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アフガニスタン

カテゴリー:中近東

(霧山昴)
著者 レシャード・カレッド 、 出版 高文研
 日本在住の高名なアフガニスタン人医師による報告と熱い想い・願いが語られています。
 アフガニスタンと言えば、惜しくも理不尽に2019年12月4日、暗殺された中村哲医師の活躍を思い出します。中村哲医師亡きあともペシャワール会はアフガニスタンで活動を続けているようですが、常駐の日本人リーダーが不在というのは、もどかしい限りです。
 この本の著者も「カレーズの会」を主宰して、中村医師と同じようにアフガニスタンで医療等の支援活動を展開してきました。本年(2023年)2月、3年ぶりにアフガニスタン現地へ行き、視察と政府への要請行動をしました。
アフガニスタン政府は、もちろん今ではタリバン政権です。保健大臣は同じ医師として、著者の要請を快く応じたようです。
この本にもタリバンが政権を掌握する過程が紹介されていますが、いったいアメリカ軍の20年間の駐留には、どんな意味があったのでしょうか…。
 いま、アメリカのベトナム侵略戦争時の映像がFBの合い間に流されることがあり、私の大学生のころのことですから、ついのぞいてみます。世界一強大なアメリカ軍もベトナムで勝利できなかったのと同じく、アフガニスタンでもアメリカは勝利できずに、無責任にも一方的に撤退してしまいました。
今、アメリカには、アメリカ軍に協力したアフガニスタン人の通訳や兵士たちが故郷に戻れず(アフガニスタンでは裏切者、売国奴として直ちに処刑される恐れが十分あります)、アメリカ政府の援助を求めているというNHKの報道特集を見ました。
著者は中村哲医師が活動していたガンベリ地区にも足をのばしました。カカムラ記念庭園には、大きなモニュメントがあります。中村医師の穏やかな顔が大きく描かれたモニュメントです。その周囲は、緑豊かな農園になっています。緑と赤のキャベツ畑が広がっている写真がありますが、ここはかつては荒涼として砂漠地帯でした。
 ペシャワール会がつくったトレーニングセンターは中村医師が亡くなってからは使われていないそうです。もったいないですね。ここにも中村医師の存在の大きさを実感しました。
カレーズの会の診療所では、女子の診療部に女性職員が増えて、元気に活躍している様子が紹介されています。うれしいニュースです。
 タリバン政権は、女性が大学で勉強するのを禁止したというニュースが流れました。世の中の流れに逆行する、とんでもない動きです。いったい、タリバン政権の幹部には妻も娘もいないとでもいうのでしょうか…。
 アフガニスタンの識字率は男性62%、女性32%。初等教育の終了率は男子67%、女子40%。中学校レベルは男子49%、女子26%。高校レベルは男子32%、女子14%。
 これが国の発展を阻害することになるということをタリバン政権の幹部たちは自覚すべきですよね。とはいうものの、日本だって、依然として女性の賃金格差はひどいものがあります。出来るところから、声を上げ、ひとつひとつ改善していくしかありません。先日のデパートのストライキは久々のクリーンヒットでした。日本だって、もっとストライキをやって自己主張していいんだ、少しは他人に迷惑をかけてもいいんだという世の中に変わるべきなのです。
(2023年6月刊。2200円)

