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近代ヴェトナム政治社会史

カテゴリー:未分類

著者:坪井善明、出版社:東京大学出版会
 ヴェトナムが現在の姿になったのはここ2世紀のこと。西山党の光中帝(グエンフエ)が200年以上に及んだ鄭(チン)氏と阮(グエン)氏の対立に終止符を打ち、国を事実上統一した。中越国境からシャム湾までを名実ともに政治的に統一したのは、阮朝の初代皇帝・嘉隆(ザロン)帝(在位1802〜1820年)。
 中国が統治した時代が1000年以上も続いた。10世紀に中国から独立し、中国にならって君主政体を採用した。そして、19世紀前半まで、チャム人やカンボジア人を犠牲にして南に勢力を伸展させ続けた。チャム族は、現在は10万人にみたない少数民族にすぎない。しかし、2世紀末から、現在のヴェトナム中部のクアンナム・ダナン省を中心として強力な王朝をうちたてていた。インド文化を取り入れた社会を形成し、海上貿易を富の源泉とした。中国人は、この国を「林邑」と呼んだ。
 16世紀末に、ホイアンに日本町もうまれた。
 ヴェトナムと中国との関係は政府間の交渉関係にとどまるものではなかった。中国人は、何世紀も前から商人としてヴェトナム、とくにトンキンとコーチシナに定住していた。それに加えて、中国の海賊は米を運ぶヴェトナム船を頻繁に襲った。また、中国の海賊は、また沿岸地方に上陸し、食糧や女子どもを強奪した。このようにヴェトナム民衆は日常的に中国人と接触していた。
 阮(グエン)朝は独特の世界観をもっていた。ヴェトナムは中国と同じで、自らを世界の中心に位置すると称し、中国と兄弟であり、対等の国家とみなしていた。そこで、ヴェトナムの用語では、中国は「北朝」、ヴェトナムを「南朝」と呼んでいた。ヴェトナムの君主たちは、中国の皇帝と全く同じく、皇帝という称号を自ら使用していた。大南国皇帝と名乗った。しかし、フエ宮廷の使節は、北京の中国皇帝の前では「越南国王」の代理人としてひざまずいた。
 ヴェトナムは阿片を中国から密輸入した。これは、中国への米の不法な輸出と結びついていた。阿片と米が交換されていた。ヴェトナム人が阿片を吸う習慣は、19世紀初頭からまずコーチシナの華僑のあいだに広まり、その後、少しずつヴェトナム社会に浸透していった。フエの宮廷は定期的に阿片常用禁止令を発布した。が、効果はなかった。常用も密売も、なくならなかった。
 11月末から5日間、ベトナムへ行ってきました。その活気に圧倒される思いでした。かつてアメリカがベトナムに侵略・支配してベトナム人民と10年以上にわたって激しい戦争を展開していた爪跡はまったく残っていませんでした。いえ、博物館はあります。そこには教師が生徒を引率してきていて、生徒たちは真剣にメモをとって学習していました。しかし、終戦後30年たって、どこもかしこも平和に繁栄しているのです。町のなかはオートバイの洪水です。中心部にわずかに信号があるだけですので、通りを横断しようにも、決死の覚悟が必要です。ともかくゆっくり、走らないこと。バイクと車のあいだをゆっくりゆっくり、縫うようにして歩いていくのです。
 有名なクチに行って、そのトンネルにもぐってきました。アメリカ軍の支配を許さなかった集落です。サイゴン(現ホーチミン)からわずか60キロしか離れていないところに解放軍の確固たる拠点があって、そこを維持し続けたというのです。すごいものです。地下3層からなるトンネル構造のほんの100メートルほどを中腰ですすみました。おかげで翌日から膝のあたりがガクガクしてしまいました。真っ暗闇のなか、狭い狭い通路です。もちろん真っ直ぐではありません。曲がりくねり、下におり、上にあがりする通路です。平地でアメリカ軍とたたかうことの困難さの、ほんの一端は身をもって体験しました。でも、このちょっとした体験で初めて、ベトナム全土が30年前まで戦場だったことを実感することができました。
 今、ベトナムは大変化の真最中です。これからどう変わっていくのか、引き続きウォッチングしていきたいと考えています。
 一緒に旅行した仲間の皆さんに感謝します。とりわけ、企画した大塚弁護士、そしてクチ・ツアーを実現した伊達・黒木両弁護士にお礼を申し上げます。旅行会社の添乗員である今里氏には、またまた大変お世話になりました。

