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読み書きの日本史

カテゴリー:日本史(江戸)

(霧山昴)
著者 八鍬 友広 、 出版 岩波新書
 よくリテラシーというコトバが登場します。もとは、読み書き能力(識字能力)のことでしたが、近年、大幅に意味内容を拡張していて、情報の内容を批判的に取捨選択する能力にまで高められている感がある。私はなかなかなじめなくて、使いこなせないコトバです。
話しコトバを獲得するには、学校に通ったり、特別な訓練を必要としない。しかし、文字の読み書きは、生得的な能力ではなく、長年にわたる習練の結果によって初めて獲得されるもの。
 そうなんです。私が毎日毎朝、フランス語を聴いて書き取りをしているのは、フランスで生活したいというよりも、フランスの文化に直に接したいという願望からなのです。
 かつての日本に角筆(かくひつ)というものがあることを初めて知りました。墨などをつけるのではなく、紙の表面に先の尖った棒状のものを押しつけて、へこみをつけるもの。
一文不通は「いちもんふつう」と読む。読み書きの能力が一定の水準に達していないことを指して使われたコトバ。
「往来物(おうらいもの)」とは、手紙文例集のこと。私は江戸時代の産物とばかり思っていましたが、実は、平安時代に始まるとのこと。平安期に続々と刊行され、鎌倉・室町に続いていったのです。かの敦煌(とんこう)石窟から発見された敦煌資料のなかにも手紙文の形式・文言を記載したものが大量に発見されているというのですから、驚きます。
日本の往来物は、学校で教科書が登場して、とって代わるまで、800年以上も継続した、世界でも特異なもの。「往来」は、一種の模範文例として、手紙を書くためのテキストブック。これに対して「消息」は、実際の手紙を指す。江戸時代の「商売往来」は、最大のヒット作だった。
近世から明治初期にかけてが、往来物の最盛期だった。現在、残っているものだけで7千種類ある。しかし、実のところ、1万をこえるのだろう。
『道中往来』は、仙台の書肆(しょし。本屋)が刊行し、きわめてよく普及した旅行記という往来物だった。
百姓一揆のときの百姓側の要望書が「目安」と呼ばれ、これらが往来物の一つになった。江戸時代、寺子屋が流行した。地方では「村堂(むらどう)」としていた。
寺子屋の師匠が亡くなったとき、千葉県内に建立された「筆子碑」は3000基もあった。寺子屋のなかには「門人張(もんじんちょう)」をつくっているところもあった。
近江国神崎郡北庄村(滋賀県東近江市)にあった時習斎寺子屋には4276人もの寺子が入門したという記録が残っている。ここで、女子の入門者は2割ほどでしかなかった。
江戸時代にやってきた、ロシアのゴローヴニン(軍人)やアメリカ人のマクドナルドやイギリスの初代終日公使オールコックは、いずれも日本人の識字能力の高さに驚いている。
村の男子の1割ほどが文通できたら、村請(むらうけ)制が実施可能だった。
昔は本を読むのは音読(おんどく)、つまり声を出して読みあげるのが一般的だと思っていました。しかし、この本では黙読もフツーにおこなわれていたというのです。そうなんですか…。
 世の中、知らないことは、ホント多いのですよね。
(2023年6月刊。1060円+税)

室町幕府論

カテゴリー:日本史(室町)

