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薩摩スチューデント、西へ

カテゴリー:日本史(江戸)

著者:林 望、出版社:光文社
 あのリンボー先生による初めての長編時代小説です。「小説宝石」に2004年5月から2年にわたって連載されていました。
 明治維新の前夜、まだ海外渡航が禁止されていた時代、薩摩藩は、前途有為な若者たち15人を、ひそかにイギリス留学へ旅立たせた。藩としての秘密使節4人が同行した。
 外国への渡航は死罪にあたる国禁であったから、発覚したときには藩上層部の責任が問題になるのは必至である。しかし、海外との密貿易をすすめて財を得ていた薩摩藩は、巨額の資金とともに若者たちを送り出した。
 若者たちは、全員脱藩の扱い。出発するのもこっそり。長崎のグラヴァーが迎えの船を用意し、乗り込む。最年少の長沢はまだ13歳。次に15歳、そして19歳が2人いて、大半は20台前半の若者たちである。
 船中で英語を学び、船酔いに苦しみ、慣れない洋食に悪戦苦労していく様子が描かれていきます。文明開化を取り入れた先達の苦労が偲ばれます。
 この本で圧巻なのは、日本の若者たちがヨーロッパ文明に圧倒されながらも、気後れするだけでなく、すすんでその技術を身につけようとする様子です。好奇心旺盛な彼らは、ヨーロッパ文明をひとつひとつ自己のものにしていきます。それは、科学・技術だけでなく、商売の点でもそうですし、工場運営などについても大いに学んでいくのです。
 その2年前に薩摩藩はイギリス軍と鹿児島湾内で戦い、圧倒的な武力の差に惨敗し、町を焼き払われています。わずか2年後に敵国イギリスに若き俊英をひそかに送りこんだわけです。その大胆な発想の転換には驚かされます。
 イギリスで薩摩藩使節たちは最新式の武器を大量に購入しました。今のお金で22億円相当というのですから、なんともすごいものです。小銃2300挺などです。
 かつての日本の若者の意気の高さを、現代日本に生きる我々は見習いたいものだと思いました。
 雨の多い梅雨でした。蝉の鳴き声をずっと聞くことができませんでした。朝、雨が降っていないのに蝉が鳴かない日は、やがて雨が降るということです。どうやって蝉は地上の天気を知るのでしょうか。このままずっと雨が降り続いたら、地中の蝉は来年の夏を待つことになるのか、心配していました。朝から元気よく鳴き蝉の声を聞くと、うるさくもありますが、やっと夏が来たという実感に浸ることができます。

武田信玄と勝頼

カテゴリー:日本史(中世)

