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クアトロ・ラガッツイ

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著者:若桑みどり、出版社:集英社
 信長・秀吉の時代にローマ教皇に会いに出かけた天正少年使節の栄光と悲しい運命を描いた本です。上下2段組みで530頁もありますが、質量ともに大変読みごたえのある書物です。福岡のある裁判官と立ち話をしたとき、この本が話題となりました。私はぜひ読んでみてくださいと強くすすめました。
 4人の少年は1582年(天正10年)に出発し、1590年(天正18年)に帰国しました。実に8年5ヶ月かかっています。出発のとき12歳から14歳だった少年たちは、20歳ないし22歳という立派な大人になっていて、実の母親でさえも見分けがつかないほどでした。すでに信長は倒され、秀吉の天下になっていました。しかも、伴天連追放令が出ています。すっかり世の中が変わっているなか、秀吉に面会できるか危ぶまれました。そこを押しきって上京し、威風堂々と行進するなかで、秀吉の方もインド副王の手紙が来たことを自分の権威誇示に役立てようという思惑から、少年たちに面会することになります。そして、伊東マンショに士官をすすめたのです。もちろん、マンショは断ります。でも、断り方には慎重な配慮が必要でした。
 マンショは、そのまま日本にとどまり、42歳のとき長崎で病死します。原マルチーノは国外追放となり、マカオで死にました。中浦ジュリアンは日本国内に潜伏し、1633年、長崎で穴吊りの刑にあって殉教します。残る松田ミゲルは棄教者となりました。しかし、1637年に勃発した島原の乱のとき、天草四郎はミゲルの息子だという噂が立っていたというのです。
 伝道が始まってわずか数十年のうちに、キリスト教の信者は九州の全人口の3割をこえる30万人に達しました。これは、キリスト教がまず貧民の救済事業を行ったことが大きいようです。
 ザビエルは手紙にこう書きました。「日本人は非常に好奇心に富み、知識に渇し、問題を出し、またその答えを聞いて、少しも疲れない。新事物を聞くこと、とくに宗教上のことを聞きたがるのは、そのもっとも好むところ。日本に来る神父は、日本人のする無数の質問に答えるための学識をもつ必要がある。日本人との討論において、その矛盾を指摘するために、弁証法学を知っているとなお結構である。宇宙の現象のことを知っていると、ますます都合がよい。なぜなら、日本人は、天体の運行や日蝕や月の満ち欠けの理由などを熱心に聞くからである」
 家光は12年間に28万人ものキリスト教徒を殺しました。改宗しさえすれば殺されないのに、改宗しないで死を選んだ日本人がそれほど多かったということです。
 権力と命令系統に従順な日本人の平の武士が、キリシタンになったとたん、命がけで権力にさからって自分たちの宗教を護ろうとする。これを権力者が放っておくわけがありません。巡察師ヴァリヤーノは日本人について、次のようにローマ教皇に報告しました。
 「彼らはきわめて礼儀正しい。貴族ばかりではない。一般庶民や労働者も驚くべき礼儀をもって上品に育成され、それはあたかも宮廷人のようである。この点で、彼らは東洋の諸民族のみならず、我らヨーロッパ人よりも優秀である。人々は有能であり、すぐれた理解力をもち、子どもたちは我らの学問や規律をすべてよく吸収し、ヨーロッパの子どもよりもはるかに容易に、また短期間に我らの言葉で読み書きを覚える。彼らのことごとくがあるひとつの言語を話すが、それは知られている限り、もっとも優秀なものであり、きわめて優雅であり、私たちのラテン語よりも語彙が豊富で思想をよく表現する」。
 果たして現代日本人にもあてはまると言えるのでしょうか・・・?
 高山右近はマニラに追放されましたが、そこで国賓のように歓迎され、彼の孫は総督の養子になっています。そして、高山右近の領地であった摂津高槻の隠れキリシタンは250年後まで生き延びました。日本教会の奇蹟と言われています。

