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江戸にラクダがやって来た

カテゴリー:日本史(江戸)

(霧山昴)
著者 川添 裕 、 出版 岩波書店
 江戸時代、2頭のラクダが日本にやって来て、西日本一円を巡業していたというのです。
 文政4(1821)年にオランダ船に乗ってラクダがやってきた。これは、オランダ商館のカピタンから江戸の将軍家への献上品のはずだった。ところが、将軍家は献上を認めながらも出島に留め置くようにと指示した。その理由は分かりませんが、ラクダを養うことの大変さを考えてのことだったのではないでしょうか。
 江戸時代の日本にラクダがやってきたのは、実は、これが3度目。ただし、1回目は将軍家光への献上品となって庶民は見物できなかった。2回目は、アメリカ船が運んできたものだったので、すぐに戻された。
 江戸では3年後の文政7(1824)年8月から両国広小路でラクダの見世物が始まり、半年間も続いた。見物料(札銭)は32文。これは、歌舞伎の最安の入場料の4分の1なので、安い。つまり、庶民が楽しめた。
 2頭は、5歳のオスと4歳のメス。夫婦ではなかったかもしれないが、世間は仲の良い夫婦をラクダにたとえるようになった。
 ラクダを見て狂歌師たちはたくさんの句(狂歌)をつくり、また、絵師たちが写生してラクダ絵図として売り出した。
 ただ、ラクダ見物は1回目こそ熱狂的に人が集まったものの、2回目は、不入り、不評となった。というのは、ヒトコブラクダは人に馴(な)れた、おとなしい動物であり、何か芸が出来るわけでもなかったから。それで、日本人が唐人風の装いをして、ラクダの周囲で太鼓を叩いたり、「かんかんのう」を歌い踊ったりして、その場を盛りあげた。
 ラクダが運べるのは長距離だと160キログラム、近距離でも最大300キログラム、そして、平均的な1日行程は48キロメートル。ところが、ラクダ見物を誘うチラシには900キログラムを運べるとか、100里つまり390キロメートルも行くなどと、「白髪三千丈」式の誇張した表現がなされた。まあ、広告とは、そういうものでしょうよね、昔も今も…。
 ラクダを見ることで、悪病退散の効能を庶民は期待したようです。江戸時代も、今のコロナ禍以上に何度も感染症などに襲われて、大量の死者を出していました。
 それにしても、12年間もラクダが日本各地を巡業してまわっていたなんて、知りませんでした。鎖国といっても、日本人は世界への目はもっていたのですね…。
 とても面白い本でした。
(2022年9月刊。税込3190円)

黒田孝高

カテゴリー:日本史(戦国)