著者:鴨川達夫、出版社:岩波新書
 タイトルだけからすると、信玄と勝頼という戦国大名の親子の葛藤を古文書にもとづき再現・分析した本のように思えます。しかし、本の中味は、文書にみる戦国大名の実像というサブ・タイトルのとおりです。そして、それはそれなりに面白い内容です。
 私は、ひやあ、そうだったのか、知らなかったなあ、と思いながら、とても興味深く読みすすめていきました。くずし字の古文書を著者のようにスラスラと解読できたら、どんなに世界が広がるかと、私には著者がうらやましくてなりません。
 文書は手紙系の書状と書類系の証文とに大別できる。書状には年紀をつけない。相手が家臣や近隣の大名であるときは、堅切紙(たてぎりがみ。通常の紙を縦に半分程度に切ったもの)が、遠隔の大名のときには切紙(きりがみ。横に半分に切ったもの)が多く使われる。
 証文は、信玄や勝頼が決定した施策や確認した事項を、公式に通達する文書である。各級の家臣や寺社、商工業者や郷村の人々まで、領国内の諸階層に幅広く与えられていた。中身は多岐にわたるが、土地の領有を新規にまたは継続して認めたもの(充行状・あてがいじょう、安堵状・あんどじょう)、各種の義務の免除など何らかの特権を認めたもの、戦場における功績を確認したもの(感状)などが目立つ。体裁は必要な事柄を事務的に記したうえで、「仍って件の如し」(よってくだんのごとし)という文言で結ぶのが原則。そして、年紀が必ず記入される。
 信玄は永禄9年(1566年)夏ころ、証文のつくり方を変えた。それまでは折紙(おりがみ。紙を横に二つ折りにしてつかう)をつかっていたのを、堅紙(たてがみ。紙の全面をつかう)に改めた。また、信玄自身の名義で出すものと、当該案件の担当奉行名義で出すものとに二分し、前者には花押を書き、後者には龍の朱印を捺(お)すことにした。そこで、信玄名義で花押のあるのを判物、奉行名義で朱印のあるものを朱印状と称する。身分の高い相手や重要な案件については判物、それ以外の大半の案件については朱印状というのが原則であった。つまり、朱印状より判物のほうが格が高い。
 出馬と出陣とは違う。出馬は一軍の大将が出動するときにつかう。大将がどこかに滞在することを馬を立てるといい、行動を終えて帰還することは馬を納めるという。大将の下にいる将兵が出動するときには、出陣という。
 信玄の直筆の手紙からすると、信玄には気の小さい、臆病なところがあったと解される。しかし、その一方、きわめて強気な態度を示すこともあった。
 信玄は、遠江・三河を攻めたとき、そのまま京都に攻め上り、天下を取ろうとしたのだという通説に対して著者は疑問を投げかけています。
 信玄の標的が岐阜であり、信長を主敵と考えていたことは間違いないとしても、それは必ずしも本意ではなかった。朝倉義景や本願寺など、当時、信長に圧倒されていた勢力によって反信長陣営に主将として引っぱり出されただけ。
 なーるほど、そうかもしれません。戦国大名の統治形式と心理をうかがい知ることのできる手がかりが得られる本です。

イラクの混迷を招いた日本の選択

カテゴリー:社会

著者:自衛隊イラク派兵差止訴訟全国弁護団連絡会議、出版社:かもがわブックレット
 イラクでは毎日のように自爆攻撃がくり返され、大勢のイラク人が殺されています。日本の新聞では小さく報道されますが、テレビで報道されることはほとんどありません。あまりに毎日おきて、あたかもルーティンワークのようになってニュース(目新しいもの)にならなくなってしまったからです。
 そんなイラクで日本の自衛隊が今なおアメリカ軍の下働きをしています。航空自衛隊です。200人の自衛隊員がイラク内で輸送業務に従事しています。
 アメリカ軍兵士を輸送する航空自衛隊C−130H輸送機は「アメリカ軍の定期便」と言われている。C−130H輸送機は、乗員は6人で、最大輸送人員92人、完全武装兵でも64人を乗せることが可能。搭載量は20トン。ジープや大砲、装甲車も運べる輸送機だ。
 撤退した陸上自衛隊はイラク・サマワで何をしていたのでしょうか。日本のマスコミはテレビも新聞も、本当のことをまったく伝えませんでした。
 当初は、たしかにサマワ市民への給水活動を多少なりともしていた。しかし、2006年2月からは給水活動は何もしていない。治安が急激に悪化したため、自衛隊は郊外にある宿営地から出ることができなくなった。そして、給水活動をしていたとき、実はサマワ市民とあわせてアメリカ軍やオランダ軍への給水活動もしていたのではないか。砂漠地帯では、兵器は水冷ディーゼルエンジンで動いている。水がなければアメリカ軍は戦うことができない。日本の自衛隊はアメリカ軍の下支えとしての給水活動をしていたと思われる。このように、サマワの自衛隊は、広大なイラク南部砂漠地帯の占領政策を遂行する多国籍軍に、軍隊にとっての「命の水」を安定的に供給するという後方支援活動、つまり軍事活動を担っていた。
 なーんだ、そういうことだったのか・・・。またまた日本人は日本政府から欺されてしまったのですね。
 イラクにいるアメリカ兵は15万人。これまで3600人ものアメリカ兵が戦死した。しかし、イラク市民の死者はケタが2つも違う。65万5000人と推計されている。さらに、家族を失い、家を破壊されるなどして国外に難民として流失した人々が200万人国内避難民は170万人。イラク戦争が始まったときのイラクの人口は2700万人。3年間でイラクの人口の一割が減少したことになる。
 ですから、イラク人女性の次のようなブログ上の発言には、つい、そうだよな、と同感せざるをえないのです。
 この4年でアメリカ兵が3000人死んだんだって。本当? それはイラク人の一ヶ月の死者の数にもみたないじゃない。アメリカ人には家族がいた? それはお気の毒さま。でも、それはイラク人にとっても同じことよね。イラクの道ばたの遺体や遺体安置所で身元確認を待っている遺体たちもね。アメリカ兵の命は私たちのいとこの命よりもっと大切だって言うの? 私はそうは思わないわ。
 愛する家族や友人を奪われた人々の心の中に憎しみが生まれてくるのも当然です。報復の連鎖はどこかで止めるしかありません。
 日本のマスコミは、イラクで日本の自衛隊が何をしたのか、いま何をしているのか、自衛隊が後方支援しているアメリカ軍がイラクで何をしているのか、もっと事実を正しく報道すべきです。
 いったい、今、イラク国内に日本のジャーナリストはいるのでしょうか。どこに何人いるのでしょうか? 私は、ぜひ知りたいです。こんな基本的なことも明らかにしないで、日本を「美しい国」だなんて、言わせません。

