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ファルージャ、栄光なき死闘

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著者:ビング・ウェスト、出版社:早川書房
 ほとんど全編が戦争映画を見ているかのような描写です。映画と違うのは、ホンモノの殺しあいなのです。屈強で陽気な海兵隊アメリカの若者が次々に敵に殺されていきます。その敵とはいったい誰なのか・・・。
 この本はアメリカ軍の従軍記者が海兵隊に同行、密着取材して書いたものですから、その敵とは、当然、イラク人になります。では、どんなイラク人が敵なのか。もちろん、アメリカ軍と一緒に闘っている新生イラク軍の兵士ではありません。敵であるイラク武装勢力というのは、いったい誰なのか・・・。
 注意深くこの本を読んでいくと、それは要するにアメリカ軍の占領を許せないと怒っているフツーのイラク市民であり、若者であることが次第に分かってきます。
 これまでイラクにおいて、アメリカ兵は2300人以上が戦死しました。これに対して、イラクの人々は10万人も戦死したという推測があります。
 ファルージャでの戦闘の発端は、アメリカの軍事請負会社のアメリカ人社員4人が襲われ、黒こげになって橋に吊された事件にある。これはブルックリン橋の惨劇と呼ばれる。
 アメリカ軍が市街戦に臨むのは、26年前のベトナム戦争におけるフエ市での戦闘以来のこと。平たんな土地が続くイラクでは、ハイウェーが問題だった。アメリカ兵の戦死者の68%がIED(即製爆発物)によるものだった。道路をすすむアメリカ兵は誰もがIEDを恐れている。IEDは簡単につくれる。榴散弾をつくるために金属片をひとまとめにしたものに、ガレージのシャッターの開閉リモコンや携帯電話で遠隔操作する発火装置をつければよいのだ。スイッチを押す人間は、一ブロックほど離れた屋根の上にいればいい。
 武装勢力には、司令官や副司令官といったきちんとした階級制度はない。むしろモスクを中心に近所の連中が地元のリーダーの下に集まったギャングの集団のようなものだ。道路や横丁を知りつくりている彼らは、家並みを利用した防衛ラインを構築するより、走りまわって戦う方が得意だ。
 アメリカ軍の50口径機関銃やマーク19の殺傷力は恐るべきものがある。厚さ2フィートの壁は貫通できないが、砲弾がコンクリートの壁にあたったときの衝撃は大変なもので、巻きおこる砂塵と飛び散るコンクリートの破片は、かつてこういう攻撃を見たことのない武装勢力を驚かすに十分で、彼らはクモの子を散らすように逃げ出す。
 戦闘は山火事のようなものだ。消し止めたかと思うと、火は通りをこえて飛び火し、次のブロックに燃え移る。戦闘がピークに達したときには、あちこちに散らばったライフルを持った海兵隊員300人が、10ヶ所で数百人の武装勢力を相手にしていた。
 アメリカの海兵隊は、司令官も兵士も同じリスクの下に動いている。マティス少将は3回撃たれた。配下の2人の連隊長はIEDで負傷していた。
 イラク人たちは、銃撃戦が終わると、何事もなかったかのように表に出てきて、それぞれのやりかけの仕事に戻っていく。T字路で8人のアメリカ海兵隊員が死んだが、待ち伏せをしていた連中はどこかへ消えてしまった。
 武装勢力の大半はカフィエやTシャツや長袖のシャツを着て、ズボンをはき、ゴム草履や運動靴を履いていた。黒の忍者服を着た者もなかにはいたし、数は少ないが警察の青い制服を着た者もいた。
 アメリカ軍のマティス少将には、ファルージャを占領することで武装勢力を鎮圧できるとは思えなかった。イラク軍が自分たちで戦わない限り、武装勢力は善良な市民を装い、時機を待つだけだ。
 イラク軍は、たとえば400人のイラク人と17人のアメリカ特別軍事顧問からなり、海兵隊と一緒に前線にいて、なかなか善戦する。しかし、イラク軍では、脱走兵や行方不明者が増えている。数ヶ月間かけて大事に育てあげたイラク兵が持ち場を放ったらかして逃走するのは珍しくない。大隊長が倒れたり、警察署長が形勢不利とみて逃亡したりすると、イラク人の部下はみなそれに続く。逃亡したら、命だけは助かるからだ。
 武装勢力側には指揮命令系統といったものは存在しないし、装備も最低限のものしかない。しかし、彼らはアメリカ軍相手によく戦うし、イラク人警備隊を圧倒する。
 イラク兵たちが戦場のまっただなかで制服を脱ぎ、普段着に着替えている現場を見た。全部で50人ほど。兵士たちは、ファルージャの兄弟たちと戦うことを拒否し、同時に兄弟たちが彼らの武器を盗むことにも反対なのだと言った。これはアメリカ人の戦いであり、自分たちには関係のないことだ。自分たちはただ家に帰りたいだけなのだ、と。
 出動した海兵隊員55人のうち21人が負傷した。うち7人は入院が必要だった。
 海兵隊員に犠牲者が増える一方で、ファルージャのテロリストたちは、イタリア人の首をはねたり、日本人5人、トルコ人3人、アメリカ人1人を誘拐したりしていた。
 ファルージャのティーンエイジャーたちは、みなゲーム感覚でアメリカ兵に立ち向かうよう教えこまれている。興奮した導師の説教を村のモスクで開き、彼らのアドレナリンが騒ぎ出すのだ。
 海兵隊のなかの狙撃兵は、毎日10人から20人の武装勢力を射殺していった。標的は魚と同じ獲物なのだ。人間とは思わないことにしている。狙撃兵は3倍率のスコープ付きM16を支給される。夜は、サーマル・スコープ付きの7.62機関銃がスナイパー・ライフルにとって変わる。
 海兵隊員みんなが同じように残忍な戦いができるわけではない。銃をうつのをためらう隊員は、銃弾を拾い集めて隊員に再分配する係りにあてられる。
 1ヶ月のファルージャでの戦いで、150回の空爆が行われ、75軒の一般民家と2つのモスクが破壊され、100トンの爆弾が落とされた。市民の犠牲者は300人から600人と推定された。
 武装勢力を形成しているのは、さまざまなグループで、そのなかには権力奪回をねらうバース党員、イスラム過激派、犯罪者、元軍人、情報部員、過激派スンニ派導師、異教徒の侵略者に対報復や戦いを挑む若者などだ。
 アメリカ軍はパイオニアUAVを使って建物の上空を旋回しながら攻撃の対象を確認する。発着をラジコンでコントロールでき、昼夜を分かたず地上の目標物を撮影できるカメラを搭載している。軍隊の末端組織までこれを活用している。
 こいつ死んだまねしてやがる。ふりをしているんだ。
 そう叫んで、海兵隊員が男の頭に2発うちこんだ。
 ようし、これで本当に死んだな。
 このシーンをテレビ映像がとらえて問題になりました。
 武装勢力の実力は、開戦前とまったく同じだ。
 イラクでは3年たっても戦争状態が続いています。日本の自衛隊は市街戦に巻きこまれる前に一刻も早くイラクから撤退すべきです。アメリカ軍はイラクへ根拠なく侵攻していった占領軍にほかなりません。そんなアメリカ軍のうしろにくっついていて、日本にいいことなんかひとつもありません。

