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ワインの女王、ボルドー

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著者:山本 博、出版社:早川書房
 この夏、ボルドー地方に行き、サンテミリオンで3泊してきました。広々としたぶどう畑の真っ直中にある別館に泊まり、ゆったりとした日々を過ごすことができました。日本に帰ってきて一番に読んだのがこの本です。
 今回、私がボルドー地区を選んだのは、ブルゴーニュ地方へは18年前に行ったことがあるからです。それほどワインの味がわかるわけでは決してありませんが、赤ワインの色の良さ、舌になじむ味わいには魅せられます(私は日本酒と同じく、白ワインは飲みません。以前はどちらも飲んでいましたが、今は卒業した気分です)。
 したがって、この本も私の行ったサンテミリオン地区だけを取りあげて紹介するのをお許しください。著者は大先輩の弁護士ですが、本格的なワイン専門家です。
 ボルドー・ワインを少し飲みこんだ人なら、サンテミリオンと聞けば、なんとなく人なつっこくて、いやみやはったりがなく、いつも安心できる赤ワインを連想するだろう。事実、サンテミリオンのワインは安心して手を出せる気安い仲間なのだ。メドックのシャトー・ワインが格式高く品のいい山の手の令嬢だとすれば、サンテミリオンのワインは下町娘の気だての良さが現われたようなワインである。
 そうなんだー・・・。気安く安心して飲めるワインの里に出かけたのか・・・。道理で下町風の街並みだったな、そう私は思いました。
 サンテミリオンへ行く道が分からず、ボルドー駅からタクシーで行きました。小一時間かかりました(70ユーロ)。ところが、実は、TGVにはギルドーの手前にリブルヌという駅があり、そこからはタクシーでも10分で着くのでした(20ユーロ)。サンテミリオン駅もあるけれど、なにしろ本数が少ないのです。
 サンテミリオンはドルドーニュ河の右岸に迫る小高い丘と、それに続く高台および後背部のゆるやかな起伏をもった丘陵地帯なのである。畑も傾斜地のものが少なくない。
 サンテミリオンの中心部は、こぢんまりとしていて、5分も歩くと町はずれに出てしまうようなところ。ヨーロッパの古い中世の街が、時間の流れを止めたようにたたずんでいる。びっしりと建てこんだ古い家並みの狭い石畳の急坂を登ると丘の上の中心に古い寺院がある。寺の裏へ回ると、古くてぽつんと立った鐘楼の塔があり、そのまわりが石畳のテラスになっている。ここからのぞくと、目の下に赤瓦の屋根がかたまっているが、瓦は苔むしているし、建物の壁も古くさい。その先には、あちらこちらに段々畑のぶどう畑とはるか先の遠景の山々が望める。
 ここは中世のヨーロッパ中で巡礼が流行った時代、大切な宿場町だった。鐘楼のテラスのところにレストラン・プレザンスがある。
 行った人でないと描けない街並みの描写です。まったくそのとおりの情緒あふれた小じんまりとした古い町です。ともかく、周囲に延々と広がるぶどう畑には圧倒されてしまいます。遊園地型のバスに乗って、街の周囲を35分で巡ってみました。両側は、ずっとぶどう畑です。それも中心地に近いほど高級ワインを製造しているというのですから不思議なものです。ぶどう畑にはたくさんの小鳥がいて、たまにウサギも見かけました。
 なぜ、ここがワイン産地として有名かというと、やはり土壌のようです。丘は畑の基層が固い石灰岩の岩盤になっています。道に落ちている白い石は白墨です。子どものころ、路面によく絵を描いたのとまるで同じです。
 基層の下には暑い砂利層となっている。氷河時代に中央山岳地帯から運ばれてきた石がこのあたりに砂利になって残ったという。
 サンテミリオンのぶどうは、メルローが中心。カベルネ・ソーヴィニョンも少し混ぜてはある。だから、メドックに比べてサンテミリオンを飲んだらいい。
 うーん、なるほど、そうなのかー・・・。そう思いました。レストラン・プレザンスでは3種の赤ワインを少しずつ飲ませてくれました(デキュスタシオン)。そのときには、サンテミリオンの隣り町のポムロールのワインが一番のみやすい気がしましたが・・・。
 町なかのワイン販売所でカーブ入場無料という看板につられて入ってみました。地下の洞窟にワインが樽と瓶と両方びっしり寝かせてありました。すごいものです。堅い岩盤を何年かかって、どうやって掘ったのでしょうか・・・。
 ツーリスト・ビューロー(素敵で親切な日本人女性が働いていました)で、シャトーワイン見学ツァーに申し込みました。フォンロックというワイン・メーカーです。ちょっと渋みの強いワインでした。空きっ腹ではワインはとても飲めません。
 パリのシャルル・ドゴール空港でトロットヴィエーユのワインを見つけて買いました。黒ラベルに金色の枠と文字が輝くデザインです。口当たりのいい、こくのあるワインでした。
 3日間、ぶどう畑のなかをさまよい歩きました。快晴でしたので、真っ黒に日焼けしました。あわてて野球帽を買ってかぶりました。爽やかな風に吹かれて、とても心地よいひとときでした。うーん、良かった・・・。
 サンテミリオンの写真をたくさんとってきました。ここでお見せできないのが残念です。どなたかトラックバックで一面のぶどう畑が広がる風景をのせていただければ・・・。

