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中世ヨーロッパ全史(上)

カテゴリー:ヨーロッパ

(霧山昴)
著者  ダン・ジョーンズ 、 出版  河出書房新社
 上巻は5世紀のローマ帝国から、13世紀の十字軍までを扱っています。
 ローマ帝国は、3世紀初めの最盛期には45万人の常備兵がいて、海軍が別に5万人いた。ローマ兵は、入隊して10年はつとめる。
 ローマ帝国はいくつもの戦いで敗北したが、重要な戦いで負けたことはほとんどない。
 ローマ帝国では、ラテン語が公式言語。ラテン語の学習はエリート教育で基礎科目だったラテン語の実践的な知識なしに、政治家や官僚としてのキャリアを積むことなど考えられなかった。
 ラテン語はローマ法とつながっていた。ゴート族の族長で軍司令官であるアラリックはローマ帝国と戦った。410年前、アラリックのゴート族はローマ軍を破り、ローマ町を略奪した。
 次にフン族に追われてヴァンダル族がローマにやって来た。そして、ついにフン族がアッティラに率いられてローマに侵攻してきた(452年)。アッティラが453年に死去すると、フン族の帝国はたちまち自滅。
 6世紀、腺ペストが大流行し、死者は数百万人いや数千万人という。541年から543年のこと。
 イスラム教の創始者ムハンマドは632年に死亡した。7世紀から8世紀にかけてアラブ人による帝国が設立した。ムハンマドはメッカの中心的部族であるクライシュ族の出身。ムハンマドが本格的に説教を始めたのは613年。権力と富がクライシュ族に不当に集中していたことに対する不満は大きかった。
 中世を通して、スペインにはイスラム教徒が暮らしていた。イスラム教徒の総督がモロッコに追放されたのは、15世紀の末のこと。今のフランスに君臨するメロヴィング朝の政権が最盛期を迎えたのは、5世紀から6世紀にかけて。
 フランク王国のカールが亡くなったあと、ヴァイキングが到来するようになった。当時のパリの人口は、せいぜい数千人規模。ヴァイキングの襲来は、6世紀の半ばにかけて巨大火山の噴火が起きて、世界的に気温が低下し、凶作となったことにもよる。885年、パリはヴァイキングに襲われたが、11ヶ月も持ちこたえた。カロリング朝にとって、半世紀近くも続いたヴァイキング襲撃は致命傷になった。
ヴァイキング司令官のロロはとりわけ残酷で、フランス王からノルマンディーをもぎとった。10世紀、修道院には金と資産が流れ込み、宗教共同体はうまみのあるビジネスの場となっていた。
 裕福な人は、お金で他人に苦行をやらせ、罪の赦しを乞わせて罪滅ぼしができた。サンディアゴ・デ・コンポステーラ。この巡礼道の修道院は、うるおった。巡礼は、最高のビジネスチャンスをもたらした。
 十字軍戦士の第一波は、ポピュリスト的な扇動家に駆り立てられた狂信者ばかりで、大した訓練も受けておらず、ほぼ制御不能だった。1096年夏にヨーロッパを東へと向かった。そして奇跡的に勝利し、小規模な植民地をつくり上げた。
 ヨーロッパの商人にとって、十字軍世界は魅力的なビジネスチャンスの場だった。やがて十字軍都市は破滅に追いやられていった。
 370頁もある通史です。勉強になりましたが、読み通すのには苦労しました。
(2023年5月刊。4290円)

