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司法改革

カテゴリー:司法

著者:大川真郎、出版社:朝日新聞社
 日弁連の長く困難なたたかい。こんなサブ・タイトルがついています。読むと、なるほど司法改革とは日弁連にとって長く困難なたたかいであったことが、ひしひしと伝わってきます。
 著者は元日弁連事務総長です。その交渉能力は卓越しています。一癖も二癖もあり、それぞれ一家言をもつ副会長によって激論となり、難行することもしばしばの日弁連正副会長会を見事に取り仕切り、理事会や日弁連総会で熱弁をふるって全国の弁護士を何度も黙らせ(いえ、心服させ)ました。稀代の名事務総長と言えるでしょう。
 近年のわが国の改革は、政治改革(見事に欺されてしまいました。小選挙区制になって日本の政治は決定的に質が落ちてしまいました)、行政改革(省庁再編って、何の意味があったのでしょうか)、税制改革(たしかに、大企業と金持ち優遇税制に大きく変わりましたね)など、すべて政府がすすめた改革であった。しかし、司法改革だけは、日弁連が初めに提唱し、行動に立ち上がった改革だった。
 それは、「2割司法」とまで言われるほどの国民の司法離れを直視することにはじまった。裁判件数が減っていた。
 ところが、福岡県弁護士会が大分県弁護士会とほとんど一緒の時期に始めた当番弁護士制度が弁護士会の体質を変えた。それは国民のほうに弁護士会が一歩足を近づける取り組みだった。やがて、この当番弁護士制度には、裁判所・検察庁そして警察も協力するようになっていった。
 日弁連では、正副会長会、理事会、総会などにおける民主的討議を経て、合意が形成される。そして、その前提として、ほとんど、専門の委員会で調査・研究・討議されてできあがった案が日弁連正副会長会に出され、そこで承認されると、理事会にかけられる。理事は単位会の会長を兼ねることも多く、その出身会での議論をふまえて意見を述べ、裁決のとき賛否を表明する。このように日弁連は官僚組織と異なり、下からの討議を積み上げて合意を形成していくのを基本とする。毎月の理事会は2日がかり、正副会長会のほうは毎週のように開催され、徹底的に議論します。これは私も一年間ほとんど東京に常駐して体験しました。膨大な資料の山と格闘しながらの討議です。もちろん、議題によっては関係する委員会の担当者にも議論に参加してもらいます。
 この本には、福岡選出の日弁連副会長が何人も登場します。西山陽雄、森竹彦、国武格、前田豊副会長です。なぜか荒木邦一副会長の名前が抜けていて、惜しまれます。
 司法修習生の修習期間を短縮するのを認めるのかどうか、日弁連で大激論となりました。私は今でも2年修習が本来必要だと考えていますが、時の流れが短縮化にむかっていました。司法予算を増やさないなかで司法試験合格者を増やすというのですから、必然的に修習期間を短縮せざるをえません。
 司法制度改革審議会が設置されたのは1999年(平成11年)7月。小渕内閣のとき。このような審議会をつくるのを決めたのは橋本龍太郎内閣のときのことだった。日弁連から、中坊公平元会長が委員として加わった。事務局にも2人の弁護士が入った。日弁連が内閣の審議会の運営にかかわったのは前例のないことだった。
 2002年2月、合格者を年間3000人とする中坊レポートが発表され、弁護士会内に激震が走った。なにしろ、当時は、年間1500人増を認めるかどうかで激しい議論をしていたのだから、その2倍の3000人なんて、とんでもないという雰囲気だった。
 久保井会長は、日弁連にとって重い数字であるが、反対するわけにはいかないと述べた。 日弁連は、このころ司法改革を求める100万人署名運動に取り組んでいた。結果的には、なんと260万人の署名を集めることができた。
 2000年(平成12年)11月1日に開かれた日弁連臨時総会は荒れた。午後1時から始まり、夜10時までかかった。執行部案に反対する会員が議長の解任決議を求め、壇上にかけあがって議事の進行を阻止しようとまでした。このときの裁決は賛成7437、反対3425で執行部案が承認された。
 ここに、法曹人口は法曹三者が決めるのではなく、社会の要請にしたがって決めるという新しい枠組みがつくられた(確認された)。そして、ロースクール(法科大学院)についても前向きにとらえることになった。
 最終意見書が発表されると、その具体化のために11の検討会が設置された。これにも日弁連は積極的に関わった。
 司法改革は今、一応の制度設計を終わり、実行段階に入っています。いろんな分野で一斉になされるため、まだまだ細かいところが決まっていないというところもあります。たとえば、裁判員裁判です。 
 それにしても、この本を通読すると、日弁連が会内で激しい議論を重ねながら、まさしく紆余曲折を経ながらも、国民のための司法をめざしてがんばってきたことが分かります。
 あえて難を言えば、著者の主観が極力排除されているため、エピソードが少なく、あまりにも淡々としているきらいがあります。あくまで冷静に冷静に、激動の司法改革の流れを振り返った書物なのです。
 多くの国民、とりわけ若手弁護士に読まれることを心から願っています。