ゾルゲ伝

カテゴリー:ロシア

(霧山昴)
著者 オーウェン・マシューズ 、 出版 みすず書房
 戦前の日本の政府中枢にがっちり食い込んでいたソ連赤軍スパイ組織のリーダー、リヒアルト・ゾルゲについての本格的な伝記です。本文だけで460頁もあります。お盆休みに朝から夕方まで、一心不乱に読みふけりました。後半はかなり飛ばし読みして、なんとか読了ということにしたのです。
 この本の冒頭、グローザ(雷雨)作戦という、聞いたことのないコトバが登場します。1940年9月以降、スターリンはドイツ侵攻のための有事の計画を立てていたのだそうです。
 そのころ、スターリンのソ連はヒトラーのドイツに対して、その戦争準備のための膨大なトウモロコシ、石油、鉄鋼を供給していたのですが、同時にドイツ侵攻も計画していたというのです。知りませんでした。
 リヒアルト・ゾルゲが大変な苦労してソ連本国に情報を届けたのに、スターリンはこう言って、まったく耳を貸しませんでした。それはドイツがソ連に侵攻しようと準備をすすめているという重大な情報です。1941年5月20日のゾルゲの報告に対して…。
 「小さな工場と売春宿で情報を仕入れるクソ」
 自分だけが真実を知っていて、周りは自分を欺いていると信じ込んでいる指導者(スターリン)の非合理的でヒステリックな疑念からくるもの。そして、ソ連諜報機関の長(ゴリコフ)は、ソ連国境での軍備増強は、イギリスの欺情報だというスターリンの確信をさらに強めるばかりだったのです。ですから、ゾルゲの貴重な報告は無視されていました。要するに、スターリンはヒトラーから完全に騙されてしまったのです。
 フィリップ・ゴリコフ将軍が赤軍情報本部長に就任したとき、前任者5人は全員が銃殺刑に処せられていた。NKVD組織(KGBの前身)は、情報部員200人以上を逮捕し、部長を含む全指導部を交代させた。 スターリンの大粛正は、党を崩壊させ、情報部第4部の組織のほとんどを壊滅させた。ソ連邦元帥5人のうち3人、赤軍の将軍の90%、大佐の80%、それ以下のランクの将校3万人が逮捕された。 
 ところが、バルバロッサ作戦が発動され、たちまちソ連領内にヒトラー・ナチス軍が侵入してきて、ソビエト軍の前線は戦わずして総退却していきました。スターリンの犯した重大な間違いによって、緒戦でソ連は大量の戦死傷者と捕虜を出してしまいました。スターリンは、これで自分の首も危ないと一時は思ったようですが、すぐに開き直りました。
 そして、事態がさらに進行していくと、ゾルゲの報告はスターリンのソ連軍に重大な変化をもたらしたのです。
 ソ連へのナチス・ドイツ軍の侵攻によって大変な痛手を受けたあと、ゾルゲの報告に信憑性ありとなり、日本が北進策を完全に中止したことが伝わると、ソ連赤軍は極東軍区から大量の部隊が西部戦線に移動して、ドイツ軍と戦うようになった。
 スターリンはシベリアに置いていたソ連赤軍の半分以上をモスクワ防衛に振り向けた。つまり、ゾルゲの報告によって、極東にあったソ連赤軍をドイツ軍との戦いに投入することによってヒトラー・ナチス軍を敗退させることができたのです。
 ゾルゲは共産党員でありながら、それを秘してナチ党への入党を申請して認められた。そして、在日ドイツ大使館において大使だったオットーとゾルゲは親密な関係を築きあげた。ゾルゲの報告はソ連だけでなくドイツにも送られていて、高く評価されていたようです。ドイツのリッペントロップ外務大臣のゾルゲあての感謝の手紙が残っているとのこと。驚きました。
 オットー大使は、ゾルゲが逮捕されたあと面会に来たときもまだゾルゲをスパイだとは思っていなかった。
 ゾルゲが逮捕されたのは1941年10月のこと。日本にゾルゲが上海からやってきたのは1933年9月なので、8年あまりもスパイ活動をしていたことになります。二・二六事件や西安事件など、激動の時代を過ごしていたわけです。そして、ゾルゲが処刑されたのは、1944年11月6日、ソ連の十月革命記念日だった。
 ゾルゲは、日本がソ連に戦争を仕掛けるのかどうかトップレベルの情報を仕入れて、ソ連に報告していたのです。それは、日本は石油確保のためにも南方へ進出するしかないというものでした。そして、極東ソ連赤軍をナチス・ドイツとの西部戦線に移動させ、ヒトラー・ナチスを敗退させ、結局は戦争終結を早めることができたわけですので、ゾルゲも尾崎秀実も世界平和の実現に多大なる貢献をしたとみることができると私は思います。
 それにしても、8年間ものスパイ生活を送っていたときの精神状態は大変なものがあったと考えられます。アルコールに溺れ、スピード狂で何度も大事故を起こし、また、たくさんの女性遍歴をしているなど、ゾルゲの人間性の描写にも興味深いものがあります。
(2023年5月刊。5700円+税)