ワクチン開発と戦争犯罪

カテゴリー:アジア

(霧山昴)
著者 倉沢 愛子 ・ 松村 高夫 、 出版 岩波書店
 1944年8月、インドネシアのジャワ島にあったクレンデル収容所で破傷風によって多くの「ロームシャ」が死亡した。これは、日本軍が開発していた破傷風ワクチンの治験の対象とされたインドネシア人労働者たちが生命を落としたということ。
 ところが、日本軍は「対日陰謀事件」として、インドネシア人医師たちを逮捕し、軍律会議にかけて死刑判決を下し、1人を斬首し、もう2人は獄死した。
 「ロームシャ」とは、日本語がインドネシア語となったもので、強制的に挑発し労働させられた人々のことで、このころ20万人もいた。
 この事件が世に知られるようになったのは、1976年になってからのこと。
 破傷風は人から人への伝染性がないため、大量発生することはない。しかし、荒野で殺傷しあう戦時には兵士に非常に多くみられ、軍隊内では恐れられていた。
 1944年8月、クレンデル収容所で119人が破傷風にかかり、98人が死亡した。
 破傷風患者は死亡率が高いが、早期に血清を射てば、助かることもある。
 エイクマン研究所の所長であり、ジャカルタ医科大学教授を兼任していたアクマッド・モホタル(50歳)は、インドネシア医学界の最高峰に位置する医師だった。
 その「自白」によると、「ロームシャ(労務者)の取り扱いは過酷で非衛生的なので、その改善のために日本人を覚醒させようと思い、細菌を使う謀略を考えた」という。
 日本軍憲兵隊のつくりあげた最終的な筋書きは、「非合法手段によって独立を獲得しようと決意し、その手段として、原住民の反日・反軍思想を醸成し、日本軍が独立を許容せざるをえないような窮地に陥れようとした」というもの。この結果、474人の患者が発生し、うち364人が死亡した。
 モホタル教授らがかけられた軍律会議は、敵国の俘虜や占領地の住民等による戦時重罪などに対して行う軍事裁判であり、日本の軍人を対象とする軍法会議とは異なる。弁護人はつかない。まさしく暗黒裁判ですよね。
 モホタル教授は、死刑判決を受け、1945年7月3日に斬首された。戦後、1972年にスハルト政権はモホタルについて冤罪だったとして、勲三等を授与し、名誉を回復した。今では、モホタルの銅像があります。
 日本軍内で破傷風ワクチンの開発をすすめていたのは、七三一部隊(関東軍防疫給水部)の流れをくむ南方軍防疫給水部の医師たちだった。ここでも七三一部隊です。
 第二次大戦中、アメリカ軍は兵士に破傷風ワクチンの予防接種を実施したので、破傷風患者は10万人につき0.5人以下だった。ところが、日本軍は、破傷風になったら血清をうつのを原則としていたため、破傷風患者は10万人につき5000人も出た。いやあ、これはひどいですね。日本軍の人命軽視はこんなところにも如実にあらわれています。ひどすぎますよね。
 インドネシアにおける七三一部隊の蛮行を明らかにした画期的な労作だと思いました。
(2023年3月刊。2300円+税)

ナマコは元気!

カテゴリー:生物

(霧山昴)
著者 一橋 和義 、 出版 さくら舎
 タイトルは、「目・耳・脳がなくてもね!」と続きます。ええっ、そ、そうなの…、驚きます。
 もうひとつ、心臓もないけれど、海底で、ひっそり、立派に生きている。
ナマコは漢字で、海鼠(海のねずみ)と書く。中国語では「海参」(ハイシエン)つまり、「海の人参」。というのも、朝鮮人参の薬効成分であるサポニン類をナマコは持っているから。英語では「海のキュウリ」。
 ナマコの内臓は再生する。ストレスを感じたら、お尻から内臓を全部出してしまう。ところが、2週間もすると内臓が出来はじめ、2ヶ月もしたら新しい内臓が完成する。新しい内臓ができるまでは、身体を少しずつ溶かして、それを栄養にする。こうやって、小さくなっても生きのびる。いやはや、とんだ生き物ですね…。
 ナマコは、1日に体重の4分の1から3分の1の海底の砂や泥を食べる。砂や泥には小さな藻(も)などの有機物が少し含まれているから、それを栄養化している。海底に砂や泥は一面にあるので、動いて遠出する必要はなく、ひたすら触手を動かして食べている。
 ナマコは、目はなくても、皮膚で光を感じる。光の変化を感じると、皮膚が尖ったり、硬さを変える。
 ナマコの起源は5億4千万年前のカンブリア紀。ナマコの最古の化石は4億5千万年前のオルドビス紀のもの。
 ナマコの多くは、サポニンという起泡性(泡立つ)。物質が含まれている。このサポニンは、魚にとっては猛毒。
ナマコを切断すると、2分後には傷口の周辺の皮膚が動いて傷口を閉じはじめ、体が収縮して移動する。そして24分後には、傷口はほぼ閉じられる。
 ナマコは、海底をはうものだけでなく、泳げるものもいる。世界中にナマコは1500種いて、日本には250種いる。水温が24度をこえると夏眠(かみん)する。冬眠の逆ですね。
 ナマコとお掃除ロボットルンバはとてもよく似たシステムで動いている。ナマコに脳がないというのは、中枢制御では動いていないということ。体の末梢にある個々の感覚が反射的に運動に結びつく単純なシステムが集合し、それをローカルで協調させるシステムを組み合わせることで、合体としての歩行運動を可能にしている。
たくさんのナマコの写真とともに面白い生態を知ることができました。世の中の幅の広さを実感できる本として、一読をおすすめします。
(2023年8月刊。1650円)

