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攻防900日

カテゴリー:未分類

著者:ハリソン・ソールズベリー、出版社:早川書房
 昭和47年発行の本です。図書館から借りました。2段組み400頁で上下2冊の大部な本です。第二次大戦のとき、ヒトラーのナチス・ドイツ軍に包囲されたレニングラードの無惨な実情が、ことこまかに、これでもか、これでもかと描かれていて、読む人の気分を重たくさせます。でも、戦争って、こんなにひどいものだったんだ。そこから目をそむけてはいけないと思い、じっと耐えて最後まで読み通しました。
 安倍タカ派内閣のもとで、麻生だとか中川だとか、好戦的な連中が戦争をあおり立てています。本当に無責任な政治屋としか言いようがありません。戦争がどんなに悲惨なものか、この連中に読ませたいものです。でも、信じられないことに安倍内閣の支持率は68%だそうです。日本人には、そんなに流されるだけの人が多いのでしょうか・・・。
 この本を読むと、ヒトラーの世界征服という、とんでもない野心はともかくとして、スターリンの見通しのなさに呆れ、かつ怒りを覚えます。そのうえ、自分の非を認めず、責任を他になすりつけながら、権力保身に汲々とし、部下の将軍たちを冷酷・無情に次々と射殺していくのです。スターリンによるすさまじいばかりの粛正テロルのあとナチスに攻めこまれて大苦戦してなお、それをやり続けるのですから、まさしく狂気の沙汰としか言いようがありません。
 それでも、日本人は当時のソ連を笑ってすませるわけにはいきません。東条英機も昭和天皇も同じことでしょう。決して自己責任は認めなかったのですから。小泉前首相だって同じことです。あれだけ勇ましいことを言っておきながら、週刊誌にイタリアへ脱出か、なんて書き立てられているのです。無責任さは共通しています。こんなことを書いていると、一人でますます腹が立ってきました。あー、やだ、やだ。
 1941年6月。ヒトラーは独ソ不可侵条約を無視して、一方的にソ連領内に侵入した。スターリンは、挑発に乗るなと、その直後まで叫んでいた。つまり、まさかの不覚をとったのだ。そんな馬鹿なトップをもっていたソ連軍はたちまち崩壊させられた。
 ナチス・ドイツ軍は、ついにレニングラードを完全に包囲した。外部から食糧を搬入することもできない。レニングラードの人口は340万人にふくれあがっている。いったいどうするのか。
 最初に死んだのは老人ではなかった。若者、それもとくに少ない配給量で生きてきた 14歳から18歳だった。男は女より先にくたばった。健康で丈夫な者の方が、慢性廃疾者より先におさらばした。これは配給量の不均等の直接結果だった。12歳から14歳までの配給量は、12歳までの幼児の量とまったく同じ。1日にパン塊の3分の1、たったの200グラム。これは労働者の配給量の半分。しかし、成長期の元気な子どもは、労働者と同じ量を必要とした。若者たちが先に死んだのはこのため。配給量は男女同じで、労働者は一日パン400グラム。他の食物合計200グラム。しかし、男たちは活動的な生活をするから、もっと食糧が必要だった。それがないため、男は女より早く死んだ。
 古い皮革を煮てゼリーパテをつくったり、セルローズを煮出してスープをつくったりして、親は子どもを生きのびさせようとした。
 飢えは、性別を事実上なくした。人は性欲をなくし、性衝動が消えた。女はお化粧をしなくなった。口紅も食糧として食べた。化粧クリームはバター代わりに代用パンに塗って食べた。工場の浴場に男女の従業員が一緒に裸になって入っても、何も起きなかった。
 あとで飢饉が緩和して、配給がふえてくると、男女ともフロント・ラブ(前線愛)に芽ばえた。
 人は愛犬を食べた。さすがに自分の手では飼い犬は殺せず、知人に頼んだ。ネコも鳥も姿を消した。ネズミはドイツ軍の前線へと逃げ出した。
 闇市では人肉が売られているという噂が立った。本当かもしれないと人々は思った。食糧を貯蔵していた倉庫が焼失したあと、その土を掘り返して、売りに出された。鍋で煮出し、麻布でこして精製するのだ。
 1942年1月に餓死した市民は1日に4000人。月に12万人にもなる。レニングラードは、包囲が始まったとき、難民10万人をふくめて250万人の人口があった。 900日の包囲が終わりに近づいた1943年末、その人口は60万人だった。100万人の市民が包囲中に疎開した。また、10万人は、前線に徴兵された。すると、少なくとも、100万人が餓死した計算になる。
 その責任はヒトラーのナチス・ドイツにあるが、スターリンにも責任を分担してもらわなくてはいけない。しかし、実のところ、レニングラードが包囲を破ったあと、なんと、レニングラード包囲戦をたたかい抜いた将軍たち、そしてジダーノフやポプコフ市長などは、スターリンの毒牙にかかって、一斉に粛正(銃殺)されてしまったのだ。スターリンは自分に並ぶような英雄を許さなかった。戦争の非情さは、こんなところにまで貫徹したのです。
 恐るべきノンフィクションでした。前に紹介したスターリングラードの戦いもすさまじいものがありましたが、レニングラードの飢えとのたたかいの凄絶さには、度肝を抜かれてしまいます。

