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モナ・リザの罠

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著者:西岡文彦、出版社:講談社現代新書
 実は「ダヴィンチ・コード」は本も映画も見ていないし、読んでいないのです。といっても、ルーブル美術館で本物のモナ・リザの絵は何回か見ましたし・・・。
 ルーブル美術館からモナ・リザの絵が盗まれ(1911年)、2年後にイタリアのフィレンツェで発見されたということを初めて知りました。
 中国や日本の山水画が11世紀にその表現を完成していたのに、ヨーロッパでは「モナ・リザ」の時代でもまだ風景画という概念そのものが存在していなかったという指摘に驚かされました。それまでは人間のドラマの背景に過ぎず、風景それ自体を絵画の主題にすることはなかったのです。
 ところで、この本を私が紹介しようと考えたのは、実はモナ・リザの絵のことではなく、次のような指摘があったからでした。
 本が面白く読めたというのは、本を読んだのではなく、本で世の中が、世の中を見る自分が読めたということ。つまり、単に本の内容が読めても、そんなことは面白くもなんともない。本当に面白い本や学問というものは、それを学ぶことによって、世の中や自分自身のことが「読める」ようなもののことなのだ。それまで漫然と眺めていた社会の様相が、その本を読むことで、突然に明瞭に理解できるからこそ本を読むわけで、本の内容ばかり詳しくなって、世の中のことも自分自身のことも見えていないようでは、学問でもなんでもないということ。
 これは、なかなか鋭い指摘だと私は思いました。大量の本を読み続けている私にとって、それは自分と人間社会を知る作業なんだといつも自覚させられるのです。

ユダの福音書を追え

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著者:ハーバート・クロスニー、出版社:ナショナル・ジオグラフィック
 私はキリスト教の旧約聖書も新約聖書も読んだことがありませんので、ユダの福音書についても、実はまったく分かりません。無神論者の私ですが、苦しいときの神頼みは昔も今もしています。この本は、ユダは裏切り者ではなかったことが判明した古本が見つかったという表題にひかれて読みました。
 発見・復元・解読を追った衝撃のドキュメント。オビにはこう書かれています。なるほどそのとおりなのですが、素人にも分かりやすく肝心の福音書の要点をもっと説明してほしかったというのが率直な感想です。その点が物足りないため、この本全体がまがいものなのでは・・・、という疑いすら払拭しきれません。
 ユダといえば、イエスの弟にもユダ・トマスがいたそうです。知りませんでした。
 「ユダの福音書」におけるユダは、イエスに特別扱いされる選ばれた弟子だ。イエスは自分に忠実なこの弟子に、皆を導くあの星がおまえの星だと告げている。イエスをユダヤ人指導者たちに引き渡すようユダに求めたのは、ほかでもないイエスその人だった。イエスは誠実な弟子であるユダに約束する。おまえの星、ユダの星は天に光り輝くだろう。
 これまでとは異なるイエカリオテのユダの像が浮かび上がる。裏切り者というより、むしろ他の弟子たちから抜きんでた特別な存在だ。
 イエスの生きた時代に続く百年のあいだに書かれたことを考慮すると、この福音書は初期段階のキリスト教信仰やその多彩な活動について、これまでにない味方を提供する衝撃的な書だ。
 「ユダの福音書」に裏切りという題材が登場しないのは、ユダが主を裏切っていないからである。むしろユダはイエスの望みをかなえたのだ。ユダは弟子のなかでも抜きんでた存在であり、他の弟子たちの影は薄い。ユダは、成就のためにイエスが選んだ道具だった。
 イスカリオテのユダは、イエスに愛された弟子であり、かけがえのない親友だったのだ。このように書かれていますが、どうなんでしょうか・・・。この本の評価を、どうぞ教えてください。

