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南方熊楠

カテゴリー:日本史(明治)

著者:飯倉照平、出版社:ミネルヴァ書房
 明治時代の巨人として有名な南方熊楠の伝記です。私はミナカタという読み方をずっと知りませんでした。ナンポウとかミナミカタと読んでいました。この本によると、ミナカタということですが、南方をナンポウと読ませる人もいるそうです。
 信濃守護についていた小笠原家に北方、南方、東方、西方という四家老がいて、その庶出の孫などが各地に分かれて南方を名乗ったということです。明治維新の前はみな小百姓だったが、のちに商家となったものもあり、その一人が父親の婿入りした南方家を起こした。もともと、あまり格の高い家ではない。このように紹介されています。
 熊楠の和歌山中学での成績は、とくに目立つような優等生ではなかったそうです。偉人にも昔から、そういう人っているんですよね。
 熊楠は博覧強記で有名ですが、そのもととなったのが、小学生のころから『和漢三才図会』でした。中学生のとき、原本105巻を借り受けて、最後まで全巻を書き写したというのです。15歳夏に写し終えました。これはすごいことです。さらに、中国の『本草網目』そして、『大和本草』まで書き写したのです。並の人間にはとても出来ません。
 熊楠は和歌山中学を卒業すると、上京して東京大学予備門に入学した。第一高等学校の前身です。明治19年(1886年)から熊楠はアメリカに留学します。
 さらに、イギリスに渡り、1898年12月までの3年半は、大英博物館に通い、さまざまな書籍を書き写しました。大英博物館は、一切が無料公開され、亡命者のたまり場となっていました。不遇な立場にある者や貧しい勉学者にも居心地が良かったようです。
 イギリスで熊楠は中国の孫文とも親しい交流がありました。夏目漱石は熊楠と入れ替わるようにロンドンに留学しています。漱石は国費留学生として月150円が支給されていました。熊楠は、日本の弟からの送金が月80円でしたから、生活は大変だったようです。
 熊楠は1900年(明治33年)10月に14年ぶりに日本に帰国しました。
 熊楠は1911年から1914年まで、大蔵経を抜書する作業に没頭しました。
 4000頁をこえる膨大な量の抜書があるそうです。これだけの努力をするのですから、博識になるのも当然ですよね。
 それにしても私が驚いたのは、大蔵経のなかに、おびただしい数の男女の愛欲や逸脱した性の態様、とくに禁じられた事例としての自慰、不倫、同性愛、近親相姦、獣姦などがあったということです。ええーっ、まさかー・・・とつい唸ってしまいました。経典というから、高邁な理論が述べられているだけと思っていましたが、そうではないのですね。
 熊楠の一世一代の晴れの舞台は、1929年6月に昭和天皇に対して進講したことです。粘菌について話したようです。
 熊楠を知ることのできる伝記でした。

うなぎ丸の航海

カテゴリー:生物

著者:阿井渉介、出版社:講談社文庫
 日本人の食べるウナギの相当量はヨーロッパから輸入される大西洋ウナギだそうですが、この大西洋ウナギの収穫量が激減しているそうです。この本は、日本産ウナギの産地探しの苦労話です。『アフリカにょろり旅』の主人公の先生たちも登場します。ウナギの産卵地調査は、年々減少の一途をたどるウナギ資源の確保のためでもあるのです。
 ヨーロッパウナギそしてアメリカウナギの産卵地が大西洋にあるサルガッソ海の数千メートルの深海であることが突きとめられたのは1922年のこと。
 では、ニホンウナギの産卵地は一体どこなのか。1967年、台湾の南、バミュー海峡でレプトセファルス(ウナギの仔魚)が発見された。1991年、マリアナ諸島の近くで、さらに小さなレプトセファルスが採集された。しかし、それ以上はなかなかつかめなかった。
 ウナギは群れをつくる魚ではない。一尾いっぴきが孤独に旅をして産卵場にたどり着く。
 ウナギの耳石によると、4月から11月、とりわけ6月から7日の新月の夜がウナギの産卵の日。6月の新月以前に到着したウナギは新月を待ち、それに遅れたものは海底の岩穴にひそんで7月の新月を待って、その日に産卵する。これを新月仮説という。
 レプトとして黒潮に乗ったウナギは、沿岸で体長を縮め、薄い葉っぱの形から初めて親と同じ姿になる。形は同じだが、透明なシラスウナギだ。これが河川に遡上すると黒くなる。そして、7月から10年くらいで、体長60から100センチ、銀色の光沢をもつ銀ウナギに成長する。すると眼を胸びれが大きくなって、台風の増水に乗って海に下る。そして黒潮に逆らうか横切るかして、延々数千キロを泳いでいく。海に入ると一切餌をとらず、胃や腸は縮んで消えてしまう。かわりに雌は卵、雄は精子で腹がはちきれそうに膨らむ。
 ただし、黒潮に乗って沿岸に達したウナギたちの中には、河川に遡上せず、一生を海水中に暮らすものもいるようだ。これはウナギの耳石に含まれるストロンチウムの解析から最近になって判明したこと。
 ウナギはなぜ数千キロの旅をして、卵を産みにふるさとに帰るのか。
 ウナギが数千キロを泳いで、この海まで卵を産みに来るのは、1億年もちきたったDNAによる。恐竜がのし歩く白亜紀にウナギの祖先は地上に現れた。現在のボルネオのあたりに。ウナギは熱帯のぬるく浅い水の中で、豊かな餌を食べて繁栄し、分布を広げていった。グアムに近い熱帯の海で産卵し、孵化した卵は、プランクトンとして北赤道海流と黒潮で運ばれつつ成長し、半年して親の姿になったところで接岸、そして河川に遡上、成熟して降海し、生まれ故郷まで、また数千キロの旅をして産卵という大回遊路を生きる形としてつくりあげた。
 すごいウナギの生き方です。これからは心してウナギのカバ焼きをいただくことにします。ハイ。
 いま、わが家の庭には白、黄色、ピンクそして朱色の百合の花が咲いています。まるで空に青い花火をうち上げたようなアガパンサスの花も咲きました。アジサイと同じで、梅雨の雨にうたれる風情がいいのですが、残念なことに今年は雨が少ないようです。田植えの準備がすすみ、あとは雨が降るだけです。

