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父さんの銃

カテゴリー:未分類

著者:ヒネル・サレーム、出版社:白水社
 著者はイラク生まれのクルド人で、現在はフランスで活躍している映画監督です。  1964年生まれですから、現在43歳。17歳までイラクにいて、フセイン政権によるクルド人弾圧を逃れてイタリアへ亡命します。フィレンツェで勉強しながら、観光客相手に絵を描いていたこともあるそうです。そして、子どものころから夢見ていた映画監督になることができました。この本は、イラクにいた子ども時代を描いた自伝的小説です。
 クルド民族は、まさに孤立無援の状態だった。かつてソ連に裏切られ、またアメリカにも裏切られた。著者は少年のころ、アメリカの支援があるので、クルド民族の独立は達成できると信じていたようです。しかし、その信頼は無惨にも裏切られてしまいました。アメリカは、クルド人のいる油田地帯を確保したかっただけなのです。
 フセイン大統領の時代は、帽子を風にさらわれるな、という格言に誰もが従う時代だった。そして、クルド人のいる地方に、何十万人ものアラブ人労働者が押し寄せてきた。
 著者は14歳のとき、ゲリラ部隊に入ります。しかし、そこの隊長は次のように言って著者を戒めました。
 ここがおれたちの祖国だ。おまえたちは学生だったな。いま我々に必要なのは、教育を受けた人間だ。そして同時に、市街で戦う人間も必要としている。
 もし、おまえたちに勇気があるなら、故郷の町にもどって学問をつづけろ。勉強しながら、ともに破壊組織ではたらくんだ。
 こう言いながら、隊長は火器や銃器の使い方を教えたのです。
 いいか同志、人生とは危険なものだ。生まれるってのは危険なことなんだ。
 これって、いまの日本では絶対に聞けないセリフです。そして、聞きたくない、言いたくないセリフでもあります。
 クルドの戦士だった父親がフセイン政権の強圧下で次第に元気をなくしていく様子も描かれています。
 家にいると、父が少しずつ気力を失っていくのが分かった。父は何があっても腹を立てることもなく、考えるのは絶望的なことばかり、他人を避け、ひとりで引きこもることが多くなった。
 クルド人は、紀元前2000年前までさかのぼることのできる古い民族。独自の言語と文化をもつ、中東の先住民族。3500万人といわれる人々が、イラク、シリア、イラン、トルコ、アルメニアなどに分断された地域に住んでいる。祖国なき世界最大の民族とも言われている。
 そんな苦悩するクルド人の生きざまを少年の眼から明らかにした本です。

蒙古襲来

カテゴリー:日本史(鎌倉)

著者:新井孝重、出版社:吉川弘文館
 現代日本人には、日本が外敵に攻められたときに神風が吹いて助かったと信じている人が少なくありません。しかし、蒙古襲来については、もっと歴史の現実をよく見ておく必要があると思います。
 モンゴル軍の矢には毒が塗ってあり、雨のように無数に射掛けてくる。弓は短弓で飛距離は200メートル、日本の長弓の2倍はあった。そして鉄砲(てつはう)という火薬を包んだ球状の鉄や陶器の炸裂弾を投げつけ、その大音響と煙で神経質な馬をおどろかせた。モンゴル軍の指揮官は高いところにいて、引くときは逃げ太鼓を打ち、押し出すときには攻め鼓を叩いた。指揮官の銅鑼(どら)や鐘の合図で縦横に散開し、密集し後退する軍隊である。日本人の知らない武装・構成・編成・戦略・戦術を駆使するモンゴル軍の、整然とした戦闘展開をまえに、神経を攪乱されてつかいものにならなくなった軍馬と同じように、武士たちはすっかり怖じおののき、戦う気力をうしなった。筥崎(はこざき)八幡宮は日本の武士たちが逃げだしたあと、焼け落ちてしまった。
 第一次モンゴル戦争・文永合戦は実質一日の出来事と考えられてきたが、本当は一週間ほど続いた。そして、モンゴル軍は撤退していった。これは予定されたものとみるべきである。長期占領の用意をしていたという形跡はない。帰還途中に突風に吹かれたことはあった。
 モンゴル軍が日本を狙ったのは、彼らが日本にあると思っていた豊富な金・銀・真珠を手に入れようとしたものだった。
 弘安の再征は、旧南宋の帰順軍隊を減らす目的があった。氾文虎の率いる江南軍10万は、ほとんどが旧南宋の軍隊であった。兵を失業させずにすますのが弘安の再征だった。人々は、スキやクワを持って船に乗った。ほとんどの兵員の実態は軍隊ではなく、農民であり、遠征の目的は兵として戦うというより移住・移民にあった。
 一足先に日本列島に到着した東路軍は、壱岐島沖の海上に浮かんで、ひたすら江南軍の到着を待った。ところが、夏の海上生活は予想をこえて大変だった。蒸し風呂のような船内は、兵士の体力を消耗させ、食料は腐敗、栄養のかたより、兵糧切れ、水事情の悪化がすすみ、ついに大規模な伝染病が艦隊全体にひろがり、死者は3千余人に及んだ。そのうえ、生木をつかって突貫建造した船体が腐ってきていた。
 そこへ、日本列島を縦断する台風が襲った。暴風雨のあとに残った船は、4千あまりのうち200隻たらずでしかなかった。生きて中国大陸に帰ったものは5分の1にすぎなかった。捕虜となったモンゴル軍のうち、モンゴル人と高麗人と漢人は皆殺しにされ、南宋人だけは殺されずに奴隷にされた。日宋貿易以来のなじみがあったからである。
 このように見てくると、決して神風が吹いたから日本は助かったというだけではないということがよく分かります。