評伝・弁護士・近内金光

カテゴリー:司法

(霧山昴)
著者 田中 徹歩 、 出版 日本評論社
 栃木県に生まれ、京都帝大を卒業後、農民組合の顧問弁護士として活発に活動していたところ、「3.15事件」で逮捕され、懲役6年の実刑となり、刑務所に収監された。獄中で発病し、弁護士資格を剝奪され、1938(昭和13)年に病死。享年43歳。
 近内(こんない)弁護士の歩みを、同じく栃木県出身の著者が丹念にたどった本です。
「これほど純粋無垢な男は見たことがない」
「典型的な革命的弁護士」
「栃木弁まる出しの弁論は、熱と力に充ち、いささかの虚飾なく、冗説なく、一言一句、相手方の肺腑(はいふ)をえぐる鋭さがあり、裁判長や相手方弁護士を狼狽(ろうばい)させた。農民にとっては、実に小気味よく、思わず嘆声をあげ、随喜の涙さえ流した」
「弁護士というより、闘士として尊敬されていた」
「包容力があり、芯に強いものをもっていた」
近内は二高に合格したあと、さらに翌年(1918年)、第一希望の一高に合格して入学した。1918年というと、前年(1917年)にロシア革命が起こり、7月には富山などで米騒動が起きていた。そして、翌1919年3月、朝鮮では三・一独立運動、5月に中国で五・四運動が発生した。まさに世界が激動するなかで一高生活を送ったわけです。
また、1918年12月には、東大新人会が結成された。1918年9月には原敬内閣が誕生してもいる。
近内と同じく一高に進学した学友の顔ぶれを紹介しよう。いずれも有名人ばかりだ…。吉野源三郎(「君たちはどう生きるか」)、松田二郎、村山知義、前沢忠成、戸坂潤、など…。そして、近内たちの前後には、尾崎秀実、宮沢俊義、清宮四郎、小岩井浄などがいる。いやあ、驚くほど、そうそうたる顔ぶれです。
近内は一高では柔道部に入った。柔道二段の腕前だった。
近内は、1921(大正10)年3月、一高を卒業し、4月、京都帝大の法学部仏法科に入学した。
京都帝大の学生のころ、近内は目覚め、社会主義への関心を持つようになった。
近内は一高そして京都帝大に在籍した6年間、フランス語も勉強した。モンテスキューの「法の精神」やシェイエスの「第三身分とは何か」を一生懸命に翻訳した。
近内は1925(大正14)年12月、司法試験に合格した。
このころ、弁護士が急増していた。1915(大正4)年の弁護士数は2500人もいなかったのに、10年後には5700人になり、1930年には6600人になった。弁護士人口が急速に増加していった。このころも「弁護士窮乏」論が出ています。
そして、1921(大正10)年に自由法曹団が誕生した。同じく、翌年(1922年)7月、共産党が結成された。
このころ、大阪は、人口211万5千人で、200万人の東京を上回る、日本一の大工業都市だった。
近内が弁護士として活動したのは27歳から30歳までのわずか2年4ヶ月のみ。近内は、信念にもとづき、妥協を排し、まっすぐに主張を貫く姿勢で弁護活動を展開した。野性横溢(おういつ)、叛骨(はんこつ)稜々(りょうりょう)という言葉は那須(栃木県)の地に生まれ、農民魂を忘れることがなかった近内の真髄を表している。
1926(大正15)年1月の「京都学連」事件は完全な当局によるデッチあげ事件(冤罪事件)で、近内は、その学生たちの弁護人となった。この事件の被告人には、鈴木安蔵(憲法学者)や、岩田義道などがいる。
近内は、日本農民組合の顧問弁護士として全国各地で多発していた小作争議の現場に出かけていって、農民支援の活動を展開していった。
まだ30歳の若者が、「父の如く慕われている」「トナリのオヤジ」として親しまれた。
裁判所は昔も今も、大地主や資本家の味方で、小作人の味方は決してしない。
近内は、争点を拡げたりして一見無駄に見える時間の使い方をしていた。それによって、小作人は少しでも長く耕作できるからだ。
今日の公職業法には重大な制約が二つあります。小選挙区制と戸別訪問の禁止です。「二大政党」なんて、まったくの幻です。
この本で、著者は、高額(2000円)の供託金制度も問題にしています。まったくもって同感です。もう一つは小選挙区制です。
労働農民党の40人の立候補のうちの30人は自由法曹団員だった。そして、うち11人は日本共産党の党員だった。
近内も労農党から立候補したが、見事に落選した。この選挙では、無産政党の3人が当選できた。山本宣治のほか水谷長三郎(京都一区)がいた。
近内弁護士について、初めて詳しく知ることができました。ちょっと高額な本なので、全国の図書館に備えてもらって、借り出して読んでみてください。
(2023年8月刊。6300円+税)

