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駆込寺と村社会

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著者:佐藤孝之、出版社:吉川弘文館
 離縁(今の離婚)のための駆込寺といえば、鎌倉の東慶寺と上野国の満徳寺が有名です。この二寺は幕府から縁切寺(えんきりでら)として公認されていました。しかし、縁切寺は、決してこの二寺だけではありませんでした。
 駆け落ち(結婚)のときにも縁切りのときにも、いずれも寺院への駆け込みがありました。戦国時代には寺院に駆け込むことを「山林に走り入る」と言われていました。そして、江戸時代には、村や町の寺院は、すべて駆込寺だった、というのです。いやー、これには私も驚いてしまいました。なーんだ、そうだったのか・・・、という感じです。
 寺院に人々が駆け込むとき、それには実にさまざまな意味がありました。第一に、謝罪・謹慎の意を表明するということです。いわば詫びの作法のひとつでした。二つ目に、裏を返せば、処罰・制裁でもあったということです。たとえば出火したとき、火元は一定期間の入寺が罰として課されていました。第三に、保護・救済を求めて、また調停を求めるというものです。
 博奕(ばくち)、喧嘩口論、わがまま、不届、理不尽、不埒(ふらち)などと称される不法・違法・不行跡があったとき、当人は非を認めて寺院に駆込、寺院の関係者を仲介者として詫びる行為は入寺でした。
 男女が駆け込む先は、寺院ばかりではなく、神社や神主方ということもありました。
 犯罪を犯した者が寺院へ駆け込んだときには、入寺とは言わず、駆込ないし駆入などと呼ばれて区別されていました。たとえば、入寺したことで赦免する犯罪を出火のときに限定しました。それ以外の犯罪については、入寺による赦免を認めなくなりました。
 寺社や地域の有力者に対して、結婚・離婚を目的とする駆込が多発するようになりました。ある有力者宅には、1年間で離縁46件、駆落8件、連れだし・嫁盗み5件などの駆け込みがあったそうです。
 入寺は、すぐれて江戸時代的な営みだった。明治に入ってからは、明治国家の形成とともに姿を消していった。著者は、こう述べています。
 江戸時代の人々の生活について、目を洗われる気がしました。

核の軛

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著者:ウィリアム・ウォーカー、出版社:七つ森書館
 誰も欲しがらないものを生産する工場を、しかも、その管理と廃棄が重荷になるのが分かっていて、なぜ、運転するのか?
 その理由は、20年以上前の契約があり、日本が国内で対処しきれなかった問題をイギリスは引き受けることになっているからだという。しかし、その結果、日本は国内の事態をさらに悪化させることになる。
 六ヶ所の再処理工場の建設費は、構想段階で7000億円と見込まれていただ、結局、2兆1800億円にまで膨らんだ。そして、2004年の経産省の試算によると、発生する使用ずみ核燃料の半分(6万6000トンのうちの3万2000トン)を六ヶ所再処理工場で再処理したのちに廃棄物を処分したとき、核燃料サイクルバックエンド全体で40年間に18兆8000億円のコストがかかると見積もられている。なんとも巨大な金額なので、まったくピンときません。でも、それが国民全体の役に立つ必要不可欠なものならともかく、電力企業の私益のためにつかわれるに過ぎないのだったら、まったく許せないことです。
 日本全国の電子力発電所から毎年とり出される使用ずみ核燃料の量は1000トンあまりで、六ヶ所再処理工場の処理能力は年間800トンだ。
 日本の原発から出る使用ずみ核燃料の大部分は、イギリス・フランスとの委託契約にもとづき、フランスのファーグ再処理工場とイギリスのセラフィールド再処理工場で再処理されてきた。その総量は7100トンにのぼる。
 2004年末の時点で、日本は43.1トンのプルトニウムを保管している。そのうち37.4トンはイギリスとフランスに保管されており、日本国内にあるのは5.7トン。このように大量のプルトニウムを消費する見通しがまったく立っていないのに、なぜ六ヶ所再処理工場の操業開始を急ぐのか。この疑念が日本内外から投げかけられている。
 電力市場に競争原理が全面的に導入されると、原子力は他の電力と太刀打ちできない。そこで、イギリス政府は大急ぎで措置を講じ、10年間は原子力が一定の供給割合を維持できるようにした。日本も同じなのではありませんか・・・。
 プルトニウムは空輸の安全性に疑問がある。そこで、アメリカは、民生用プルトニウムについて、日本とヨーロッパ間の空輸を禁止した。以降、プルトニウムは海上輸送するしかなくなった。
 使用ずみ核燃料の再処理は労多くて、利少なし、である。その必要性と妥当性を今も言い張っているのはイギリス・フランスと日本だけ(このほか、ロシアとインドも)。
 この問題は、よくトイレのないマンションにたとえられます。どんなに、そのマンションが有用だったとしても、人間(ひと)はトイレがなければ住み続けることはできません。しかも、核廃棄物は悪臭で鼻がひん曲がるという程度ですむものではありません。その人と、次代以降の運命を左右しかねない重大な影響力をもっているのです。
 テロリストが原子力発電所を狙ってテロを仕掛けてきたとき、日本は決して万全な国ではありません。そのことを、私たちはもっと重大なこととして自覚すべきです。