天下城

カテゴリー:未分類

著者:佐々木 譲、出版社:新潮社
 戦国時代、近江の国に穴太衆(あのうしゅう)と呼ばれる石工集団がいた。親方9人と250人ほどの職人を擁する石積み集団であった。この集団が織田信長の安土城の石積みにあたり、また、大阪城の石積みも担当した。
 この本は、安土城の基礎(土台)をつくった石工集団を主人公としています。安土城の建物をつくった大工集団を主人公とした本が別にあります(「火天の城」、山本兼一、文芸春秋)。石工集団は、大工とはまた一味ちがった専門家集団だったことがよく分かります。
 私は安土城に2度のぼり、天主台跡に立ちました。ここに昔、信長が立っていたのだと思うと、なんとなく感慨深いものがありました。
 天主台は、本丸の地表面から見て高さ45尺、天主台の上の広さは南北の最長部が20間、東西の最長部が17間という四角形。天主の底面は12間四方という広さ。こう書いても、実は尺とか間とかいうのがメートル法に慣れた私にはピンと来ません・・・。
 安土城には追手門(正面にある大手門のことだと思います)から入って、広い追手道が真正面に一直線に上がっていきます。私も現地で確認しました。のぼり切ったところを左折します。その両側には信長の重臣たちの屋敷があり、何かあると左右から攻撃できる配置になっているのです。現地では発掘がすすんでいて、かなり当時の状況が推測できるようになっています。
 この追手道は天皇を安土城に迎えたときのことを考えて、広く一直線の道路に信長はしたとされています。さもありなん、です。
 長篠の合戦で、穴太衆が活躍したとされています。織田・徳川連合軍が鉄砲3000挺を1000挺ずつ三段柵で構えているところを武田軍が無謀な突撃をくり返して惨敗したという有名な話は事実に反するという本があります(「鉄砲隊と騎馬軍団」、鈴木眞哉、洋泉社新書)。この本も、従来の通説どおりではありません。柵と壕と土塁の三点セットで、石積み職人集団が活躍したとしています。また、織田・徳川連合軍がもっていた鉄砲の数は1000挺としています。先ほどの本は1500挺としていますが・・・。
 お城の石垣といえば、熊本城のいかにも整然とした石積みは見事なものですよね。あれを見たら、なるほど高度に専門化した石積み職人の集団がいたことは直ちにうなづけます。

