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名将・佐竹義宣

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著者:南原幹雄、出版社:角川書店
 江戸時代、秋田藩主の佐竹家は初代義宣から12代義堯まで続いた。明治維新のとき、東北でただ一藩だけ新政府側についた。つまり反徳川だったわけである。
 佐竹は秋田の前は水戸にいた。関ヶ原の戦いでは西軍に属した。徳川家康が勝ったあと、秋田転封となった。義宣33歳のときのことである。
 秀吉の小田原城攻めに佐竹義宣も参戦した。義宣はときに21歳。ところが、すぐには小田原へ駆けつけることができなかった。強敵の伊達政宗が背後にいたからだ。正宗は 24歳だった。この北条攻めのときから、義宣は石田三成にすがるようになった。上杉とともに石田一派の会盟を結んだ。佐竹義宣は次第に反徳川の旗幟を鮮明にしていく。それを危ぶんだのが父の佐竹義重。義重は家康になんとか取り入って、佐竹家の安泰をはかろうとする。父子の葛藤が続く。
 義宣は家康との戦いに備えて水戸城をさらに堅固なものにすすめていった。そして、家康は会津の上杉討伐の軍をすすめることを宣言し、佐竹義宣にも出陣を命じる。応じるべきか、蹴るべきか。義宣は佐竹百万石を安堵する覚書を家康から下され、討伐軍に加わると返事した。そして、家康は上杉討伐の途中で石田三成の挙兵を知り、一転して南下を始める。いや、家康は江戸城にぐずぐずと滞陣していた。福島、池田、浅野、細川、黒田らの豊臣系諸将たちに万全の信頼をおいていなかったし、常陸の佐竹がいつ水戸を出て江戸を急襲してくるか心配でもあったからだ。しかし、関ヶ原は徳川方の圧勝に終わった。
 戦後、上杉は旧領のほとんどを没収され、米沢30万石に大減封された。島津と佐竹の処罰は最後まで決まらなかった。慶長6年の正月、家康は大阪城で諸大名の参賀を受けたが、島津義弘と佐竹義宣はその列に加わらなかった。慶長7年3月に島津家の処分が決まり、本領が安堵された。佐竹は最後になった。
 佐竹は最後まで反徳川を貫き、しかも江戸時代を生き残った。うーん、こんな家もあったのですね・・・。

三国志誕生

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著者:尾鷲卓彦、出版社:影書房
 三国志は私が中学生から高校生にかけての愛読書でした。水滸伝とあわせて、そのスケールの大きさに圧倒され、英雄や豪傑たちの知謀と勇敢さに手に汗にぎる思いで読みふけったものです。
 この本は、魏王曹操を見直せと提唱しています。
 曹操の家系は漢の高祖劉邦の時代から400年続いた漢の名門中の名門だった。後漢末の豪雄袁紹は、それに比べるとやっと後漢のはじめころから記録の残る豪族にすぎない。
 中国王朝のトップに立ち絶対的権力を保持する皇帝は、膨大な数の官僚群を通して全中国を支配した。その政治の場である朝廷をうずめる大臣官僚たちはまた、皇帝権力の暴走を制約しようとする一種の敵対集団でもあった。その意味で、皇帝の立場は孤独そのものと言ってよかった。宦官たちもまた、朝廷や社会から見放された孤独な集団だった。そのため、皇帝と宦官とのあいだには奇妙な連帯と相互援助の関係が生じていた。そして、実は曹操の祖父の曹騰は宦官だった。宦官として30余年にわたって、順帝、沖帝、質帝、桓帝の4人の皇帝に仕えたというのですから、よほど人間ができていて、能力もあったのでしょう。宦官も養子をとって、子どもがいました。
 付録として曹操文言集がのっています。これを読むと、曹操という人物が、なかなか大人物であることが、なるほど、よく分かります。決して命しらずの豪傑というばかりではなかったのです。
 徳のうすい私だが、官位高く、重責を担っている。さいわいにも国家安定の機運にめぐまれた。天下を平定させ、異民族も帰順し、なにごとも順調に、ひさしく幸福を教授している。
 もし漢に、私という人間がいなかったら、一体どうなっていただろうか。帝を称し、王を称する者がいく人でていたことか。勢力が強大になったうえ、私が天命というものを信じないため、あいつは不遜な考えを抱いているという者もいようが、まあ、勝手にさわぐがよい。
 また三国志を久しぶりに読み返して、気宇壮大な気分に浸ってみたいと思いました。

