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更年期

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著者:マーガレット・ロック、出版社:みすず書房
 日本でふつう言われている更年期の症状はアメリカのメノポーズにともなうものとはかなり違っている。アメリカではメノポーズとは閉経のことであり、ホットフラッシュと突然の発汗のみ。頭痛などの身体の痛み、めまい、肩こりは女性も医師もメノポーズに関係があるとは考えない。日本人女性は、ホットフラッシュを訴えず、急な発汗もまれだ。
 更年期をメノポーズと訳してはならない。アメリカの女性の大多数の頭のなかで、メノポーズと閉経(月経の終わり)とが同義語になってきた。
 人間の最長可能寿命は90歳から115歳のあいだと推定されている。これは過去10万年のあいだ、人間は理論上、この高齢まで生きることが可能だったということ。
 日本の平均寿命は1891年から1989年のあいだに44歳から82歳にまで上昇したが、50歳の女性の平均余命は21年から33年に延びただけ。この100年のあいだ、ヨーロッパでも日本でも、女性はひどい搾取や貧困にさらされないかぎり、乳幼児期をのり切って成人し、お産で死ななければ、70歳以上まで生きられる可能性は高かった。
 日本食には大豆と豆腐、味噌など多くの大豆製品が含まれ、植物性エストロゲンに富んでいる。天然のエストロゲンを含む食生活はホットフラッシュの発生にかなり大きな違いをもたらしうる。
 日本の平均寿命は世界一で、男性76歳、女性82歳。100歳以上の人口は3000人をこえている。もし、現在の傾向が続けば、2025年には225万人以上が認知症(老人性痴呆)を患い、その3分の2が女性。200万人以上が寝たきりで、またその3分の2が女性。現在、65歳以上で寝たきりの人は60万人をこえ、その大多数が自宅にいる。
 高齢の1人暮らしの女性は男性の4倍の128万6000人いる。特別養護老人ホームの入居者の70%以上、一般の老人ホームの入居者の93%が女性で占められている。自宅で介護を受けている寝たきり老人の93%も女性。アルツハイマー病の高齢者の80%も女性。
 女性は、いま日本の全就労者の40%を占め、15歳から64歳の女性のうち58%が現役で働いていると推定されている。
 ロマンス小説からも社会の変化が読みとれる。かつては、どの本もシンデレラ物語風のものばかりだった。しかし、近ごろは、ヒロインは結婚しようか、キャリアをもとうかと迷っている。
 多くの日本女性は、それなりに満足のいく人生を送っており、調査に回答した人の90%が現在の生活を幸せだと思うと答えた。しかし、話を聞いてみると、多くの女性が苦労を経験したばかりでなく、いまも不当な扱いを受け、不安定な生活を余儀なくされているという。では、なぜ大部分の女性が自分は幸せだと答えのか。そのひとつの理由に、もっと苦しい目にあった人もいるのだから、自分は今の境遇に感謝すべきだと話をしめくくるのだ。回答者の53%は現在の日本社会は女性を不公平に扱っていると考えている。
 中年女性に訊くと、年齢によって経験が増すので、年をとると、なすがままに少々遊び心でもできるようになる。成熟の結果として新たに手に入れた自由を存分に楽しんでいる。 しかし、多くの女性が平均寿命(82歳)まで生きたいと願っていないのが非常に興味深い。45歳から60歳までの人間の年齢は、成熟期、つまり十分に円熟した時期と呼ばれる。
 アメリカでは、2005年に50歳から64歳の女性が2500万人をこえる。これらの女性のためのホルモン補充両方の薬剤と医師のフォローアップ・ケアのための費用は、全米で年に35億ドルから50億ドルになるだろう。
 メノポーズとその副産物は、現在、大きなビジネスになり、アメリカ国内の1990年のエストロゲンの売上だけでも4億6000万ドルにのぼる。
 この本は2005年9月に出版されたものですが、1980年代に日本人の女性を調査した成果をまとめたものなので、今とは異なっているところがかなりあると思いますが、やはり変わらないところもあると思いながら興味深く読みました。2段組みで400頁以上ある大部の本です。
 実は、私は、この本を人間ドッグ(いつも一泊しています)に持ちこんで読んだのです。男にも更年期があると聞いて久しいのですが、実感はしませんでした。同年代の男性からもあまり聞いたような気はしません。ただ、同世代でも男女を問わず、とてもくたびれた顔つき、身体をしている人が多くて、本当に驚きます。生き生きしている人の方が少ない気がします。それだけ、この社会に生きていくのは厳しいことなんだな、失業せず、定年退職の心配もない私は本当に恵まれているんだと実感をさせられます。
 人間ドッグの結果では、総コレステロールが少し高いので、糖分の取りすぎに注意するように、とか、体重を減らしなさいということでした。減量って、本当に難しいんですよね。鏡を見ると、我ながら中年太りのひどさに目を覆いたくなります。
 身体を動かすのは週1回の水泳(30分間の自己流クロールで1キロ泳ぎます)と日曜ガーデニングくらいです。あとは、毎日、規則正しい生活と7時間の睡眠時間の確保、そして大量の本を読んでの気分転換というのが私の健康法です。