兵士と軍夫の日清戦争

カテゴリー:未分類

著者:大谷 正、出版社:有志舎
 江戸時代の本百姓は戦時に武士の組織する軍団に付きしたがい、補給を担当する陣夫となった。日本は馬の数が少なく、在来種は体格貧弱で、かつ牡馬は去勢されず、蹄鉄(ていてつ)が不完全であった。 
 西南戦争と日清戦争までは、民間人を雇用して臨時の軍属、すなわち軍夫として、おもに大八車を引かせて補給業務を担当させた。近代陸軍というものの、後方は江戸時代の大名軍の小荷駄隊と大差なかった。
 日清戦争のとき海を渡った日本陸軍は、17万人あまりの正規の軍人と十数万人の軍夫から成っていた。戊辰戦争以前は武士と陣夫の戦争だった。西南戦争と日清戦争は兵士と軍夫の戦争で、義和団出兵後は兵士だけで戦争をたたかった。
 軍夫とは、過渡期の日本軍の補給業務を担当した臨時傭いの軍属のこと。軍夫には軍服も軍靴も与えられず、軍夫の雇用と管理は軍が直接におこなえず、軍出入りの請負業者が担当した。軍夫をまとめる小頭(こがしら)など、末端の実務者の多くは博徒だった。
 軍夫は国内では40銭、国外勤務のときは50銭の日給が支給された。しかし、軍夫の給金を請負人がピンハネし、また賭博で巻き上げられることが頻発していた。
 「文明戦争」をおこなうはずだった第二軍は、旅順攻略戦において、外国人の新聞記者と観戦武官の目の前で、伝統的な武士の軍隊らしく無差別殺人に走った。これが旅順虐殺事件として欧米のジャーナリズムから非難された。
 当時の日本では、旅日記をつける習慣は一般的であり、従軍日記も貴重だと考えられていた。日清戦争の当時、兵士たちは家族あてに、そして新聞社にあてて、部隊の移動や作戦目的までもあからさまに書いてきたし、新聞社側も伏せ字(×××)という自己規制をおこないながらも、兵士や軍夫の手紙を掲載した。明治時代、地方新聞は書き手が不足していたこともあって、積極的に投書を掲載していた。戦場からの手紙を紙面に掲載するのは、その応用だった。
 中国人に対する呼称も、当初の清国人から豚人、支那土人、チャンチャンという蔑称が普通となり、中国人の弱さと物欲を侮り、不潔・臭気を野蛮の象徴とみなすようになった。この戦場の兵士、軍夫たちの中国観は、また新聞報道や手紙を通じて故国日本の民衆に共有され、中国に対する蔑視観がかたちづくられていった。戦争が終わった後に人々の記憶に残ったのは、単純で一面的な清国蔑視観だった。
 新聞記事と戦場からの手紙には、具体的な戦争の実情が紹介されていた。
 戦時国際法を適用した「文明戦争」のはずが、日本軍はしばしば敗残兵を捕虜にせずに殺してしまった。兵站線が延びきって補給が追いつかず、兵士たちは食料を略奪し、ときには寒いなか民家を破壊して燃料を得て生きのびた。都市を焼き払うことは満州の戦闘で始まり、台湾植民地戦争では、予防的懲罰的な殺戮と集落の焼夷が普通の戦闘手段となった。そして、敵軍より恐ろしかったのは伝染病だった。
 日清戦争のころ、出征した兵士たちが故郷の新聞社に手紙を書いて、新聞がそれを競って掲載していたこと、それに戦場の実際がかなり紹介されていたことを知りました。それにしても、戦場は悲惨でした。
 先日、硫黄島のたたかいをアメリカ側から描いたクリント・イーストウッドの映画(第一部)をみましたが、戦場の悲惨は昔も今も変わらないのでしょうね。そして、戦争で肥え太る軍指導者と政財界の支配者という連中が安全な背後で笑っているという構図も・・・。

