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闘魂

カテゴリー:日本史(戦後)

著者:堀江芳孝、出版社:光人社NF文庫
 硫黄島。小笠原兵団参謀の回想というサブ・タイトルのついた本です。1965年(昭和40年)に書かれています。
 著者は陸軍士官学校を卒業し、連隊旗手となり、陸軍大学を卒業後、連絡参謀、第31軍参謀そして小笠原兵団参謀を歴任します。硫黄島参謀として、栗林忠道中将とともに硫黄島守備計画をたて、そのあと派遣参謀として父島で終戦を迎えて、日本に生還しました。陸軍少佐です。
 第二次大戦の激戦地として硫黄島が必ずあげられる理由の一つに、筆の力があると著者は指摘しています。
 硫黄島には詩人がいた。歌人がいた。作家がいた。その筆の力も見落としてはならない。誰であろうか。栗林兵団長その人である。彼が大本営に打電(父島を経由した)した一字一句は、それも刻一刻死期迫る洞穴の中で、ローソクの火を頼りに独特の細いこまかい字で綴った報告は、世界一流の文字でなくて何であろう。
 私も、なるほど、と思いました。
 硫黄島には、1944年6月ころ、1150人ほどの島民がいた。それを7月に3回にわけて内地へ引き揚げさせた。
 栗林中将の死について、著者は次のように書いています。
 常時側近に行動していた下士官の話によると、3月17日夜の出撃時に脚に負傷して行動が不自由となり、3月27日朝、高石参謀長、中根参謀とともに自決した。これが真相のようだ。
 この本を読んで驚くのは、日本軍が栗林中将の死亡のころに3000人いて、5月中旬ころも1500人ほどが硫黄島の荒野を潜行していただろうと書かれていることです。日本軍捕虜は1,125人でした。
 生き残った人たちの手記が紹介されています。いずれも鬼気迫るものがあります。
 死ぬまで祖国を思い、陛下の万歳をとなえて死んでいったのである。かわいい妻子を捨て、家を捨て、国家のために殉じたものではないか。戦いは一国を支配する特権階級と他の国の特権階級との間の争いではないか。われわれ将兵は使役に駆り出されたに過ぎないのだ。日本国民は、こぞって戦没者の霊に捧ぐべきものは捧ぐべきではなかろうか。
 映画「硫黄島からの手紙」を見ました。アメリカ人がつくったとはとても思えない出来ばえでした。こうやって戦争のなかで有為の人材があたら失われていったんだなと万感胸に迫るものがありました。この人たちのおかげで今の平和な日本があります。戦前の反省を生かした日本国憲法を子や孫のためにも守り抜かなければいけないと改めて強く思ったことでした。
 本日(12月28日)で、御用納めとなります。この一年のご愛読を感謝いたします。新年もどうぞ引き続きお読みください。書評を分類分けして検索できるようにしました。仙台の小松亀一弁護士の提案によるものです。ご活用をお願いします。
 みなさん、どうぞよいお年をお迎えください。

清冽の炎 第2巻・碧山の夏

カテゴリー:日本史(戦後)