20世紀、日本の歴史学

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著者:永原慶二、出版社:吉川弘文館
 明治維新以来、学問としての歴史学がどのように展開してきたかを系統的にふり返った本です。門外漢ながら、大変勉強になりました。
 明治24年(1891年)、帝国大学(これは、それまでの東京大学を改めた名称です)の久米邦武教授が神道は祭天の古俗という論文を発表しました。神信仰は、どの民族においても共通に見いだされる祭天の古俗だとしたのです。それを、日本だけの宗教であり、国体の基礎であるという説は根本的に誤っているとしたわけです。ところが、神道・国学派から激しく反撃され、ついに久米は帝国大学教授から放逐されてしまいました。
 明治44年、国定教科書が南北両朝併立説に立って記述されていることが国会で問題になりました。ときの桂太郎内閣は、南朝を正統王朝と決めて、教科書を訂正させてしまいました。北朝は吉野の朝廷と表現されたのです。両朝併立問題という長いあいだ学説が対立してきたことが、政治的に決定されてしまうというのは学会にとって屈辱的なことであり、学問が権力によって支配されることを意味します。
 著者は網野善彦氏の中世社会史像について高く評価しつつ、イデオロギーと現実の混同があると厳しく批判もしています。
 網野は、中世を民衆世界に生きつづけた本源的自由が失われていく過程であり、女性の地位が低下していく時代として悲劇的に描いている。網野の歴史認識はペシミスティックで、世の中は悪くなるという見方である。網野の歴史観は一種の空想的浪漫主義的歴史観の傾向をもっている。近現代を否定的にとらえ、本源的自由という幻影や「無縁」的自由を礼賛的に描き出す手法に不安を感じる、としています。
 また、支配−被支配関係抜きの「平民」論からは「統合」の問題について論理上からも展開が難しいと言って批判しています。
 うーむ、なるほど、そのような批判があるのかと思い知らされました。著者は昨年(2004年)に亡くなりましたが、日本の歴史学の第一人者として大きく貢献してきた人物です。

財界とは何か

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著者:菊池信輝、出版社:平凡社
 まだ30代の学者による財界分析ですが、すごく切れ味よく小気味のいい本でした。やっぱり学者って、たいしたものですね。勉強になりました。
 少し前には財界四天王と呼ばれる経営者がいた。経済界全体ににらみを利かせて資本自由化を強行した小林中、中小企業が共産党・社会党を支持しているのを知って政府に中小企業対策を拡充させた永野重雄、経営危機に陥って労働組合が実権を握りかけていた文化放送に単身乗りこんだ水野成夫、賃上げは生産性の範囲内にせよと宣言した日経連の桜田武。この4人は、財界の機能を非常にわかりやすく世間に見せてくれていた。しかし、経済団体がそれ自身として財界機能を果たせるようになってしまえば、この4人のような存在はいらなくなってしまう。今や経済団体は公明正大に政治を牛耳り、マスコミは、そのあまりの自然さに、財界を報道しなくなり、ニュース性がなくなったから、財界が人の口にのぼらなくなってしまった。
 財界の政党への政治献金システムが完全に確立している。国民協会に改編されてから、1963年から65年には自民党への献金の10分の1が社会・民主党へ献金された。それ以後、疑獄事件は「財界」の網がかかっていない新興産業(たとえばリクルート)や外資系企業(たとえばロッキード)を中心にしか見られない。こうしたシステムを作りえたことは、戦前の財界に比べてはるかに戦後財界の方が政治への安定的な影響力行使システムを備えているというわけだ。
 財界は、政治から自立していないと、いざというときに政治に文句が言えなくなる。
 財界にとって湾岸戦争は、世界中に広がった市場経済秩序の維持に対する貢献の必要性が明らかになった。市場経済秩序から仲間はずれにされたら日本経済の未来はない。その秩序の維持には、ふだんの競争を度外視し、他国と協力しなければならない。しかも、その協力は血を流すものでなければ理解されない。この意味を悟った財界は、急速に平和憲法とそれを支える社会党をはじめとする国民の平和意識を問題視しはじめた。