戦場に舞ったビラ

カテゴリー:日本史(戦後)

著者:一ノ瀬俊也、出版社:講談社
 第二次大戦中、日本軍とアメリカ軍が戦場でまいたビラ、伝単と言います、を収集して、その効果を検証した異色の本です。
 日米両軍とも、伝単の作成には力を注いだ。日本は陸軍参謀本部に、アメリカはマッカーサー軍司令部に、それぞれ専門の部署をおいていた。
 アメリカ軍は1942年(昭和17年)4月、空母ホーネットから長距離飛行が可能な陸軍の双発爆撃機B−25を16機発進させ、東京・横浜を空襲して中国大陸に着陸させるという奇策を用いた。このとき、アメリカ軍は「桐一葉」伝単を日本上空にまいた。
 「桐一葉、落ちて天下の秋を知る」にちなんだ伝単であり、「落つるは軍権必滅の凶兆なり」などと書かれていた。この伝単を考案したのは、戦前のアメリカで対日反戦運動を展開していた、後の評論家・石垣綾子だったという。
 ソロモン諸島に取り残された日本兵は、日本の大本営の大げさな戦果発表よりもアメリカ軍のまくビラの方がよほど信頼性があることをよく知っていた。そこでは、無気力・不感症になったような兵たちがアメリカ軍のまく伝単を拾っては貼りあわせて花札をつくり、毎晩、賭博を開帳していた。
 日本軍の士気の衰えがよく分かりますね。
 グアムにいた日本兵は、終戦になっても日本が降伏したことを知らず、ジャングルのなかにいて、敵から奪った手紙やごみという「意図せざる伝単」を通じて正確な情報を手に入れ、それによって自ら情勢を判断して投降した。
 横井庄一もジャングルのなかにいてアメリカ軍による投降勧告放送を聞いていたが、捕虜をつかったアメリカ軍の謀略だと解釈して応じなかった。このとき、日本陸軍の参謀自らが放送していたら応じていただろう。横井庄一は 1972年、28年間のジャングル生活の末にやっと投降した。
 1972年のことは今も覚えています。驚きでした。日本の戦後は終わっていないというのを実感させられた瞬間でした。
 日本軍に投降をすすめる伝単には、投降の「作法」を絵で示すものもあった。投降する日本兵がふんどし一つの裸で出てくる場面を当時の記録映像で見ることがある。それは、こうした伝単や投降放送の指示にもとづくものなのである。
 なるほど、投降するにもお互い生命をかけていたのですね。伝単の意義をしっかり理解することができました。
 わが家の田んぼに水が張られ、田植えが始まりました。蛙たちが一斉に鳴きはじめ、夏到来を告げています。

