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住民が主人公を貫く町

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著者:山田兼三、出版社:あけび書房
 私は山田町長の古くからのファンです。くたびれている同世代の男たちが多いなかで、いまも元気モリモリでがんばっていますから、畏敬の念を禁じえません。といっても、一度も会ったことはありません。前の「南光町奮闘記」を読んで、その謙虚・誠実な人柄と小さな町を町民が住んでよかったと思える町づくりをすすめる実行力に感嘆して以来、尊敬しています。
 残念ながらまだ行ったことはありませんが、いまや南光町はヒマワリの町として全国的にも有名です。なにしろ40ヘクタール、200万本のヒマワリが7月から8月にかけて、ずっと咲き続けるというのです。いつか、ぜひ見に行きたいと思っています。
 山田町長が誕生したのは25年前。1980年10月のことです。当時32歳のよそ者の青年です。そんな人がいきなり立候補して当選できるはずがありません。もちろん、本人も当選するなんて夢にも思っていません。立候補しただけで使命は果たした。そんな思いから気楽に選挙戦をすすめていたそうです。ところが、案に相違して当選してしまいました。真っ青になったそうです。それほど同和問題で荒れた町だったのです。
 当選した山田町長に寄せられた町民の要望は、「暴力・暴言を許さない宣言の町・南光町」の看板をはずしてほしいということでした。いかにも暴力・暴言がはびこっている町と受けとられて恥ずかしいというのです。さっそく看板は塗りかえられ、「花と小鳥の町・南光町」そして今は「ひまわりの郷・南光町」になっています。
 ヒマワリの花は私の家の庭にも植えています。大輪の花だと、咲いているのは10日間ほどでしかありません。わが家のヒマワリは小ぶりの花を次々に咲かせるものです。でも、大輪の花の方が何万本と植えたときには見映えがよいのです。そこで南光町では、8ヘクタールのヒマワリ団地をいくつもつくり、種をまく時期を順次ずらし、見物人を7月上旬から8月中旬までずっと魅きつける工夫をしています。稲作をする田んぼを、集落が話し合ってヒマワリ栽培の団地として提供するわけです。オレんところは今年は稲をつくるなんて誰かが言い出したら、みっともありません。集落内の十分な話し合いが不可欠です。そのおかげで、多い日には観光バスが80台、600台収容の駐車場が満杯になるそうです。年間15万人の観光客が5千人足らずの町民人口の町に押し寄せるのですから、たいしたものです。
 南光町では子ども歌舞伎も復活させました。小学生があこがれて子ども歌舞伎クラブに次々に加入しているそうです。地域の伝統文化を守り育てているのに感心します。
 山田町長の偉いところは、何事も町長を先頭に取り組んでいるところです。たとえば、町が工事を発注するときには、入札の直前に町長室で関係職員を集めて入札金額を決め、その場で町長自身が金額を書きこみ、その足で入札会場にのぞむというのです。おかげで贈収賄事件は山田町長の24年間に一度も起きていません。
 山田町長は議会に対して事前の根まわしを一切しません。議会の審議は質問時間の制限が一切ありません。ボス議員を特別扱いすることもなく、すべて全議員を対象として話をすすめるのです。その結果、ときに議案が否決されることもあります。しかし、山田町長は、それはそれでよいことと割り切っています。町長と議会は一定の緊張関係が必要なのです。なかなかできることではありませんよね。私はつくづくその政治姿勢に感心します。
 山田町長は共産党の町長ですが、宮内庁から秋の園遊会に招待されて、紋付袴姿で奥さんとともに出席しました。モーニング姿の出席者が多いなかでとても目立ち、天皇や皇后をはじめ皇族から相次いで声をかけられたそうです。世の中、本当に変わりました。
 そんな山田町長も、この10月で南光町が消滅しますので、任期満了となります。町民のためのきめ細かな施策をやれる小さな町や村をつぶしてしまう平成の市町村大合併って本当に住民のために良いことなのか、私には大いに疑問です。

