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10歳の放浪記

カテゴリー:社会

著者:上條さなえ、出版社:講談社
 ボロボロ泣けてきました。だって、わずか10歳の少女が父親と二人して一泊100円の簡易宿泊書を泊まり歩いたり、食べるものにも困った状況のなかで、けな気に生きていくのですよ。タダで映画館に入って、マティーニにあこがれたり、パチンコ店の店員から玉を大量放出してもらい、それをヤクザの兄ちゃんが高く買ってくれ、そのお金で夕食を買って父親の待つ宿泊所へ戻ります。父親は妻に捨てられ、やけになって酒浸りなのです。
 そんななかでも彼女のえらいところは、決して希望を失わず、少女らしい夢を抱き続けたことです。私より少し年下の団塊世代の女性です。私は読んだことがありませんが、今では立派な児童文学作家となっています。
 1960年の秋から翌年の秋までの1年間、わたしと父はホームレスだった。わたしは10歳で、父は43歳だった。
 今夜はここに泊まるしかないんだ。駅のベンチで寝るよりは、ずっとずっと天国だよ。 おとうちゃん、明日はご飯を食べられる?
 父は、明日は明日の風が吹くさ、としか答えてくれなかった。
 子どもって悲しいよね。大人に決められたら逆らえないし、どんなにいやなことだって、がまんしなくちゃならないんだもん。
 うーん、そうなんですよね・・・。そう言われると、本当に返す言葉はありませんね。
 母はわたしに約束した。一つお泊まりしたら迎えに来ることを。
 お母ちゃん、本当に一つお泊まりしたら、お迎えに来るんだよね。
 ええ、だから、いい子にしててね。
 次の日、私は午前八時半に家を出て、バス停に向かった。昨日は、何か母に急用ができたんだとわたしは思った。だから、今日はきっとわたしを迎えに来てくれる。
 バスは一日三本。午前九時、午後三時、午後五時。わたしはその時間になると、バス停に出かけて母を待った。
 十日過ぎても、母は迎えに来なかった。それでも、一日三回、雨の日もわたしはバス停に立って待った。他にすることもなかった。
 二十日たっても、バス停に母はあらわれなかった。わたしは、とぼとぼとおじさんの家に帰った。
 わたしがたまたまバス停に行けなかったとき、突然、母が姿をあらわした。やっと迎えに来てくれたのだ。夜、わたしは母と一つの布団に入った。でも、母はわたしが期待したような言葉はかけてくれなかった。
 あなたのお父さんのせいよ。
 母はひとことそう言うと、長旅を疲れたのか、すぐに寝息をたてた。
 それでも、わたしは幸せだった。広い八畳間に一人で寝る怖さから解放されて、ぐっすり眠った。
 ほんと、このくだりはいじらしいですね。私も小学生低学年のころ、田舎のおじさんのところに泊まりに行って、広い八畳間にひとり(本当はすぐ上の兄も一緒だったと思うのですが・・・)寝て、怖い思いをしたことがあります。自宅にいる両親が火事にあって二人とも死んでしまって天涯孤独の孤児になってしまったら一体どうしよう、これからどうやって生きていったらいいんだろうと真剣に心配したのです。そのことを、ついこのあいだのことのように、私は今もはっきり覚えています。といっても、翌朝になると、そんな心配はすっかり忘れて、また一日中、魚つりしたりして楽しく遊んだのですが・・・。
 父がわたしにクリスマスのプレゼントとしてくれたのは、十円玉一枚だった。そんな父と早く別れたいと思った自分を、わたしは冷たい人間だと思った。
 映画館に入るときには、「あのう、お父さんが中にいるんですが、探していいですか?」と切符切りの女性に言う。すると、簡単に映画をタダで見れた。
 わたしは、映画に出てくるマティーニを大人になったら飲みたいと思った。その夢のために、今この生活に耐えようと思った。父が「死のうか」と言ったとき、わたしは、「やだ。まだマティーニを飲んでないもん」と首をふった。
 お金がない。パチンコ店の前を通ると、パチンコ玉が5コ落ちていた。わたしは台の前にすわってはじいた。台のうしろからニキビのたくさんある若い男が「どうしたの?」ときいた。わたしが「お父さんが病気で」とこたえると、そのうち、まるで台が壊れたように玉が出てきた。それを景品に換えるとヤクザの兄ちゃんが、45円で買ってくれた。
 結局、わたしは父からすすめられて養護学園に入ることになった。
 今はすべてをあきらめてがまんするけど、いつかきっと幸せになるんだと心に誓った。
 わたしは自分の子ができたら、こんなかわいそうなことはしないと思った。
 学園ではいじめにもあった。でも、いじめなんてなんでもない。それより、帰る家のない、明日泊まる所や食べることの心配をする生活のほうがどれだけ大変かと、子ども心に思っていた。毎日、寝るところがあり、三度の食事があり、勉強できる日々に感謝した。
 やっぱり子どもから夢を奪ってはいけませんね。この本を読んで、つくづくそう思いました。私も一度だけ絵本を出版しました(残念なことに、例のごとく、ちっとも売れませんでした。私のせいではありませんが、その出版社は倒産し、先日も、破産管財人の弁護士から破産手続が終了したという報告書が送られてきました)。
 著者は、小学校教員を経て37歳で児童文学を書いて、昨年10月までは埼玉県教育委員長もつとめました。すごいですね。見事にたちあがったのですね。拍手を送ります。
 先日、マサイの男性と結婚した日本人女性の本を紹介しましたところ、著者よりメールをいただきました。近く福岡でも公演する企画があるということです。詳しくは著者・永松さんのHPをご覧下さい。http://massailand.com