(霧山昴)
著者  早島 大祐 、 出版  講談社学術文庫
 室町時代の足利義満が天皇より上皇より権力を握っていたというのは私も知っていました。でも、この義満が高さ110メートルもある七重の塔を建立していたというのは知りませんでした。この塔は「七重七塔」とか単に「大塔」と呼ばれていました。落雷による火災にあい再建されても3度、焼失してしまったそうです。この「大塔」こそ、義満が権力を握っていたことの象徴でした。
最初の大塔が建ったのは応永6(1399)年のこと。
初期の室町幕府は軍事政権的な状況が濃厚だった。
 足利義満と後円融天皇とは同じ年に生まれ、当初はとても仲が良かった。ところが、義満が実権を握っていくにつれ、後円融はむくれて、仲が悪くなり、ついには修復不可能になってしまった。
義満は遅刻が大嫌いだった。遅参した公家たちに同席(参加)を許さなかった。なぜか…。義満は禅に傾倒していたから。禅の教典(「日用軌範」)は、時間厳守を教えていた。義満はそれに感化された。それまでの「国風文化」は遅刻・欠席だった。ところが、中国伝来の禅による「外来文化」は時間厳守だった。それが今では日本の「伝統」かのように確立している。
 後円融天皇は36歳の若さで亡くなり、長老たちも次々に亡くなって、義満は誰に遠慮することなく、自分の思うとおりに行動できた。
 義満が自分が天皇になろうとしていたという刺激的な説は、今では完全に否定されている。そして、義満は明に対しては「日本国王」と称したが、対国内では「日本国王」と自称することはなかった。
 義満は中国の明との交易についてはすこぶる積極的だった。というのも、それは巨利をもたらしたから。
義満がつくった「金閣」は、上層が禅宗様で、下層は寝殿造(朝廷文化)だった。そして、建物を「金」でコーティングした。義満が居を移した北山第(ほくざんてい)は、政務をとる場であり、巨大な宗教空間でもあった。
 義満の人柄は、大胆さと繊細さを兼ね備えていた。
 室町時代の貨幣は重たかった。1貫文は銅銭で4キログラムにもなる。これで10万円ほど。こんな重たいものを旅行するとき持ち運ぶのは、いかにも不便。そこで登場したのが割符(さいふ)。これは為替や替銭(かえぜに)とも呼ばれた。年貢の輸送は割符とともに進んだ。
この本を読んで初めて知ったのが「応永(おうえい)の外寇(がいこう)」(1419年6月)です。倭寇(わこう)が朝鮮半島に上陸し、あちこちで襲撃を繰り返したのに対して、朝鮮王朝が反撃したのです。1万7千人もの兵士が対馬に上陸したというのでした。韓国では「己亥(きがい)東征」と呼ばれているとのこと。まったく知りませんでした。
室町時代というのが面白い、変革の時代だというのが、よくよく分かる本です。
(2023年5月刊。1210円+税)

都会の鳥の生態学

カテゴリー:生物

(霧山昴)
著者 唐沢 孝一 、 出版 中公新書
 身近な小鳥たちの生態を教えてくれる新書です。ツバメ、スズメ、そしてカラスなど、ごくごくありふれた鳥たちですが、意外なほど私たちは詳しい生態を知りませんよね。
 まず一番にツバメ。九州や四国で越冬するツバメが増えているとのこと。私は冬にツバメを見たことはありません。そして、ツバメの飛来時期が23年間で1ヶ月も早まったとのこと。そうなんですか・・・。私の住む地域では、3月中旬です(と思います)。
 ツバメのオスは早く飛来して営巣場所を確保してメスを迎えたい。しかし、早い時期だと、途中で寒波襲来に出会ったり、天気が大荒れになったりする。すると、餓死したりして途中で脱落してしまう危険がある。
先に来たオスは辛抱強くメスを待つが、メスが先に帰還したときは、いつまでもオスを待つことはない。ツバメの寿命は平均1年半しかないので、いつまでも生死不明の前夫を待っていられない。
ただし、ツバメも、5年、10年、ついには16年も生きた長寿記録があるとのこと。信じられませんね。
 ツバメの子育てで最大の天敵は人とカラス、そしてネコ。人はそのフンを嫌っての巣落とし。カラスに対してはツバメが集団的に対抗しようとする。
 ツバメはスズメと、対カラスでは共闘するが、普段は営巣場所をめぐって対立関係にある。ツバメの親子の家族生活は2週間ほどで終わり、幼鳥たちは、ほかの幼鳥と合流して行動するようになる。
 ツバメは一夫一妻であり、オスとメスが共同して子育てする。ところが、牛舎などで集団繁殖することの多いヨーロッパのツバメはDNA検査すると、30%は婚外子だった。これに対して、各家に分散して繁殖する日本のツバメでは婚外子は3%しかない。
 次は、スズメ。「特徴がない」のがスズメの最大の特徴。スズメは飛翔昆虫しか食べないツバメと違って、何でも食べる雑食性。そして、体長14.5センチと小さいので、1回に食べるエサは少量。これによって、スズメは都市でも生きていける。
 スズメの寿命は平均1.8年。ところが、最長8年というのもいる。スズメは、カモやムクドリなどと「混群(こんぐん)」をつくって生活することが多い。混群によって、食物を発見しやすく、また天敵に対する安全性も高まる。
 スズメの一日は、太陽のもとで始まり、終わる。これは、まるで江戸時代の人々と同じだ。
 スズメは、ハタオリドリ科の鳥であり、そのルーツは、アフリカのサバンナにある。
 スズメは雑木林のオオタカやサシバの巣の近くで繁殖することがある。しかし、スズメを食べるツミの巣の周辺は避けている。
スズメは人の住む人家のない限界集落は姿を消していくが、キャベツ畑の集荷場で営巣している。これは、アフリカのサバンナをスズメが起源することによるようだ。
 ハシブトガラスとハシボソガラスの共通点の一つは、雑食性。何でも食べる。もう一つの共通点は、足技(あしわざ)。カラスの爪は長くて頑丈であり、「爪さばき」もまた絶妙。
 カラスは遊ぶ。そして、その多くは、人間の子どもの遊びに似ている。子どもは、遊びを通して、身体能力や仲間とのコミュニケーション能力を高める。
 さすがによく調べてあると驚嘆しながら読みすすめていきました。
(2023年6月刊。1050円+税)