著者:神水理一郎、出版社:花伝社
 この本を読んだ読者が出版社に送った愛読者カードをまず紹介します。
 いつかセツルメントの体験者の本が出ると待ちわびていました。1974年から4年間、私はF市で学生セツルメントをやっていました。セツル用語でいうOSです。時代はちょっと違いますが、懐かしいです。あれから30年。今でもOSをセツラーネームで呼びあっています。今後も続けて書いて下さい。
 この本は、サブ・タイトルで1968東大駒場とあるように、1968年の東大駒場での出来事が描かれています。6月、安田講堂を占拠した学生を排除するために機動隊が導入されました。当局の一方的な機動隊導入に東大の学生が安田講堂前で6000人大集会を開きました。
 この第2巻は、その続きとして7月1日から始まります。東大駒場では大教室(900番教室)で何度も代議員大会が開かれ、激しい議論が続いたうえ、ついに無期限ストライキに突入することになりました。
 セツルメントは夏は合宿の季節です。奥那須の山奥深くにある三斗小屋温泉にセツラーが50人ほども4泊5日で合宿し、徹底的に議論しました。夜は闇ナベ、昼はハイキングもあります。人生を語りあう、楽しくも厳しい夏合宿です。路線の対立も表面化してきます。社会をどうとらえるか、将来、自分のすすむべき進路はどうするか、さまざまに心が揺れ動くなか、恋愛を語ります。
 若者サークルにやってくる青年労働者のなかには会社からアカ攻撃を受け、脱落していく人も出てきます。単に真面目に勉強したいと思っても、左翼思想に染まったと会社から思われると排除されていく苛酷現実が彼らを待ち受けているのです。
 9月に新学期が再開してもストライキは続行中。闘争の獲得目標がみえにくくなっているなかで、全共闘はバリケードストライキへ戦術をアップさせようとします。それではかえって学生の団結が損なわれ、闘争勝利は難しくなると反対する力が一段と強まり、ノンセクト学生がクラス連合を結成します。
 セツルメントの地域の実践とは何か、1968年の東大闘争はどのように進行していったのか、著者渾身の大作第2弾です。ぜひ買って読んでやってください。
 第3巻は1968年10月、11月を取り上げます。10.21沖縄闘争、11.22全国学生1万人集会と、そして東大と全国の学園闘争は、いよいよ大きく盛り上がります。
 第4巻は12月、1月そして第5巻は2月、3月と続きます。そのあとは、登場人物の数十年後の現在を描いた第6巻が予定されているのです。
 ところが、第1巻はさっぱり売れず、第2巻の売れ行きも芳しくはありません。 どうぞ、みなさん第6巻の完成が実現するよう応援してください。よろしくお願いします。

JALの翼が危ない

カテゴリー:未分類

著者:安田浩一、出版社:金曜日
 ボーイング777のエンジントラブルが相次いでいる。故障したエンジンは、アメリカのプラット&ホイットニー社製のPW4000シリーズ。製造工程でミスが起きた欠陥エンジンだった。
 これを、一斉に取りかえるのではなく、部品不足から、程度の悪いものから交換していった。これはJALだけではなく、ANAも同じこと。
 ハイテク自慢の最新鋭機といっても、ハイテクは安全を主眼においてはいない。あくまでコストダウンのため。乗員の数を減らして人件費を圧縮することにある。コンピューターの導入によって、パイロットの訓練時間を減らした。これによって、パイロットの賃金も減らした。
 そして、整備士を大幅に削減している。1994年に国内大手3社で8000人いた整備士が、2005年には、なんと5000人にまで減っている。そのうえ、JALもANAも整備の外注化を進めている。今や自社整備は全体の3割にすぎない。外注化の先は、中国・アモイのテコ社とシンガポールのサスコ社だ。国内で整備するより3分の1の費用ですむ。
 両社の整備不良が目立っている。そこでは整備は単なるビジネスでしかない。日本の10分の1という安価な労働力をつかって工場の流れ作業のようにすすめられていく。
 1994年までは原則として自社整備だった。それが規制緩和の流れのなか、航空法が改正され、整備も海外に委託できるようになった。
 飛行機が飛行場に着陸して離陸するまでの飛行間点検については、これまで整備士が2人でしていた。しかし、今は1人のみ。しかも、30分しかない。整備士が故障箇所を見つけたとき、管理職が、「あいつはなんで余計なものを見つけたんだ。定刻に飛べなくなるじゃないか」と怒った。ええーっ、そんな・・・。本当に怖い話です。
 さすがに政府専用機だけは、そんな話とは無縁です。マニュアルの整備項目以上の完璧な整備が尽くされている。
 JALが危ないというタイトルですが、ANAの方がもっと危ないという指摘もあります。JALはANAの水準にまで下げつつあるというのです。ANAの労組は御用組合となって、利益本意の経営陣をチェックする力をもっていないというのです。おーこわ。ブルブルっと震えてしまいます。
 JALのパイロットは合計2400人。そのうち140人が健康上の問題で飛べない。在職者の平均死亡年齢は、なんと43歳。パイロットは短命というのは事実のようだ。
 そこで、JALグループは、外国人パイロットを300人も雇っている。パイロット不足を外国人で補う方向にある。
 スカイマークについても紹介されています。ひどいものです。公共性(安全性)は二の次だと社長は高言しているのです。整備不良のまま9ヶ月も飛行機を飛ばしていた事実が指摘されています。安ければ安全は保障しないのは当然だというのがスカイマークの経営陣のモットーのようです。間違っていますよね。
 私の身近に飛行機には絶対乗らないという人が何人もいます。そんな人は、この本を読むと、ますます乗る気がしないでしょうね。でも、私のように月に2、3回は乗る人間にとっては、安全の確保こそが第一番にしてほしいことです。値下げサービスの前に、やっぱり安全ですよ。お願いします。