「メディア裏支配」

カテゴリー:未分類

著者:田中良紹、出版社:講談社
 TBS(東京放送)のディレクターとして長年テレビ番組をつくる側にいた人が、日本のメディアを信用してはいけないと声を大にして叫んでいる本です。日本のメディアがいかに当局に操作されているか、この本を読むと改めて背筋が凍る思いです。
 わかりやすい報道には嘘がある。世の中に起こることは単純であるはずがない。国民が日本のメディアと向きあうときに大切なのは、「正しい報道」という呪縛から解き放たれること。この世に「正しい報道」などありえない。
 テレビの視聴率主義は人間から思考力を奪っている。どこを見ても分かりやすい話ばかりだと人間は考えなくなる。いつの時代にも国策推進に協力するのが日本のメディア。国民はメディアの言うことを信じるのをやめて、自分の頭で考えて判断しなければいけない。小泉首相には驚くほど金と人脈がない。しかし、メディアの力がそれを補っている。小泉首相のパフォーマンスは、中曽根や細川とはまったく質が異なる。殿様が町に降りてきて町人姿に変身し、横丁のあんちゃんとしてふるまっている。メディア、とりわけテレビメディアの効用を計算し尽くしている。
 視聴率を上げるノウハウは、女性に受け入れられるよう、複雑なものはダメ、なるべく白黒がはっきりした話がよい。上品なものもダメ。お高く止まっているものはもっとも嫌われる。
 視聴率は、番組の質とはおよそ関係がない。テレビは操作する。たとえば、「街の声」と称して街頭インタビューを放映するとき、はじめと最後の人物をいれかえるだけで、まったく逆の印象を与えることが可能。
 司法記者クラブほど、徹底した情報管理の下に置かれ、それに抗することのできない無力な記者クラブは他にない。えーっ、そこまでひどいのかしらん・・・。私もずっと司法記者クラブとはつきあってきたのですが・・・。
 私は、テレビは、動物を主人公とするドキュメンタリー以外はほとんど見ません(あとでビデオで見ます)。歌番組もバラエティーショーもクイズ番組も、私にとっては時間のムダでしかありません。どうして、世の中の大勢の人々があんなつまらないものを見て自分の時間を浪費するのか、不思議でなりません。
 そんなことを言うので、いつも私は奇人変人あつかいされています。でも、世の中を変えるのは奇人変人、そして凡人なのですよね・・・。私はそう思って、こうやって毎夜、書評をしこしこと書きつづっています。