江戸の岡場所

カテゴリー:日本史(江戸)

(霧山昴)
著者 渡辺 憲司 、 出版 星海社新書
 幕府に公認された吉原とは違って、江戸市中に60ヶ所以上もあった「岡場所」は、その始まりから終わりまで、非公認の売買春地域だった。
 盛り場、寺社の門前、宿場の至るところに岡場所は根を張っていて、その風俗や流行は江戸市民に吉原以上の甚大な影響を与えた。岡場所ナンバーワンの深川は、吉原の2倍の売上金を計上していた。
 岡場所は、庶民とりわけ町人階級の法に背(そむ)く自立的覚悟の上に成り立っていた。
 吉原を遊里文化のメインカルチャーだとすると、岡場所はサブカルチャーだった。
 明治以前、江戸時代まで、公娼・私娼という言い方は使われていない。
「岡場所」というコトバは平賀源内も使っている(1763年)ので、18世紀中ころ、非公認の遊里として世間一般の人々から認知されたということと考えられる。
 初め、岡場所は黙認されるだけの時期があった。次に、岡場所禁圧の時代が到来した。江戸時代、遊女町を城下町に置くのは、多くの地域で禁止されていた。
多くの日本人女性がキリシタン商人によって奴隷として海外に流出していった。キリシタン貿易は、人身売買をしていたという疑いがある。
年季(ねんき)によって、郭(かく)の中に女性たちを閉じ込めたのだった。それは中国の遊郭にも前例がないもの。
 初期の岡場所の主役は「湯女(ゆな)」と呼ばれた。湯女を抱えた風呂屋は、昼夜の営業だった。まるで、現代日本のコンビニですね…。
 遊女の細見(カタログ)には15歳から18歳が多いけれど、なかには12歳の例もある。最高齢は42歳だった。
 岡場所では、年季・外出も自由だった。岡場所は宝暦(1751~1764年)の時代に最盛期を迎えた。品川宿全体で500人もの飯盛女が幕府の公認を得た。
 吉原では客のほうから遊女屋に出かけ、深川では、芸者や遊女を料理屋に呼んだ。遊女は、吉原に2000人、深川には600~700人いた。
 
 品川の客には、「侍」のように「にんべん」のある「侍」と、人偏のない寺が多かった。品川の貸座敷というのは、名を変えた遊郭のこと。
京都で辻君、大阪で惣嫁(そうか)、江戸は夜鷹と呼んだ。また、江戸では夜発(やはつ)とも言った。夜鷹は、独立的流れ仕事の売春ではなく、組織に組み込まれた売買営業だった。
 吉原が凋落の一途をたどったのは享保期から。
 慶応3(1867)年、吉原の売上金額は8万8両。深川は、その2倍の15万両もあった。岡場所の代表・深川のほうが吉原を完全に凌駕(りょうが)した。
 江戸時代の貴重な一断面を知ることができました。
(2023年3月刊。1400円+税)