階級社会

カテゴリー:未分類

著者:橋本健二、出版社:講談社選書メチエ
 日本にも階級社会がある。日本は階級社会である。一昔前にこんなことをいうと、とんでもない変人か、あるいは極端な政治思想の持ち主とみなされかねなかった。1970年代から90年ごろにかけては、大部分の日本人が平等幻想・中流幻想にどっぷり浸かっていて、日本には階級がないというのは、とくに証明を必要としない自明の事実のようにみなされていた。
 ええーっ、そうなんだー・・・。私は驚いて、著者の年齢を急いで見てみました。1959年生まれです。団塊世代のひとまわり下というわけです。
 団塊世代の私が大学生のころは、労働者階級というのは厳然として生きた言葉でした。社会変革の原動力は労働者階級だと、私も信じて疑いませんでした。チャランポランな学生は、規律を身につけた労働者に学ぶ必要がある。先輩たちから、そう教わりました。ところが、セツルメント・サークルに入った私の目の前にあらわれる労働者は必ずしも規律正しい人ばかりではありませんでした。どこを、どう学んだらいいのか、正直いって戸惑いもありました。だから、階級意識を身につけろと言われても異和感があったのです。それにしても、日本が階級社会だというと、とんでもない変人か、あるいは極端な政治思想の持ち主だなんて、わずか10年で、すっかり世の中が変わっていたのですね。
 ところが、今や、またまた日本は階級社会だといって、何ら不思議でない状況になっている。100円ショップが急成長する一方で、高級ブランドも多くの客を集めている。「中流」の人々に支えられてきたダイエーや西友などの大手スーパーは凋落が著しい。自動車は、低価格の軽自動車とレクサスのような高級車と二極分化傾向をみせている。マンションも一般サラリーマン向けの売れ筋は4000万円台から3000万円台へ移る一方、都心にある1億円以上の高額物件の売れ行きが伸びている。
 エリート大学の入学者の大部分は高所得の家庭に育った、私立中高一貫校の若者によって占められ、勝ち組と負け組の格差は世代を超えて続いていくことになる。
 東京の下町と山の手の格差は大きくなっている。平均所得も高額所得も比率が際だって高いのは、千代田・港・渋谷の三区。ところが、墨田などの東部は低くなり、品川などの西部はほぼ現状維持。こうやって都内でも格差は拡大しつつある。
 1962年の日本レコード大賞は橋幸夫と吉永小百合の「いつでも夢を」、新人賞は倍賞智恵子の「下町の太陽」だった。それぞれ同じ題名の映画ができた。私は見た覚えがありません。この映画は、まさに当時の日本には厳然とした階級差があることを描いているのだ、とこの本は指摘しています。なるほど、と思いました。
 次に「巨人の星」「あしたのジョー」が取り上げられます。私も大学生のころ愛読しました。マンガ週刊誌の発売日が待ち遠しいほどでした。私の住んでいた大学の寮(駒場寮)では、寮生がマンガ週刊誌の廻し読みをしていました。
 この劇画原作者の梶原一騎は、東京・下町の生まれで、彼こそが常に階級にこだわり続け、上層階級を憎悪し、下層階級を擁護し、作品の中では、いつも下層階級とともに上層階級を打倒しようとし続けた、稀有な書き手だった。いやー、そうだったんですかー。ちっとも知りませんでした。なるほど、そうなんですね。愛読者の一人として、ご指摘はまことにごもっとも、と思いました。
 経済格差をあらわすジニ係数でみると、日本は、アメリカ、ポルトガル、イタリアに続いて経済格差の大きい国となっている。日本は平等な国だという一昔前の常識は、今ではまったく通用しない、いまや日本は貧困者の多い国なのである。
 フリーター、無業者層を特徴づけるのは、その下層的性格である。フリーターは、きわめて低賃金の労働者である。企業は、多くの若者たちを労働力の所有者とみなさなくなってきている。高卒者を採用しない理由にもっとも多いのは、高卒の知識・能力では業務が遂行できないから。肉体的労働力のみしか所有しない人々は、通常の労働条件のもとでは資本に収益をもたらさない。つまり、搾取不可能な労働力なのである。フリーター、無業者が増加したのは、企業が低賃金の非正規雇用労働者を広く活用する方針に転じたから。
 資本家階級の女性は4割、旧中間階級の女性は6割が、それぞれ同じ階級の男性と結婚している。つまり、結婚には階級の壁があり、同じ階級所属の者同士が結婚する同類婚的傾向がみられる。貧困化しているのは、女性たち、しかも一部の女性たちである。貧困の女性化、シングル女性への貧困の集中傾向がある。
 格差拡大を擁護する人々にとって、それを裏づける統計はない。むしろ、格差拡大の容認は人間に対する侮辱である。所得格差が拡大すると、社会的信頼感が損なわれ、連帯感や社会的結束が衰退してしまう。市場メカニズムによって形成された大きな格差を放置し続ける社会では、長期的には、人材を育成して適切に配分するメカニズムが崩壊する危機に瀕するだろう。
 人間に、人間の社会の流れを変えることのできないはずはない。労働時間の短縮こそが、そのカギである。うむむ、鋭い。何度も膝をうって、同感、同感と叫んでしまいました。