私の夫はマサイ戦士

カテゴリー:アフリカ

著者:永松真紀、出版社:新潮社
 いやあ、いつの時代も日本の女性は元気バリバリ、勇敢ですね。実に、たいしたものです。まいりました。ひ弱な日本の男に目もくれないのです。トホホ・・・と、つい日本人の男の一人として愚痴りたくなりました。
 カリスマ添乗員であり、マサイ戦士の第二夫人というのはどんな女性なのか。写真を見て、うむむ。文章を読んで、なるほどなるほど、ついつい唸りました。
 添乗員といっても、並のガイドではありません。あの「沈まぬ太陽」の主人公のモデルとなった小倉寛太郎がもっとも信頼したガイドという肩書きがついているのです。これで私は、ますます畏敬の念を覚えました。
 小倉寛太郎氏は残念なことに、2002年10月に肺がんで亡くなられました。私も一度だけ大先輩の石川元也弁護士の出版記念会のときに名刺交換をさせていただきました。あたたかい人柄がにじみでるような温顔でした。
 福岡・北九州出身の女性がアフリカ、ケニアの地で活躍しているのを知るのも、うれしいことです。この本を読むと、ケニアとくにマサイ族の実情をかなり知ることができます。
 著者はマサイ戦士にあこがれていました。ところが、マサイ戦士のほうも著者を見て、たちまちプロポーズ。第二夫人にならないかと声をかけてきました。あれよあれよの展開のうちに、結婚式にいたるのです。運命の出会いなんですね。
 著者が、夫となるべき男性(ジャクソン)に出した条件は3つ。第三夫人をもらわない。女の子のとき、割礼は本人の意志にまかせる。仕事を続けることを認める。
 今ではケータイをもつ人(上級青年)が9割ということですが、それでもマサイ族の伝統は十分に保持されているようです。
 ケニアの人口は3240万人。マサイ族は30万人。マサイ族からも弁護士・医師・外交官・大臣が出ている。
 マサイの人々は、儀式などのほかは肉を食べることはほとんどない。日常的には、牛乳か、牛乳に牛の血を混ぜたものを食べている。集落内で肉を食べることは禁じられている。
 男は家畜の世話が主な仕事。女はタキギ拾いや水汲み。食事の準備、家屋の補修もする。
 男と女は別々に生活する。夫婦でも食事は別。寝るのも別。水浴びにも一緒に出かけることはない。女の求める男からの愛情表現は、家畜をもらうこと。第一夫人と第二夫人に対しては、平等に家畜や財産を分け与えないと一夫多妻制も難しい。
 この本にはセックスについても、かなりあけすけに書かれています。
 マサイにとって、セックスは子どもをつくる行為であると同時に、男と女が愛をたしかめあうという双方向のものではない。女に快楽があることをマサイの男は知らない。だから、夫妻のあいだでも、スキンシップがない。
 著者は夫にポルノビデオまで見せて教育しようとしたようですが、なかなかうまくいかなったといいます。
 マサイの男が美人だと思う女性の条件は顔やスタイルではなく、身につけているビーズの多さ。女性の乳房にも興味を示さない。それは子どものためのもの。そもそもセックスについて話すのは、マサイだけでなく、ケニア人全般においてタブーとなっている。
 マサイは一生のうち4回、名前が変わる。生まれたときにつけられる幼少期の名前、割礼直前にもらう少年期の名前、戦士時代の名前、そして最長老になったときの名前。それぞれの世代にふさわしい言葉を長老たちが選んで名づける。
 マサイにとってもっとも重要なことは、年長者を敬うこと、モラルをもつこと、マサイの伝統文化を尊重すること。
 長老は身体をつかう仕事ではなく、知恵をつかう。村では頻繁に長老会議が開かれる。儀式のこと、牛の病気のこと、ほかの氏族との争いごとをどう治めるかなど、実にいろんなことを話しあい、決める。
 マサイにとって、人は生きているときがすべて。死んでしまうと、それは物体でしかない。墓地はない。森の中の適当な場所に埋めるだけで、墓標も立てない。お墓まいりの習慣もない。
 結納金は牛4頭。嫁入り道具はひょうたん4つ。こんな文句がオビに書かれています。九州男児なんて何するものぞ。そんな自信と誇りにみちた著者の顔写真に迫力負けしてしまいました。