青春の砦

カテゴリー:日本史(戦前)

(霧山昴)
著者 大谷 直人 、 出版 新潮社
 太平洋戦争末期、静岡県の清水高等商船学校の生徒たちの日々。兵学校化しようとする動きに抵抗し、叛逆するものの、あえなく挫折、そして戦死。
昭和18年から20年の日本敗戦までの3年間、新設された清水高等商船学校の生徒たちの一連の実際の行動が小説となっています。
 作者は、その第1期生であり、生き残って戦後まもなく(昭和26年)1月から5月にかけて書き上げた。そして、さらに26年後に清書をして、400字原稿1360枚を900枚までに削った。18歳のときの話を26歳のときに書き、52歳になって刊行した本。
 本文2段組みで300頁もありますが、その息も詰まる切迫感のなか、私は飛行機のなかで暑さも忘れて必死に読みすすめました。
 吉野教官は結婚を約束する女性がいた。しかし、戦場に駆り出される前、吉野は別れ話を切り出した。それに対する返事の手紙をこっそり盗み読んだ。
 「あなたは、道連れにすることを拒否するとおっしゃられました。あなたが、この戦争で犠牲になるのを免れない覚悟は、前々から知っていました。結婚したら、私を否応なしに不幸の中に放りこんでしまうことになるから、結婚を解消してくれとの申し出は、よく分かりました。私にとって、大事なことは、20年の生涯に、あなたとめぐりあい、そして愛し愛されたということに尽きます。私にとって、愛されること以上に、愛すること、愛する人がこの地上に生きていることが喜びであり、生き甲斐でした。結婚を解消しても、この喜びも生き甲斐もなくなりはしません。あなたが、万一、戦死されることがありましても、愛した人を失った悲しさと、好きな人を愛しもせずに見送った後悔とは、どちらが深く大きいでしょうか。悲しみには耐えようとも、後悔だけはしたくありません」
 いやあ、20歳前後で、お互いに今は元気なのに今生の別れをしなくてはいけないという戦争の恐ろしさ、重圧をひしひしと実感させる文章ですね…。
 商船学校が兵学校化しようとするとき、心ある教官が生徒に次のように訓示した。
 「諸君の若い肩に、世界はあまりにも重い。それでも屈服してはいけない。諸君が倒れたら、次の者がその荷を背負うことになるのだから、諸君はわれわれ老人を越えて行け。諸君が老人を越えるときにのみ、そのために若者が生き抜くときにのみ明日がある。希望がある。若者よ、老人を越えて行け」
 そうなんですよね。後期高齢者入りを目前にした私は、いつまでも気持ちだけは若いのですが、若者が心を奮い立たせて、私たち「老人」を雄々しく乗り越えていく状況を心から待ち望んでいます。ストライキだってデモだって、多少の迷惑かけるのは気にせずに堂々とやったらいいのです。すると、私たち「年寄り」は、恐らく「まゆ」をひそめることでしょう。でも、そんなこと、たいしたことではありません。自分の思うところに突きすすめていったらいいのです。
大変な状況に置かれていた戦前の若者の息吹きに触れた思いのする本でした。
 青年劇場で劇になったようです(残念ながら、見ていません)。古い本ですが、気になったので、本箱の奥から本ををひっぱり出して読んでみました。良かったです。
(1985年12月刊。1200円)