江戸八百八町に骨が舞う

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著者:谷畑美帆、出版社:吉川光文社
 花のお江戸では、水辺の屍(しかばね)は、町の風景のなかにすっかり溶けこんでいる。江戸の辻番所の規定には、池や川に死体が漂っているのを目の当たりにしても、とりあえずは届けなくてよいとなっていた。つまり、水死体は、きちんと処理しなくてもよく、たとえ見つけても、ぽーんと遠くに突き流してもよかった。ええーっ、ウソでしょう。と、言いたくなる話です。時期によるが、江戸の町は、実際、水辺を中心に死体がごろごろしていたと考えてもよい。なんと、なんと、そんなー・・・。
 江戸時代、火葬は土葬に比べて少なかった。二代将軍秀忠の正妻お江与(えよ)の方が1628年(寛永5年)に火葬され、埋葬されたのは、当時としては非常に珍しいことだった。墓が飽和状態になると、墓域全体に盛り土して、人工的に新たな埋葬地をつくりあげていた。
 町人層の人骨から骨梅毒が11.5%認められたのに対して、武家層からは3.5%だった。梅毒は江戸時代に大流行していた。杉田玄白は、年間の診療患者1000人のうち、700〜800人は梅毒にかかっていたと回想録で述べている。
 日本人の平均寿命は、1960年代までは、せいぜい50歳程度だった。19世紀までは、死産や早世などで、子どもが死ぬのは当たり前だった。人が成人まで生き残る確率は、きわめて低かった。江戸時代、死亡率全体の7割が乳幼児であった。
 江戸に出て来て白米を食べるようになると、江戸煩(えどやみ)になった。今でいう脚気(かっけ)にかかったということ。
 江戸時代の人々は義歯(入れ歯)をつかっていて、お墓にも入っていた。
 老人(60歳以上)が23%を占める墓地がある。長寿者は、地域の知恵袋として尊敬の対象となっていた。
 老人が楽しく生きられる社会は楽しい。老人が幸せに生きているということは、将来、老人になるであろう、いま壮年期を迎えた人たちにとっても、先々への不安を払拭することになるから。まことにそのとおりですよね。いつのまにか老人になるのも間近な私は、つくづくそう思います。
 江戸時代の定年は自己申告制だった。自分で仕事を続けていけるかどうかを自らで判断し、隠居願いを出した。その後の生き方を自分自身で決めていくことができた。なるほど、それもいいですよね。といっても、弁護士である私は、あまり早々と隠居したくはありません。ボケ防止のためにも、隠居は先送りするつもりです。
 江戸時代の庶民層の身長は、男性が155〜156センチ、女性では143〜145センチだった。ところが、縄文時代には、男性が158センチ、女性が147センチというのが平均だった。そして、弥生時代になると、男性163センチ、女性150センチに伸びた。古墳時代には、さらに男性163センチ、女性は152センチだった。なぜ、江戸時代に身長が低くなったのか。それは、食生活で油脂・タンパク質の摂取量が極端に少なかったからだろう。
 葛飾北斎の描く庶民の顔は、丸顔で低い鼻をもち、反っ歯の強いもの。これに対して喜多川歌麿の描く美人画に登場する人々は、細面で高い鼻をもっている。
 江戸時代、ハンセン病の治療薬として、漢方薬の大風子(だいふうし)が中国から輸入されていた。この輸入量からして、日本には50万人のハンセン病患者がいたとみられている。
 江戸時代に日本を訪れた外国人は、日本人には皮膚病と眼病を患っているものが多いと驚いている。江戸には下水道がなかった。というのも、排水のなかでもっとも大きな問題となる糞尿を下肥(しもごえ)として再利用していたから。生活排水は道にまいて地下に浸透させていた。排水として出されるものは、せいぜい米のとぎ汁くらいだったので問題とならなかった。
 江戸時代の人々の生活に改めて目を開かせる本でした。

