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石斧と十字架

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著者:塩田光喜、出版社:彩流社
 パプアニューギニア・インボング年代記というサブ・タイトルがついています。今から20年前に2年間、日本人民俗学者としてパプアニューギニアに滞在して見聞したことをまとめたものです。
 その後20年たって、現地はずい分と変わっているのでしょうが、20年前のパプアニューギニアのことを知ることができます。それは現代日本人の私たちにとっても決して無意味のものだとは思えません。実に偶然のことですが、私が毎週かよっているフランス語教室で、パプアニューギニアで何年間か生活した女性が自分の体験記を本にしてベストセラーになったドキュメンタリー番組を見ながら会話の練習をしました。文明人として「未開の地」の生活の実際がどんなものなのか興味をもつのは、洋の東西を問わないのです。
 誰に対しても愛想よくふる舞わねばならない。それは、たった一人、客人として異人種の中で暮らしていかねばならない、しかも人々から心を開いてもらわなければならないフィールドワーカーである私に課せられた鉄の規則の第一条だった。
 ニューギニア高地には、生き馬の目を抜く厳しい生存の法則が存在する。ぼーっとしていてはいけない。村の中にも敵がいる。善良な人々だけと考えるのは幻想にすぎない。
 インボング族の食事は2回。朝、サツマイモを食べ、夕方も焼いたサツマイモを食べる。インボング族にはお湯を沸かす習慣がなかった。土器文化の育たなかったニューギニア高地では、飲み物は常に生水だった。人は土器なしでは湯を沸かすことができない。人々は湧き水を直接のむか、竹かひさごの器に入れて飲むか、いずれにしても生水を飲むのが常だった。白人が入って30年たっても、水をわざわざ湧かして飲む者はほとんどいなかった。しかし、著者は、生水と生肉は絶対に口にしてはいけないと厳しく注意されていた。肝炎にやられるからだ。
 インボング族においては、自然死や単なる病死は存在しない。人が死ぬのは、霊魂が神々の敵に及ぼした打撃の結果である。だから、病気の治療は、病気をもたらした相手を突きとめ、それに対して、その攻撃を止めさせる手を打つことにある。インボング族には、病気をもたらした相手を探す術がいくつもあり、その結果に応じて、攻撃を止める手段がいくつかに分かれる。
 インボング族は白人がやってきて、急に貧乏な立場へ叩き落とされた。白人たちは真珠母貝をたくさんもってきて、ブタ一頭と交換した。インボング族には、誰かの命令のもとに、共同で労働するという習慣はなかった。それを白人が銃の力を背景に強制したのだ。
 怒った子どもが実の父親の眉間を狙って石を投げつけた。その詫びに1000円を父親に渡し、父親もそれを収めて納得するということがあった。贈与や互酬が社会の精神として徹底するということはそこまで行くということなのだ。互酬が社会の精神として関係を支配するところでは、一般に権威というものは発達しない。各個人を超越してその上に立つ全体なるものも、個がその中に抱かれて安らう東洋的共同体の制度理念もここにはない。全体を人格として代表する権威者は現れえないのである。このため、伝統というものは、拘束力あるものとして、個人の上に君臨しえない。そして、権威の不在は、葛藤を暴力へと発散させる絶えざる傾向をうみ出す。だから、部族間の戦争が今でも勃発する。
 暴力が、この連鎖の上を流れることを止めさせる唯一の回路が賠償という贈与行為である。賠償が無事にすまされ、今度は両当事者が互いに対する贈与の連鎖の上を進んでいくなら、友敵関係は逆転する。暴力と互酬の、この等価で無媒介な反転可能な直接こそ、ニューギニア高地社会に権威と支配の発生を排除し、緊迫した新石器的自由と平等を成立させているものである。
 ちょっと難しい表現ですが、自由は戦争をもたらすものであるようですし、また、それを「お金」で解決することもできるということのようです。
 著者は、現地に総額30万円で人類学者と宣教師とは商売敵(がたき)、もっと厳しい言葉をつかうなら、天敵の関係にあるとしています。
 ここは一夫多妻制。夫はどの妻にも満遍なく愛を注いでやるというのが建前だが、現実には、若い方の妻、よく肥えた方の妻に心を傾けがち。一人でも多くの子どもを欲しがる夫にとって、閉経した妻は魅力が薄い。
 男に甲斐性があれば、女を何人めとろうが、文句を言われる筋合いはない。女を多く持つこと、そして子どもを多く持つこと、そして子どもを多くもてばもつほど、その男の名声が上がっていくのがインボング社会の仕組みである。その男の財力と男としての勢力を雄弁に示す標(しるし)であり、ものにした女の数は男の勲章なのだ。それが、この社会で尊敬される指導者となる必要条件でもある。
 そこで、一夫一婦制を説き、一夫多妻の慣行を神の名のもとに弾劾するキリスト教の教えは、夫の愛を失った妻たちにとって強い心の支えとなってくれる。キリスト教は現世の愛、肉の愛を失った女たちを通じて、インボング族のなかにとうとうと流れこむ。キリスト教が土着化しているようです。キリストとの出会いを語る女性説教師が登場するのに驚きました。キリスト教は現地社会にしっかり根をおろしています。
 インボング族は、足跡を見ただけで、誰かを言い当てることができる。インボング族の足は少年のころから大きく発達し、それぞれに個性的だ。とりわけ親指が大きく張り出している。村の子どもたちは、たいてい裸足だ。
 なーるほど、と思った本でした。500頁もある大部な本ですが、写真もあって大変わかりやすく、最後まで面白く読みとおしました。