最後の錬金術師、カリオストロ伯爵

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著者:イアン・マカルマン、出版社:草思社
 本名ジュゼッペ・バルサモ。1743年にシチリア島のパレルモで生まれた。カリオストロ伯爵と名乗り、10年にわたってヨーロッパ中を巡り、魔術の技を見せ、貧しい人々を癒し、エジプト派フリーメイソンの支部をいくつもつくった。フランス大革命の直前の1785年にバスティーユに投獄され、詐欺の疑いは晴れたが、1789年にローマの異端審問官に捕らわれ、1795年に死んだ。
 カザノヴァはカリオストロを激しくねたんでいた。ロシアのエカテリーナ女帝は絞め殺したいと思っていた。ゲーテは憎しみのあまり気も狂いそうなほどだった。フランスのルイ16世は危険な革命家として迫害した。マリー・アントワネットはダイヤの首飾り事件に巻きこんだカリオストロを死ぬまでバスティーユに閉じこめておきたいと望んだ。
 彼が無知なことを言うと、みな彼を賢いと考える。どんな言葉もまともにしゃべれないから説得力があると言う。けっして自分を説明しないから人々が理解する。話し方やふるまいが粗野なので高貴だと信じる。どこから見ても嘘つきに見えるから誠実だと思われる。これはカザノヴァの評です。これって、どこか現代日本にいるインチキ宗教家のことにぴったりですよね。知性が簡単に目をくらませてしまうんです。いえ、あのグル一人のことをさしているんではありません。ワンフレーズ首相も同じではありませんか。
 啓蒙の時代とされている時代に、知性も美も魅力もない人間が、権力のある貴族、位の高い聖職者、ヨーロッパの一流の思想家たちの大部分をだまし、あるいは眼をくらますことがどうしてできたのだろう。
 いかさま師のなかのいかさま師。だましのもっとも驚異的な見本。太って、ずんぐりして、不快な顔。喉にぜい肉がつき、鼻は低く、脂ぎって、貪欲さと、好色さと、雄牛のような頑固さがあり、恥を知らぬあつかましい顔だ。
 カリオストロの時代は理性の時代ではなかったとトマス・カーライルは主張する。カリオストロを特別な人間にしたのは、彼が時代の要求と憧れにすばらしい声を与えたということだ。
 宗教裁判所はフリーメイソン運動を魔術よりも憎むべき犯罪だと考えていた。1738年には、すでにフリーメイソンを死罪によって禁ずるローマ教皇勅書が出されていたし、それ以来、何度かの勅書でそれが確認されていた。
 教皇クレメレス13世とその後継者たちは、フリーメイソンの秘密主義が気に入らず、裕福で権力のあるカトリック教徒のあいだに広まっていることで脅威を感じていた。
 フリーメイソンって、ローマ教皇から公認されるどころか、死罪でもって禁圧されていたんですね・・・。

昭和三方人生

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著者:広野八郎、出版社:弦書房
 三方(さんかた)とは、馬方(うまかた)、船方(ふなかた)、土方(どかた)の三つの職種を経験したという意味です。
 著者は船方、土方そして戦前の三池炭鉱などでの生活をずっと日記につけていたのです。プロレタリア文学運動にも参加していました。炭鉱生活26年のあと、万博景気にわく大阪で再び土木作業に従事しました。
 明治40年(1907年)に長崎県大村市に生まれ、1996年(平成8年)に福岡市で亡くなっておられます。
 戦前、佐賀の農家には農耕馬が必ずいました。私の父のいた大川もそうでした。そこでは競走馬の飼育も手がけて収入源としていました。馬は今とちがって身近な存在だったのです。
 船員時代にプロレタリア作家として有名な葉山嘉樹の知遇を得て、「文芸戦線」や「労農文学」などのプロレタリア文学運動の機関誌に詩や小説を投稿しています。
 土方をしながら「改造」を読んでいたというのですから、たいしたものです。
 昭和12年3月15日の日記に、こう書いてあります。「改造」を読み、新聞を見ると、いくらか世の中が分かるような気がする。時代は、ますます暗鬱な方に流れていくようだ。満州事変以来、大衆はこの嫌な空気の中で、もがいているのだ。
 同じ年の10月、佐賀にあった杵島炭鉱で坑夫として働きはじめました。夏目漱石の「坑夫」を読んでいます。どうして種を手に入れたか、よくこれほど実感を出したものだと感心した。しかし、しちくどいような漱石的臭味がくっついているので、鼻について仕様がなかった。内部から坑夫の生活を描いていない。これはただ見聞記といった感じがした。
 鋭い感想文ですね、まいりました。12月14日に南京陥落祝賀の旗行列が昨日あったと書かれています。
 ただやたらに沸き立つ人々の態度をみて、自分の心は訳もなく空虚を感じるのはどうしたことだろう。非国民だと罵られても仕方がない。
 あの南京大虐殺を日本人は知らずに旗行列して喜び浮かれていたのです。戦争から帰ってきた兵隊の話を聞くと、もう沢山だと言いたいぐらい残虐なことを並べたてるので、憂鬱になった、とあります。
 昭和13年2月から三池炭鉱で働きはじめました。24時間で1万トンの出炭記録をつくったころのことです。出炭記録にみんなの目がいくと、とたんに事故が多くなったということも記録されています。
 軍事講演を聞きに行ったとき、安井少尉が実戦談を語ったが、そのなかで、戦地の住民がいかにみじめであるか、戦争というものが避けられるものなら、平時、どんな苦痛を忍んでもいいことを痛感した、と語ったそうです。なるほど、ですね。
 「カラマーゾフの兄弟」、トルストイの「戦争と平和」、ジイドの「狭き門」を読んだりしていますが、そのうちに独ソ戦が始まりました。
 駅へ入営兵の見送りに出かけることも多くなりました。
 坑内労働は肉体疲労がすごい。労働の余暇に肉体が要求するのは食欲と睡眠。精神生活の入りこむ余地はない。しかし、そうは言いつつ、休みの日に梅見に出かけたりしています。
 労働者の日記も、続けていると歴史を語るものになることを実感させられた本でした。