愛犬王・平岩米吉伝

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著者:片野ゆか、出版社:小学館
 犬の集団のリーダーが決まるときの優先順位が紹介されています。第一に性別。オスであること。第二に年齢。年長優先です。第三に気性の強さ。第四に才能。敏捷な立ちまわりで優位を獲得する。最後の第五に体力。要するに、年長の雄で、気性が強く知恵のあるものがリーダーとなります。犬の世界でも、腕力だけでは上位を占めることはできないのです。なーるほど、ですね。
 平岩米吉は昭和4年(1929年)から自由ヶ丘に住むようになりました。当時の自由ヶ丘は一面の田園地帯です。お寺のほか、水田と竹藪のなかに七面鳥やブタを飼う農家が点在していました。そのなかで、1000坪の敷地に多くの犬を飼いました。フェンスで囲うのですが、金網の下は30センチほど地面を掘って埋めていました。犬は穴掘り名人なのです。
 犬は人間の言葉を理解するのでしょうか?
 犬は単語の意味をまったく理解していないわけではない。固有名詞としては、自分や家族の名前、よく訪ねてくる人の名などは覚える。普通名詞では、食物や動作に関係あるものが大部分。勉強とか進歩など食物や動作と無関係で形のないことは理解しない。動詞も、座や伏せ、待てなど犬の行動と関連のあるものほど理解度が高い。しかし、行けと行くなが正反対の意味だと認識させるのは難しい。犬が言葉を聞くときに集中するのは、言葉の初めの方で、語尾については、ほとんど気にとめていない。
 米吉は、犬が電話を通した飼い主の言葉にどのように反応するか、という実験もしています。1回目は恐がり、2回目は分かり、3回目になって命令をきいたということです。米吉は、犬にも夫婦愛や伴侶を守ろうとする強い使命感があることを発見しています。すごいですね。妻は夫の帰りを待つ。食事もしないで、ひたすら待ち続けるのだそうです。
 米吉は日本最後の狼も飼っています。
 狼は犬と違う。敏捷性が高く、顎の力が強く、興味をもったものや自分の所有物と思ったものは、簡単にかみ砕いてしまう。狼ならではの声は遠吠えのみ。
 米吉が一匹の犬を可愛がると、犬はそれにこたえる。しかし、それが行き過ぎると・・・。深い愛情は、いいかえれば相手をいかに独占するかということ。その関係に立ち入る者は自分たちの幸せを脅かす敵だ。自分以外のすべての存在が敵となる。喜びと落胆と嫉妬と警戒のなかで、常に神経をピリピリさせながらイリス(愛犬)は、米吉の愛情を貪欲に求め続けた。
 イリスの母犬が死んだとき、イリスは絶えず立って行っては動かぬ母の臭いを嗅ぎまわり、その口や鼻や目や鼻をいつまでも舐め続けていた。母犬が棺に納められ、地面の下に姿を消していくとき、イリスは目をいっぱいに見開いてガタガタと震えていた。すごい、ですね・・・。犬と人間がどれほど違うのか、考えこんでしまいます。
 犬の言葉の理解度は、個体差が大きい。その違いは、飼い主の接し方によって生じる。いい加減に放置されている犬と、主人や家族から深く愛された犬では、あきらかに後者の方がたくさんの言葉や複雑な表現を理解できるようになる。
 フィラリアにやられて死んだうちの飼い犬(柴犬)は頭が悪いと思っていましたが、飼い主のレベルをちゃんと反映していたのでしょうね。バカな主人にはバカな犬が似合う、というわけです。でも、まあそれなりに可愛いがっていましたし、今もお盆にはきちんとお墓まいりはしています。
 犬は笑うのか? 実は、笑うのだそうです。うれしいときだけでなく、恐縮したとき、困惑・恐怖を感じたときも笑うのです。
 犬とともに生活した昭和の愛犬王の愉快なお話です。