朝鮮人戦時労働動員

カテゴリー:日本史(戦後)

著者:山田昭次、出版社:岩波書店
 朝鮮人が戦前、日本に渡ってきたのは自発的なものであって、強制されたわけではないという主張があるが、それは次のような調査結果からすると、まったく机上の観念論でしかない。
 1940年から始まった穀物供出制度により、朝鮮の農民は自家の飯半分まで取り上げられたので、貧困は一層激しくなり、農民の離村は強められた。下層農民の衣服はボロ着で、着換えもなかった。農民の主食は粟・稗・高梁・どんぐり・草根木皮そして副食物は野菜と味噌だけだった。1939年と1942年の旱害のときには、餓死者や栄養不良による行路死亡者が多数発生した。
 そのような状況のなかで、ある農民は毎日ひもじい思いの生活を送り、妻子が栄養不足のために死ぬことを恐れ、1939年11月にすすんで募集に応じた。すると、就業する職場も告げられないまま、日本に連行された。
 実は、私の亡父も三井の労務課徴用係として朝鮮に出向いたことがあります。京城の総督府に出頭すると、既に三井から連絡が行っていて、列車で500人ほどを連行してきたというのです。三井の職員9人で500人もの大勢の朝鮮人を日本へ連れてきたというのですから、なかには「自発」的な朝鮮人も少なくなかったと思います。亡父は、やっぱり朝鮮では食えなかったからね、と自分たちの行為を正当化していました。ところが、食べられないようにし向けたのは日本の政策だったわけです。
 昭和14年(1939年)から昭和16年までの3年間に、日本へ渡航した朝鮮人は 107万人。「募集」制度によって日本へ渡った朝鮮人は15万人。
 このように大量の出稼ぎ渡航者の存在と、強制連行者の併存が、戦時期の植民地朝鮮からの人口移動の実態だった。つまり、日本の責任は重いということです。
 1939年に朝鮮に「募集」に言った人の体験談が紹介されています。
 当時、朝鮮はどこへ行っても失業者ばかりで、「募集」への希望者が殺到して断るのに苦労した。
 1941年2月、内務省警保局保安課長は、日本へ連れてきた朝鮮人が逃亡しないよう、家族も日本へ呼び寄せることを促進するよう命じた。日本の官憲や企業は、家族呼び寄せを朝鮮人の逃亡などの防止手段として利用した。その結果、特高月報によると呼び寄せた家族数は、1943年12月現在で4万158人になった。
 貧しさという朝鮮人の生活条件の形成に日本が大きく関与していれば、朝鮮人の決断をそのような方向に導く条件をつくった日本の責任が問われねばならず、朝鮮人の対日渡航が自らの意志によると、単純に言えない。そして、農民の貧窮化の発端は、総督府による土地調査事業に出発している。
 朝鮮人戦時労働動員は戦時下の植民地他民族抑圧の一つの形態だった。朝鮮を日本の植民地としていた。植民地下にあっても、朝鮮人は朝鮮人であって、日本人ではなかった。日本人は、きちんとした事実認識をもつべきである。
 まったく同感です。亡父が強制連行に手を貸していたという一事をふまえて、私も自らがしたことではないとしても、朝鮮の人々に対して日本人の一員として謝罪すべきだと考えています。

鹿児島藩の民衆と生活

カテゴリー:日本史(江戸)