「大学のエスノグラフィティ」

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著者:船曳建夫、出版社;有斐閣
 いまの大学生には五月病というのはないそうです。そのかわり小児病が広がっています。大学に入ってすぐにオリクラ(オリエンテーションクラス合宿)があり、講義が始まるまえからシケ長(試験対策の長)が決まり、彼(女)を中心にして講義毎にシケタイ(試験対策委員)を決め、シケプリ(試験対策プリント)を用意する慣行が確立しています。講義はたくさんありますから、クラス員のほとんどが何かのシケタイになります。シケタイになると、その講義には必ず出席して、シケプリをつくらなければなりません。
 もちろん、私の学生のころにはそんなシステムはありませんでした。そもそも、2年生の6月まで授業があったあとは翌年3月まで授業がありませんでした。それまでだって私はサークル(セツルメント)活動に忙しくて、語学の授業以外はまともに大学の授業には出ていなかったのです。ゼミなるものにも一度として出たことがありません。だから、大学教授というのははるか彼方に仰ぎ見て、マイクを通して声を聞く存在でしかありませんでした。肉声で身近に教授の声を聞いて議論するなんて、考えたこともありませんでした。そのかわりセツルメント活動にうちこんでいましたから、そこで大学の何たるかは精一杯学んだと思っています。といっても、今となっては、もう少し真面目に勉強しておけばよかったかなという後悔もチョッピリしています。その反省が今の読書意欲のバネにもなっているのです。
 船曳ゼミに入るのはなかなか難しそうです。応募者が50人くらいもいて、試験をしたあと面接をして12人ほどに絞るのです。ここで手抜きをすると、あとでひどい目にあうという反省の弁を著者は語っています。ストーカーがうまれたりするのです。
 船曳ゼミでは、学生にレポートを用意させて自分で朗読させるという方法もとられています。人前で堂々とスピーチするという訓練にもなるというのです。なるほど、と思いました。読みあわせというのは非能率的なようで、案外な効果があるというのは私も実感します。読みとばせないことから、しっかりと脳が働き、思考もまとまってきます。夏目漱石の小説は朗読するのに適した文章だということです。私も一度チャレンジしたいと思います。
 東大教授の一日がこまごまと紹介されています。学生の身の上相談、進路相談、成績証明書づくりなど、実にさまざまな雑務が押し寄せてくることが手にとるようによく分かります。東大教授の生態とふくめて、教授であることの意義が淡々とありのまま、何のてらいもなく語られますので、読み手の頭にすっと入ってきます。本当に素直な文章です。
 著者は私と入学年が同じです。著者は東大闘争(東大紛争とは、私も当事者の一人ですから呼びたくありません)のときは何をしていたのか、まさかノンポリではないだろうけど・・・。そう思って読んでいくうちに、著者は全共闘の活動家だったことが分かりました。当時、教授会にも乱入したことがあるようです。大学の知識人である教師を「お前はー」と罵倒したことがあると書かれています。
 私は著者とは反対側で活動していました(もちろん、いわゆるぺーぺーの一兵卒です)。この本は全体的に何の違和感もなく共感したり、なるほどと感心したり読みすすめていったのですが、ただ一点だけは、そうかなー、といささか異和感がありました。すなわち、大学教授なるものは社会を導く警告者であるというのはまったくの幻想にすぎないという著者の認識です。実際、なるほどそうかもしれません。しかし、やはり大学の外にいる私には、ぜひ社会に対して声をあげて警告する役割を大学教授とりわけ東大教授には果たしてほしいと切に願います。自分の現場ではないところにでも名前を貸す種類の抗議声明発表のプロは効力を失い、自己満足でしかないと著者は言っていますが、私は言い過ぎではないかと思います。まだ、それだけの効果は東大教授の肩書きにはあります。大学と専門分野の狭い枠にとどまってほしくはありません。日弁連という「抗議声明発表のプロ」にいる身として、この点は強調しておきたいと思います。
 東大教授の肩書きにあこがれる人が多い現実があります。それは勲章がほしくなるのと同じことでしょう。私も年齢をとりましたから、そのように思う人の気持ちがよく分かるようになりました。それでも、20歳のころに議論していたことをどこかでなんとか忘れないようにしたい。そういう思いも強くあります。それが、私に1968年の駒場の状況を再現する小説をライフワークとして長年にわたってとりくませる原動力(エネルギー)にもなっています。

