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フランス反骨変人列伝

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著者:安達正勝、出版社:集英社新書
 フランスの国王に公式寵姫(ちょうき)なるシステムがあったことを初めて知りました。フランスについては、言葉とともに長く勉強してきたつもりでしたが、やはりまだまだ知らないことがたくさんあるようです。
 フランスには日本や中国のような後宮はない。なぜなら、キリスト教が王妃の子にしか王位継承権を認めないので、後宮をもうける大義名分がない。そのかわり、国王は正式な愛人を一時期に一人だけもっていいことになっていた。
 この公式寵姫は日陰の花ではない。外国大使を引見し、宮廷舞踏会や宴会を主催する公式の存在だ。むしろ王妃は、寵姫の陰に隠れるような地味な存在でしかなかった。
 マリー・アントワネットは例外。夫のルイ16世は一人の愛人ももたない希有の国王で、公式寵姫がいなかった。だから、王妃のマリー・アントワネットが公式寵姫の役割も兼ねることになった。その分、マリー・アントワネットは民衆の反感も買ってしまったわけです。
 この本で紹介されているのは、ルイ14世に妻を寝取られたモンテスパン侯爵です。モンテスパン侯爵は当時としては非常に珍しいことに恋愛結婚し、妻を熱烈に愛していました。その妻が公式寵姫となったとき、ルイ14世にあえて公然と逆らってしまったのです。どうなったか?
 臣下はすべて自分の楽しみに奉仕しなければならない。王国でもっとも美しい女性を愛人とすることは自分の義務である。これがルイ14世の考えだった。自分に不快感を与えた以上、侯爵の行為は不敬罪にあたる。モンテスパン侯爵は田舎に引っこみ、妻は死んだとして自分の領地内全域に葬儀馬車を走らせた。
 モンテスパン侯爵夫人はルイ14世との間で8人の子どもを産みました。ところが、5歳年長のマントノン侯爵夫人に公式寵姫の座を奪われてしまったのです。公式寵姫は永遠のものではありません。それで、モンテスパン夫人は夫のもとに帰ることを願いました。しかし、夫は受け入れず、修道院で過ごすことになります。そしてモンテスパン侯爵はルイ14世の宮廷に復帰しました。なんとも微妙な人間心理です。
 次にギロチンによる死刑執行を職業としていたサンソン家の6代目です。死刑存続派は世の中に多いわけですが(私は廃止派です)、6代目サンソンは確固とした死刑廃止論者でした。6代目のアンリ・クレマンは生涯に111人を処刑しました。フランス大革命のときの4代目は、なんと1年あまりで2700人もの人間の首を落としたのです。
 死刑制度は宗教と自然の法に反する。殺人は殺人によって罰せられてはならない。担当した100人以上の死刑囚のなかで、処刑の恐ろしさに震えあがっていたのはたった1人だけ。罪を自覚せず、何の反省もしていない人間を処刑するのは動物を殺すに等しい。本人に罪を自覚させ、罪を償う機会を与えるべきだ。
 死刑執行人は人々から感謝されない。どころか、忌み嫌われ、差別されている。死刑判決には喝采しても、その判決を執行する人間には侮蔑と恥辱を投げつけるのだ。これは論理的矛盾、馬鹿げた偏見だ。我々の仕事は超人的な努力を要するが、決して報われることはない。恥辱のなかで生き、汚辱のうちに死ぬ。なるほど、と思いました。
 よく雨が降ります。九州南部の洪水のひどさは大変です。北部の方はそうでもありません。蝉が鳴けないのが気の毒なほどです。雨が止んだら一斉に蝉が鳴きはじめるのを聞いて、彼らも大変だと思いました。なにしろ一週間のうちに子孫を残すために配偶相手をみつけいけないのですのですから・・・。食用ヒマワリがたくさん咲いています。