(霧山昴)
著者 中野 等 、 出版 吉川弘文館
 黒田官兵衛、また如水(じょすい)として有名な戦国武将の実像に迫った歴史書です。なので、あまり面白いという本ではありません。小説ではないので、ハラハラドキドキ感はないのです。
 官兵衛といえば、土牢に閉じ込められて1年あまり、よくぞ助かったもの、でも、出てきたときにはまともに歩けなくなっていた…、というエピソードがまず有名です。
 この本は、孝高(官兵衛)が信長に謀叛(むほん)した荒木村重の説得に向かったこと、摂津有岡城内に拘留されたことは事実としています。ところが、このエピソードは明治に刊行された『黒田如水』にはなく、大正5年の『黒田如水伝』に初めて出てくる話とのこと。江戸時代の書物には出ていないそうです。
 天正6(1578)年11月から翌7年11月まで1年間の拘束があったことは事実。しかし、「土牢」とかではなく、それなりの処遇だったようです。この本は、「極端に劣悪な状況下で幽閉されていたとも考えにくい」としています。
 そして、「3年」の幽閉によって歩行困難になっていた、脚に障がいを負ったというのは一次史料で確認できないとのこと。なーるほど、ですね。
 孝高は父親が亡くなった天正13(1585)年ころ、40歳のとき、キリシタンとして洗礼をうけた。洗礼名は、ドン・シメオン。このことはルイス・フロイスのイエズス会総長あての報告書に書かれているから間違いない。
孝高が小西行長の受洗のきっかけをつくり、実際に洗礼に導いたのは高山右近と蒲生(がもう)氏郷(うじさと)だった。いやあ、これには驚きました。そして、蒲生氏郷と高山右近は、千宋易(かの千利休です)の高弟ですから、キリシタン人脈は茶道ネットワークと大きく重なっていたというわけです。これまた、知りませんでした。
 孝高は慶長9(1604)年3月に、59歳で、京都の伏見で亡くなります。
 辞世の句は、
 思ひ置く 言の葉なして ついに行く 道は迷わじ なるにまかせて
 死に臨んで達観の境地に至ったようだとされています。
 死の前、息子の黒田長政に自分の遺体は博多の教会まで運んで埋葬するように頼み、教会の建築のため1千クルザードを寄付した。宣教師のロドリゲスがローマのイエズス会本部への報告書に、このように書いている。
 孝高の遺体は筑前(福岡)に運ばれ、キリスト教による葬儀が行われた。もっとも、さらに20日後には、仏式による葬儀も営まれたとのこと。
 秀吉は天正15(1586)年に「伴天連追放令」を発してイエズス会の布教活動を禁止した。秀吉はキリシタン大名にも棄教を迫り、これに応じなかった高山右近は居城を没収され、追放された。高山右近はフィリピンに向かったのですよね…。
 孝高も秀吉の不興をかったものの、なぜか棄教を求められなかったようです。
 それどころか、孝高は嫡子の長政(洗礼名はダミアン)が末弟の直之(同ミゲル)も洗礼を受けさせている。また、孝高は、豊後の大友義統(コンスタンティン)や筑後久留米城主となった小早川秀包(シモン)にも入信を勧めた。このように、高山右近が追放されたあと、孝高は国内のキリシタン勢力の中心的存在と目された。いやあ、これまた知りませんでした。
 孝高40歳代の初めころは、毛利一門と深く結びついていたようです。
 秀吉の二度にわたる朝鮮出兵のころ、孝高も長政とともに朝鮮に渡っていますが、秀吉の不興をかっていて、名護屋城に戻ったとき対面を許されなかったほどでした。
 このとき、石田三成が孝高を恨んで秀吉に訴えたことが原因だというのは、後年になって黒田家が石田三成をおとしめるために創作した話であって、史実ではない、としています。
 黒田家は、徳川将軍家にとって警戒の対象であり続けたというのは事実のようです。いずれにしても、男系、女系とも、黒田本家において、孝高の血統は早々に絶えています。
 歴史を知ると、物語のように面白い話ばかりではなくなるけれど、また、史実のほうが意外だったりすることを知りました。著者は福岡県生まれの九大教授です。
(2022年9月刊。税込2640円)

私はヒトラーの秘書だった

カテゴリー:ヨーロッパ

(霧山昴)
著者 トラウデル・ユンゲ 、 出版 草思社文庫
 映画『ヒトラー、最期の12日間』はみていますが、それの原作とでもいうべき本です。
 ヒトラーが結婚式をあげたばかりの妻・エーファ・ブラウンと2人、ベルリンの首相官邸の地下で自死(ヒトラーは青酸カリを飲み、ピストルで自殺)し、部下たちが爆撃で出来た凹地に2人の遺体を入れてガソリンで焼いた状況をすぐ近くにいて見聞していた秘書です。
 ヒトラーは、いまだにこの地下防空壕で影法師のごとく生きている。落ち着かず、部屋から部屋へさまよい歩く。
 「私は、もう肉体的に戦えるような状態ではない。私の手は震えて、ピストルが握れないくらだ。…どんなことがあっても、私はロシア人の手にだけはかかりたくないんだよ」。ヒトラーは、ぶるぶる震える手でフォークを口に持っていく。歩くときは、床に足を引きずってゆく。
 ラジオは、ヒトラーが不運な街にとどまって運命を共にし、自ら防衛を指揮していると繰り返している。しかし、ヒトラーがとうに戦闘から身を引き、自分の死をだけを待っていることは、総統防空壕にいる少数の側近しか知らない。
 突如、銃声が一発、ものすごい音をたてて、うんと近くで鳴った。たった今、ヒトラーが死んだ。やがて、肩幅の広いオットー・ギュンシェが戻ってきた。ベンジンの臭いがむっと立ちこめる。若々しい顔が圧にまみれて、しょぼしょぼしている。酒瓶をつかむ手が小刻みに震えている。
 「僕は総統の最後の命令を実行した。ヒトラーの死体を焼いたんだ」
 死んだヒトラーに対して、憎しみとやり場のない怒りみたいなものが忽然(こつぜん)と湧きあがってきた。我ながら、びっくりだ。
 戦後、著者(トラウデル・ユンゲ)は、『白バラ』グループに入って活動して、ナチスからギロチン刑に処せられたゾフィー・ショルを知りました。同じくドイツ女子青年連盟に入り、ゾフィー・ショルのほうが1歳下。そして、次のように考えた。
 ゾフィー・ショルは、ナチス・ドイツが犯罪国家なのだということをちゃんと分かっていた。自分の言い訳はいっぺんに吹っ飛んだ。
 「私は間違った方向に進んでいった。いいえ、もっと悪いことには、決定的な瞬間に自分で決断を下さず、人生をただ雨に降られるままにしておいた…」
 「知ろうとすれば知ることができたはずだ。知ろうとしなかったから、自分は知らなかった」と自覚した。
 最晩年のヒトラーがこれほど生々しく描かれている本はほかにありません。ヒトラー暗殺未遂のときも、その現場近くで秘書として生活していましたし、山荘そして首相官邸でのヒトラーの私生活を伝えている貴重な手記です。
 ヒトラーは酒を飲まず、食事は菜食主義者、そして薬漬けの日々でした。女性との浮いた話も意外なほどありません。犬は可愛がっていました。やっぱりヒトラーは異常人格だったと言うべきなのでしょうね…。
(2020年8月刊。税込1320円)