信長とは何か

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著者:小島道裕、出版社:講談社選書メチエ
 すこぶる知的刺激にあふれた本です。ものすごく面白く、うん、こうでなくちゃいけないな。うなずきながら、頁をめくるのがもどかしいほど読みふけってしまいました。
 美濃の斎藤道三が信長に会見を申し入れたとき、大たわけと世間から見られていた信長(当時20歳)は、お寺に入る前は奇抜な格好をしていたが、寺に到着するとすぐに、屏風をめぐらして髪を結い直し、誰にも気づかれずにつくっておいた長袴をはいた正装で道三の前にあらわれた。道三の裏をかいたのである。
 桶狭間合戦についても、通説をコテンパンにやっつけています。今川義元は上洛しようとしていたのではない。そして谷間に陣を構えていたのではなく、桶狭間山に陣どっていた。今川義元はそれなりの人物だった。馬鹿にしてはいけない。信長は、雨のなかでなく、雨のやんだあと、低地から高地へ攻め上がった。それも少人数で正面突破をはかった。
 信長はその作戦を家臣たちにはかることなく独断専決した。あらかじめ家臣たちに明らかにしたら大反対にあうことが必至だったからだ。まわりに事を諮らず、家臣たちの常識は無視するのが信長のやり方だった。信長の作戦がうまくいったのは、はなはだ幸運だったから。これは藤本正行「信長の戦争」(講談社学術文庫)と同じ説です。
 信長の居館が山上におかれた岐阜城には、私ものぼったことがあります。麓にも屋敷がありましたが、家族は山上の館で生活していました。それにしては、かなり険しい山です。
 信長は客人と会うのを、山上から山麓への道の途中で出会うという独特のやり方をとっていた。これは、信長が身分にとらわれない人間だったので、格式と関係なく人に会うことのできる路上での面会を好んだからだ。
 信長が攻めた朝倉氏の館があった一乗谷にも行ったことがあります。発掘がすすんでいて、往古をしのぶことができます。一見の価値がありますので、ぜひ見に行ってください。
 信長の最期の居城となった安土城にものぼりました。このことは前にも紹介しました。
 信長は安土城で、天主を自らの居所としていた。天主に住んだ大名は信長くらいだろう。人目を奪う天主は、信長そのもの。自らを神格化しようとしたのだ。
 いま天主跡を訪れると、意外に狭い感じがするが、そこは、この地下倉庫の内側部分で、しかも、周囲の石垣は上部が崩れているから、それを補って想像しなければならないのである。そうなんです。天主跡は案外に狭くて、私はビックリしてしまいました。
 安土城の本丸御殿は、実は天皇を迎え入れるための施設だった。天主にいる信長が天皇の御殿を見下す位置にいることになる。明らかに、「天皇を従える信長」という構図だ。
 信長は官位に就かなかったが、朝廷の方が無冠では困るとヤキモキしていた。そこで、信長は、太政大臣か関白か将軍かのいずれかを推任するよう朝廷に要求した。これは、「なれるのだが、ならない」という信長の作戦だった。つまり、将軍に推任してくれといったら、もう断ることができない。しかし、「いずれかに」と言っておけば、どのような回答をするのも自由である。官職に任命された権力者となってしまえば、それ以上の者にはなれなくなってしまう。それは朝廷という権威に対する最後の切り札であり、可能な限りそれを引き延ばして、優位を得ようとしたのだ。なるほど、そういうことなんですか・・・。
 信長は、独裁者にありがちだが、人の言うことをまったく聞かない。とくに家臣に意見をされることは極度に嫌う。コミュニケーションがないから、人の不満に気づくのが遅れる。だから、予期せぬ相手がすぐ身近で反旗を翻す結果になってしまう。
 信長は、およそ政権と言えるだけの組織は何もつくらなかった。副官も奉行も何も置かず、すべてを信長が決裁する体制を続けていた。
 信長は各地を征服すると旧来の領主を登用せず、直臣を方面軍として配置して支配を委任し、最終的な権限は信長が持つという支配方法をとった。その結果、信長軍は各地に分散し、中央の信長周辺には軍事力がなくなってしまうことになり、それが本能寺の変を可能にした一つの背景となっている。
 50代も後半になってから上野の統治を命じられた滝川一益を見て、自分も丹波経営に苦労した光秀が、これから先どこに飛ばされるか分からないという不安を抱いたという推測はあたっている。恐らく、そういうことなんでしょうね・・・。
 戦国時代は、戦乱で疲弊しきっていたのではなく、むしろ社会に力がみなぎり、経済が非常な勢いで上向いていて、新しい社会的な枠組みをつくる機運が湧き上がっていたとみるべきだ、という著者の指摘には、ガーンと頭を一発たたかれたほどの衝撃がありました。そうだったんですか・・・。これからは映画「七人の侍」の味方も少し変えなくてはいけないようです。

