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雲の都、第2部、時計台

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著者:加賀乙彦、出版社:新潮社
 1949年、19歳の小暮悠太が東大医学部に入学した。これは著者の自伝的大河小説の第2部です。先に出版された第1部の方が時間的に先ということでないことに途中で気がつきました。
 医学部ではまず人体解剖の実習をさせられる。ホルマリン漬けの人体を解剖する。その臭いが全身に染みついてしまう。死体がたくさん並んでいる部屋に入っていくんですね。私には耐えられません。つくづく医学部なんかに入らなくて良かったと思いました。
 大学内で学生運動が分裂している。共産党は国際派と主流派に分かれて対立している。
 1950年。東大本郷の五月祭の展示に悠太たちは原爆展に取り組んだ。アメリカ(ABCC)の禁止令がまだ生きているときのことで、市民からも大きな反響があった。
 6月25日、朝鮮戦争が始まった。しかし、日本にとって経済回復には寄与したとしても、他国の戦争でしかなく、平和な日々が続いていた。この年の4月、東大セツルメントが発足した。戦前の東京帝大セツルメントを復活させたのだ。
 セツルメントは、完全にパルタイの下部組織だ。今に徴発されて北朝鮮解放軍の兵士に仕立てられる羽目になるぞ。そんな会話が出てきます。ちょっとオーバーですけど、セツルメントの雰囲気は伝えています。
 1951年。東大セツルメントは大井町と江戸川区葛西のほかに新しい拠点として川崎の古市場と亀有の大山田地区に進出することに決めた。悠太は亀有セツルに入った。
 私は、もうひとつの川崎古市場のセツルに入りました。1967年のことです。この年、同時に入ったセツラーは少なくとも30人はいたと思います。東大だけでなく、学芸大学や津田塾大学そして横浜市立大学、神奈川栄養短大など、多いときには20以上の大学から集まり、セツラーも100人を軽くこえていました。
 悠太は土曜の昼から日曜日いっぱいをセツルに通った。診療にあたるのだ。それでも悠太は、ある種の貧困者が住む、それだけで青春の時代を喜んでささげるという彼ら(セツラー)の夢を十分には理解できなかった。発言の端に革命とかプロレタリアートとかアメ帝とか、情熱を支えるキーワードが衣の下の鎧のように見え隠れしていたが、悠太には無縁の言葉だった。悠太は未知の土地を見るという楽しみ、好奇心で動いていた。
 セツルメントを五月祭の展示に出しても見る人は少なかった。まだ世間からは認知されていない言葉だった。
 これは私がセツルメントに入った1967年当時もそうでした。実際、セツルメントって何のことやら分かりませんでした。先輩に誘われて面白そうだと思ったのですが、地域の現実を知ってみたいなと思ったのです。その地域とは、ドヤ街とか最底辺の人々が生きるというより、フツーの労働者が多く住んでいる町のことでした。そして、私が丸々3年間以上もセツルメント活動を続けたのは、心魅かれる素敵な女子大生がたくさんいて一緒に活動できたことも大きかったと思います。今思えば、夢のように楽しい日々でした。悠太も同じように看護婦に好感をもち、好かれるようになりました。
 悠太は卒業後、精神病院に入り、また東京拘置所に入ります。そこで、書物から得た知識とはまるで違う現実を見せつけられました。犯罪者の人々と向きあう毎日を過ごすようになったのです。すごい体験です。私も、法廷で、被告人が人を殺すためには憎悪の念をかき立てる必要があると語るときの被告人を見て、その表情の怖さにゾクゾクしてしまいました。まるで夜叉のように表情が固まり強張っていました。
 さらに、人妻との恋も進行していきます。悩み多き青春を生きる精神科医。本のオビにそう紹介されています。当時の世相と学生の心理状態がよく分かります。
 私の親しい友人が、1968年の東大駒場にいた学生群像を描いた自伝的小説を出版しました。東大闘争の実情とあわせてセツルメント活動の様子も紹介しています。加賀乙彦のように高名ではないので、どれだけ売れるのか心配ですが、せいぜい販売に協力したいと考えています。みなさんもぜひ買って読んでやって下さい。花伝社「清冽の炎」第1巻です。1968年4月から1969年3月までの1年間を5巻に分けて描いていく第1弾なのです。第1巻がまったく売れなかったら、第2巻以降の出版が危ぶまれるところではあります・・・。どうぞ、よろしくお願いします。