ナイル自転車大旅行記

カテゴリー:アフリカ

(霧山昴)
著者 ベッティナ・セルビー 、 出版 新宿書房
 52歳のイギリス人女性がナイル川の源流まで一人で自転車旅行した体験記です。
ときは1986年のこと。カイロに着いたのは11月初め。7200キロに及ぶナイル川源流への旅を思い立ったのは、前年冬に大英博物館にいたとき。といっても、著者は、その前にヒマラヤ、中近東そしてトルコを自転車旅行しています。また、フリーランスのカメラマンとして活動していたこともあります。
夫と成人している3人の子どもをイギリスにおいて、エジプトから自転車で南下していきます。
 自転車はロンドンで特注したもの。著者自らデザインし、車体を鮮やかな赤に塗り、ギアは18段。現地を走ると、この赤い自転車は目立つこともあって「アーアガラ」と呼ばれた。「アガラ」はアラビア語で自転車。「アー」は感嘆のコトバ。
最少の荷物にしても、結局は30キロの重さ。今どきの電動自転車なら、スイスイでしょうが、いくら18段とはいえ、自分の足でこぐのですから大変です。
 10リットル入りのプラスチック容器に水を入れ、それとあわせて、固形セラミックコアを使うスイス製浄化ポンプを携行し、これで助かったのでした。
 本は持っていかない。驚くべきことに、私は絶対まねできませんが、著者は本がなくても読書を楽しむことができるというのです。ええっ、ど、どうやって・・・。
 著者は学校で時代遅れの教育を受けたので、散文や詩をたくさん暗記させられた。それで、頭の中にしまってある本から、一説ひねり出すというわけ。これは、すごいことですね。
 ウォークマンもスマホもありませんので、音楽を聴きながらの自転車旅行でもありません。もっとも、耳にイヤホンをつけていたら、周囲の状況を察知するのが遅れて危ない目にあったことでしょう。
 猛獣に襲われるということはありませんでしたが、学校帰りのガキ連中には何度もひどい目にあったとのこと。「宿敵」とまで表現しています。いたずら小僧というのは、どこにでもいるのですね。
 コース周辺の貧しい村人からは歓待されることが多かったようです。そして、英語を話せる若者がところどころにいて、助けられもしました。
 イザベラ・バードというイギリス人女性が明治の初めに東北から北海道を日本人の若者を従者として一人旅しています。この女性も勇気がありましたが、この本の著者もすごいものです。エジプト奥地のきちんと舗装されているわけでもない道路を1日最高200キロも赤い自転車で走行したというのです。信じられません。
エジプトからスーダンに入り、ウガンダに入国します。どこも軍隊が反乱したり、治安の良くないところです。著者は少年兵が銃をもち、手りゅう弾を持っているのを見て怖いと思いました。ガキに鉄砲なんか持たせたら、面白半分に何をやるか分かりませんよね。少年兵はどこの国でも怖い存在です。
野外トイレは、砂と灼熱の太陽が、すべてを乾燥させるから、衛生的と解釈したというのも、さすがアフリカならではのことです。そこはイギリスや日本とはまったく異なります。
大体は1日に30キロから40キロを走るのがやっとだったと書かれています。見知らぬエジプトの地を走るのですから、それはそうでしょうね。
この当時、アフリカの女性は、6歳のころ割礼された。なかでもスーダンは徹底していた。少女の外陰部は切除され、小さな穴だけを残して、切り口はきつく縫い合わされる。なので、自然分娩(出産)するときは、陰部を切開して広げなければならないので、自宅で出産するのは難しい。いやはや、とんでもない習慣です。アフリカでは、少なくなったようですが、まだ根絶はしていないと聞いています。
このころ、アフリカの悪路を走るのは、トヨタ、三菱、いすゞなどの四輪駆動車。その優れた性能に、著者も感嘆しています。今は、どうなんでしょうか・・・。
日本の女性もタフですが、イギリス人女性も負けず劣らずタフのようです。
(1996年1月刊。2400円)

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