日本インテリジェンス史

カテゴリー:社会

(霧山昴)
著者 小谷 賢 、 出版 中公新書
 公安調査庁という役所があります。かつて、私のいる町にも検察庁の支部庁舎に公安調査官が部屋を構えていました。なぜ知っているかというと、そのころは年2回、三庁対抗ソフトボール大会をしていて、その公安調査官も出場しようとしたからです(出場はしていません)。名簿に載った気がします(うろ覚えです)。聞いて驚いたことを覚えています。
 共産党対策を専門とする役所ですが、共産党が暴力革命を目ざしていないことがはっきりして、盲腸のような存在だとされて、無駄な公金支出はやめろと、廃止論が有力になったとき、それを救ったのがオウム真理教でした。でも、オウム真理教事件の解明に公安調査庁が役に立ったとはとても思えません。
 今、ときどき問題になっているのは自衛隊幹部の情報漏洩事件です。いったい、誰に情報が漏らされているかというと、必ずしもロシア、中国、北朝鮮ということでもないようです。どうやら、軍事ビジネスの企業への情報漏洩らしいです。もちろん、そんなことは公表されていませんから、憶測でしかありません。
 最近では、北村滋という警察庁出身の内閣情報官が突出して有名です。それにしても、アメリカを始めとして多くの国の情報機関がこの北村滋を頼りにして、オーストラリア政府は北村滋の退官後にインテリジェンス功労賞を授与したとのこと。これって、日本の情報をオーストラリアに売り渡していたということではないんでしょうか…。
上が上なら、下も見習いますよね。つい、先日も幹部自衛官が複数名、逮捕されたと報道されました。でも、その背景も本質的問題も何ら続報がなく、明らかにされませんでした。
日弁連も反対した特定秘密保護法が規定されていますが、その運用状況は、まったく秘密のままです。日本政府は何でも秘密、秘密のまま、国民をあらぬ方向(政府の都合のいい方向)にもっていこうとする傾向が昔からとても強く、そのことについてマスコミが牽制的な働きかけをほとんどせずに、権力仰合あるいは追随して、そのうち国民が忘れ去るのを待つ、そして、次の話題に移っていくということが、あまりにも多い気がしてなりません。
安保三文書の意義と問題点を国会で議論することなく岸田首相はアメリカに飛んでいって逐一報告する。統一協会と自民党議員との結びつきを解明することもなく、不十分な立法をしてこの問題が終わったことにしてしまう。許せません。日本学術会議の6名の任命拒否の理由を明らかにすることもなく、この会議自体の抜本的改組を急ぐ。本当に今の自民・公明政権のやっていることは、ひどすぎます。国民に対する説明責任を果たそうとする気持ちがまったく欠如しています。にもかかわらず、NHKを初めとして、マスコミのほとんどはそれを問題としないままです。
日本のインテリジェンスにもっとも欠けているのは、コモンセンス(常識というか良識)ではないでしょうか…。
(2022年8月刊。税込990円)