文盲

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著者:アゴタ・クリストフ、出版社:白水社
 「悪童日記」は衝撃の書でした。戦時下における、すさまじいとしか言いようのない悪童の生活が生き生きと描かれています。なんとも憎めない存在なのです。でも、こんな悪ガキが身近にいたら、たまりません。わたしは、もちろん日本語で読みましたが、実はフランス語でも読んだのです。NHKラジオ講座にとりあげられたからです。
 「悪童日記」は、実に分かりやすい短い文章から成る小説です。NHKの朗読も良かったのですが、ネイティブのフランス人でなく、ハンガリーからの難民女性が高等教育を受けたこともなく、フランス語で書いた小説だと知り、これくらいなら、わたしもフランス語で小説を書けるかもしれない。そんな幻想とも言うべき思いにかられてしまいました。
 この本は「悪童日記」を書いた著者の自伝です。なるほど、と思える文章がいくつもありました。
 私は読む。病気のようなものだ。手当たりしだい、目にとまるものは何でも読む。新聞、教科書、ポスター、道ばたで見つけた紙切れ、料理のレシピ、子ども向けの本。印刷されているものは何でも読む。
 わたしも、著者とまったく同じで、完全な活字中毒です。活字が身近にないと不安でなりません。わたしのカバンの中には、いつも少なくとも4冊の本を入れています。うち2冊は大部の本で、残る2冊は新書か文庫です。
 私はフランス語を30年以上前から話している。20年前から書いている。けれども、いまだにこの言語に習熟してはいない。私はフランス語もまた、敵語と呼ぶ。別の理由もある。こちらの理由の方が深刻だ。つまり、この言語が、私のなかの母語をじわじわと殺しつつあるという事実である。
 わたしもフランス語を学びはじめて38年になります。でも、いつまでたっても敵語と呼べるほどには上達しません。続けているだけが取り柄のようなものです。
 人はどのようにして作家になるか。まず、当たり前のことだが、ものを書かなければならない。それから、ものを書き続けていかなければならない。たとえ、自分の書いたものに興味をもってくれる人が一人もいなくても。たとえ、自分の書いたものに興味をもってくれる人など、この先一人も現れないだろうという気がしても。
 人はどのようにして作家になるかという問いに、私はこう答える。自分の書いているものへの信念をけっして失うことなく、辛抱強く、執拗に書き続けることによってである、と。
 わたしも、このブログを夜、ひとり食卓のテーブルに向かって書きながら、いつも思っています。いったい誰が読んでくれるのか。ひょっとして、誰もよんでいないものを、ただ自分の思いを吐き出しているだけなのではないか、と。でも、ときどきトラック・バックがついてきますので、どうやら世の中の誰かは気がついて読んでくれているらしいと気を取り直します。いったい彼女は読んでくれているのだろうかとも思ってしまいます。でも、こればかりは押し売りするわけにはいきません。毎日ひたすら書き続けていくしかありません。きっと、そのうち読んでほしい人の目にとまることもあるでしょうから・・・。
 あっ、忘れました。うれしいニュースが最近ありました。なんと遠く北海道からメールが届き、高校生に対する法教育の教材として私の文章を使ったということでした。「失われた革命」について書いた文章です。光栄でした。たまにはこういうこともあるんだ、少しは世の中の役に立っているんだと、自分を少しほめてやりました。