帝都衛星軌道

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著者:島田荘司、出版社:講談社
 携帯電話をつかうと、瞬時に、そのエリア基地局が判明する。基地局から電話までの距離も百メートル単位で割り出せる。そして、電話番号、契約者もすぐに分かる。
 ふーん、そういう世の中なんですね・・・。犯罪捜査につかわれるのはよしとしても、それ以外にもつかわれている気がしてなりません。
 Nシステムだって(今はTシステムというのもあるそうです。その違いがよく解りませんが・・・)、はじめは犯罪捜査のみということでしたが、そうでない使われ方をしたケースがいくつも明らかになっています。警察を信用するわけにはいきません。
 この本には、途中でせこい寸借詐欺のような欺しの手口のあれこれが具体的に紹介されています。人の善意、盲点をついた悪どい詐欺です。読んでいるうちに、いやな気分になってきました。でも、実は多いんですよね。弁護士として悪徳商法を毎日のように扱っていて、本当にそう思います。
 後編には、日本の裁判の仕組みが次のように紹介されています。
 日本の裁判官がいかに威張っていて、乱暴で、理屈の解らない人たちであるか・・・。
 殺人というものは、そして一度これを犯した者がどんな異常な心理状態に突き落とされ、永遠に精神をさいなまれ続けるか。戦争ならまだしも、平時のことなんですから。
 後編には前編の謎ときがありますが、ここで紹介するわけにはいきません。それより、東京の地下についての話を紹介します。日比谷公園の地下に巨大な貯水槽があるというのは、私も聞いたことがありました。戦前からあって、秘密の地下施設だったそうです。
 東京の地下鉄の駅に使い勝手の悪いのが多いのは、既にあった軍施設を無理に廃物利用しているから。千代田線の霞ヶ関駅は元海軍の防空壕だった。
 皇居を防衛するために皇居の周囲に環状に設置されていた地下要塞群の跡。それを結んでつくられたのが、現在の東京の地下鉄なんだ。そうだったんですか、そう言われると大手町駅なんかひどいものですよね。まるで迷路です。いったい自分がどこにいるのか、さっぱり分からなくなってしまいます。

日曜日ピアジェ、赤ちゃん学のすすめ

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著者:開 一夫、出版社:岩波科学ライブラリー
 わが家に赤ちゃんがいないのがとても残念に思えます。昔は身近にいたのですが・・・。孫も果たしてできるのやら、という状況ですので、残念でたまりません。
 というのも、この本には赤ちゃんをめぐる楽しい実験がいくつも紹介されているからです。ぜひやってみたいと思っているのですが・・・。さし絵がまた、とてもいいのです。いかにも愛くるしい赤ちゃんそのものです。
 たとえば、赤ちゃんにベロ(舌)を出してみせます。普通の顔とベロを出すのと交互にくり返して見せます。赤ちゃんはいったいどんな反応をするでしょうか。
 赤ちゃんは、大人のように自分のベロを出してくれるのです。あたりまえのようですが、これって単なる反射行動ではないのです。鏡も見ないで、相手の動作と同じ行動ができるというのが、実はすごいことなんです。うーん、そうなのか・・・。
 次の実験は、まず初めの1分間は笑顔で赤ちゃんに話しかけます。次の1分間は静止顔です。声は出さずに、じっと赤ちゃんの顔を見つづけるのです。怒った顔でも悲しい顔でもなく、あくまで普通の顔です。そして、最後の1分間で、笑顔になって話しかけます。
 さあ、途中の静止顔に赤ちゃんはどう反応するでしょうか。
 赤ちゃんは静止顔を見たくないため、顔をそむけたり、むずがったりするそうです。これは赤ちゃんにはコミュニケーション能力があることを意味します。うーん、本当でしょうか。たしかめてみたいものです。この赤ちゃんは、生後2ヶ月から8ヶ月くらいまでです。
 次の実験は結果が意外でした。対象の赤ちゃんは生後9ヶ月から12ヶ月です。赤ちゃんの前にハンカチを2枚、別々に置いておきます。少し中央にふくらみをもたせます。そして、どちらかのハンカチの下におもちゃを隠すのです。赤ちゃんがハンカチを取ってオモチャを手にしたら、ほめてあげます。そこで、実験です。今度は別のハンカチの下におもちゃを隠します。赤ちゃんの見ている前で隠すのです。
 さあ、赤ちゃんはどちらのハンカチを取るでしょうか・・・。なあーんだ、そんなのあたりまえじゃないか。おもちゃを隠した方のハンカチを取るに決まっているだろ。見てたんだから・・・。
 ところが、ところが、赤ちゃんは最初に隠したハンカチを取るというのです。えーっ、ウッソー、ウソでしょ。そう叫びたくなります。学者が何度も追試したそうですが、結果は変わりませんでした。これについては、赤ちゃんにとって、対象は見えていなくても存在しつづけるという対象の永続性概念をもっていないからだと説明されています。つまり、対象が見えなくなることは、もうそこには存在しないと赤ちゃんは考えるのです。それにしても不思議ですよね。
 3歳ころまでの赤ちゃんの記憶は人間誰でも思い出すことができません。つまり、3歳児までの赤ちゃんは、それ以上の年齢の人間とは違った存在なのです。そこに赤ちゃん学が存在する根拠があります。うーん、人間って奥の深い存在なんだ・・・。