心臓にいい話

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著者:小柳 仁、出版社:新潮新書
 心臓は、自ら音を出す唯一の臓器である。私たちの意思とは無関係に、定期的に音が聞こえているような臓器はほかにない。
 心臓は、安静時で1分間に70回拍動し、1回ごとに出ていく血液は70ミリリットル。最低でも毎回10万回も収縮をくり返し、7000リットルもの血液を全身に送っている。心臓から流れ出た血液は、30秒ほどで全身をめぐって再び心臓に戻ってくる。えーっ、そんなに早く血は身体中をめぐっているんですかー・・・。
 日本では、現在、30万人がペースメーカーをつかっている。
 ニトログリセリンに血管拡張性があることが分かった。ニトログリセリンには冠状動脈を広げる効果がある。私の依頼者にもニトログリセリンを持ち歩いている人が何人もいます。舌下錠です。心臓に激痛が走ったとき、舌下に1錠入れて10〜20分で効果があります。逆に30分たってもまだ苦しくて、2錠目が必要になるかどうかで、狭心症なのか心筋梗塞に向かいつつあるのか区別できる。そうなんですかー・・・。
 心臓は許される虚血時間が短い。4時間しかもたない。4時間のうちに血流を再開して、真っ赤な血を流してやらなければ、その心臓は蘇生しない。これに対して、肝臓は12時間、肺は8時間、腎臓では24時間の虚血時間に耐える。
 心臓移植をして、20年以上も生活している人がいる。現行の人工心臓の耐用期間は、長くても2〜3年。現在、人工心臓によって生命を維持している人は、日本国内に20〜30人ほど。
 心臓にとって、たばこは厳禁。ニコチンを注射すると、冠状動脈は攣縮してしまう。タバコは心臓にとって、百害あって一利なし。
 健康な心臓にとって、ストレスは必ずしも大きな問題ではない。真夜中から午前中にかけて心臓発作が起こりやすい。睡眠中には脳からの指示がないから。昼間のストレスを受けながら活動しているときには、心臓は元気よく働いてくれる。
 死ぬまで休みなく働いてくれる心臓がいとおしくなってくる本です。