西海の天主堂路

カテゴリー:未分類

著者:井手道雄、出版社:新風舎
 久留米にある大きな病院の理事長兼病院長として活躍してこられた著者は、病を得て 2004年7月に亡くなられました。この本は、著者が生前書きためていた天主堂めぐりの紀行文を、その妻が整理して単行本にしたものです。長崎、佐賀、熊本など、九州西北部にあるキリスト教の教会を歴訪し、写真つきで紹介されています。旅行記としても、またキリスト教の歴史についても貴重な読みものとなっています。
 長崎県に生月島がある。いま生月島のカトリック信者は250人。ところが、ほかに1000人ほどの隠れキリシタンが今もいる。キリスト教から次第に土俗化し、先祖が信仰してきた教えを守り続けているだけなのだろう。キリシタンの暦は守っても、祈る内容には現世利益を願う意向が強い。自らを古(ふる)キリシタン、旧キリシタン、納戸神と称した。五島列島では、元帳や古帳ともいう。
 同じく長崎県の馬渡島にも隠れキリシタンがいた。葬儀のときは、仏式の葬儀のあと、見張りを立てて改めてキリシタン式の葬儀を行った。また、祈りや集会などのときにも、番人を立てて常に見張り、警戒を怠らなかった。
 唐津藩のほうでも潜伏キリシタンであるとはうすうす気づいていたが、僻地ではあるし、検挙すると逆に宗門改め不行き届きで幕府より咎められるので、知らぬふりをしていた。潜伏キリシタンの島民は宗門改めの絵踏みのときには拒まず、島に戻って神に謝罪の祈りを捧げていた。
 五島列島にも多くの潜伏キリシタンがいた。五島藩は、江戸時代には藩の経済上の問題もあって、見て見ぬふりをしていた。しかし、幕末から明治初期には、長崎の「浦上四番崩れ」と同じように、五島各地で「五島崩れ」と呼ばれる激しいキリシタン弾圧が繰り返された。
 明治元年のキリシタン人別調べのとき、多くの潜伏キリシタンが堂々と信仰宣言をした。200人以上もの人々が飢えと寒さのなかで拷問を受けた。
 久賀(ひさか)島の潜伏キリシタンは、190人も捕まり拷問を受けている。そのうち72人が20歳以下であり、10歳以下も45人いる。1歳の幼児までいた。
 福江島では、今でも町の野外放送で教会のお知らせが放送されている。ここでは、日常生活が教会を中心に動いている。
 実は、五島は32年前に私が弁護士になったとき、日教組への刑事弾圧事件が起きて弁護人として派遣された思い出の地です。弁護士になってすぐのことで、まだ弁護士バッジも届いていませんでした。警察へ面会に行くときにバッジは不可欠ですので、先輩弁護士のバッジを借りて出かけました。中学校の体育館に日教組の組合員が200人ほど集まっているところで挨拶させられました。まったく経験もなく、労働法も刑事訴訟法もよく分かっていない弁護士ホヤホヤの私でしたから、今考えても冷や汗一斗の思い出です。ともかく、お魚の美味しかったことだけはよく覚えています。
 この本を読んで最大の驚きは、久留米の大刀洗町今村に多くの潜伏キリシタンがいたということです。大刀洗というと、なにしろ筑後平野のド真ん中ですので、長崎のような離れ小島とは違います。
 16世紀公判から17世紀初めにかけて、福岡県南部の筑後地方つまり、久留米、柳川、今村、秋月、甘木に多くのキリシタンがいた。もっとも教会堂が多かったときには、久留米に二つ、柳川は一つ、今村に一つ、秋月に二つ、甘木に一つの教会堂があった。
 1605年(慶長10年)には、久留米から秋月に至る地方に8000人のキリシタンがいた。いまの筑後地方のカトリック信者の総数は2900人でしかない。当時のキリシタンがいかに隆盛であったか、よく分かる。
 今村の潜伏キリシタンは、仏教とを装いながら、祈りや教会暦を正しく継承し、純粋にキリシタン信仰を保ってきた。
 なーるほど、そういう歴史があったのですね。きっと、これも筑後藩大一揆の一つの要因となっていたのでしょうね。人民、おそるべし、です。