観光都市 江戸の誕生

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著者:安藤優一郎、出版社:新潮新書
 江戸に住む人々が今日の日本人と同じく観光が大好きであり、成田山参りもそこから始まったことを知ることができました。
 山本一力の「峠越え」(PHP研究所)を前に紹介しましたが、そこに出てくる出開帳(でがいちょう)は、江戸で江の島の弁財天の出開帳を苦労して成功させる話から始まります。珍しく成功した話だと思っていましたが、この本を読んで、江戸時代に寺社の経済活動として広く行われていたものであることを知りました。
 開帳には、居開帳(いがいちょう)と出開帳の2つがある。居開帳は、その神仏を所持する寺社で開帳するもの。出開帳は、地代を支払って他の寺社(宿寺、やどでら)の境内を借り、開帳するもの。諸国の寺社が多額の臨時収入を期待した江戸開帳とは出開帳のこと。江戸開帳を実現するには、江戸を直轄地とする幕府の許可が必要だった。たとえば、成田山新勝寺の場合、居開帳なら直属の支配者である佐倉藩の許可が必要であり、深川永代寺での江戸開帳には、それに加えて幕府の許可も必要だった。
 江戸出開帳の7割が隅田川をはさむ本所・深川・浅草エリアの寺社を宿寺としておこなわれた。もっとも多い宿寺は本所の回向院で、次いで深川永代寺、浅草寺となる。回向院での出開帳は幕末までの200年間に166回が記録されている。
 幕府は江戸開帳を年間20件以内に制限していた。開帳が許可されるためには実に煩雑な手続を必要とした。しかし、江戸開帳による臨時収入があまりにも魅力的なものだっただけに、寺社は、何かと理由をつけて開帳しようとした。
 安永7年(1778年)の回向院での善光寺出開帳への人出は、一日あたりなんと27万人近く、60日間で160万人をこえたというのですから、半端な人気ではありません。
 浅草寺の文化4年(1807年)の本尊開帳による収入は2628両、支出は528両で、差し引き2100両の利益があった。今のお金で2億円以上となる。1年間のお賽銭が3000両ほどだったので、開帳の威力のほどが分かる。
 神仏の開帳に加えて、寺社が所持する宝物のうち人の関心をひくようなものを公開して集客力を強化した。たとえば、泉岳寺は寛政8年(1796年)に居開帳をしたが、そのとき赤穂浪士の遺品も陳列している。大石内蔵助は合図用の呼子笛、大石主税の討ち入り時の着衣と頭巾というもの。このようにして開帳は、神仏だけでなく、奉納物や見世物の評判で人々を集めるようになった。見世物、芝居、馬の曲芸などの興行が非常に多かった。
 成田山への参詣旅行は、江戸市民に大変人気のある観光旅行だった。成田山は江戸での出開帳を企画した。1泊で江戸まで行けるのに、3泊4日の行程で、出発時に130人の行列が江戸・深川に到着するころには1000人もの大名行列にふくれあがっていた。江戸の繁華街を大きな幟を何十本も立ててにぎにぎしく巡回していった。その開帳行列は人々の目を引き、江戸市民の度肝を抜いて話題性は高かった。
 江戸時代に10回もおこなわれた出開帳によって、成田不動は江戸市民のなかにしっかりと根づいた。
 柳川藩の浅草下屋敷内にあった太郎稲荷は麻疹にかかった若殿様をなおしたということで、霊験あらたかということで人々が殺到した。
 江戸には専門の観光案内人がいた。昼の案内料は銭250文(1万円弱)、夜だと  130文が相場だった。観光ガイド業が成り立つ江戸だった。
 江戸時代を観光という側面から知ることのできる、楽しい本でした。