ヒラリーとビルの物語

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著者:ゲイル・シーヒー、出版社:飛鳥新社
 ヒラリーの母親・ドロシーは、15歳の母親から生まれ、両親はドロシー8歳のときに離婚した。ドロシーは14歳で住み込み女中として働くようになる。ドロシーは娘(ヒラリー)に離婚がどれほど過酷なものか何度も語ったに違いない。ヒラリーほど、自らの野望に首尾一貫して真摯な女学生はいないと友人たちは言う。ヒラリーが本当に興味をもっていたのは政治学とAをとること。ところが、ヒラリーは高校時代に選挙で負け、心が大きく傷ついた。大学3年生のとき、学生自治会長に立候補し、3週間かけて寄宿舎まわりをして、当選を果たした。
 ヒラリーは、変革を起こすことに興味をもっていたが、それは体制の外からではなく、内側からの変革だった。ヒラリーはまぎれもないタカ派で、秘密の反共組織のメンバーでもあった。
 クリントンの母親・ヴァージニア・ケリーは快楽主義者であり、自分を飾ることに一生懸命の女だった。また化粧するのに時間がかかるから、寝るときにも化粧を落とさなかった。チェロキー・インディアンの血も受けつぎ、5回、結婚した。
 クリントンの家庭は、誰が見ても道徳的・倫理的に混乱していた。本人も「わが家には常に家庭内暴力があり、家庭が家庭として機能していなかった。だから、孤独だった」と正直に語っている。クリントンは決して離婚を選ばない。アルコール中毒者のいる家庭では、どんな犠牲を払っても平穏を保つことが最優先されるから。
 ヒラリーは一家の大黒柱であり、政治の実情も握っている。ヒラリーもクリントンも一人娘チェルシーを愛している。しかし、2人の最優先事項は政治家としてのクリントンのキャリアだった。
 ヒラリーの中毒はビル。クリントンは選挙運動と安物の愛、そしてフリーセックスによって生きている。女たらしの夫の秘密を長い年月にわたって守り続けたヒラリーは、心の中に神経まで麻痺させる分厚い防護壁を築き上げた。
 クリントンのなかには2つ以上の人格が存在する。一方の彼は敬虔な父親であり、良き夫である。もう一方の彼は、妻と娘の双方を平気で裏切っている。子どものころにしばしば虐待された人物は、生き残るために自分の人格の一部を分離することを覚える。クリントンは幼児期をすごしたホットスプリングスで母親がいて、寛容な環境があったころの人格にはいるとき、とてもくつろいて安心できる。しかし、それは虐待をもって終わる。つまり、クリントン自身による女性への虐待によって、このアイデンティティがそこで終わる。そして、バレて嘘をつくとき、彼はすでに別の人格になりおおせている。だからこそ、あたかも第三者がやったことであるかのような口ぶりができる。
 なるほど、クリントンとヒラリーの関係は、そういうことだったのか・・・。よく分かった気がしました。

ガーナ

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著者:高根務、出版社:アジア経済研究所
 1960年ころ、アフリカではガーナのンクルマ大統領をはじめとして次々に植民地支配を脱して独立していき、希望の星でした。
 ところが、その後、ガーナでもクーデターが相次ぎ、混乱のなかでガーナという国の名前を聞くことはほとんどなくなりました。それでも、ウガンダのようなひどい大虐殺が起きる状況にはならなかったようです。そのガーナについて紹介した本です。
 アサンテ王国とファンテ王国が対立していて、イギリスやオランダの力を借りていくなかで、ともに倒されてしまう状況も紹介されています。
 ガーナの歴史と現状を簡単に知ることのできる本です。

お旗本の家計事情と暮らしの知恵

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著者:小川恭一、出版社:つくばね舎
 江戸時代には、上司やお世話になる役職者への付届は賄賂ではなく、玄関で礼を言ったり、受取証を書いたりするようなものでした。
 御徒目付組頭(おかちめつけくみがしら)の小野伝左衛門という人は25歳で御徒目付となって、在職45年だったそうです。事情に明るく便利な人で、自分から催促などしなくても、大名や旗本から盆暮れの挨拶品が山のように自宅へ届いていたそうです。それだけの役得があるので、旗本への昇格を断わりとおしたといいます。
 旗本の経済事情を具体的に分かりやすく知ることのできる本です。

縄文の素顔

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著者:勅使河原彰、出版社:白鳥社
 縄文時代の技術レベルがすごく高いものであったことは写真からも明らかです。
 私は青森県の三内丸山遺跡にも見学に行ったことがありますが、直径1メートルもの巨大なクリの木でできた柱が6本もありました。現代のレベルからみても、すごい巨大建築物です。佐賀県の吉野ヶ里遺跡に昨夏ひさしぶりに行ってきましたが、双璧です。
 縄文人は、15歳までの生存率40%、0歳児の平均余命は男女とも15歳、15歳まで生きても平均寿命は31歳と短命でした。「縄文のビーナス」と呼ばれる土偶の見事さ、土製滑車形耳飾りの精巧な透かし彫り、櫛やヘアピンなど、現代でも立派に通用する斬新なデザインです。決して縄文人を野蛮人などと思ってはいけません。

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