性と生殖の近世

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著者:沢山 美果子、出版社:勁草書房
 明治になって民衆の堕胎は日本史上初めて犯罪になった。堕胎は近代に至るまで犯罪ではなかった。堕胎が処罰されるようになったのは、富国強兵策の重要な柱である人口増加政策として制定されたもの。
 以上は、いわば今日の私たちの常識のようなものです。しかし、この本はそれは間違いだと強調しています。江戸時代、藩レベルで堕胎・間引きは犯罪として取り締まられていたというのです。津山藩には「赤子間引取締」(1781年)があり、産まないことの禁止・取締に重点をおいていた。仙台藩には赤子養育仕法があって、産むことを奨励し、その救済に重点を置いていた。
 天保2年(1831年)に津山藩主となった松平斉民は、堕胎・間引き禁止政策の一つとして、「西洋書」でみた「露西亜」の育児院のようなものができないかと諮問し、町奉行が育子院構想を答申した。ええーっ、そんなことが江戸時代に考えられていたとは、驚いてしまいました。ロシアに漂流した大黒屋光太夫が日本に帰国してロシアの事情を語った「北槎聞略」などを藩主が読んだらしいのです。
 岡山藩では、捨子養育者に褒賞を与える措置がとられていました。藩が捨子の養育に措置したため、拾われることを期待した捨子をうむことにもなったそうです。
 一関藩の育子仕法では、妊娠・出産について節目で届出が求められていました。月経が停止して5ヶ月たつと、着帯届をしなければいけませんでした。これは、妊娠・出産の管理の意味をもっていたのです。2人目の子どもまでは自力で育てるべきだけど、3人目からは養育料が貸与されていました。ただし、生活が困窮しているかどうかの調査がありました。
 また、この本は江戸時代から明治にかけて津山市で活躍していた女医(光後玉江)が紹介されています。そんな記録が残っていたこと自体が驚きですが、それを現代文にして世に紹介した人もすごいと感心しました。
 江戸時代について、考え直させる本でした。