西武争奪

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著者:日経新聞、出版社:日本経済新聞社
 西武のもつ2兆円の資産をめぐる攻防戦の実情が明らかにされています。資産家一族の果てしない争奪戦は読み手を嫌な気分にさせてしまいます。
 でも、長く弁護士をしていて、大金持ちでなくても、小金持ちでも親子、姉弟、身内が遺産をめぐって醜くいがみあうケースを多々みてきました。その醜い争奪戦の渦中に身をさらし、一方の身を置いてお金(大金です)をいただくわけですから、弁護士は骨肉の争いを他人事のようにつき離して語るわけにはいきません。
 本書にも、弁護士が何人も実名で登場します。でも、なんとなく弁護士の影は薄いですね。役に立たないと思われたら、簡単に切って捨てられる役まわりでしかありません。
 舞台は、もちろん西武グループです。その総帥の堤康次郎は西武グループの創業者であり、政治家となって衆議院議長までつとめた政財界の大物です。妻のほかに内縁関係(はっきり言うと妾でしょう。もちろん、今はそんな言い方はしません)の女性が2人いました。後継者となった堤義明はその女性の一人との子でした。
 この本は、村上ファンドと堤義明を結びつけたのは、オリックスの宮内義彦だと指摘しています。村上ファンドに200億円を投資していた宮内義彦は、今も小泉政治の指南役として、なんでも自由化を唱えています。強い者だけがますます富んでいくのが何が悪い、と開き直る、とんでもなく強欲な財界人です。
 西武グループの幹部には、絶対に欠席が許されない三大行事があった。元旦の墓参、創業者の命日、そして堤義明の誕生日(5月29日)である。全員が顔をそろえて義明への忠誠を誓う。
 この本の最後に西武は誰のものか、という章があります。西武グループという巨大企業が堤義明という一個人によって私物化されていたというのは恐ろしいことではないでしょうか。会社がオーナーのワンマン社長の言いなりになるというのは、アメリカでは珍しくないようですが、日本もどんどんアメリカナイズされ、悪くなっていくばかりです。会社というのは、顧客すなわち国民あっての会社なのではありませんか・・・。

真説ラスプーチン(上)

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著者:エドワード・ラジンスキー、出版社:NHK出版
ロシアの怪僧ラスプーチンと言えば、世界史でも習う有名な人物です。ロシア革命のうみの親とでもいうべき妖怪です。1869年にシベリアの農夫の子としてうまれた一介の農民(ムジーク)が、ロシア皇帝一家を思うままに操るようになっていった過程と、その理由を探った本です。ロシア皇帝が強大な権限をもちつつ、庶民の生活にあこがれていたという逆説的な状況も知ることができました。なーるほど、そういうことでもあったのか、全能の皇帝は孤独にさいなまれていたのか・・・、と思いました。
 ラスプーチンの死をロシアの民衆がどう受けとめたのか、その紹介が衝撃的です。
 1916年12月19日。ロマノフ王朝最後の12月。ペトログラードの小ネヴァ川に一つの死体が上がった。その両手は縛られたまま、上に持ち上げられていた。さんざん叩きのめされ、銃弾をうちこまれながら、氷のように冷たい水中でなおも生き続け、自分を縛った縄から身を振りほどこうとしていたことが分かる。その後、何日ものあいだ、川には大勢の人たちが水筒や水差しや桶をもって押し寄せてきた。この恐ろしい死体が浮かんだばかりの川の水を汲んでいく。人々は、この水によってロシア全土に知れわたった死体の信じがたいほどの魔力を汲みとろうとしたのだ。いやあ、すごいですね。死体の魔力を信じる人が大勢いたというのです・・・。
 ラスプーチンは皇后から長老と呼ばれていた。長老とは、とても年を取っていて、多くの経験を積み、高齢のおかげで、およそ地上のすべてを捨て去った人間をさす。ところが、実は、ラスプーチンは皇帝よりも若かった。だから、ラスプーチンは自分の年齢を何歳も多く偽っていた。
 若いラスプーチンは鞭身派の信者となった。鞭身派は、魂への聖霊の降臨に備え、極端な禁欲を説く。柳の枝や組みひもで自らを鞭うつ鞭身という儀がある。ところが、肉欲の抑制は、なんと際限のない淫蕩を通じて行われるという。熱狂的な儀式の際に、信者間の手当たりしだいの性交があるのだ。新興宗教にはよくある話ですよね、これって・・・。
 なぜラスプーチンがロシア皇帝夫妻に喰いこめたか、その謎が明かされています。皇帝は庶民とのつきあいを求めて一生懸命になっていたのです。それだけ全能の皇帝は不安が強く、足を地につけたがっていたということです。
 皇帝も皇后も、自分の宮殿にいながら、自由を奪われた奴隷でしかなかった。
 いまの日本の皇太子夫婦も、実は同じようなものではありませんか。週刊誌の毒々しい見出しを見るにつけ、可哀想だなと私は思います。もちろん、私はそんな週刊誌を買って読もうとは思いません。時間のムダでしかありませんから・・・。
 レーニンは鞭身派について、革命家は鞭身派に戦略的に接近すべきだとしているそうです。鞭身派が政府に由来するすべてのことを情熱的なまでに忌み嫌うからだ。
 ラスプーチンは断固として反戦の立場をとった。ストルイピンも皇后もラスプーチンも、みな戦争に反対した。ストルイピンを倒したのは国会でもなければ、右翼でも左翼でもなかった。しかし、ラスプーチンを攻撃したせいで息の根を止められた。
 当時のロシアの政治状況がもうひとつ分からないのが少しもどかしいところですが、怪僧の実像をかなり知ることができました。
 庭のフェンスにノウゼンカズラの橙色の花が咲いています。炎暑の夏が続いていますが,さすがに夜は涼しいものです。いまはちょうど満月です。寝る前にベランダに出て望遠鏡で月面をじっくり観察するのが,私の真夏の夜の楽しみです。はるか彼方の月世界を眺めると,地上の雑念をしばし忘れることができます。
 14日から16日まではお盆休みをとります。