蝶々は、なぜ菜の葉にとまるのか

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著者:稲垣栄洋、出版社:草思社
 ちょうちょう ちょうちょう
 菜の葉にとまれ
 菜の葉にあいたら 桜にとまれ
 桜の花の 花から花へ
 とまれよ 遊べ 遊べよとまれ
 これは文部省唱歌の歌詞。しかし、なぜ菜の花ではなく、菜の葉なのか。このちょうちょうは、モンシロチョウのこと。
 モンシロチョウは実際に菜の葉にとまる。産卵のためである。モンシロチョウの幼虫である青虫は、アブラナ科の植物しか食べることができない。そこで、モンシロチョウは、幼虫が路頭に迷うことのないように、足の先端でアブラナ科から出る物質を確認し、幼虫が食べることのできる植物かどうかを判断する。つまり、産卵しようとするモンシロチョウは、葉っぱを足でさわって確かめながら、アブラナ科の植物を求めて、葉から葉へとひらひらと飛びまわっている。モンシロチョウは、葉の裏に小さな卵を一粒だけ産みつける。
 といっても、この小さな卵はみるみるうちに大きな青虫になってしまいます。私も、キャベツ栽培に挑戦したことがありますから、よく分かります。毎朝、とってもとっても、翌日には大きな青虫が葉の裏にいつもいて、たちまち虫喰い状態になっていました。
 植物は昆虫に対する防御策をとっている。しかし、昆虫も、その毒性物質を分解して無毒化するなどの対策を講じている。ただ、それは万能というわけではない。だから、アブラナ科植物の防御物質を打ち破る術を身につけたモンシロチョウは、菜の葉だけを求めて飛びまわることになる。そうだったんですねー、なーるほど・・・。
 5月5日の菖蒲湯(しょうぶゆ)についての説明があります。
 旧暦の5月5日は、雨の多い田植えの時期。重労働で体は疲れる。気温や湿度の上がるこの時期に田んぼに入ると、虫や菌によって皮膚病にかかる危険がある。そこで抗菌力の強い薬湯に入って皮膚を保護する。ショウブやヨモギには強い抗菌作用がある。
 7月7日には、ほおずきの根を煎じた薬湯を飲む。ホオズキの根には堕胎の薬としての作用がある。7月7日に妊娠していると、もっとも忙しい稲刈りの時期に大きなお腹で動けなくなる。無理に重労働すれば、流産の危険があるばかりか、母体も危ない。そこで、7月7日にホオズキの薬湯を飲み、早いうちに流産させた。昔はどこの農家にもホオズキがあったが、それには実用的な深い意味があった。なーるほど、そうだったんですかー。
 昔の日本にあったモモは、先が尖っていた。桃太郎の絵本に描かれていたとおり。それが明治時代になって、現在のように丸いモモがヨーロッパから入ってきた。
 かつての日本では、花見は、梅の花を見に行っていた。ウメは遣唐使のとき、中国から日本にもちこまれた。万葉集には、ウメを詠んだ歌が 118首。サクラのほうは43首のみ。遣唐使が廃止されると状況は一変した。「古今和歌集」にはサクラの歌がほとんどで、ウメのほうはわずかになった。
 サクラのサは、田の神を意味し、クラは依代(よりしろ)の意味。つまり、サクラとは、田の神が下りてくる木という意味。
 植物にまつわるうんちくたっぷりの面白い本でした。