ベルリン1919

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著者:クラウス・コルドン、出版社:理論社
 第一次大戦後のベルリンの状況が庶民生活を通して見事に描き出されています。第二次大戦に至るまでのドイツをあとづけようとする意欲的な大河小説3部作の第一弾です。 660頁もあり、ずっしりと読みごたえがあります。
 ドイツ帝国の首都だったベルリンには200万人をこす人々が生活していた。その人々の1918年冬から1919年冬までの1年間が詳しく語られる。
 ドイツ帝国は戦争をしている。しかし、水兵たちが反乱を起こした。労働者も、戦争をやめさせるためにストライキをしている。片腕をなくした父親が戦場から帰ってきた。周囲には戦没者通知書がどんどん届いている。戦争のせいで、みんな、ひもじい思いをし、凍えている。
 皇帝と将軍たちは勢力圏が広がる。戦争で得をするのは資本家たちだ。戦争はいい商売になる。武器と弾薬はすぐに消費するから、どんどん新しいのがいる。つくるのは工場、買うのは軍隊だ。新しい大砲と弾薬が次々に前線に送られる。そして、その武器で、外国を征服するのだ。だけど、オレたちには関係ない。外国を占領して、オレたちに何の得があるか。得をするのは、またしても資本家だ。そこには石炭や鉄や畑がある。もちろん、製品を売る市場もある。
 そうです。ドイツに社会主義の考え方が広まっていました。しかし、子どもたちの通う学校には、帝国に忠実な教師もいて、ちょっとでも反抗すると、手きびしい体罰を加えていたのです。
 ドイツの社会主義にも派閥がありました。もっとも先鋭的なのはスパルタクス団です。そのリーダーのリープクネヒトは、刑務所に何年も入れられていました。
 11月9日、ドイツ革命が始まり、兵士と労働者が手を組んで立ち上がった。皇帝は退位して外国へ亡命していった。しかし、革命主体がバラバラで、抗争にいそしんだ。
 エーベルトが政治の実権を握るかぎり、将軍と資本家が一緒に政治をするってこういうことなんだ。こんな嘆きが、労働者から聞こえてきます。
 エーベルトは、諸君、すぐに平安と秩序を取り戻さなければ、国民の食料を調達することもままならない。労働者が完璧な勝利をおさめるためにも、平安と秩序が不可欠である。こう演説し、国民の支持を広げた。
 スパルタクス団は少数派だ。内輪もめはたくさんだ。これ以上血を流すのはたくさんだ。平和とパンが欲しい。労働者の切実な声が、強硬派を抑えこみ、反革命がはじまった。
 祖国は崩壊の危機にある。みんなで救おう。敵は外にはいない。内側にいる。スパルタクス団だ。スパルタクス団のリーダーを殺せ。リープクネヒトを殺せ。そうすれば、平和と職場とパンを手にすることができるだろう。
 こんなポスターが貼られるようになりました。
 ローザ・ルクセンブルグが解放されたのは11月8日のことだった。準備が足りなかった。人々の気分をつかまえることができなかった。指導部のいない、気分だけの革命は人々を悲惨な目にあわせ、失敗に終わる。こんな短い期間に、どうやって兵士を味方につけられるっていうのか。連中は、何十年間も、別のことを頭にたたきこまれているんだ。それを数日でくつがえすことなんて、できるか。
 ローザ・ルクセンブルグは虐殺され、遺体はずっと発見されなかった。リープクネヒトは、殴打されたうえ、森を走らされ、後ろから撃たれて殺された。殺人犯たちは軍事法廷で2人が軽い禁固刑を受けただけで、他の者は無罪となった。なんと1962年に国から賞賛もされているというのです。呆れてしまいます・・・。
 重苦しい雰囲気の本です。当時のドイツを決して忘れてはいけないということなのです。
 歴史を学ばないものは盲目と同じだ。格調高いドイツのワイツゼッカー大統領の演説を思い出します。
 日曜日に、フランス語検定試験(仏検)準一級を受けました。なんと10回目、つまり10年前から受けているのです。とても難しくて、ウンウン頭をひねります。年に2回、できない受験生の気分を味わっています。それでも10回目ですので、自己採点では6割をこえ、75点でした(120点満点)。ペーパー試験をパスしたら口頭試験が待ちかまえています。すっごく緊張します。ボケ防止なのですが・・・。

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