人と動物の美術館

カテゴリー:アフリカ

著者:吉野 信、出版社:オフィスアイ・イケガミ
 チーターの子どもたちが広々とした草原で寝ころがったり、追いかけっこして、じゃれあっています。屈託なげで、伸び伸びとして、いかにも楽しそうです。
 氷上でホッキョクグマの若者2頭が押しあって遊んでるうちに、片方が尻餅をついてしまいました。もう一方は、あれれと驚いています。
 インドでは、草原の一本道の上で雄クジャク同士で争っています。一方は地上をけって舞い上がり、地上にいるクジャクを威嚇します。
 アフリカ、ケニアのカンムリヅルはオスが派手なディスプレイを草原で始めました。
 ケニアの大草原にアフリカゾウの一群がいます。ゾウは女系家族なのですね。親ゾウに囲まれて、小さな仔どもゾウが2頭います。まだキバが小さくて可愛らしい。
 ケニアのマサイ族の男性は精悍な顔つきで、いかにも頼もしそう。割礼の儀式を終えた修行中のマサイの若者は、顔中に白い顔料を塗りたくっている。広い草原に顔だけ白い5人のマサイの若者が並んで立つと不気味だ。
 生命の躍動を感じさせる人間と動物の写真が満載の写真集です。思わず息を呑む見事な写真がオンパレードなので、ついつい何度も頁をめくり返してしまいました。

千年、働いてきました

カテゴリー:社会

著者:野村 進、出版社:角川ワンテーマ21・新書
 世界最古の会社は日本にある。創立578年。えっ、いつのこと。西暦578年です。これはなんと、飛鳥時代なのです。うむむ、そんな・・・。
 大阪の金剛組という建築会社で、飛鳥時代から、寺や神社を建てつづけてきたのです。ですから、創業1400年をこえています。すごーい。
 ところが、この日本最古、いえ世界最古の会社が最近、破産申立したというのです。しかし、周囲が助けました。なんとか金剛組は存続することができました。
 金剛組の創業者はコリアンです。といっても、聖徳太子(実在の人物なのか疑問もあるようですが・・・)に招かれて朝鮮半島の百済からやってきた3人の工匠のうちの一人でした。
 日本には、ほかに創業1300年の北陸の旅館、1200年の京都の和菓子屋、
1100年の京都の仏具店、1000年の薬局という店がある。創業100年以上だと 10万社以上あると推定されている。
 ヨーロッパの最古の企業は1369年設立のイタリアの金細工メーカー。創業640年。これより古い日本の企業は100社ほどある。
 韓国には三代続く店はない。中国の最古の店は337年前に設立された漢方薬の北京同仁堂。
 日本の10万軒をこえる創業100年以上の老舗のうち、およそ4万5000軒が製造部門。ここに日本の老舗の特質がある。職が尊ばれるのは、アジアでは日本くらい。
 1グラムの純金を太さ0.05ミリの線にすると、3000メートルになる。コンピューターの集積回路の接合部に金の極細線がつかわれている。太さは10マイクロメートル。人の髪の毛は80マイクロメートルなので、その8分の1の太さだ。これを日本の田中貴金属がつくっている。
 ケータイの折り曲げ部分に使われている銅箔(どうはく)は、日本企業であるメーカー2社で世界のシェアの9割を占めている。
 捨てられた不用のケータイを集めたゴミの山には1トンあたり280グラムの金がふくまれている。日本で採掘されるもっとも品質の高い金鉱でも1トンから60グラムの金しかとれないから、その4〜5倍も金がとれることになる。つまり、ケータイのゴミの山は、まさに金鉱そのものなのだ。
 また、ケータイには、1キロあたり200〜300グラムの銅もふくまれている。これと同じ量を天然の銅鉱石から得るためには10キロが必要となる。
 農林業関係者からひどく嫌われているカイガラムシは、真っ白なロウを分泌する。これは光沢があり、化学的にも安定している。これが、防湿剤や潤滑剤そしてカラーインクの原料として有望なのだ。老舗の会社が、研究・開発をすすめているのです。
 同族経営・非上場には強みがある。社長が替わらない。株主の顔色をうかがわずにすむ。だから、長期的な視野で研究開発にのぞめるし、ハイリスク・ハイリターンのテーマに長期間、資金を投入することができる。むしろ、同族経営・非上場でないと、画期的な独自の研究開発はとても不可能だ。
 長生き、元気で若く、女性の支持がある。この三つにマッチする商品は絶対売れる。女性がダメというものは絶対に売れない。
 うまくいっている老舗は、不思議なことに三世代同居という経験をつんでいる。
 日本人が昔からものづくりを大切にしてきたこと、そのためには必ずしも血縁ばかりを重視せずに伝統を絶やさないよう工夫してきたことなどの分かる、とても面白い本です。