霞っ子クラブ

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著者:高橋ユキ、出版社:新潮社
 人気ブログが単行本になったものです。手軽に、さっと読めます。中味は裁判ウォッチングです。平均年齢27歳の4人娘による裁判傍聴記なのです。
 副裁判官という言葉にぶつかり、えーっと、思いました。裁判長の左右にいる人を指しているようです。でも、副裁判官というと、なんだか準裁判官っていう感じですよね。実は、私の業界では副裁判官という呼び方はしません。
 スーパーで1394円の万引きをして正式裁判になった事件が紹介されています。本当にそんな事件があるんです。しかも、少なくないんです。そして、結果は懲役1年前後の実刑になってしまうことが多いんです。なぜかって言うと、たいてい常習だからです。所持金8000あって、600円の梨を万引きしようとして、求刑が懲役5年というケースにもぶつかっています。何億円も業務上横領した会社トップは大弁護団をかかえて争い、無罪になったりします。ホント、矛盾を感じますよね。
 裁判所や弁護士会館の地下にある食堂も紹介され、4人娘のコメントがのっています。私の大好物でもある弁護士会館地下のソバ屋のごまだれせいろウドンも紹介されています。これって、安い(580円)うえに本当に美味しいんです。ぜひ一度、食べてみてください。そして、農水省の地下食堂と売店もおすすめです。ここも安くて美味しいのです。
 法廷における裁判官、検察官そして弁護士たちの、あっ、もちろん被告人も、彼らの生態がきわめてリアルに、かつ情け容赦もなく、こと細かに紹介されています。こんな女性たちが傍聴席にいたら、気になって仕方がないでしょう。
 実際の裁判はどう進行しているのか、それを知るために役に立つ本です。

山の学校の子どもたち

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著者:長倉洋海、出版社:偕成社
 アフガニスタン北部のパンシール峡谷にある小さな山の学校の子どもたちが生き生きと学んでいる様子を紹介した写真集です。1980年からアフガニスタンを撮りつづけている写真家が標高3000メートルの山村に暮らす子どもたちの素顔を撮りました。どの子の顔も、実に生き生きと輝いています。はじける笑顔に圧倒されそうです。
 家から学校までは平均1時間。なかには2時間かけてやってくる子もいます。上流と下流の10の集落から170人ほどの子どもたちが毎日通ってきます。
 早朝の仕事を終え、朝食をとったあと、子どもたちは学校へ出かける。お母さんは、子どもと交代で放牧に行った。学校はお昼で終わる。そのあとは、放牧の仕事につく。
 朝8時から授業が始まる。校舎には窓ガラスも扉もない。たまに放牧中の牛が入ってくると、授業は中断する。教科書が足りないから、一緒に見る。椅子がないから、石を並べてすわる。
 休み時間になると、男の子たちはサッカーに打ち興じる。女の子たちは縄飛びをする。まるで日本の子どもたちを同じです。
 昼食は家からもってきたナンを食べる。学校のそばを流れる用水路の冷たい水を飲む。家で刈り入れが忙しいときには、子どもたちは学校を休んで仕事を手伝う。子どもたちも貴重な労働力なのだ。
 夕方、放牧から戻り、家畜を家に入れると、一日が終わる。
 山の学校の校舎は、戦争中は、難民の避難所としてつかわれ、学校は閉鎖されていた。この学校の机と椅子は、日本人がプレゼントしたもの。日本人のボランティアがここでも活動しているんですね。
 パンシール峡谷というと、ソ連軍がアフガン・ゲリラによって待ち伏せ攻撃などを受けて苦戦したところ、というイメージがあります。写真でみると、パンシール峡谷って本当に美しい地方のようです。でも、戦争のため、子どもたちの身内の多くが殺されているという現実もあります。
 アフガニスタンの山に住む子どもたちの様子を知ることができる素晴らしい写真が沢山あります。

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