真実と正義のために

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著者:諫山博さんを語るつどい、出版社:福岡第一法律事務所
 諫山博弁護士の追悼文集です。諫山弁護士は2004年11月27日、82歳で亡くなられました。1949年に九大の哲学科を卒業し、1951年から福岡市内で弁護士をしてこられました。司法修習3期です。1972年から衆議院議員を4年間、1986年から参議院議員を6年間つとめられ、国政でも日本共産党の議員として大活躍されました。
 この本の表紙は諫山弁護士の精悍そのものの写真になっています。わたしも一度だけ刑事事件をご一緒しました。公選法違反事件(戸別訪問事件)でした。
 諫山弁護士は公訴権濫用論を初めて提起した弁護士として有名です。
 林健一郎弁護士が、諫山弁護士は膏薬弁論とペニシリン弁論というたとえで問題提起していたことを紹介しています。次のような言葉です。
 私はしみじみ考えます。弁護士は膏薬貼りの弁論に甘んじてはいけない。社会の表面に吹き出たものにいくら膏薬を貼ってみても、できたものの根がなくなるわけではない。ふきでものの根を絶つ弁論、膏薬貼りの弁論ではなく、ペニシリン注射的な抜本的な弁論、これはまさに政治の仕事ではないのか、これが私の心境です。
 すごい指摘です。刑事事件(ほとんど国選弁護です)を扱うなかで、まさにここにある膏薬貼りの弁論しかできていないことを恥ずかしく思いました。といっても、なかなかペニシリン注射的な弁論というものを考えつきません。
 諫山弁護士は大の甘党でした。小泉幸雄弁護士が一緒に外出したとき自分の分と思っていた梅が枝餅を食べられてしまったという、ほほえましい思い出を書いています。
 椛島敏雅弁護士は諫山弁護士から諭された言葉を紹介しています。
 弁護士は法廷では臆してはいけない。傍聴人に分かりやすい言葉で、大きな声で弁論するようにしなさい。ぼそぼそと小さな声で発言すると、当事者が不安がります。
 まことにもっともな指摘です。
 諫山弁護士は公安警察と果敢にたたかいました。古くは菅生事件です。現職警察官が駐在所を爆破して共産党に責任をなすりつけ、逃亡した事件です。犯人の戸高公徳警部補は、発覚後も警察内部で異例の大出世をとげました。警察の体質を露呈しています。
 また、公安調査庁の共産党スパイ盗聴事件のときには現場で摘発しています。
 「語るつどい」のとき、仁比聰平参議院議員が諫山弁護士の三池争議における活躍を紹介しながら、心温まる挨拶をしたのも大変印象にのこりました。