著者:松下志朗、出版社:南方新社
 著者はあえて薩摩藩と呼ばず、鹿児島藩としています。鹿児島・島津家の所領は薩摩・大隅・日向の3ヶ国にまたがっていたからです。
 そして、そもそも藩という呼称が行政上のものとして歴史に登場してくるのは、徳川幕府の大政奉還のあと、明治になってからのことなのです。
 江戸幕府が藩の公称を採用したことは一度もなく、旗本領は知行所といい、1万石以上の大名の所領は領分と公称されていました。うむむ、さすが学者ですね。厳密です。
 それはともかく、本書では領内の百姓の生活が史料にもとづいて紹介されています。
 文化3年に志布志に近い井崎田村の門百姓たち11人が、志布志浦から船に乗って上方見物に出かけ、伊勢神宮に参拝して帰ってきた記録が残っている。98日間もの物見遊山を当時の農民たちはするほど生活のゆとりがあった。
 江戸時代の農民がかなり自由に旅行をしていたことは、今ではかなり明らかになっています。当の本人たちが日記を残しているのです。日本人って、昔も今も本当に記録好きの人が多いのですよね。かくいう私も、その一人です。
 鹿児島藩には、責任者としての名頭(みょうとう)がいて、その下に、名子(なご)がいました。
 農民は、役人が勝手に新田を開発したと考えたときには、実力でその新田をうちこわすという過激な実力行動をすることがありました。これも百姓一揆の一種なのでしょうね。
 飢饉のために貧農が飢えているときに藩ができないときには、村内の有徳者(豪農)に救済を依存していた。
 隠れ切支丹ではなく、隠れ一向宗の門徒が藩内に大量にいた。村によっては900人近く、村民の8割が一向宗門徒だったところもあった。これだけ多いと藩当局は門徒全員を処罰することも出来ず、代表者を見せしめ的に切腹させて終わらせていた。
 藩内で菜種栽培が盛んとなり、菜種油をめぐって商人が活躍するようになった。商業活動が盛んになると、当局へ訴訟が起こされ、また窮乏し欠落する農民が頻発するようになった。日本人は昔から裁判沙汰を嫌っていたのではありません。あれは明治中期以降の政府にによる誤った裁判抑制策にもとづく嘘に踊らされているだけなのです。
 また、鹿児島藩は積極的な唐通事優遇策をとっていた。唐通事は漂着した唐船を長崎に回送するときの通訳の役目を担う人々のことで、数十人もいた。うち2、3人を長崎へ留学させていた。唐通事として功績をあげると、門百姓の子が郷士へ上昇することができた。
 江戸時代の農民の生活の一端を知ることのできる本です。

ケータイの未来

カテゴリー:社会

著者:夏野 剛、出版社:ダイヤモンド社
 おサイフケータイをカギとして利用する分譲マンションが福岡市にある。カギとして利用するほか、電子メールをつかった合鍵新規発行、帰宅をメールで知らせる解錠通知、カギのかけ忘れを確認する、入退室履歴を参照する、などなどができるすぐれものだ。
 先日の新聞に日本のケータイ・メーカーは中国市場から撤退したとのことです。欧米のメーカーに負けてしまったのです。ところが、日本のケータイは世界のなかで抜群に質が高いというのです。機能や商品としての完成度が格段に違うそうです。それでも欧米のメーカーに安さで負けてしまいました。世の中、むずかしいですね。この原因は日本人のプレゼン能力のなさだけではないでしょう・・・。
 おサイフケータイは、クレジット産業との一層の提携を考えているようです。月1万円以下ならドコモが与信する。そのほか、20万円以上のクレジット・カードとも結びつける。
 ドコモは5兆円、KDDIが3兆円、ボーダフォンも1兆5千億円。日本のケータイ事業者は、いずれも1兆円企業。3社あわせて10兆円近い売上げがありながら、経済界のリーダーにはなりえていない。
 私のケータイが目覚ましにもつかえるというのを最近知りました。そして、この本によると、人間の耳には音として聞こえないけれど、不快な音でない目覚ましの役目を果たす音域のものが開発されているそうです。すごーい・・・。
 先日、FAXをケータイに送ることができるということも聞きました。インターネットと結びついたIモード・ショックによってケータイの進歩はとどまるところを知りません。でも、ケータイでテレビを見たり、本を読んだりって、本当に必要なのでしょうか。私もケータイは持っていますが、カバンのなかにしまい忘れたり、一日一回もつかわなかったりという程度でしかありません。公衆電話が町になくなってしまったので、ないと困るのです。
 クライエントに私のケータイ番号を教えることもしていません。たまに突然呼び出し音が鳴るので出てみると、間違い電話だということがよくあります。

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