転生

カテゴリー:日本史(戦前・戦中)

(霧山昴)
著者 牧 久 、 出版 小学館
 愛新覚羅溥儀は、清朝最後の皇帝「宣統帝」そして日本がつくり関東軍が支えた満州国の皇帝「康徳帝」となり、日本敗戦後は、中国共産党による思想改造教育を受けて植物園で働く北京市民として過ごした。その弟・薄傑は日本の貴族である嵯峨侯爵家の娘・浩(ひろ)と結婚し、二人の娘をもうけた。長女は学習院大学で学び、天城山で日本人青年と心中したことで有名。
 この二人の一生を詳しく明らかにした本です。「転生」というのは、溥儀が三つの人生を生きたことを指しています。
 日本は溥儀と密約を結んでいた。
 「皇帝溥儀に男子が生まれないときは、日本国天皇の叡慮によって関東軍司令官の同意を得て、後継者を決定する」
 溥儀の皇后はアヘン中毒で、側室には寄りつかないので、溥儀に子どもができないことを知る関東軍は、弟の溥傑の子どもを次の皇帝にするつもりがあり、ともかく後継者の決定権は関東軍が握っていた。
 袁世凱(えんせいがい)には自らが皇帝になるという野望があり、ついに1916年1月に皇帝となった(洪憲皇帝)。しかし、内外の反発が大きく、わずか83日間の在位で退任。同年6月、56歳で病死した。
 溥儀は快活で理解も早かったが、その気質には、真面目な面と軽薄な面があった。常に分裂したものがあり、二つの人格が存在した。心の中で、思っていることと、口に出していう言葉が正反対なことがしばしばあった。
 溥儀は、もともと女性に関心がなかった。それは、幼年のころ、周囲の女官たちからもてあそばれたことにもよる。
 溥儀は北京から天津に行き、そこで日本の庇護を受けて生活するなかで、日本が清朝を復活させるには第一の援護勢力であることを実感していった。
 1932年2月に発足した満州国は民主共和制であり、国主は執政となっていた。3月9日に溥儀の執政就任式が長春(新京)で開かれた。
 3月10日、関東軍司令官(本庄繁)と満州国執政(溥儀)、国務総理(鄭孝胥)とのあいだで秘密協定が結ばれた。
 満州国は日本に国防と治安維持を委任する。日本人を満州国の参議、そして各官署に任用し、その選任・解職は関東軍司令官の同意を必要とする。いやあ、これでは満州国とは日本のカイライ国家だというのは間違いありませんよね。
 このあと、満州国の中央と地方の官庁に日本人官僚を送り込む作業がすすめられた。
 満州国の建国が宣言されたのは3月1日で、その前日の2月29日に国際連盟が派遣したリットン調査団が東京に到着した。関東軍は植民地経営に精通したリットン調査団が満州に入る前に既成事実をつくりあげようとした。
 溥儀は弟の溥傑の妻となった浩を関東軍が送り込んできた特務(スパイ)だと思いこみ、毒殺される危険すら本気で心配した。
 日本敗戦後の8月19日、溥儀たちは日本に亡命するつもりで飛行機に乗り、通化から奉天へ行ったところ、ソ連軍に捕まった。関東軍総司令部がソ連軍に溥儀一行の奉天到着を知らせ、身柄を引き渡したとみるのが自然。
 溥儀たちはソ連内の高級捕虜収容所で優遇されて過ごした。元日本兵のシベリア抑留の過酷な生活とは別世界だった。1950年7月に中国に移され、撫順戦犯管理書に入った。朝鮮戦争が始まると、ハルピンに移ったが、1954年3月には再び撫順に戻った。
 そして、1959年12月4日、溥儀は釈放された。そして周恩来総理の斡旋で「北京植物園」の一作業員として働きはじめた。花のとりこになった。
 満州の皇帝となった溥儀が転変はなはだしい波乱にみちた人生を送ったことがよく分かりました。
(2022年12月刊。税込3300円)

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