帰国運動とは何だったのか

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著者:高崎宗司、出版社:平凡社
 戦後の日本にいた在日朝鮮人60万人のうち9万人以上が北朝鮮へ「帰国」していきました。それを学術的に冷静に分析・検討しようとした本です。なるほどとうなずけるところが多々ありました。
 北朝鮮を「地上の楽園」と手放しで礼賛した人物は、オレはそんなことは言っていないとして謝罪を拒んでいるようですが、当時の日本は、それこそ朝日も産経も、要するに右も左も、人道的見地からこの帰国運動をすすめていたということがよく分かりました。
 日本政府は、戦後、朝鮮人を厄介払いしたいと考えていました。それは、生活保護を受けている人が多かったこと(8万人をこえ、年間17億円かかっていた)、生活難からの犯罪者が多いこと、共産主義者が多いこと、などからです。
 帰国者を受け入れた北朝鮮にとっては、労働能力のない、また病人が多かったということで頭を痛めたようです。受け入れ先も決まらないうちに、毎週1000人もの帰国者が2年間にわたって押し寄せていったとのことです。
 日本人妻をふくめて、帰国者のその後の生活状況について、今なおよく伝わってきません。大変に不幸なことだと思います。もちろん、いくつか断片的に、いかに悲惨な状況におかれているかは、本やニュースなどで知らされてはいるのですが・・・。
 それにしても、1945年12月に日本共産党が再建されたとき、党員総数180人のうち100人が朝鮮人だったというのには驚いてしまいました。
 帰国者のなかには、北朝鮮が期待どおりでなかったら、またすぐ日本に帰るつもりの人々もいたようです。ところが、不幸なことに、そんな自由な往来は許されず、一方通行のみで今日に至っています。残念なことです。鎖国のような今の事態は改められるべきだと私も思います。いかがでしょうか・・・。

宇宙のからくり

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著者:山田克哉、出版社:講談社ブルーバックス新書
 空間が曲がれば、時間も同時に曲がる。なんということでしょう。時間が曲がるとは・・・。動いている時計は遅くすすむ。うーむ、どういうことなのかなー・・・。
 光は秒速30万キロメートルですすむ。これは何に対しても同じこと。光の速度を測定する人が静止していても、時速1万キロで走っていても、光と反対方向で動いていても、いつも光は秒速30万キロメートル。光の速度を増減する方法は何もない。光の速度は徹底して一定なのである。うーん、どうしてなんだろう。なぜ、それがそうだと証明できるんだろうか・・・。
 宇宙が発生する以前には時間はなかった。時間は宇宙の発生と同時に生まれたのだ。宇宙の発生より前には空間もなかった。なるほどなるほど、なんとなく分かった気がしてきました・・・。
 距離に関係なく、すべての銀河は光の発生時である140億年前に発生しはじめた。うーん、そうなのか・・・。
 銀河の大部分は見えない暗黒物質(ダークマター)で構成されている。ダークマターというと、映画「スターウォーズ」を連想させますね。宇宙の90%以上が、正体不明の暗黒物質で構成されている。
 宇宙を膨らませているのは、なんと真空だった。空間に何の物質もなくても、暗黒エネルギーだけは存在し、それが空間を膨らませる。うーん、なんだか、分かったような分からないような。真空といっても、そこにエネルギーはあるなんて、一体どういうことなのかしらん・・・。
 たまには、こんなことを考えてみるのもいいようです。ハイ。

ペルセポリス

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著者:マルジャン・サトラビ、出版社:バジリコ
 イランの少女マルジのお話です。アルプスの少女ハイジのようなファンタジーではありません。イランの現代に生きる多感な少女がどう生きてきたのか、マンガで描かれています。なるほど、そうなのかと思いながら、日頃はマンガをほとんど読まない私です(もちろん、大学生のころはマンガ週刊誌を愛読していましたし、手塚治虫のファンでもありますが、基本的にマンガは卒業しました)が、頁をめくるのがもどかしいくらいに没入して読みふけりました。
 オビに、子どもの頃、革命がありました・・・、戦争がありました・・・、人がたくさん死にました・・・とあります。たしかにそうです。イラン・イラク戦争があり、イスラム革命があり、何十万人もの人々が戦死し、また権力に反抗したとして処刑されていったのです。
 少女マルジは14歳まで高級技術者の家庭に育ち、親元にいました。その後、ヨーロッパに脱出しました。そこでは、過酷なイランでの体験がそのまま受けいれられない状況に置かれ、悩みます。アナーキズムやマルクス主義にも影響を受けますが、失恋の苦しみは自殺願望にもかりたてるのです。なかなか厳しい人生のひとコマが続きます。
 1969年生まれの少女が、さまざまな苦しみを経て大人の女性になっていく過程が黒いタッチの絵で描かれていますので、身近な話として想像できるのです。
 12ヶ国でベストセラーになったということですが、日本でもたくさんの人に読んでほしいと私は思いました。そんな感動を与える、いい本です。

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