朝鮮通信使の旅日記

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著者:辛 基秀、出版社:PHP新書
 江戸時代に鎖国はなかった。
 徳川幕府は、朝鮮王朝と琉球王朝を「通信の国」、オランダと清を「通商の国」と呼んでいた。
 文禄・慶長の役に参加していない徳川家康は朝鮮王朝との国交を回復するのに支障がなかった。初めのころは、日本へ拉致された7万人といわれる朝鮮人を連れ帰る目的があった。
 江戸時代初めに朝鮮通信使が多いのは、国内支配がまだ必ずしも盤石とはいえない状況下で、徳川幕府が国際的に認知されていることを諸大名に誇示する意味があった。朝鮮王朝にとっても、中国で明が衰え、清がとって代わろうとする時代にあって、日本との善隣友好は自国の安全と平和のために必要なことだった。
 朝鮮王朝からの通信使を迎えるのに徳川幕府が費やした額は100万両をこえることもあった。なにしろ、一番少ないときで最後(12回目)の336人、だいたい500人ほどの大行列でやってきて、日本国内をねり歩いた。人々が見物のために群がった。
 朝鮮通信使は朝鮮音楽を奏でる楽隊を同行させていたので、日本の民衆に大変な人気を呼んだ。沿道各地の民衆は、それを真似て、自分たちで衣装や楽器をつくり、秋祭に唐人行列、唐人踊りとして繰り出した。
 全国各地に朝鮮通信使の姿をかたどる人形が残っているのに驚きます。北は青森県弘前市、宮城県仙台市、山形県米沢市、福島県郡山市、長野県中野市など、朝鮮通信使が通ってもいないところにまで人形があるのです。ビックリします。昔から日本人は本当に好奇心旺盛で、モノマネが上手なのですね。今どきの韓流ブームと同じです。
 室町時代(1954年)、釜山に入った日本人は6000人をこえた。秀吉の死によって侵略戦争が終わり、釜山には日本人町がつくられた。常時500人、多いときには1000人もの対馬藩のエリートが滞在した。すべて男性だった。
 第一次の朝鮮通信使504人のうちに、1割の元日本兵がいた。この日本兵たちは秀吉による侵略戦争に反旗をひるがえして朝鮮にとどまった人々で、降倭と呼ばれていた。日本が二度と再び朝鮮を攻めはしないことをインフォーマルにも確認したかったためのものと思われる。ちっとも知りませんでした・・・。
 日本各地に朝鮮通信使の影響が今なお生き生きと残っているのです。そのことに改めて驚かされます。

大江戸飼い鳥草紙

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著者:細川博昭、出版社:吉川弘文館
 江戸時代にもペットブームがあった。それは大名だけでなく、生活に余裕のできた庶民のあいだにも広がりをみせていた。
 「南総里見八犬伝」の作者、滝沢馬琴もそのひとりである。馬琴は長編小説のほか、長く詳しい日記を書いて残した。そのなかに、鳩やカナリアを飼い、繁殖させていたことも書かれている。馬琴は一時期、70羽の小鳥を飼った。鳩に執着し、8種17羽を飼っていたこともある。そして、カナリアは20年にわたって飼い続けている。
 この本によると、ヒヨドリはヒナから飼うと、実によく馴れる鳥だということです。しかも、カラスを除くと、とび抜けて頭がよく、人間をきちんと認識するのだそうです。ヒヨドリはヒーヨピィーヨと毎朝けたたましい声でわが家の周辺を飛びまわっています。かなりあつかましい小鳥だと思いますが、頭がいいなんて知りませんでした。わが家のサクランボの実は、毎年、ヒヨドリのエサになっています。サクランボの桜の木は既に満開を過ぎました。いつも3月半ばには満開になるのです。
 江戸や大阪には鳥を販売する鳥屋があり、また好んで鳥の繁殖をする者もいた。長崎から外国の鳥も日本に入ってきていた。
 鳥屋は、幕府によって店の数が制限され、勝手な商売は禁止されていた。といっても、江戸の市中には、40軒から60軒の鳥屋がいた。
 日本で古くから芸をする鳥として知られていたのはヤマガラ。吊した丸い輪の中を通り、再びとまり木に戻る「輪くぐり」などの芸を見せた。
 小鳥のさえずりや羽色の美しさを競う「小鳥合」はウズラとウグイスが主だった。
 江戸時代初期のブームは、庶民がウズラを飼いはじめたこと。
 鳥の実用的な飼育書や解説書が次々に出版されている。
 当時の庶民の数は、江戸で50万人、大阪で35万人前後。それなのに、江戸で15万頭、大阪で10万頭ほどの犬が飼われていた。これって、かなり比率が高いですよね。
 江戸の庶民生活って、案外、ゆとりがあったようです。

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