アップ・カントリー

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著者:ネルソン・デミル、出版社:講談社文庫
 なんと1968年のテト攻勢をメイン・テーマとする現代アメリカ小説です。驚きました。実は、私も同じ1968年を扱った小説を書いていて、この年に何が起きたかについて調べていますから、よく分かります。
 1968年2月のテト攻勢は、私が大学1年生のときに起きました。本当に驚きましたよ。だって、サイゴン(現ホーチミン市)のアメリカ大使館が「ベトコン」の決死隊によって占拠されてしまったのですから。アメリカ万能ではないことを全世界に知らしめた画期的な事件でした。ベトナム戦争で戦死したアメリカ兵は5万8000人。ワシントンにある長く延々と続く壁に、その氏名が彫り込まれていて、観光名所にもなっています。
 1968年は、アメリカが最大の死傷者を出した悲しみの年だ。テト攻勢、ケサン攻囲戦、アシャウ峡谷の激戦など。私も、リアルタイムで聞いていました。
 1968年は、またマルチン・ルーサー・キング・ジュニア牧師とロバート・ケネディ大統領候補の暗殺があった年でもある。そして、アメリカでも日本でも大学紛争があり、アメリカでは都市暴動まで起きている。
 このテト攻勢のさなか、アメリカ軍の中尉が大尉に殺されたのを一人の「ベトコン」兵士が目撃した。その状況を書いた手紙が30年たって発見された。この目撃者を調べてほしい。こんな依頼を、陸軍犯罪捜査部を退役した元准尉が、かつての上司から受けることから話は始まります。そして、ベトナム各地を、かつてのアメリカ陸軍第一騎兵師団の兵士として戦闘に従事した思いを抱いて歴訪します。ベトナム戦争の惨状が記憶に生々しくよみがえってきます。読者は、当然のことながら、ベトナム戦争を追体験させられます。実にすさまじい戦争でした。
 アップ・カントリーというのは、田舎のほう、という意味のようです。ベトナムにいたアメリカ兵がマリファナなと薬物に手を出していたことはよく知られていますが、軍事物資の横流しや文化財の持ち出しなどの犯罪も横行していました。この本は、30年前の犯罪が今も問題となることがあることを明らかにしています。それはアメリカ大統領選でケリー候補の軍歴が問題になったことでも明らかです。
 700頁もある分厚い文庫本で上下2冊の本です。長崎の福田浩久弁護士よりすすめられて読みはじめました。実は、今月末から6日間、ベトナムへ旅行するつもりなのです。大学生時代、ベトナム戦争反対を叫んで何度となく集会やデモ行進に参加していたものとして、また、ベトナム関係の本をたくさん読んだものとして、ベトナムにはぜひ一度行ってみたいと思っていました。

トンマッコルへようこそ

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著者:チャン・ジン、出版社:角川文庫
 博多駅そばの小さな映画館で映画をみてきました。韓国で800万人が笑って泣いた映画だとオビにかかれていますが、まさしく笑えるシリアスな映画です。感動大作というより、心あたたまるファンタジー映画という感じです。といっても、朝鮮戦争を扱っていますから、「JSA」「シュリ」「シルミド」「ブラザーフッド」ほどではありませんが、戦闘場面も出てきます。でも、どこか、ほのぼのとして、とぼけた雰囲気なのです。
 流れるテーマ音楽もぴったりなのですが、どこか聞いたような気がするなと思っていると、日本人の作曲で、あの宮崎駿監督の映画でテーマ音楽を作っている人でした。道理で、よく雰囲気が似ています。
 ときは朝鮮戦争のまっ最中。トンマッコルという山奥の村に、北へ脱出しようとしている、いわば敗残兵の人民軍兵士3人がやってきます。そして、南の韓国軍の脱走兵も2人流れてきます。そのうえ、偵察機が墜落してしまったアメリカ海軍大尉までやってくるのです。ところが、外部と途絶した生活を送っている村人は戦争が起きていることを知りませんし、武器のことにもまったくの無知です。鉄砲は長い棒でしかありませんし、ヘルメットは洗面器を逆さにして頭にかぶっているものに見えています。
 知恵遅れの少女が村の内外を自由奔放に飛びまわっています。この少女の笑顔が、また実に素晴らしいのです。純粋無垢を体現するかのように輝いているのです。
 村長が、村人を見事に統率している秘訣を尋ねられ、次のように答えます。腹いっぱい食わせることだ、と。なーるほど、ですよね。飽食と一般に言われている今の日本でも、餓死者が出ているんです。生活保護を受けられずに餓死する人がいるんですよ。
 私の依頼者にも、まともに食べられずにいる人は少なくありません。せいぜいコンビニ弁当かスーパーのタイムサービスで半値になった食品を買ってしのいでいる人が何人もいます。飽食日本とばかりは言えない現実があるのです。
 映画館のパンフレットによると、太白山脈の山奥に廃村となった土地を探しあて、  5000坪の広さの土地に理想郷トンマッコルを2億円かけてつくりあげたそうです。なーるほど、すごいものです。俳優の顔も実に生き生きとしています。
 それにしても、1950年代、同じ民族同士で殺しあったという戦争がひきずるものは、本当に大きいんだなと、つくづく思いました。