9.11 生死を分けた102分

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著者:ジム・ドワイヤー、出版社:文芸春秋
 2001年9月11日。9.11のあのとき、自分は何をしていたのか。かなりの人が覚えていると思います。私は先輩弁護士2人と小料理屋で会食し、夜遅くホテルに戻って何気なくテレビをつけて初めて知りました。あのとき、映像を見ながら心底が凍えるような、悪寒に震えてしまいました。戦争が始める、いや始まった。そんな恐怖心を感じて、しばらく寝つけませんでした。
 1機目が北タワーに突入したとき、ワールドトレードセンターには1万5千人もの人がいました。それから南タワーが崩壊するまでの102分のあいだに現場で何が起きていたのかを刻明に再現していった本です。
 北タワーが攻撃されたのは午前8時46分31秒。南タワーは、その16分28秒後に攻撃された。ところが、南タワーの方が先に、午前9時58分59秒に崩壊した。北タワーは、その後、10時2分25秒、つまり29分26秒後に崩壊した。つまり、北タワーでは102分、南タワーでは57分、何千人もの人々が避難する時間があり、実際に避難できた。
 ワールドトレードセンター全体で、避難が遅れて建物が崩壊する前に脱出出来なかったために死亡した人は1500人以上にのぼるとみられている。
 ワールドトレードセンターでは1993年2月26日にも地下駐車場でテロリストたちが爆弾を破裂されるテロ行為があった。しかし、高層ビル自体はまったく無傷だった。だから、技術者は自信をもち、当時もっとも大きな飛行機であったボーイング707が衝突しても、この建物は倒壊しないと断言していた。
 この建物は、たしかに飛行機の衝撃にも耐える強度をもっていた。建物の巨大な重量を縦の線にそって下に逃がし、土台とその下の岩盤で受けとめるようにした。これで十分に余裕のある強度を確保することができた。実は重力より大きな問題があった。それは、風だ。タワーのどの面もハリケーン並の時速200キロ以上の風に耐えられるようになっていた。ふつうの天候の日でも、建物が受ける風の圧力は9.11の旅客機が与えた力の30倍だった。タワーの質量はジェット機の1000倍。この差を考えたら、飛行機がぶつかったあとも、建物がそのまま立っていたのは不思議ではなかった。だが、建物のなかにいる人たちの安全を考慮した設計にはなっていなかった。
 高層ビルの火災に対しては、建物自体がそこにいる者を保護することが前提となっている。炎上しておらず、煙も充満していないフロアにいる者は、逃げようとするよりも、そのままそこにとどまった方が安全だというのが基本的な考え方。
 ワールドトレードセンターは、建物内の全員が一斉に避難するという事態を想定して設計されていなかった。それでも、各棟には、それぞれ全部で99基のエレベーターが設置されていた。
 ジェット機に積まれていた4万リットルの航空機燃料は巨大な火の玉となった。最大時には幅が60メートル、建物の幅と同じくらいに広がった。燃料自体は恐らく2、3分内に燃えつき、その大部分は、建物の外に噴き出したが、一部はエレベーターシャフトを伝って建物内に広がった。北タワーの上層階には、旅客機の突入後も1000人近い人たちが生存していた。
 センター内にいた人々は、椅子やコンピューターのディスプレイなどを手当たり次第に投げつけて窓ガラスを割り、新鮮な空気を得ようとした。しかし、その結果、その部屋と、その上の部屋に炎を呼びこんでしまった。
 午前9時半までに、南タワーに出勤してきた6000人の大半があともどりして建物を出た。南タワーからの避難は8時46分に始まっていた。9時半の時点では1000人が建物内にいた。このうち600人が生還しなかった。200人は旅客機が突入したとき即死したと考えられる。南タワーにこもっていたエネルギーは、2億7800万ワット時(2億3900万キロカロリー)という途方もないものだった。そのすべてが建物が崩壊した瞬間に放出された。それは原子爆弾100分の1個分のエネルギーだった。アトランタやマイアミといった規模の街に1時間電力を供給できるだけのエネルギーだ。その強烈な衝撃は、400キロメートルも離れたニューハンプシャー州リスボンにある地震計が波動をとらえたほどだった。
 警察の高層ビル専門チームが、近くのヘリコプター発着場に集合し、センターの屋上にロープづたいに降りろという命令に備えて待機していた。しかし、警察本部長が、屋上は煙と熱がひどすぎると判断し、ヘリコプターの出動を止めた。
 消防局の指導部は、タワーの高層階で燃えている火を消すのは不可能だと考えていた。消防隊員は何十キロの重さの装備を携行していたが、そのような道具を使用して鎮火にあたることは求められてはいなかった。
 北タワー上層階にいて、8時46分の旅客機の突入ののちも命があったのに、通れる非常階段を見つけることができなかったため、1000人あまりの人が助からなかった。
 北タワーが崩壊したとき、200人もの消防士が建物内にいた。南タワーが崩壊したことを知らされていなかった。これは、警察と消防の間の意思疎通、情報交換がなされなかったことによる。南タワーの78階より上にいて助かったのは、わずか4人。北タワーでは、高層階は死のフロアーになってしまった。
 消防士たちが勇敢な救出活動に励んでいたこと、また情報が途絶したために多くの人が殉職していったことが分かります。痛ましいテロ攻撃を根絶したい。つくづくそんな気にさせる本でした。

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