ティムール帝国支配層の研究

カテゴリー:ヨーロッパ

著者:川口琢司、出版社:北海道大学出版会
 チンギス・ハンのあとに中央アジアに広大な帝国をうちたてた有名なティムールとその帝国についての研究書です。本格的な内容ですので、難しいところも多々ありました。
 ティムール帝国の時代は、空前絶後の領土を有したモンゴル帝国が解体したあとに到来した。このころ、日本は室町幕府、足利尊氏から義満にかけての時代。中国では明帝国の前半の時代。ヨーロッパでは、百年戦争やバラ戦争を経て、大航海時代に入ったころ。ロシアでは、モスクワ大公国が力をつけ、モンゴル支配の桎梏から自立しようとしていた。
 ティムール帝国は、中央アジアのモンゴル国家チャガタイ・ウルスの領域に成立し、中央アジアから西アジアに及ぶ広大な領域に、6代140年間にわたって続いた。
 ティムールは、青年時代に右手と右足に終生の傷を負い跛者となったが、その類いまれな才覚と人望により、祖先の名望や所属部族の力をあてにすることなく、一代で広大な大帝国をうちたてた。1360年代、ティムールは、旧来の部族に頼らない新しい家臣団を組織しながら、有力部族たちを巧みに味方につけ、宿敵フサインとの権力闘争を制し、1370年、ついにサマルカンド政権を樹立した。
 ティムールは、チンギス・ハンを意識し、モンゴル帝国の再興を目ざしていた。   
 ティムール自身はチンギス・ハンの子孫ではない。バルラス部族の出身である。しかし、当時の中央アジアでは、チンギス・ハンの子孫でなければ君主になれないというイデオロギー(チンギス統原理)が生きており、支配の正当性の根拠となっていた。
 そこでティムールは、チンギス・ハンの子孫を実権のないハンとして擁立し、チンギス・ハンの子孫の女性と結婚して婿(キュレゲン)の地位を獲得することにつとめた。モンゴルの権威を利用して支配の正当性を得ようとしたわけである。
 ティムールは、チンギス・ハンの子孫である4人の女性と正室とした。しかし、その正室から生まれた嫡子は次男のみで、長男も三男、四男もみな側室を母とする。ところが、この4人の息子たちは、いずれもチンギス・ハンの子孫にあたる女性と結婚している。
 ティムール帝国では、明確な後継制度が定められていなかったため、実力で君主位継承争いに勝利した者が新しい君主になる場合が多くみられた。ティムールの遺言は無視された。
 ティムール帝国では、チュルク・モンゴル的な要素とイラン・イスラーム的な要素が融合し、きわめて高度なイラン・チュルク・イスラーム文化が花開いた。ティムール朝の人々はイスラーム教徒であった。
 ティムールは積極的な建築活動を展開した。そこで、チンギス・ハンは破壊し、ティムールは建設した、と言われた。
 ティムール帝国の末期には、北方のキプチャク草原からウズベグ族が侵入し、1507年にティムール帝国は崩壊した。1991年、ウズベキスタンが独立すると、ティムール帝国を滅ぼしたウズベグ族の子孫たちが、ティムールを英雄視し、自分たちの文化的系譜をティムール帝国にまでさかのぼらせている。
 ティムール帝国についての本格的な研究書です。素人にも分かるところだけを飛ばし読みしました。
 梅雨空の晴れ間に蝉があわてたように鳴いています。このところ例年より雨が多くて、蝉の出番がなくて、焦っている気がしました。庭にサルスベリのピンクの花が咲いています。お隣の家には、合歓の木が二度目の可憐な花を咲かせています。梅雨明けが待ち遠しいこのごろです。

