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犬に話しかけてはいけない

カテゴリー:生物

(霧山昴)
著者 近藤 祉秋 、 出版 慶応義塾大学出版会
 タイトルからは何の本なのか、さっぱり見当もつきませんよね。「内陸アラスカのマルチスピーシーズ民族誌」というサブタイトルのついた本なのです。
 マルチスピーシーズ民族誌というのは、人間以外の存在による「世界をつくる実践」に着目する。人新世が地球上を覆っているように見える一方で、実際には、人間と人間以外の存在とが絡(から)まりあって継ぎはぎだらけの世界をつくっている。「人新世」とは、人間の時代のこと。それは、人間が資源を枯渇させ、生物種の絶滅を引き起こし、自分自身の生存基盤を掘り崩しかねない時代である。
 若者はアラスカ先住民の村で実際に暮らしました。「犬に話しかけてはいけない」というのは、アラスカ先住民のなかにあるタブー(禁忌)の一つ。これを破ると、病で人々が多く亡くなる異常事態を引き起こす。
 犬は太古の時代には人間の言葉を話した。世界の創造主であるワタリガラスは、人間が犬に愛着を持ちすぎるのを嫌って、犬の言語能力を奪ってしまった。
 内陸アラスカ先住民の社会では、ひどい飢饉(ききん)のときを除いて、基本的に犬を食べものとみなしていない。伝統的に、飼育動物を殺して食べる習慣はない。犬肉食は食人に限りなく近い。
ワタリガラスとオオカミは行動を共にする機会が多く、両者が相互交渉する頻度も高い。コヨーテは狩ったノネズミをすぐに食べてしまうが、オオカミは狩った獲物で遊ぶことが多く、食べないこともある。なので、ワタリガラスは、ノネズミをくすねることのできる確率が高いオオカミを選んでつきまとっている。
 アラスカでは、カラス類は犬肉を好むという神話上の共通設定がある。
 渡り島が何かの事情で渡りをせずにそのまま残ってしまうことがある。これは留島というより「残り島」。人の手に頼らずに生きのびることは現実には厳しいので、先住民のなかには次の渡りまで「残り島」を飼い慣らす人がいる。そうでなければ餓死するよりましと考え、ひと思いに殺してしまう。
 アラスカ先住民の生活の一端を知ることのできる本でした。
(2022年10月刊。2400円+税)

郡司と天皇

カテゴリー:日本史(古代史)

(霧山昴)
著者 磐下 徹 、 出版 吉川弘文館
 奈良時代を中心とする日本古代の地方豪族と天皇との結びつきを論じた本です。
 かの有名な空海は、郡司一族、すなわち地方豪族の出身だった。
古代の僧侶は、郡と地方とを頻繁に従来して活動していた。郡司の上司にあたる国司は、都で生活する貴族、官人が選ばれ、任意に赴任する。いわば中央派遣官で、任期は6年、4年そして5年がある。
 郡司は、現地の有力者である地方豪族のなかから選ばれ、任期の定めのない終身の任とされた。つまり、郡の統治は、現地の地方豪族にまかされていた。
 郡司の負担が大きくなっていくと、地方豪族たちは、負担の大きい郡司の地位を忌避するようになった。郡司の任用では、定められたルールに反する申請があっても、直接天皇に認められたら、可能だった。
 郡司を輩出するような地方豪族が複数競合していた。地方出身者に多く与えられる外位(げい)という職があった。郡司は実はひんぱんに交替していた。
 耕地開発を率先していたのは、郡司層を構成する各地の地方豪族たちだった。
 三世一身の法でも、いずれは開発した土地が国家に回収されてしまう。そこで、743年に、墾田永年私財法が制定された。
地方豪族から成る郡司に焦点をあてて論じている本です。
(2022年10月刊。1700円+税)

菅江真澄・図絵の旅

カテゴリー:日本史(江戸)