江戸時代のロビンソン

カテゴリー:日本史(江戸)

著者:岩尾龍太郎、出版社:弦書房
 「ロビンソン・クルーソー」は有名ですが、実は私は全文を読み通したことがありません。なにしろ岩波文庫で上下800頁もあるというのです。しかし、そこには17世紀末の世界情勢がじつに色々と書きこまれているそうです。ヨーロッパでは、この手の航海記が昔から人気を集めていました。
 ところが、海国日本では数多くの漂流民をうんだ割には、海洋文学と言えるものはほとんどありません。現代日本社会では、冒険そのものに対する眼差しが冷ややかなのです。
 冒険心の抑圧、冒険物語の不在は、幕藩体制が固まった近世以降、きわだっている。
 しかし、そこは昔から記録好きの日本人です。漂流記録そのものは、判明しているだけでも300あります。眠っている古文書には少なくとも、その10倍はあるとみられています。
 1610年、徳川家康が三浦按針(ウィリアム・アダムス)につくらせた按針丸は太平洋を渡ってメキシコにたどり着いた。1613年、伊達政宗がつくらせた支倉六右衛門派遣船サン・ファン・バプティスタ号は太平洋を往復した。家光がつくらせ江戸にあった長さ62メートル、1000トン級の巨大軍船「安宅丸」は、1682年に解体された。そのころ徳川光圀が蝦夷探検用につくらせた「快風丸」も光圀の死後に放棄された。
 当時、海外の人々は、日本人を見て、ヒツポン、ひつほん、カツポン、じつぽん、じわぽん、ヤーパンなどと呼んでいた。
 船が漂流をはじめたとき、捌(は)ね荷、捨て荷をした。これは廻船の任務放棄だったので、そのとき、髻(もとどり)を切って海神にささげる。もはや、荷主や船主に対して責任を負える主体であることを止め、ざんばら髪の異形の者となって冥界をさまようのだ。
 和船には、構造的欠陥があったが、案外、沈まない強度も持っていた。
 日本人の漂流者は、生魚を食べるので、壊血病になるのは、欧米の漂流者よりも少なかった。
 徳川吉宗の治世のとき。静岡(新居)の船「大鹿丸」が九十九里浜沖で遭難した。無人島(鳥島)に12人が上陸し、食糧はアホウドリを主とし、魚を釣って生きのびた。20年後の1739年(元文4年)、そのうち3人が生き残って帰還し、吹上御所で将軍吉宗の上覧を仰いだ。
 さらに、その数十年後、土佐の長平が同じ鳥島で13年間、そのうち1年半は孤独な生活を過ごした。そこへ、大阪の肥前船が漂着し、11人がやって来た。この11人のうち9人が10年後に生還した。
 彼らは、漂着物を気長に待って、つぎはぎだらけの船をこつこつ造り上げた。木材を流木だけで調達した。鉄具は不足していた。製鉄のための風箱(ふいご)も自力でつくった。
 造船のノウハウを知っているものは少なかった。三尺の模船(ひながた)をつくり、これを皆で検討しながら、手探りで造船を続けた。すごいですね。
 南方の島に漂流していった孫太郎は、こう語った。
 世の中は、唐も倭も同じこと。外国の浦々も、衣類と顔の様子は変われども、変わらぬものは心なり。けだし、今日に通用する至言ですね。
 1813年から1815年にかけて、484日間、太平洋を漂流した記録があるそうです。船長(ふなおさ)日記です。
 もっと現代日本人に知られていい話だと思いました。