ダ・ヴィンチ、天才の仕事

カテゴリー:ヨーロッパ

著者:ドメニコ・ロレンツァ、出版社:二見書房
 すごい本です。ダ・ヴィンチのスケッチを立体的な模型をつくって再現してみせてくれます。いかにも精巧な仕組みを目のあたりにすると、ダ・ヴィンチが文句なしに天才であることが、よくよく分かります。
 ダ・ヴィンチは1487年から1519年に死ぬまで、ノートにいろんなスケッチと解説を書きしるした。それをコンピューター・グラフィック(CG)で、ことこまかに再現したのが、この本です。機械仕掛けの翼、空気スクリュー、飛行機があります。
 ダ・ヴィンチはドビウオに着目した。水中でも自由自在に動き飛べるから。この法則をつかみ、それを生かせば、人間も空を飛べるはずだと考えて研究を重ねたのです。ダ・ヴィンチの構想が、こんなに細かく精密なものだったとは知りませんでした。
 ダ・ヴィンチは、武器の開発にも乗り出しています。大砲、多銃身砲、連射式大砲、回転式大砲、防御壁、戦闘馬車、装甲車、要塞などです。
 ダ・ヴィンチの描いたスケッチをもとに、その小さな部品まで全てがことこまかに図解され、再現されています。ただただ驚くしかありません。
 ダ・ヴィンチは後年になって、戦争を「残虐非道な狂気」と呼びましたが、突起のついた車輪など、大量殺戮兵器をいくつも考案して、領主に提案しました。
 ダ・ヴィンチはイタリアで生まれましたが、晩年はフランスのロワール川沿いのアンボワーズで暮らしていました。私も2年前にロワール川のお城めぐりをしたときに、ダ・ヴィンチの遺品を展示した博物館に入ったことがあります。
 ダ・ヴィンチの天才的な創意・工夫のすごさを視覚的に知ることのできる本でした。
 日曜日の午後から、福岡の大学で仏検(一級)を受けました。難しすぎて話になりません。一問目の名詞に換えて同旨の文章につくり変えるのは5問とも全滅でした。二問目の動詞もまったく思いつかないものばかりです。三問目、四問目も厳しく、壊滅状態。長文読解で、ようやく息をつき、仏作文は、それらしい文章にするのに四苦八苦しました。それでも私が一級を受け続けているのは、書き取り試験が7割ほど点がとれるからです。長くフランス語を勉強していますので、耳で聞きとるのだけは、前よりずっと出来るようになりました。自動車を運転しながらシャンソンを聞くのが楽しみです。
 いま、わが家の庭にはグラジオラス(白やピンクの花を咲かせています)、カンナ(斑入りの黄花で、見ると爽やかな風を胸のうちに吹かせてくれます)、そして橙色のノウゼンカズラがフェンスを飾っています。初夏の到来です。

刑務所改革

カテゴリー:司法

著者:菊田幸一、出版社:日本評論社
 日本の刑務所の現状と問題点について多角的に検討した本です。とても勉強になりました。
 最近、山口県で民営刑務所がオープンしました。PFI方式というそうです。法律が改正されないままに、このような刑務所民営化がすすむことに重大な疑問が投げかけられています。なるほど、そうですよね。その最大の問題は電子監視システムによって、職員と被収容者との対話によって処遇するという理念に反すること、人と人との信頼感を前提とするのではなく、警備的発想にもとづくシステムでいいのか、ということです。
 PFI方式と民営化とで異なるのは、PFI方式は、あくまで管理者は公共部門だということです。アメリカなどで、このPFI方式による刑務所が先行していますが、そこでは、企業の営利追求のあまり、民間職員が十分な装備も訓練も受けず、矯正に関してまったくの素人であり、ひたすら被収容者が満員であり続けることしか願っていないため、逃走事件までひき起こしているということです。それは職員全体の処遇を悪化させ、職員のやる気を失っていく心配があります。営利本位と矯正教育との両立は難しいのではないでしょうか。もっとも、フランスではうまくいっているという報告もあります。
 海外視察をした人が日本の刑務所を見ると、次のような感想を述べるそうです。
 日本の受刑者には表情がまったくない。つまり、暗い。能面のような顔をしている。外国の刑務所では、受刑者の表情が非常に豊かだ。訪問者に対して「こんにちわ」と挨拶もする。日本では考えられもしない。日本の収容者は、刑務所内ではまるでロボットだ。一列に並ばされ、軍隊式の行進を強制している。
 アメリカの多くの刑務所は、食事の場所こそ異なるが、受刑者の調理した同じものを職員も受刑者も食する。受刑者の大きな関心事である食事から人権尊重の姿勢を示そうということ。アメリカでは、受刑者が自分で調理しているという本も読みました。
 フランスでは収容者は私服を着ている。イギリスは制服だが、ジャケットをはおることができる。スイスは官給であっても、当局がいろんな服を買い集めて、支給している。
 日本では、刑務所内で作業しても、一人平均月4050円にしかならない。これは、就業に対する対価ではなく、恩恵として支給するものである。
 刑務所に入っているあいだ選挙権を奪うという現行法についての疑問も提起されています。自由を奪うだけでいいではないか、あくまで主権者の一人ではないか、ということです。アメリカやヨーロッパでは、受刑者にも選挙権が認められていて、不在者投票できるそうです。知りませんでした。
 刑務所内にいると、住民票がとれなくなることの不合理さの指摘もなるほど、と思いました。出所後、住民票がないことから生活保護が受けられず、ホームレスになるしかなくなるからです。このところ、無銭飲食事件を国選弁護人として担当することが何件もあります。前科者というレッテルを貼られると、社会内での更生はなかなか難しい現実があります。収容者はいずれ社会復帰するのだという視点から、刑務所内の処遇を考え直す必要があると、私はつくづく思います。だって、あなたの隣人になるかもしれないのです。社会全体がもっと温かく受け入れる姿勢を示さないと、報復と憎悪にみちみちたままかもしれないのですから・・・。

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