正義のリーダーシップ

カテゴリー:未分類

著者:本間長世、出版社:NTT出版
 エイブラハム・リンカンは56歳のときに暗殺されました。いまの私と同じ年齢です。リンカンは暗殺された当日も、激戦だった南北戦争が終わった直後ですから、早朝から忙しく、昼食はリンゴひとつたべたきりでした。こんなとき大勢の人がいるなかへ出るのは危ないという注意も受けたようですが、リンカンはフォード劇場で大評判の喜劇を夫人と一緒に見に出かけました。喜劇を楽しんでいる最中、ハンサムな若いアイドル俳優(ジョン・ウィルクス・ブース、26歳)に背後から懐中ピストルで頭部を撃たれ、ほとんど即死状態でした。爆笑と大きな拍手の音が響いた瞬間だったそうです。暗殺犯は足首を骨折しながらも劇場から逃げきり、のちにヴァージニアで取り囲まれ、射殺されました。そのころまでゴリラとかヒヒというアダ名がついていたリンカンは、たちまちのうちにアメリカ建国の神様のような存在になっていきます。私も訪れたことがありますが、ワシントンのリンカン記念堂内にある巨大なリンカン座像には神々しいほどの威厳が感じられます。
 著者はリンカンについて、衆に抜きんでて大きなことを達成しようという強烈な野心の持ち主だったことを強調しています。単に謙虚な弁護士がたまたまの偶然で政治家になり、大統領の席に坐ったというのではないのです。
 リンカンは開拓者の出身でありながら、そのことを誇りにしていたのでもなく、肉体労働も好んではいませんでした。当時、台頭しつつあった会社企業界の利益のもっとも強力なもののために仕事をする弁護士として卓越した手腕を発揮し、成功をおさめたのです。
 リンカンの父親は開拓地の農民で大工でした。両親ともに字が読めず、父親はやっと自分の名前が書ける程度でした。
 リンカンは奴隷制廃止論者というより、黒人をアフリカに送り返す運動に熱心でした。リンカンの生まれ育った周囲に黒人はあまりいなかったからでもあります。リンカンは南北戦争が始まってから、ようやく元奴隷の黒人たちを北軍の兵士とすることを認めました。このとき、リンカンは黒人をアメリカからアフリカに送り返すプランを放棄したということになります。結局、19万人ほどの黒人兵士が北軍に加わりました。
 「アンクル・トム」がアメリカ国内で200万部以上売れるという大ベストセラーになったのはリンカンが大統領のときのことです。著者のストウ夫人はリンカン大統領と面談していますが、リンカンはお得意のジョークを連発して、ストウ夫人とその娘を死にそうなほど笑わせたそうです。
 当時の大統領選挙の立会演説会の様子が紹介されています。現代の私たちにはとてもの想像できないほどのすごさです。最初に話す者が1時間語り、そのあと相手が1時間半話す。それから先に話した者が30分間語るというのです。これを7回やりました。人口9千人の町に1万人の聴衆が詰めかけました。第1回目はリンカンは押されっ放しでタジタジとなってしまいました。リンカンは作戦を変えて、2回目は挽回します。聴衆は、もっとも少ないときで1200人、一番多いときには2万人の聴衆でした。いったい、マイクもない時代に、2万人の人にどうやって声を届かせたのでしょうか。それにしても3時間の演説を2万人の聴衆が立ったまま聞いていたとは・・・。
 南北戦争は、ザ・シヴィル・ウォーと通常いわれますが、ウォー・ビトウィーン・ザ・ステイツという呼び方もあるそうです。この戦争による戦死者は60万人をこえています。南部連合は26万人、北部ユニオンは36万人の戦死者を出しています。大変な人数と比率です。歴史上きわめて有名なゲティズ・バーグ演説はわずか272語でしかありません。しかし、リンカンが想いを凝らし、文章を練り上げてまとめたものです。リンカンは、息子が病気にかかって妻が心細がっているのを振り切って前日のうちに出かけました。ゲティズ・バーグに到着し、それから演説内容を練りに練ったのです。ラテン語系の語よりもアングロ・サクソン系の簡潔な語を多く使い、ギリシャ以来の修辞学の骨法にかなった名文を、ラテン語もギリシャ語も学んだことのないリンカンがつくりあげました。それが、あの有名な、人民の、人民による、人民のための政治です。
 リンカンは、高い、よく通る声で演説したようですが、強いケンタッキーなまりを感じとった聴衆がいたそうです。アメリカ民主主義の原点を知るためには、リンカンをよく知らなければいけないと改めて思いました。

王の墓と奉仕する人びと

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著者:国立歴史民俗博物館、出版社:山川出版社
 いくつか面白いことを知りました。
 古代エジプトの王は犬をペットとして飼っていて、飼い犬が死んだら犬の名前の石碑をたてたお墓を自分のお墓のそばにつくっていた。
 エジプトでは、死者の心臓と真理の女神マアトとを天秤(はかり)にかけるが、心臓が重いか軽いかは問題ではなかった。真理とのバランスがとれるかどうかが重要だった。これがつりあってはじめて、生前、不正な行為をしていなかったことが証明される。それによって死者は再生・復活できる。もし、釣り合いがとれていないと怪物に心臓を食べられ、死者は再生・復活できない。
 奈良県明日香村のあたりには、村人が亡くなると、各戸から女性が1人でて、死者を出した家へ泣きに行く習俗がある。韓国や中国で「哭き女」と呼ばれる女性のいることは知っていましたが、日本にも同じような習俗が今もあるとは・・・。驚きました。奈良に渡来人が多かったことの名残でしょうか・・・。
 卑弥呼について、当時の中国は当初、まさか女性だとは知らなかったのではないかと指摘されています。だから、中国からの使節を卑弥呼に会わせなかったというのです。
 古代には女性天皇が何人もいますが、そのころは男も女も同じ衣服を着ていた。ところが、820年に男性天皇だけが中国ナイズされた衣服を着るようになった。このようにも指摘されています。うーん、そうだったのか・・・。

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