陣屋日記を読む

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著者:成松佐恵子、出版社:雄山閣
 いやあ、日本人って、本当に記録を残すのが大好きなんですねー。もちろん、私もその一人なのですが・・・。まあ、おかげで江戸時代の人々の暮らしが実によく分かります。
 奥州守山藩なんて言われても、まったくピンときませんよね。それもそのはずです。石高わずか2万石。藩士は200人ほどで、お城もない。元禄13年(1700年)に成立し、幕末まで170年のあいだ存続した。所在地は現在の福島県郡山市。水戸藩の支藩です。守山陣屋に定詰(じょうづめ)の藩士は10人にもみたなかった。
 この守山陣屋に御用留(ごようどめ)と呼ばれる陣屋日記が、なんと143冊も残っているのです。郡奉行サイドでしたためた郡方政務日誌といえる内容なのです。これを学者の指導を受けた素人が解読していき、一冊の本をまとめたわけです。本当にすごいことです。日本人って偉大なんですね・・・。
 守山藩の藩主はずっと江戸にいて、参勤交代の義務はなかった。そこで、江戸と守山陣屋のあいだでは御用状と呼ばれる書面が頻繁にやりとりされている。
 郡奉行にとって人口減少の著しい領内の農村対策が最大の課題だった。
 郡奉行の下に位置するのは目付で、なぜか頻繁に交代している。化政期20年間に13人が入れ替わり江戸から着任した。
 郡奉行が借用金に関する不正が発覚して捕縛され入牢の身となり、結局領外追放という厳しい処分を受けたこともあった。
 庄屋は守山藩では、すべて陣屋が任命した。世襲でもあった。たまに「役儀不当」として罷免されることもあった。
 治安維持に関してみると、博打が全国的に流行していて、文化年間に3回も老中触れが出されている。守山藩でも文政年間に12回も摘発があった。しかし、十分な取締効果はあげていない。
 それでも守山陣屋わずか10人の武士で6000人もの領民を支配していけたのは、村役人を通じての間接統治があったからこそ。
 陣屋日記で紹介されているなかで注目すべきは訴訟沙汰の多さです。
 文化文政におこされた訴訟11件のうち、8件が他領より訴えられ、そのうちの6件のべ24人が個人的な金銭債務で訴えられている。利息つき無担保の、いわゆる金公事(かねくじ)である。金公事のほかにも、川筋を上流の村が閉め切ったため不漁になった下流の村が訴え出たり、神社の神職間の紛争もおきている。
 日本人は実は昔から訴訟(裁判)が好きだったことが、この本からも分かります。といっても、江戸時代には判決にいく前に調停(内済)させられることが多かったのです。扱人(あつかいにん)と呼ばれる第三者が介入して話をまとめようとします。
 農民が集団で村を抜け出して水戸本藩に越訴(おっそ)しようとしたり、他領(二本松藩)に駆けこんだりしています。決して百姓はおとなしくはなかったのです。
 庄屋が商用と称して領外へ出かけることも多くありました。その期間も2〜3ヶ月から最長6ヶ月もあったのです。年に4、5回、多いときには10回もありました。
 湯治や参詣を目的とした外出も多かったようです。1回30日ほども温泉に湯治に行っていました。三斗小屋に26日間行ったというのが記録に出てくるのを見て、私の大学時代の4泊5日の夏合宿をなつかしく思い出しました。
 守山藩には、文化文政の20年間に90歳に達した者が男12人、女21人いました。養籾(やしないもみ)2俵(9斗)が生涯わたされることになっていた。およそ一人一年分の食い扶持にあたる。要するに、90歳になったら老後の心配はしなくてよいということなのです。今の日本はどんどん福祉の切り捨てがすすんでいて、老後の不安が高まっています。週刊誌に「高齢者の税金が10倍。これが小泉政治の本質」という記事が出ていました。まさしくそのとおりです。年寄りを大切にしない社会では日本も長いことありません。
 欠落(かけおち)は守山藩では草隠(くさがくれ)と呼ばれていた。文化期の9年間に1年に平均10件、21人が草隠人が出ていた。村でなにかの不祥事をおこすとお寺に駆入り救いを求めるということが次第に習慣化していた。
 面白いですね。このようにして江戸時代の実相がどんどん分かっていくのですね。江戸時代は決して暗黒の世紀ではなかったのです。

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