の18%の3倍もの高さだった。
「解同」による暴力的な糾弾行動は善良な人々を畏怖させました。そして、幹部たちが利権あさりに狂奔しました。たとえば、「クジラ御殿」が有名になりました。
また、税制上も明らかに無法な特別待遇がまかり通っていました。北九州では解同幹部による「6億円の土地転がし」が発覚しました。そして、「解同」の糾弾の対象となった校長が自殺してしまうという悲劇が発生したのです。
八女市では、「解同」の支部役員が「差別ハガキ」を44通も自作自演していたという信じられない事件が発覚しました(2009年7月)。
小倉税務署長までつとめた「解同」顧問の税理士が脱税指南をしていたとして、実刑判決(2011年11月)が下されたことも忘れられません。
大阪に存在した旧「同和地区」では、今では9割以上の住民が地区外からの転入者になっている。もはや、「同和地区」の閉鎖的地域性は解消され、「地区」とは言えなくなっている。著者は、このように紹介していますが、私の実感にもあいます。
差別の解消は今でも大変な人権課題だと思います。でも、それは、部落差別だけではありません。人間の尊厳と個人の尊重の実現こそ目ざすべきだと著者が何度も強調しているのに、私も大いに共感します。
300頁をこす貴重な労作です。福岡自治研の宮下和裕事務局長の紹介で読みました。
(2022年11月刊。税込2000円)

僕らが学校に行く理由

カテゴリー:人間

(霧山昴)
著者 渋谷 敦志 、 出版 ポプラ社
 いま、日本では少年の非行事件が激減しています。かつては毎日のように深夜に爆音を聞かされていましたが、暴走族という現象も見られなくなりました。子どもたちは、まるで去勢されたかのように家に閉じこもり、ゲームに終始しています。不登校、ひきこもりが日本社会の重大な病理現象の一つという状況が続いているのです。
 ところが、世界中を見渡すと、大勢の子どもたちが学校に行きたくてもいけないという状況がありふれています。戦争、そして貧困が原因です。
世界中には、就学年齢に達しているにもかかわらず、小学校に通っていない子どもが5900万人もいる。アフリカでは、サハラ砂漠より南の国の子どもの5人に1人は学校に通っていない。たとえば、南スーダン共和国の識字率は30%未満。国民も70%以上が適切な教育を受ける機会を奪われている。この国では内戦によって、16万人以上が国内避難民となり、220万人以上が隣国に逃れて難民生活を余儀なくされている。
バングラデシュでは、国民の7割近くが農村に住んでいる。そのほとんどが自分の土地を持っていない貧困家庭。子どもたちは自ら働きはじめる。5歳や7歳から働いている。それは学校にいけないことを意味する。
カンボジアでは、親から暴力を振るわれたりして、子どもたちがストリート・チルドレンになる。周囲の人間に対して強い不信感をもち、反抗的で暴力的なところがある。そして、人身売買の対象になっていく。
 アフリカのウガンダには日本の「あしなが育英会」が開設した「テラコヤ」がある。エイズなどで親を喪った遺児を支援して教育の機会を提供するもの。ウガンダでは、子どもの教育にお金がかかるので、そこを埋めようとする取り組みだ。日本政府はハコモノづくりよりも、こんな援助にこそ、もっと力を入れるべきだと私は思います。
ウガンダで学校を途中で辞めざるをえなくなった少女シャロンは、自分の夢を語った。
「私の夢はいつかまた学校に行って勉強をやり直すこと。そして、将来、医者になって家族を助けたい」
岸田首相は、軍事予算を増やすことしか頭にないようですが、もっと人間を大切にする政策にお金を使ってください。
バングラデシュで大洪水によって被災した少女マクーシャはこう言った。
「将来は、先生になって家族を助けたい。村の子どもたちに勉強を教えたい。そのためにも勉強をがんばりたい」
日本の子どもたちも、社会に大きく目を開いて、自分の存在を社会と結びつけて考えられるようになれば、すすんで学校に行きたいと思うようになることでしょう。
カネ、カネ。万事がカネ。そして、ガンジ・ガラメの校則。もうこんなのはやめましょうよ。もっと伸びのび、ハツラツと子どもたちが生きられる温かい社会を目ざしましょう。
目がキラキラ輝いている素敵な子どもたちの、いい写真をたくさん、ありがとうございました。
(2022年8月刊。税込2420円)

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