藤沢周平未刊行初期短編

カテゴリー:未分類

著者:藤沢周平、出版社:文藝春秋
 藤沢周平が作家としてデビューする前、昭和37年(1962年)から39年(1964年)まで「読切劇場」など。月刊誌に短編時代小説を書いていたのが発掘されました。藤沢周平は36歳、娘が生まれ前妻が死亡するころの小説です。
 そのころの心境を、藤沢周平は知人への手紙に次のように書きました。
 人生には、思いもかけないことがあるものです。予想も出来ないところから不意を衝かれ、徹頭徹尾叩かれて、負けて、まだ呆然とその跡を眺めているところです。・・・
 悲しみに打ちひしがれ、自殺もできない状況のなかで、藤沢周平は執筆活動をすすめていきました。藤沢周平が新人賞を獲得したのは、それから7年後の昭和46年(1971年)春のことです。
 この本で紹介される短編小説は、なるほど同じ作家の手になるものだけあって、登場人物と時代背景の描き方は、やはり藤沢周平の小説という気がします。ただ、なんとなくまだ荒削りの感もしましたが・・・。しっとり感がまだ少し薄い気がします。
 先日、山田洋次監督の映画「武士の一分」を見ました。藤沢周平原作の映画化三部作の完結篇です。江戸時代の藩政治の不合理のなかでも、夫婦愛に生きる下級武士の生きざまがよく描かれていると思いました。涙もろい私などは、ついつい涙腺が閉まらず、困りました。それなりに観客は映画館に入っていましたが、興行的に成功するのかどうか危ぶまれます。みなさんも、ホームシアターではなく、ぜひ映画館に足を運んで、大きなスクリーンで暗いなか、じっくり映像を見入ってくださいね。
 庄内の方言の柔らかさ、優しさもいいですね。福岡弁も悪くはないと思うのですが、胸にゆっくり泌みこんでくるような庄内言葉は、聞く者の胸のうちをほんわかした気分に浸らせてくれます。
 12月半ば、11月に受けた仏検(一級)の結果を知らせるハガキが届きました。もちろん不合格です。問題は得点です。合格基準点98年のところ、69点でした。あと30点も足りません。120点満点で、やっと5割に達したところです。8割以上とらないと合格しないというハードルは、今の私にとってあまりに高いものがあります。
 実は、自己採点では、なんと75点をつけていました。6点もサバを読んでいたわけです。これまでは、1点か2点くらいの差しかなかったのですが、ついつい自分に甘く見てしまったようです。反省、反省と念じてしまいました。
 この12月に58歳になりました。えーっ、そんなに生きてきたの・・・、という感じです。20歳になったのが、ついこのあいだ。弁護士になったのは昨日のように思えるのに、いつのまにやら弁護士生活も32年たちました。大局的な直感はかなり冴えてきたと本人は思っているのですが、具体的な法律条文とその解釈については、ますます心もとない限りです。いつも身近にいる若手弁護士に教えを乞っている有り様です。

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