選挙の民族誌

カテゴリー:社会

著者:杉本 仁、出版社:梟社
 実に面白い本です。ええーっ、日本の選挙って、こうなのか、こうだったのかー・・・と、内心さけんでしまいました。甲州選挙という山梨県の選挙ですが、日本全国共通しているところも大いにあるように思います。
 選挙は、なぜかくも人の心をとらえるのか。選挙の当事者とその周囲の人にとって、選挙戦はまさに生きるか死ぬかの戦争だからである。甲州のムラ選挙は、4年に一度の、待ちに待ったムラ祭りの様相を呈する。
 山梨では、家格が重んじられる。家格とは、家の歴史総体への現在的評価である。この家格が視覚的にわかる装置が存在する。寺の本堂に安置されている位牌の場所と大きさが、そのバロメーターになっている。
 ムラの三役は、区長、氏子総代、寺総代。ここから、候補者が決まっていく。
 候補者が決まると、選挙ヒマチ(人寄せ)が始まる。個々人でなく、ムラの組単位ごとに候補者の家に呼ばれる。
 戦後しばらくは、ムラ人は毎日、酒を飲むという習慣はなかった。ところが、選挙のときには、タダ酒がふるまわれた。甲州人はバクチ好きで、有権者は選挙をバクチと見なし、選挙そのものも賭事の対象とした。
 選挙運動の期間となると、ムラ人の手伝いは忙しさを増す。オテンマ(共同作業)にデブソク(出不足)は許されない。
 婿養子が、ムラの実質的構成員として名実ともに一人前として認知されるための近道が選挙だった。ムラ人の手荒い暴れみこしに乗り、散在する選挙こそ、実質的なムラ入りにふさわしいものだった。
 投票当日は、早朝からの狩り出しではじまる。ときには、投票率アップのため、ムラ全体で替玉投票や不正な不在者投票などが行われたりする。
 血縁と地縁の入りまじった言葉として血類(じるい)というものがある。
 政党は無尽(むじん)の集票機能に着目し、候補者は無尽を巧妙に活用した。選挙無尽がいくつもできあがる。無尽は頼母子講とも言われますが、福岡でも今も生きています。それが破綻したときが大変です。ひところ、筑後地方で大量の裁判がありました。
 小佐野賢治も金丸信も、この山梨の出身者である。金丸の家筋は武田信玄につながる名家そのものであった。
 日本的政治風土の基層をなすものが、体験もあわせて、よくよく分析されていると感心しました。選挙って、ホント、ドロドロしたところがあるんですよね。
 今度、山梨の弁護士に最近の実情を聞いてみたいと思いました。