孤島の冒険

カテゴリー:人間

(霧山昴)
著者 N.ヴヌーコフ 、 出版 童心社
 千島列島の沖合で、たまたま船の甲板に出ていたところ、突如として押し寄せてきた大波にさらわれ、ようやく島にたどり着いた。しかし、そこは無人島。14歳の少年が、どうやって1人、島で生きていくのか…。
 今から30年も前の、まだソ連だったころの話です。47日間、たった1人で生き抜いた実話が物語になっています。
 小さな無人島ですが、幸いなことに泉が湧き出していて、小さな池になっていましたので、飲み水には困りませんでした。そして、食べ物です。まず、山でゆり(百合)を見つけ、その根(ゆり根)を食べました。少年は、ゆり根を食べられることを知っていました。学者のお父さんと一緒に山に入って、ゆり根を見つけて食べられることを教えてもらっていたのです。そして、野生のネギ(マングイル)も見つけました。お父さんから、シベリアの山を一緒に歩いたとき、いろんな食べられる草を教えてもらっていました。食べられるときは食べてみたので、はっきり覚えていたのでした。
次の課題は、火です。マッチがないなかで、火をつけるというのは難しいと思います。土台になる石に少しへこみをつくり、弓のつるを棒のまわりにまきつけて、弓を早くまわす。周囲には乾いた苔(こけ)と木っぱを置いておく。すると、火がついた…。
実は、写真がないので、本当のところは、弓のつるをどうやって早く動かしたら、乾いた苔が燃え出すのか、私には分かりません。それでも、ともかくこの少年は火を起こすことができたのです。一度、火を起こせば、次からは簡単です。タネ火を保存しておいたら、火をおこすのは自由自在になります。
 ニューギニアの密林に日本敗戦後も10年間も潜んでいた元日本兵たちは、メガネのレンズを2枚組みあわせて火を起こしていました。やはり、生き延びるためには、知恵と工夫が必要なのですよね。
 魚釣りをしようとしましたが、うまくいきませんでした。適当なエサが見つからず、返しのある釣り針がつくれなかったのです。魚のかわりをしたのが、イガイという小さな貝です。岩に付着しているイガイを焼いて食べるとおいしいのでした。
 島に流れ着いてからの8日間で、人間にとって一番大切なことは困難を恐れないこと、気を落とさないことだと知った。こんなことは何でもないこと。もっと嫌なことだってあるんだ。自分に、そう言い聞かせる。そうすれば、絶体絶命だと思うような状態からでも、抜け出す道は、きっと見つかるのだ。
 島に来てから、少年は、なんて自分は物知らずなんだろうと何度も悔(く)やんだ。もっと、大人たちから、いろんなことを教えてもらっておけばよかったと反省した。
 もうひとつ気がついたことがある。それは、どんな立場に立っても、決してあせるなということ。あせり出すと、もう手違いばかり。自分で自分を疲れさせるばかりだ。
少年は無人島で風邪もひいた。それでも、お湯をわかして、のばらのお茶を10杯も飲むと、4日で治った。やはり生命力が旺盛なのです。
かもめを弓矢で撃ち落として食べようとしたが、かもめに充てることは出来なかった。そして、かもめのひなは可愛くて、可哀想で殺して食べることはできなった。
 お父さんが言ったことを少年は思い出した。
 「運命が、きみを悪夢の中でさえ見たこともないような所に追いやるかもしれない。生き抜くためには、そこでも普段のままの自分でいること。物事をよく見きわめ、チャンスをとらえ、行動するのだ。いつも、どの仕事も、どんなに嫌な仕事も、最後までやり抜く。ひとつ所を、穴があくまで叩(たた)く。そのとき、愚か者が叩くような叩き方はしないこと。そうしたら、何でもやり遂げることができる」
 いやあ、実にすばらしい父親です。きちんとコトバで、こんな大切なことを息子に伝えられるなんて…、感動します。
 少年は大波で打ち上げられた無人の船に入りこみ、そこで火を起こして船の煙突から煙を出しているうちに眠ってしまった。そこをソ連の国境警備隊に発見されました。いやあ、すごい知恵と勇気のある少年の冒険談です。
(1989年4月刊。1340円)

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