庭仕事の喜び

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著者:ダイアン・アッカーマン、出版社:河出書房新社
 田舎で弁護士をする最大のメリットは、なんといっても恵まれた自然のなかで毎日の生活を送ることができることです。四季の移り変わりを愛でて楽しむには、なにより庭に出て草花と触れあうのが不可欠です。いえ、地中にはミミズもモグラもいて、地上には小鳥だけでなく、クモもヘビもいます。といっても、クモの巣が庭にはりめぐらされるのは廃屋のようで、困ります。ですから、クモさん、悪いね。そう言いながら、クモの巣を払いのけています。
 これを書いている11月上旬の今、わが家の庭にはツメレンゲの白い花が咲き、ネムの木が線香花火のような艶やかなピンクの花を咲かせています。妖しいほどの魅力がありますので、ついつい触れてみたくなります。これって美人と同じですよね。
 四季咲きのクレマチスも2輪ほど花を咲かせています。キンモクセイは10月末に咲き匂い終わりました。芙蓉の花が終わったので、根元から枝を切ってやりました。酔芙蓉もあります。午前に純白の花を咲かせ、午後遅くなると赤みの濃い花となりますので、その名のとおり酔っ払った佳人(美女)のなまめかしい風情です。
 花は詩に似ている。喜びを求めれば、花はあなたを喜ばせてくれる。深い真実を求めて花を眺めれば、思いをめぐらす種は尽きない。
 花はとても大胆な目的を持っている。官能的であることが仕事であり、欺くことは天賦の才だ。賄賂を差し出したり、変装したりは得意技で、疑うことを知らない旅人たちを騙す。彼らがかたる物語は正直で、淫乱さとは無縁なので、自然は裁かないし意図しない。ただ実行するだけだとつくづく感じさせる。
 ザゼンソウは早春に、主根のでんぷんを糖に変化させることによって、花が熱を発する。糖はすばやく激しく燃焼し、ときには周囲の雪をとかすことさえある。ザゼンソウは動物のようだともいえる。寒いときには、熱を発して体を温める。
 ひやー、そうなんだー・・・。ちっとも知りませんでした。まるで動物ですよね。
 チューリップは数年しか花を咲かせない。秋に植えた元の球根は複数の子球根をつくり、それらは親のエネルギーを不均等に受け継いでいる。花を咲かせた後、元の球根は死んでしまい、子のなかでもっとも強いものが次の季節に花を咲かせる。毎年エネルギーが分散されるので、そのうちに球根は単純に、自ら消耗してしまう。だから私は、チューリップは一年草として扱い、咲いているあいだを楽しみ、約束を期待せず、翌年も花が咲いたら幸運だと思うようにしている。
 私も、毎年秋になると、300個から500個のチューリップの球根を植えています。チューリップは密植した方が見映えがいいのです。ですから、畳一枚分くらいに100個ではスカスカした感じで、とても足りません。庭のあちこちに分散し、そして集中して植えていきます。9月から12月にかけての日曜日ごとの楽しい作業です。春、チューリップの花が咲き終わっても、しばらくそのままにしておきます。そのうち掘りあげてしまうのですが、それは次の花を植えるためのものです。掘りあげた球根を翌年につかうつもりで何度か試みましたが、たいていは小さく分球していてモノになりませんでした。ですから、まあ花屋さんが喜んでくれるのだからと考え、いつも数万円分の球根を買って植えています。もちろん一度に買うのではありません。生協で大量に注文し、そして町の花屋さんでも少しずつ買っては植えていくのです。
 ちなみに、チューリップにもいろいろな新種がありますが、やはり昔ながらのチューリップが一番いいようです。小学校1年生のときの教科書にチューリップの花の絵があったことを、今もよく覚えています。フリンジのついたものとか、八重咲きのものなどは、そのうちに飽きがきてしまいます。