イラク占領

カテゴリー:アメリカ

著者:パトリック・コバーン、出版社:緑風出版
 イギリスの勇気あるジャーナリストがイラクのバクダッドで取材を続けていて、アメリカによるイラク戦争後のイラクの実情をレポートした貴重な本です。思わず居ずまいをただして読みすすめました。本当に悲惨な現実がそこにあります。こんなひどいイラク占領に日本は加害者として加担しているのです。情けない話です。いったいテレビや大新聞のジャーナリストはどうして沈黙を守り続けるのでしょうか。イラクで日本の航空自衛隊が何をしているのか、ぜひとも報道してほしいと思います。
 1991年の湾岸戦争でパパ・ブッシュが国連の支持を背景に多国籍軍を率いて完勝できたのは、中東をイラクのクウェート侵攻以前に戻すという、いわば保守的な戦争だったことが大きい。それは世界が慣れ親しんでいた原状回復のための戦いだった。だから、支持は世界中から、中東の内部からも集まった。しかし、20年後、息子ブッシュが始めた戦争は、とんでもなくラジカルな企てだった。世界の権力バランスを変えてしまうものだった。アメリカは単独で産油国を征服しようとした。アラブ世界でもっとも強大な国だったイラクを植民地として支配しようというものだった。
 ブッシュの終戦宣言(2003年5月1日)から3年たった。アメリカ軍はこれまで2万人もの死傷者を出しているが、その95%がバクダット陥落以降である。今でも毎月  100人以上のアメリカ兵が死んでいます。前途あるアメリカの青年たちが、イラクの民衆の憎しみを買って殺されているのです。しかし、イラク人の死者が桁違いに多いことも忘れるわけにはいきません。
 イラク戦争がベトナム戦争とよく似ているものの一つにゲリラ戦法がある。即席爆発装置(IED)は、重砲弾を数発、ワイヤでつないで、路肩に埋め、有線あるいは無線でリモートコントロールして爆発させるものである。アメリカ軍の死傷者の半数はこの犠牲だ。
 アメリカはイラク人の基本的な生活レベルの向上に失敗した。
 サダム政権下ではイラク人の50%が飲料水にありつけたが、2005年末には32%。電力供給も、石油生産も同じ。労働力の50%以上が失業している。仕事のない数百万の怒れる若者たちは、絶望のあまり、武装勢力に入るかギャングになるしかない。
 アメリカの統治者のいる安全なグリーンゾーンに入るためには8ヶ所もの検問所をくぐり抜ける必要がある。グリーンゾーンとそれ以外のイラクとの違いは、サファリパークと本物のジャングルの違いだ。
 イラク社会とは、中央政府への忠誠以上に地域的な忠誠心の網の目である。スンニ派、シーア派、クルドの三大社会がある。しかし、イラクの人々は部族とか氏族とか血縁の大家族とか、村や町や都市にも強い忠誠心を抱いている。
 イラクの人口2600万人。うちシーア派1600万人。スンニ派とクルド人がそれぞれ500万人ずつ。イラク人のほとんどが自動化された近代兵器で武装している。
 ジョージ・ブッシュはイラクで実際起きていることに対し、知識もなければ、関心も持っていない。同じく、イラク暫定統治機構(CPA)のブレマーも、イラクのことなど何も知らないと自分で認めた男だった。アメリカのイラク当局者は、イラク人が考えていた以上に無能で、官僚主義だった。アメリカは世俗的なイラク人指導者の影響力を誇大視し、宗教指導者の力を軽視した。サダム後のイラクで勝利をおさめたのは、伝統宗教ではなく、宗教民族主義である。
 イラクの自爆者とは一体、何者なのか? 自爆攻撃するには、ゲリラ戦と違って、軍事的な経験や訓練を必要としない。必要とするのは、ただひとつ、死を覚悟したボランティアがいればいい。そして、そのボランティアは常にありあまっている。
 当初は、イラク人よりサウジアラビア人、そしてヨルダン、シリア、エジプトから来ていた。しかし、今ではほとんどがイラク人であり、スンニ派アラブ人だ。
 イラクを破壊しているのは、次の三つだ。占領とテロと汚職。
 アメリカ軍の2004年の犠牲者は、戦死848人、戦傷7989人。2005年は戦死846人、戦傷5944人だった。
 自爆攻撃があるのは午前7時半から10時までのあいだ。自爆者はペアか三人でチームを組んで攻撃するようになった。最初の一人が少し離れたところで自爆して注意をそらしたすきに、二人目がホテルのコンクリート防壁に突っ込んで自爆、それによって出来た防壁の開口部に爆薬を満載したトラックの三人目が突進していく。
 スンニ派の88%がアメリカ軍への攻撃を容認(うち積極的が77%)。シーア派でも、攻撃容認が41%。 アメリカ軍は、イラク軍に供与した新鋭兵器が自分たちにつかわれるのではないか。武装抵抗勢力に売り飛ばされるのではないかと恐れている。
 イラク復興のため、過去3年近くに数十億ドルもの巨費が投じられたはずなのに、バクダットに工事用クレーンは一つも見かけない。月に20億ドルもの石油収入は一体どこに行ったのか。ブレマー指揮下に、88億ドルが使途不明となった。アラウィ首相の政府の下で、20億ドルものお金が消えてしまった。アメリカの再建事業経費のなかで警備費が占める割合は、全支出の4分の1を占めるまでになった。
 バクダットは平穏な日でも、1日に40体ほどの遺体が死体保管所に運びこまれる。バクダットは、殺戮が増えているのかどうかさえ見当のつかない、異常な暴力の街と化している。こんなイラクにしてしまったアメリカとイギリスの責任は重大です。そして、それを強力に支えている日本政府は、それを黙認している私たち日本人の責任もまた決して軽くないと思います。
 こんなイラクの殺伐としたなかで子どもたちが育っています。いったい彼らが大人になったとき、イラクに平和な社会は実現するのでしょうか・・・。