硫黄島の兵隊

カテゴリー:日本史(戦後)

著者:越村敏雄、出版社:朝日新聞社
 硫黄島は、「いおうじま」と呼ぶと思っていましたところ、昔は、「いおうとう」と呼んでいたそうです。アメリカによる占領を経て、アメリカ軍の呼び方が広まった、というわけです。
 1945年2月からの1ヶ月間の戦いで、日本軍は2万1000人のうち助かったのは1000人のみ。戦死者2万人です。今も、その遺骨の大半は島に眠っています。日本政府は技術的困難を理由として本格的な遺骨収集を放棄しています。
 対するアメリカは参加した将兵は11万人、上陸したのは6万1000人。そのうち戦死者6800人、戦傷者2万1800人、死傷者の合計2万8000人でした。
 アメリカ海兵隊の168年間の経験のなかで、もっとも苛烈な戦いだった。
 穴掘り作業は、まさしく噴火口の中で穴を掘るようなものだった。熱気をおびた亜硫酸ガスが、十字鍬で掘り起こした窪みから、猛烈に噴き出した。
 この島は、全島、どこを掘っても、強い熱気と亜硫酸ガスが噴き出た。海中に浸って、足の爪先で砂を掘ってみても、熱い地熱を感じた。
 1000人ほどしか島民が住めなかった理由の一つは水にあった。雨はきわめて少なく、4、5月にくる雨期が終わると、雨はめったに降らない。
 ウグイスとメジロは島にふんだんにいた。人が近寄っても、まるで無視する。気ままについばみ、気のはれるまで歌って生きている。
 断崖の岩盤はおそろしく硬い。下痢患者の打ち込む十字鍬(くわ)は、はね返って歯がたたない。岩の割れ目を見つけて十字鍬を打ち込み、わずかずつ切り崩した。のみもつかって石屋のように岩を剥がした。削岩機も何もないから、すべて人の手で作業する。
 硫黄と塩が身体に蓄積されてくると、猛烈な下痢が蔓延した。やせこけた身体は恐ろしい速さで衰弱した。重労働と不眠が容赦なく拍車をかけ、この島独特の栄養失調症になる。
 夜となく昼となく残忍に苦しめるのは、すさまじい喉の渇きだった。しかし、それを癒すものは、塩辛い硫黄泉しかない。
 異様な臭いの立ちこめる生ぬるい塩水を飲むしかない。それを飲んでも清涼感は味わえない。どろりとして後味が悪く、口腔から鼻にかけて、強い吐き気を誘う硫黄の臭みがむんと籠もって、いつまでも離れようとしない。それが染みついた喉や舌が、飲みこむ瞬間に拒絶反応を起こして震える。そのあとは、通りみちに刺すような辛みが、震えるような吐き気と一緒に残る。これがまた、喉の渇きをかきたてる。
 どの兵隊も、目尻や鼻や唇の両端が食い入るようにへばりついたハエの塊で黒い花が咲いたようになった。盛ったばかりの飯と味噌汁は一瞬のうちに真っ黒になった。全島がハエの島と化した。明るい間じゅう、真っ黒に渦巻くハエのなかでの生活である。日がくれると、島を覆うすさまじいハエの群れは一斉に木の葉や草葉の裏にとまり、姿を消す。
 37度あまりの熱で、日に10回ほどの下痢症状は、この島では健康体である。それより健康なものは、ここでは異常だった。
 硫黄島に補給などのために飛んできた飛行士が見たのは、まさしく人間ではない、火星人だった。どの兵士もまっ黒で、皮膚につやがなく手も足も骨と皮ばかりにやせ細っていた。そのため頭が大きく見え、眼がギョロギョロと輝いていた。
 この本の著者は、まさしく奇跡的に助かっています。日本の飛行機が補給物資を島に届け、本土への帰路に負傷兵をのせていったのです。著者がなぜそのなかに選ばれたのかについては何も書かれていません。
 最後に、著者の次のような言葉が紹介されています。
 戦争を知らないで一生を終えたら、これほど幸せなことはない。これから同じような死に方をくり返すとすれば、彼らの死は徒労でなくて、何でありましょう。
 まったく同感です。強い共鳴を覚えました。

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