峠越え

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著者:山本一力、出版社:PHP研究所
 人生にはいくつもの峠がある。
 ここまでやれたんです。手をたずさえて、あの虹をくぐりましょう。
 そんな温かい呼びかけが聞こえてくる本です。
 私と同じ団塊世代の著者の心やさしいまなざしが、読み手の心を熱く溶かしてくれます。読み終わったとき、ほんわか心にぬくもりを感じることができて、心地よく感じられる本です。
 女衒(ぜげん)の新三郎が主人公です。でも、女衒なんて言われても、いったい何のことやらピンと来ませんよね。とはいっても、江戸時代から現代日本に至るまで、現実にひそかに続いている嫌な職業です。
 新三郎は女衒である。女の気持ちの裏表を見抜く眼力が命綱の稼業だ。相手を見詰めながら、おりゅうは新三郎の器量に賭けた。両目に込めた気持ちが汲み取れないようであれば、先の見込みはないと肚を決めていた。
 江戸で、江の島弁財天の出開帳(でがいちょう)を初めてやってみようとした話です。私も江の島には30年以上も前に行ったことがありますが、あそこには弁財天があったのですか・・・。銭洗い弁天なら知っているのですが、知りませんでした。銭洗い弁天でお札を洗った枚数が少なかったせいか、私は今もってお札のまわり方がもうひとつ足りないようです。まあ別に、だから不満だというわけでもないのですが・・・。
 株仲間、香具師(やし)、興行師、そして時ならぬ台風もやってきて、出開帳がうまくいくのかハラハラさせられます。次がどうなるのかという心配をかきたれ、頁を繰るのがもどかしいほどです。なんとか出開帳が成功したと思ったら、次には、てきやの元締めの親分たちが登場します。その親分たちを箱根まで連れていくという難題を背負わされるのです。一癖も二癖もある親分たちです。どうやってまとめていくかが、また見物です。
 話の運びがうまいですね。ついつい、この先どうなるんだろう、と心配してしまいます。賭場の様子など、実によく調べてあると感心するほど見事に描かれています。このあたりの筆の運びには、たいしたものだと、うなるばかりです。
 ハッピーエンドなので、胸をなでおろすことができます。江戸情緒をたっぷり味わうことのできる本でした。

だから、アメリカの牛肉は危ない

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著者:ドナルド・スタル、出版社:河出書房新社
 アメリカ産牛肉の輸入が再開されようとしています。吉野屋の牛丼はまだ復活していませんが、同じ牛肉なのに、オーストラリアやニュージーランド産ではダメだという理由が私にはさっぱり分かりません。ところが、私の依頼者でもある焼肉屋の主(あるじ)によると、やっぱりアメリカ産とオージー産とでは、牛肉の味がまるで違うのだそうです。本当かな、と思うのですが、プロが言うのですから間違いないのでしょう。
 アメリカで牛の飼育は、1980年にはテキサス、カンザス、ネブラスカの3州で全土の40%を占めていた。2002年にはこれが54%に増えた。いまや、牛は工場飼育と呼ばれる大規模生産である。牛の解体処理ラインの速度は1時間に400頭が処理できる。ちなみに、鶏なら1分間に200羽、豚は1時間1000頭。
 いまアメリカの牛肉市場は、四大精肉企業が市場の85%を支配している。少し前までは、五大企業の占有率は55%だったのが、さらにすすんだ。精肉企業で世界最大のタイソン社の売上は、1991年に39億ドルだったのが、2001年には107億ドルにまでなっている。3倍の伸びである。
 精肉処理過程で一番の出費は労賃であり、精肉企業は賃金カットと、かつては強力だった労働組合の弱体化に成功している。
 牛肉工場で働く労働者の離職率は驚くほど高い。低いところでも72〜96%。新しい工場では250%にも達する。単純作業に細分化されているため、仕事にうんざりし、疲れ果て、傷つき、さっさと仕事を辞めていく。食肉工場にとって、離職と労働災害が最大
の問題。精肉工場で働く労働者の賃金が低く、環境も劣悪なため、ラテンアメリカやアジア、そしてイラク、ソマリア、ボスニア、カンボジアなどからの移民によって担われるようになっている。
 アメリカでは毎年、食中毒が7600万件発生している。それによって32万5000人が入院し、5200人が死亡している。
 アメリカで販売されている抗生物質の40〜70%が農業につかわれている。長いあいだ抗生物質を混ぜて餌を与え続けると、家畜の肉で人間の健康を脅かしかねない。
 牛からとれるものは無数にある。接着剤、石けん、獣脂、皮革製品、デオドラント、洗剤、マシュマロ、マヨネーズ、アスファルト、ブレーキ液、シャンプー、シェービングクリーム、シガレットペーパー、マッチ、シートロック、壁紙、インスリン、アミノ酸、血漿、コーチゾン、エストロゲン、手術用縫合糸、ビタミンB12など。ええっ、こんなのまで、牛からとれるの・・・。うっそー、と叫んでしまいました。信じられませんよね。
 私も、若いころには、マクドナルドのハンバーガーやケンタッキーフライドチキンを美味しいと思って食べていました。でも、その牛肉や鶏肉が抗生物質を多用し、工場飼育という大量生産されたものであり、化学調味料で味がごまかされているという事実を知ってから食べるのを止めました。
 今日も、これらのファーストフードの店に若者たち(いえ、中年の客も多いです)が群らがっているのを横目で見て、自分たちの健康そして地球環境について、もう少し考えてほしいものだと、つい年寄りのようにつぶやいてしまったことでした。