幻のユキヒョウ

カテゴリー:生物

(霧山昴)
著者 木下 こづえ・さとみ 、 出版 扶桑社
 ユキヒョウはネコ科のヒョウ属。ロシアや中央・南アジアの高地に生息する。推定8000頭未満、絶滅の危機に瀕している。
 ユキヒョウは雪山に適応して毛が長く、足裏までぎっしり生えている。子育て期間は22ヶ月ほどで、長い。大牟田の動物園にもいる。
 長い尻尾でバランスをとりながら、急な崖も軽快に移動する。ユキヒョウは声帯が小さく、骨の構造が異なるため、大型ネコ科動物のなかで唯一、咆哮(ほうこう)ができない。
 ユキヒョウは頭からお尻までの体長が1メートル、尾の長さも体長と同じ1メートル。どんな体勢であっても、しっぽが地面に擦れてしまうなんてことはなく、その先端はいつもカッコ良くヒュッと上がっている。
 寒さの厳しい山々に生息するユキヒョウは、行動範囲が広く、また警戒心がとても強いため、人間の足で直接観察によって探すことはほとんど不可能。そこで、ユキヒョウがいそうな場所に赤外線カメラを仕掛ける。雪のうえなら足跡が見つかる可能性がある。そして、ひたすら下を向いてユキヒョウの糞を探す。糞は、きわめて貴重な手がかりで、研究者にとっては宝石みたいに価値がある。ユキヒョウは排泄前に後肢で地面を掻き、掻き集まった土の上に排尿し、見せつけるようにその上の糞を出す。
 モンゴルのゲルに泊まると、なかは広々としたワンルーム。トイレも風呂も着換えする個室もない。トイレは青空。夜はゲルから外に出ると、見渡すかぎりすべてが星。トイレの場所は決まっておらず、草原のどこでもOK。なので、窪みや岩の影を探し求める。
 遊牧生活の燃料は家畜の糞。糞を乾燥して使う。モンゴルの草原では、木材は貴重品。
 ユキヒョウは好奇心旺盛な動物でもある。
 次は、インドの3256メートルもある高地に行ってユキヒョウを探します。いきなり富士山の山頂付近に降り立ったようなもの。高山病対策として、寝たらダメ。寝たら呼吸が浅くなって危ない。ひたすら紅茶でも飲んでしゃべっていること。眠ると呼吸が浅くなって酸欠になりやすく、高山病が悪化する。うひゃあ、なんとなんと、眠ったらダメなんですか…。
 ユキヒョウは、大型ネコ科のなかでは気が弱いせいか、人間を襲って殺したという事例は過去に報告されていない。
双子に生まれた姉妹によるユキヒョウ探検記が写真とともに紹介されています。双子のひとりは研究者で、もうひとりはコピーライターです。二人がうまく息をあわせて面白い本になっています。
(2023年4月刊。1760円+税)

魚と人の知恵比べ

カテゴリー:生物

(霧山昴)
著者 マーク・カーランスキー 、 出版 築地書館
 魚釣り、とりわけフライフィッシングの世界を奥底までのぞき込んでいる本です。
 フライフィッシングといえば、すぐにアメリカ映画『リバー・ランズ・スルーイット』を思い出します。見事な竿さばきが展開するシーン(情景)は今も鮮明な記憶として脳裏に残っています。
 フライフィッシングには、破ってはならないルールが2つだけある。その一つは、水中で転んではいけない。その二は、フライをできるだけ長く水中に保たなければならないこと。
 川に棲むマスは、水温が20度をこえると、エサをとることも繁殖することもなく、死んでしまう。温度の高い水には含まれる酸素が足りないからだ。
 フライフィッシングは、もともとサケ科の魚を釣るために考え出された。サケ科は頭が良くて狡猾で、強く、運動能力が高く、頑固な生き物だ。人間は簡単には釣れない。
海水魚は昆虫を食べない。マス用と海用のフライには、小魚やエビに似せられていることが多い。
竿は弓なりにたわみ、生まれて初めて、至上の喜びともいえる魚の「引き」を感じる。釣り人の素質がある者なら、引きの喜びを一度味わったら、決して忘れられない。それは、筋肉に刻み込まれ、繰り返し繰り返し、感じたくなる。
 釣り人の目的は、魚が疲れきるまで遊ばせること。そうして初めて魚を取り込むことができる。そのような状態にある魚は、血中の乳酸濃度が高まる。濃度が高まりすぎると、魚は死ぬ。
 魚釣りの楽しさを、私は父から教わりました。父の運転するオートバイのうしろに乗って父にしがみついて、弁当をもって菊池川の上流に足をのばしました。それほど釣れたという記憶はありませんが、清流に向かっていい気分でした。私自身は大川あたりの筑後平野のクリークでの鮒(フナ)づりです。浮きがすーっと沈んでいくのに当たると心が踊りましたね…。
 フライフィッシングは残念なことにしたことがありません。それにしても、フライフィッシングだけで290頁もの紹介本です。これもすごい世の中ですよね。
(2023年5月刊。2700円+税)

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