(霧山昴)
著者 石井 正己(解説)、 出版 角川ソフィア文庫
 江戸の旅人が旅先の各地を絵に描いて残しています。墨絵(すみえ)ではなく、カラーです。
 菅江真澄は30歳のとき、今の愛知県を出発し、東北を経て北海道に渡り、その後、本土に戻って、青森県から秋田県に入って76歳で亡くなった。故郷に帰ることもなく、まさしく漂泊の人生。
 真澄は、日記や地誌を丹念に残し、2400点ほどの図絵が添えられている、しかも、図絵は丁寧に彩色されている。真澄の肖像画も紹介されていますが、これまた見事な彩色画(カラー図)です。
 1783年から1784年ころは信州を旅しています。和歌の力で北海道に入れたと紹介されています。いったい、旅人の収入源は何だったのでしょうか…。
風景画は、中国の山水画を彩色したようなもので、趣があります。
 風景画だけでなく、植物画もあります。コタン(集落)のアイヌ婦人(メノコ)たちが草の根を入れた木皮袋を背負ってやってきた、その草の根もきちんと描いています。まるで植物学者のようです。牧野良太郎に匹敵するほどの詳細な写生です。
 「てるてるぼうず」とほぼ同じ、「てろてろぼうず」も描かれています。
 真澄は、北海道に渡ってからは、自らもアイヌ語を習得するよう努めた。
 当時のアイヌたちは海上でイルカを狩りたてていた。北海道の沖にはイルカがたくさんいたようです。まるでドローンでも飛ばしたように上空からの図があります。
 秋田の「なまはげ」は「生身(なまみ)剥(はぎ)だということを知りました。子どもは声も立てずに大人にすがりつき、物陰に逃げ隠れる。まさしく、その状況が描かれています。
 草人形(くさひとかた)の絵も面白いです。杉の葉を髪にし、板に口鼻を描き、わらで胴体をつくり、胸に牛頭(ごず)天王の本札をつけて、剣を持っている人形(ひとかた)です。
 村里の入り口に置いて、疫病を村に入れないように願ったといいます。
 よくぞ、これだけの図絵と日記が残ったものだと驚嘆するほかはありません。
(2023年3月刊。1500円+税)

古代ギリシア人の24時間

カテゴリー:ヨーロッパ

(霧山昴)
著者 フィリップ・マティザック 、 出版 河出書房新社
 紀元前416年のアテネの日常生活を生き生きと再現しています。このころのアテネの都市人口は3万人。ただし、面積あたりの天才密度は、人類史上、ほかに例がない。
 このとき、アテネはスパルタの軍隊との戦争の幕間(まくあい)として平和を楽しんでいた。
 外国人居住者(メトイコス)は女性と奴隷と同じく民食に出席できない。また、裁判の陪審員にもなれない。それでも、アテネの裁判所に訴えることはできた。また、メトイコスは、アテネ軍に入隊できる。正式な重装歩兵にもなれた。
 アテネでは、人はさまざまな事情から奴隷になる。海賊に襲われた船に乗っていて、身代金が払えないと奴隷にされた。奴隷は、重大な社会的不利益の一種と考えられていた。
 貴族の娘は14歳で親元を離れ、人の妻となって自分の家中に入る。
 オリーブは、アテネ人の暮らしに欠かせない。食事のたびに出てくるし、料理に、掃除に、身を清めるのに、医療にも明かりにもオリーブ油は使われている。
三段櫂船はアテネのテクノロジーの最高峰。世界で最先端の海上兵器。三段の漕手が同時に櫂を水に差し入れられるように工夫されている。櫂は合計170本。全長35メートルの三段櫂船は、最高時速15キロメートル。この半分の速度で、終日巡航できる(実際にしたようです)。この漕手は奴隷ではなかった。というのも、奴隷は反抗心から、いい加減な仕事をするので使えなかった。
 三段櫂船は沈まない。水が浸入して操縦不能になっても沈没はしないのだ。
 奴隷を貸すのは、良い稼ぎになる、主人は奴隷1人につき週に1ドラクマを受けとった。
学校ではレスリングを教え、また、音楽の授業もあった。哲学者プラトンもこのころ産まれている。
 アテネでは市の公職は交代制。男性の市民は、一生に一度は公職につくことになる。評議会の定数は500人で、その議員は毎年交代する。再任なしで、一度しかなれない。
 アテネの女性は、たとえ未婚であっても、夫以外の男性とキスしただけで、「姦通」の罪を犯したとされる。
 強姦の傷は一時的なものだが、誘惑は妻を夫から永遠に引き離す危険がある。
ヘタイラは売春婦と違って決まった愛人がいる。アテネ人の女はヘタイラにはなれない。アテネの貴族の男が結婚するのは30歳過ぎてから。ヘタイラは、アテネの社交生活には欠かせない存在だ。
アテネには、女性も子どもも含めて10万人いて、政治に関われる成人男性は3万人。メトイコスが4万人、奴隷が15万人以上。つまり、人口の半分は奴隷。成人男性のメトイコスは2万人。なので、自由人の成人男性が集まると、5人に2人はメトイコスとなる。
 ギリシアとアテネの市民生活の一端を知ることができました。
(2022年12月刊。2860円+税)