大国ロシアになぜ勝ったのか

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著者:偕行社日露戦史刊行会、出版社:芙蓉書房出版
 日露戦争当時、ロシア軍は機関銃をもっていたが、日本軍はもっていなくて、ロシア軍の機関銃に、ロシア軍の機関銃に悩まされたという説があるが、それは間違いだ。日露戦争は、双方が歩兵用火器として機関銃を本格的に使用した世界初の戦いとなった。
 日本は明治23年に水冷式のマキシム機関銃を購入し、明治32年からは空冷式のホチキス機関銃に切り替えて量産した。ただし、たびたび故障し、攻撃での用法が確立されていなかった。
 日露戦争の開戦前に中国の地理について、日本軍はよく分かっていなかった。そして、ロシア製の地図は日本軍の地図に比べて非常に正確なものであった。それで、日本軍がロシア製の地図を初戦ころの戦闘で入手しえたのが大きな助けとなった。
 ロシア軍はシベリア鉄道を利用してハルピンまでのべ129万5000人の兵員を輸送した。馬匹は23万頭、物資は950万トン。これは日本軍の予測をはるかに上まわった。
 日本軍(陸軍)が、対ロシア戦に備えて兵站の研究を始めたのは、開戦半年前の明治36年(1903年)夏のことだった。
 日露戦争に参加した将兵95万人のうち27%の25万人が輜重(しちょう)輸卒だった。補給品の糧秣の85%は追送、15%が現地調達。馬は将兵の5分の2だったが、消費は全将兵の倍を要し、馬草の輸送には多大の容積を必要とした。
 日清戦争のときの将兵は草鞋(わらじ)をはいていたが、日露戦争では、短靴と脚絆(きゃはん)だった。
 韓国には、当時の日本が感じていたほどのロシアに対する危機感はなく、それを日本と共有することもなかった。
 日本軍は8万人のロシア人捕虜を得、ロシア軍は200人の日本人捕虜を得た。ロシア人捕虜については、糧食費を日本兵士の倍額近く出し、しかも調理を自由にさせたので、捕虜たちは満足していた。日本に帰ってきた捕虜を冷遇したのは軍ではなく、郷里の人々だった。勝利に酔い、忠勇美談が喧伝されるなかにあって、帰還捕虜は白眼視された。
 日露戦争にのぞんだ日本陸軍の将帥には、戊辰戦争、西南戦争、日清戦争を戦い抜いてきた経験があり、胆力を備えていた者が多かった。このうえ、士官学校、陸大卒業者が各級の指揮官、司令部参謀を固め、中堅将校以上にも日清戦争を経験した者が多くいた。
 ロシア陸軍の将兵は主として世襲貴族から補充され(全体で5割)、多くの参謀将校、将官、士官は軍事教育を十分受けておらず、指揮経験すらなかった。
 旅順要塞の攻略をめぐっては、死傷者5万9400人という犠牲の大きさが大きな問題になっている。情報収集と攻撃準備がきわめて不十分であったことによる。
 日本軍は、ロシア軍の徹底した防諜体制によって、旅順要塞の実態をほとんど知らなかった。情報だけでなく、要塞攻撃法の研究も不十分で、要塞攻撃用の火砲と弾薬も準備不足であり、攻城材料である対壕器具や坑道用具の調達計画もまったく無視されていた。
 旅順の戦いは、203高地を占領したあとも1ヶ月ほど続いている。
 この本は、第一次世界大戦の要塞攻略戦として名高いベルダンの戦闘において、ドーモン堡塁の争奪戦だけで、ドイツ軍の損耗は28万人、フランス軍にいたっては44万人にのぼっていることを忘れてはならないと指摘しています。戦争に明け暮れていた西欧列強の人々にとって要塞攻略の困難さを熟知していたからこそ、6万人者死傷者を出しながらも旅順要塞を攻略した乃木将軍が有名になったとしています。うーむ、なるほど、そうなんですか・・・。
 この戦いによって、乃木という人は悪魔の権化か、戦いの魔神のように思われ、乃木軍の兵は血の鬼か火の鬼で、ただ死を求めて、敵と組み討ちしなければ止まらないものとまで恐れられていた。
 この本は、最後に、司馬遼太郎が「坂の上の雲」のあとがきで、「日露戦史」を痛烈に批判していることに反論するコメントを書いています。「氏の小説家としての主観的判断によるもので公正ではない」という穏やかな言い方ですが、きっぱり批判していることは見逃せません。

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