補給戦

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著者:マーチン・ファン・クレフェルト、出版社:中公文庫
 兵站(へいたん)の大切さは、古今東西かわらない真実です。腹が減ってはいくさは出来ないのですから。ところが、これまた、このシンプルな真理を無視してきた独裁者が昔も今もいます。もっとも、兵站が確保されても、大義名分がまったくなければ、今のアメリカのようにイラクで泥沼に陥って、もがけばもがくほどアメリカ兵が損耗していく苦境にたたされることになってしまいます。
 18世紀はじめ、スペイン継承戦争のとき、イギリス軍は、ヨーロッパ大陸で次のように進軍したそうです。
 軍隊は毎日昼ころに野営地に到着し、煮立ったスープ鍋をもった従軍商人によって迎えられる。その地の百姓も待ち構えており、行軍の費用を自分で支払うことのできる兵士に対して、喜んで商品を売却する。兵士はたらふく食べると、勘定を済まし、それから午睡に入る。うーん、なんというのんびりした戦場の光景でしょう・・・。
 当時の君主は補給隊を常設するより、請負人をつかったほうが安上がりだと考えていた。というのも、戦争が終われば解雇できるからだ。
 ナポレオンも補給を重要だと考えていた。ナポレオンは軍団に対して、4日分のパンと4日分のビスケットの携行を命じていた。ビスケットは予備品であり、緊急時にのみ手をつけるものとされていた。ナポレオンは補給に無関心どころか、作戦指揮に響くほど補給に注意を払った。
 ナポレオンがロシアにもっていったのは、24日分の食糧だった。このうち20日分は輜重大隊によって運ばれ、4日分は兵の背中によって運ばれた。1812年にナポレオンの本隊は600マイルを進撃し、途中でスモレンスクとボロージノという二つの大戦闘をたたかったが、モスクワに入城したとき、なお兵員の3分の1が残されていった。ナポレオンのロシア侵入は十分な準備なしに開始されたのではなかった。ところが、補給部隊が四囲の環境から崩壊してしまったのだ。
 ヒットラーのソ連侵攻のとき、補給物資の大部分は1200台の馬車によって運ばれていた。ドイツ軍は、自動車を手に入れることが困難だったので、民間から徴発した。すると、自動車の種類が多くなり、予備部品が不足して動かなくなっていった。
 ドイツのロシア侵攻軍が2000種類ものタイプの車輌をつかっていたため、予備部品が100万以上も必要となった。ロシアの鉄道はドイツの軌道と同じでないため、鉄道は利用できなかった。ロシア軍のガソリンはオクタン価が低く、ドイツ軍の車輌がつかうときには、特別につくられた施設でベンゾールを添加しなければいけなかった。
 ドイツ軍は、ロシア領内深く侵入する時点で補給困難に直面していた。秋のぬかるみの中で、ヒットラー軍は崩壊した。世界でもっとも近代的な軍隊が、その攻撃の成功にもかかわらず、今や重火器の支援を受けず農業用荷車しかもっていない歩兵の小部隊に頼っていた。ドイツ軍のモスクワ占領失敗は、冬将軍の到来に原因があるという意味は修正する必要がある。ヒットラーは兵站に何の関心も持っていなかった。これでは進撃できるはずもありません。戦争の裏面を知ることができる本です。

女甲冑録(おんなかっちゅうろく)

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著者:東郷 隆、出版社:文藝春秋
 戦国の歴史の中に立ち現れた女武者たち。かの女らの一瞬の光芒、その横顔が鮮やかに描かれています。女なれど、やわか男におとるべきや。そうなんです。日本の女性は昔から男に負けずおとらず、がんばっていました。それは戦国時代でもそうだったのです。
 萌黄威(もえぎおどし)の毛引き具足、白い上帯(うわおび)を締めなし、長(たけ)なる黒髪解いて颯と乱し、金の鉢金つけた鉢巻し、薄紅(うすくれない)の衣の裾引き上げ、紅い切袴(きりばかま)というのが常山御前鶴姫の姿。それに従う女性(にょしょう)たちも、赤あり、黒あり、紅裾濃(くれないすそご)、紫革(むらさきがわ)。男がまとうても派手派手しきを、女がまとえばなおのこと華やかな30余人の女武者姿。
 紫隔子(むらさきすそご)を織付けたる直垂(ひたたれ)に菊とじ滋(しげ)くなして、萌黄糸縅(もえぎいとおどし)の腹巻に同色の鎧袖付け、三尺五寸の大太刀。箙(えびら)に真羽(まば)の矢の射残したるを負い、連銭葦毛の馬に金覆輪の鞍を置く。兜は被らず、長(たけ)に余る黒髪を後ろに打ちなびかせ、金の天冠をば頭に置いたる異形の武者が馬を馳せていく。これぞ女武者巴(ともえ)であった。
 緑の黒髪を振り乱し、鳥帽子形(えぼしなり)の兜に小桜縅(こざくらおどし)の鎧、猩々緋(しょうじょうひ)の陣羽織。重大の太刀「浪切」(なみきり)、銀の采配を携え手綱を握って大手門に登場した甲斐姫は寄手を押し返す。
 武装した女性が立っている。長い髪を後ろに束ねた童形(わわがた)で、水色の鎧直垂に古式の銅丸をまとい、男のような革包(かわづつ)みの太刀を佩(は)いている。
 いやあ、本当に勇ましい日本の女性たちです。戦国期をたたかい抜いた女たちのあでやかな姿にほれぼれとしてしまいます。
 6つの短編小説から成る面白い本です。

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