「秀吉を討て」

カテゴリー:日本史(戦国)

(霧山昴)
著者 松尾 千歳 、 出版 新潮新書
 昔から「日本史、大好き」の私にとっても刺激的な話が盛りだくさんの本でした。
 話の焦点は薩摩と島津です。戦国時代、関ヶ原合戦のとき、西軍の薩摩・島津軍が敗色濃いなかを中央突破して辛じて逃げのびた話は有名です。そのとき、島津軍は、「捨て奸(がまり)」の戦法をとったとして有名です。これは、最後尾の部隊が本隊を逃すために踏みとどまって戦い、その部隊が全滅すると次の後方部隊が踏みとどまって死ぬまで続ける。これを繰り返して、殿のいる本隊を逃がすという戦法。
 しかし、著者は、実際には、そんな戦法はとっていない。一丸となって無我夢中で敵中に突っ込み、大勢の犠牲者を出しながらもなんとか東軍の追撃を振り切り、戦場を離脱した。これが真相だというのです。なるほど、そうかもしれないと私も思います。次々に後方に残る部隊をいったい、誰がいつ、どうやって組織した(できた)というのでしょうか。そんな余裕がこのときの島津軍にあったのでしょうか…。結果として、殿軍(しんがり)に立った将兵たちはいたでしょうが、それも時と地の関係で、そうなってしまっただけではないのか…、そう考えたほうがよさそうです。
 それはともかく、この本で提起されている最大の疑問は、関ヶ原合戦のあと、なぜ家康が西軍に属していた島津家をとんでもなく優遇したのか…、ということです。
 島津家は、事実上、処分を受けていない。そのうえ、藩主の忠恒に、「家」の字を与えて「家久」と改名させた。「家」の字を徳川将軍からもらったのは島津忠恒だけ。これは、大変に名誉なこと。さらに、家康は家久に琉球出兵を許可し、琉球国12万国を加増した。
 この本では、その理由は定かではないとしつつ、島津が明(中国)と太いパイプをもっていたことを家康は把握していて、海外交易に熱心な家康は、島津に頼るしかないと考えた。家康は明との国交回復を願っていた。
 家康が島津氏に琉球出兵を許したのは、明と太いパイプをもつ琉球王府を島津氏の支配下に入れ、勘合貿易の復活を実現させようとしたのではないか…。
 さて、「秀吉を討て」とは何のことでしょうか…。
 この本では、島津家は中国人の家臣や彼らと手を組む中国の「工作員」が接触していて、秀吉の意に反して朝鮮出兵からの撤兵をすすめていたということを指しています。それほど、島津家は中国側と深いつながりがあったというのです。すなわち、薩摩は、海洋国家、日本の中国大陸に向けた玄関口だったというのです。
 何ごとも、いろんな角度から物事を考察することが必要だということですね。勉強になりました。
(2022年8月刊。780円+税)

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