源義経

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著者:近藤好和、出版社:ミネルヴァ書房
 さすが有職故実(ゆうそくこじつ)を専門とする学者の書いた本だけあって、なるほどそうだったのかと思ったところがいくつもありました。
 甲冑は甲と冑であり、甲が「よろい」、冑が「かぶと」である。しかし、10世紀以降、しばしば逆によまれてきた。よろいは鎧ともかく。大鎧は、弓射騎兵の主戦法である騎射戦での防御をよく考慮したもので、全重量は30キロにもなる。
 馬には前歯と臼歯との間に、歯槽間縁といって歯のない部分があり、啣(はみ)は、そこに銜(くわ)えさせる。
 日本の馬は体高4尺(120センチ)を基準とする。サラブレッドは小さくても体高160センチあるので、日本の馬はかなり小さいことになる。しかし、アジアの草原馬のなかでは日本の馬は標準的な大きさなのであり、日本だけがことさら小さいわけではない。むしろ、競争馬に改良されたサラブレッドやアラブ種の大きさが特殊なのだ。とくに、馬は群をなすのが本能なのに、サラブレッドは逆に他の馬が近づいてくるのを嫌うことから、馬とは言えないという見方もある。
 大鎧などの武具を着装した騎兵は体重ともに100キロはこえていたから、それを乗せた日本の馬は力強かった。気性の荒い駻馬(かんば)だったろう。明治より前の日本には馬を去勢したり、蹄鉄の技術はなかった。なお、外国では左側から馬に乗るが、日本では右側から乗った。
 ところで、現在の走歩行は左右の手足が交互に出るのがふつう。しかし、江戸時代までは左右の手足が同時に出ていた。これをナンバという。相撲のすり足である。これを常足(なみあし)ともいう。四つ足動物は常足だ。騎兵にとって、騎乗者も常足が常態なら、人馬一体の動きができるわけである。現在感覚で考えてはいけない。
 この本で私がもっとも注目したのは、騎馬で断崖絶壁を降りていっている写真です。まさしく直角の絶壁を馬に乗った騎兵が降りています。なるほど、これだったら義経が一ノ谷合戦のとき、鵯越(ひよどりごえ)で坂落としすることはできたのでしょう。訓練(調教)次第で馬は何でもできるようです。著者はいろいろの説はあるが、義経は「吾妻鏡」では70騎をひきつれて鵯越の坂落としを敢行したという見解です。だから現実味があるとしています。ふむふむ、かなり説得的ですね・・・。
 また、壇ノ浦合戦のときの平氏の敗因を潮流が変わったことに求める説には科学的根拠がないとしています。さらに、義経が当時の慣習に反して水手(すいしゅ)や梶取(かんどり)をまず殺して平氏方の船の自由を奪い、それから船内に乱入したことが平氏の敗因になったという説にも根拠が乏しいとしています。むしろ、そうではなくて著者は、平氏に長年つかえてきた阿波重能の裏切りが敗因だとしています。
 歴史にはまだまだ語られるべきことは多い。そういうことのようです。

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