アダムの旅

カテゴリー:未分類

著者:スペンサー・ウェルズ、出版社:バジリコ
 もし全人類が同じ種に属しているのだとしたら、世界中に目がくらむほどさまざま肌の色や体型、体格をし、さまざまな文化を持った人々がいることは、どうやって説明がつくのか。いったい人類はどこで発生したのだろうか?
 もっともな疑問です。黄色人種がいて、黒人がいて、白人がいる。白人が世界でもっとも優れた人種だと昔も今も声高に言いたてる人々がいます。本当でしょうか?
 遺伝に働くもっとも基本的な力は突然変異だ。これがなければ、多型も存在しない。突然変異というのは、DNA配列に生じる無作為の変化のことで、一世代について一ゲノムあたり30という確率で発生する。つまり、今生きている人は誰でも、両親と自分とを区別するまったく新しい突然変異を30個もっていることになる。突然変異は無作為に起こる。突然変異は細胞分裂の過程で生じた複写エラーによって生じる。
 すべての現代人の母系祖先「イブ」は15万年前、アフリカで暮らしていた。そして、哺乳類では、X染色体とY染色体が一つずつしかない不均等な染色体をもっているのは男性である。この本は、アダムとは誰だったのかを追求しています。
 Y染色体には対になる組換え可能な染色体がないので、組換えは起こらない。Y染色体はミトコンドリアのゲノムと同じく、混ぜ合わせられることなく、世代から世代へと永遠に引き継がれていく。
 Y染色体は、人類の多様性の研究の研究にもっとも有益な手段を集団遺伝学者に提供する。その理由の一つとして、分子の全長が1万6000ヌクレオチドしかないミトコンドリアDNAと違って、Y染色体は5000万ヌクレオチドと巨大であることがあげられる。だから、Y染色体には、過去に突然変異が起きたかもしれない場所が多数存在する。
 研究の結果、Y染色体系統がもっとも早く分岐したのはアフリカであることが分かった。この男性から今日生きているすべての男性がY染色体を受け継いでいる。その彼はなんと5万9000年前に生きていた。「イブ」の推定年代より8万年もあとだったのである。
 現生人類は、少なくとも6万年前まではアフリカにいた。類人猿の最古の化石は2300万年前のもの。類人猿が1月1日に現れたとすると、現生人類は12月28日まで出現せず、大晦日まではアフリカを離れない。人類がアフリカを離れて世界中に散らばっていったのは、地球上の生命の歴史や進化の中ではほんの一瞬のことに過ぎない。
 人間は1万年ほど前に突然、狩猟採集生活から定住生活に移行した。この変化は、世界のさまざまな地域でほとんど同時に同じ現象として発生した。
 インドでY染色体を調べると、階級間でミトコンドリアDNAの相違よりもY染色体の相違のほうが多く出現する事実は、男性が自分の階級に常にとどまっていたのに対して、女性は違う階級に移動できたことを示している。
 アメリカ先住民のほとんどの血液型はO型であるが、これは氷河期のシベリアを通って旅するあいだに、A型とB型が消えてしまったから。
 Y染色体系統のほうがより高い率で失われる理由として考えられるのは、少数の男性が生殖行為の大半を行うからだ。富と社会的地位を受け継いだ息子たちが、次の世代でも生殖行為の大半を行う者となる。子どもをもうけて子孫に遺伝子を伝える人の数は決して平等ではない。
 いま地球上にいるすべての男性の祖先である「アダム」は5万年前に東アフリカの地溝を出発し、インド洋を経て東南アジアから日本に到達している。
 中近東からヨーロッパに入ったのは3万年前のコースと1万年前のコースがある。アメリカ半島へは、1万年前にベーリング海峡を渡って到着した。
 Y染色体のなかにある遺伝子マーカーを調べて、現生人類がいつころ、どのようにして世界各地へ広がっていったかを明らかにできるという本です。まことに、地球上の人類はみな兄弟姉妹だということがよくよく分かりました。

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