東アジアのなかの日本古代史

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著者:田村圓澄、出版社:吉川弘文館
 女王卑弥呼の政権を支えたのは、女王卑弥呼が祭る「神」ではなく、「異国の皇帝」であった。魏の皇帝の支持と援護を失うならば、卑弥呼は、倭の女王であることはできなかった。女王卑弥呼は巫女(みこ)であった。卑弥呼は神権政治を行って以降、その姿を見る人は少なくなっていた。
 倭は尊卑の差序によって区分される、身分社会であった。大人ー下戸ー奴婢の3階層に大別できる。3世紀の倭の「クニ」は、邪馬台国の女王卑弥呼の支配下にあったが、しかし、女王卑弥呼が支配する倭は、倭の一部だった。
 実在が確認できる最古の倭王と考えられる応神大王(天皇)はいうまでもなく、架空の存在とみられる第一代の神武大王にはじまり、以後のすべての倭王は自己の宮をもち、その宮に住んでいる。この一大王一宮の制度・慣行は、古代中国の各皇帝、朝鮮半島の各王朝においては見られない。倭王のみに固有の制度・慣行だった。同一の宮が、2人またはそれ以上の倭王によって住居として使用されていた例はない。「古事記」では、33代の推古大王まで、「日本書紀」では39代の天武天皇まで、ひとりの例外もなく一倭王一宮の慣行を厳守している。それを打ち破ったのは、天武天皇の飛鳥浄御原宮(あすかきよみはらのみや)の出現である。倭王の宮は、もともとは神を祭る場であった。そうだったんですか・・・。認識を新たにしました。
 倭の大王の即位は、群巨の衆議による。そうだったのですか・・・。現大王が次の大王を指名して自動的に決まるということではなかったのですね。
 太宰府設置以前の筑紫には、太宰府と同類の役所は存在しなかった。太宰府は、来日する新羅使を上陸第一歩の筑紫の地において、「蕃国」の客としての賽礼で送迎する官衙(かんが)であり、701年(大宝元年)に制定された大宝律令によって設置された。
 太宰府が設置されるころの日本の情勢もよく分かる本です。
 北部九州の山に、開創者が海の彼方の人であるとする山がある。英彦山は魏の善正、雷山(前原市と佐賀郡との境にある)は天竺の清賀、背振山は天竺の徳善大王の十五王子とする。これは、渡来系の集団がこの山に定住していたからではないか。うむむ、そうだったのでしょうか。でも、天竺って、インドのことじゃなかったかしらん・・・。
 蘇我馬子は崇峻(すしゅん)大王を公開の場で殺害したが、誰もとがめることはなく、かえって当然視された。非は崇峻大王にあると当時の人々は考えていた。
 当時の倭王には「倭王の軍」はなかった。倭王が指揮・統率する「国軍」は存在しなかった。ムスビノ神の祭祀を本務とする倭王が、軍事力とかかわりをもたなかったのは、当然といえる。
 隋の煬帝が無礼だと考えたのは「日出る処」と「日没する処」との対比の箇所ではない。問題は「天子」にあった。天子はただ一人であり、隋の皇帝である煬帝であった。煬帝意外に天子はありえない。天命にそむく倭王の大王は許せなかった。
 聖徳太子の「太子」は倭の制度にもとづくのではなく、仏教経典に根拠をもつ名称である。「天皇」制の成立以前において「太子」が存在する理由はない。「摂政」を厩戸王の史実とすることにはためらいがある。聖徳太子は実在していたのか、著者も疑問を投げかけているようです。
 たまには、日本の古代史をふりかえってみるのも大切だと思いました。だって、いま、女性天皇を認めるかどうか大騒ぎしているわけですからね。私は天皇制なんて早いとこ廃止したほうが、みんなのためだと思います。だって、雅子さんがなんであんなに毎週のように週刊誌でバッシングされなくちゃいけないんですか。可哀想じゃないですか。あれも、改憲勢力が、女性天皇なんか認めたら日本はとんでもないことになるんだと警告するために叩いているのだそうです。支配層、実は権力を握った一部の人間の道具にすぎない天皇って、ホント、哀れなものなんですね。週刊誌の見出しを眺めるたびに、そう思います。天皇一家には基本的人権は保障されていないし、権力を握る連中には社会的常識も通用しないんですね。

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