満州国皇帝の秘録

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著者:中田整一、出版社:幻戯書房
 まったく期待せずに読みはじめた本ですが、案に相違して、すこぶる興味深い内容の本でした。著者はNHKプロデューサーとして、現代史を中心に歴史ドキュメンタリー番組の制作に長く携わってきたそうですが、大変いい本を出されたと敬意を表します。満州国の一面の実情がよく分かりました。
 関東軍司令官は毎月3回、1のつく日、1日、11日、21日に満州国皇帝を訪問し、日本の政策の方向、日本政府の目的と意向を知らせていた。もちろん、これは満州国の最高機密事項であり、絶対に外部に漏れてはならないもの。ところが、これが記録され外部に漏れていたのである。その内容がこの本で紹介されているのです。
 外部とは日本の外務省のことです。新京にあった日本大使館の外交官たちの間には関東軍に対する不満と反感がみちていた。軍部の独断専行に対する危機意識と無力感との狭間で外務省は苦悩していた。そのため、危険を冒してでも本省に極秘情報を送ろうとする、現地外交官の決断と大胆な行動があった。
 形式は、在満大使館の参事官あるいは一等書記官から本省の東亜局長にあてて送ったもので、「半公信」と扱われた。半分は公の文書、半分は私信。だから、大使の決済を受けなくても本省にあてて送ることができる。つまり、大使である関東軍司令官の目にふれずに生え抜きの外交官同士の半ば私信として本省へ送られた。
 そして関東軍司令官はすべて大使という肩書きにされている。これは外務省の内部の問題だというわけである。関東軍司令官に関する情報を漏らしたわけではないので、軍事機密の漏洩にはあたらないという高等論理である。
 1934年3月、溥儀は満州帝国皇帝に即位した。この即位にあたって関東軍は、溥儀が清朝の皇帝即位の正装である竜袍を着用することを認めなかった。溥儀は満州国の皇帝であって、大清国皇帝の復辟ではない。したがって、満州国陸海軍大元帥正装を着用すべきだと関東軍は押しつけた。溥儀は納得しない。満州建国を利用して清朝復辟を狙っていた溥儀とその一族郎党にとって、皇帝即位の儀式は、対外的にもその意志を表明する千載一遇のチャンスだった。
 ようやく両者のあいだで妥協が成立した。祭壇では竜袍を着て即位したことを天に報告し、つづいて宮殿内では陸海軍元帥の正装で即位式典を行った。
 溥儀は1935年に日本を訪問することにした。この狙いは関東軍が関東州や満鉄のように日本政府の監督下に満州国はおかない、関東軍が満州国を直接に統治するということであった。
 溥儀は訪日のとき親しく歓迎されたことから大きな錯覚をした。日本の天皇の威光を借りて満州国における肯定の権威を高めるられるという幻想を抱いた。もちろん、そうはならなかった。天皇を利用すれば関東軍をおさえることができると思ったのである。しかし、現実には、満州国官僚の人事ひとつも皇帝の思うようにはならなかった。すべて関東軍司令官の指図によった。
 溥儀には何人もの女性(妻)がいましたが、性的不能者であったようです。といっても男性(若者)はいたようです。溥儀は、清朝皇帝の幼年時代、宮仕えの年増の女性にもてあそばれ、その特異な体験のため女性に対するトラウマに陥っていたということのようです。
 この厳秘会見録の送り先は、外務大臣、外務次官と東亜局長の3人だったが、外務大臣を軍人が兼任したときには、大臣ははずされた。
 記録をしていた林出賢次郎は日本政府内部と軍との人事抗争のなかで、1938年、突然解任された。そのとき、内地に記録をひそかに持ち帰ったものが残っている。林出は溥儀から大変信用されていたが、日本に帰ってからは天皇の中国語通訳として戦後の1948年までつとめていた。
 満州国の内情を知るうえで一級の資料だと思いました。よくぞこのような貴重な資料が残っていたものです。溥儀と歴代の関東軍司令官との生のやりとりが大変興味深いものでした。

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