ダイナスティ

カテゴリー:社会

 著者:デビッド・S・ランデス、出版社:PHP出版社
 ファミリー企業とは、創業者あるいはその家族によって所有され経営されている企業のこと。同族経営と言われると、マイナス・イメージもある。
 しかし、このところ欧米ではファミリー企業は再評価されている。『フォーチュン』誌の選んだ世界のトップ500社のうちの3分の1をファミリー企業が占めており、EU(ヨーロッパ連合)では国民総生産と労働市場の3分の2をおさえ、あなどりがたい勢力となっていて、その優位性は明らかである。日本では、245万社ある企業の94%は同族企業で、上場企業でも4割はファミリー企業である。
 この本は、世界のトップ巨大企業のうちのファミリー企業の内情を描いたものです。ファミリー企業は、一族が多産かどうか、その生命の再生産能力にかかわるところが大きい。
 また、風習や文化によっては、直系の男性だけを後継者とみなし、女婿はおろか実の娘でさえも会社に参加させず、彼らを部外者としてしまうファミリー企業も多い。反対に、トヨタ自動車のように、血統については寛大で、姻戚だけでなく、養子縁組でもよいとする文化もある。
 銀行業は二つの理由からファミリー企業向きである。銀行業で成功するには、基本的に人間関係が大切で、誰と知りあいで、誰を信頼し、誰から信用されるかというコネクションである。しかも、生産企業と違って銀行では絶えず発達する技術にそれほど依存することもない。一年単位でも技術革新に対応できるような有能な技術者は必要としない。つまり、家族以外の人材に頼る必要性に乏しい。
 ダイナスティ(王朝)は、愚者であっても支配でき、また、しばしば愚者が支配した。
 ユダヤ教の習慣では、おいとおばとの結婚は禁じているが、おじとめいの婚姻は認めている。ロスチャイルド家の孫たち18組の結婚のうち16組はおじとめいかいとことの結婚だった。一族のなかの婚姻は、社会的にも文化的にも利点があった。習慣や秘密を外部から守ることができた。
 逆境のなかで不屈であることこそ、ダイナスティを支える力である。ロスチャイルド家は外部からの支援は受けたが、その核心はあくまでも一族だった。
 フォードは反ユダヤ主義者で、ナチスから堂々と勲章をもらった。そして、ニューディール政策をとったルーズベルト大統領を毛嫌いした。工場内の労働組合をつぶすために暴力団に頼んで殺させることもした。
 アイアコッカは、フォード社でめざましい成果をあげた。会社の経営は好転し、社会でのフォードのイメージは定着した。アイアコッカが社長になってもおかしくなかった。しかし、彼は一族でなかった。精力的で野心家で、家族の手に負えなかった。強大になりすぎたため、アイアコッカはフォード社から排除されてしまった。
 ファミリー企業の継承は世界各国でも必ずしもうまくはいっていないようです。偉大な父親の下では虚弱な息子が生まれがちなのは、世の東西を問わないからです。

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