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中世のうわさ

カテゴリー:日本史(中世)

著者:酒井紀美、出版社:吉川弘文館
 おぼしきこといはぬは、げにぞ、はらふくるる心ちしける。かかればこそ、むかしの人は、ものいはまほしくなれば、あなをほりては、いひいれ侍りけめ。
 これは、平安時代の歴史物語『大鏡』の序文です。まことに、人間は、思っていることを自分ひとりの腹のうちにためておくことを大の苦手とする生き物ではあります。「ここだけの話だけど・・・」という話は、またたくまに、大勢の人に伝わっていくものです。
 なま身の人間の口や耳を通して伝えられ広がっていく「うわさ」には、それにかかわった膨大な人々の意識、願いや望み、心配や恐れ、それらがないまぜになって、何層にも重なり合って刻みこまれていくことになる。それは、まるで多くの人間の手仕事によって織りあげられた織物のようである。
 中世社会は自力の世界だったと言われる。たとえば、殺害事件が起きたとき、他の第三者にその捜査や解決をゆだねるのではなく、事件の被害者の血縁者や同じ場に生活している集団が、いちはやく動き出し、事件の状況把握につとめ、犯人を捜査し、さらにはその処罰までをも実行するというやり方が、中世社会では普通だった。これを自力救済という。
 何ごとも自分たちの手の届く範囲で解決していこうという姿勢は、中世の人々のもっていた強い集団への帰属意識を軸にしてはじめて実現できるものであった。
 中世の日本社会では、「国中風聞」が物証に匹敵するような地位を占めていた。切り札として「国中風聞」が扱われていた。
 ええーっ、単なる「げなげな話」が物証に匹敵していたなんて・・・。ホントのことでしょうか?
 室町時代の裁判のことが紹介されています。日本人は昔から裁判が嫌いだった、なんて俗説は、まったくの誤りです。日本人は昔も今も(もっとも、今のほうがよほど裁判が少ない気がします)、裁判大好きな民族なのです。そして、それは、日本人が健全な民族であったことを意味する。弁護士生活も33年を過ぎた私は、そのように考えています。
 この本に室町時代の土地争いが紹介されています。有名な東大寺百合文書には、折紙銭、礼物、会釈などという、裁判に要した費用の名目と金額が記録されていました。
 当時、三問三答というルールで裁判は運営されていました。そして、口頭で弁論して、相手を言い負かした人に感状が与えられたのです。
 「器用の言口」(きようのいいくち)とは、相論対決の場で、自分たちの主張を理路整然と展開することのできる力、相手方の矛盾を的確に突き、それを論破する力のことを言います。今の私たち弁護士にも同じものが求められています。私などは、弁護士を長年やっていても、残念ながらなかなか身につきません。いえ、文章のほうは書けるのですが、口頭での対決・論争に自信がないということです。裁判員裁判が始まると、これまでより以上に口頭で論破できる能力が求められることになります。
 風聞(ふうぶん)と巷説(こうせつ)と雑説(ぞうせつ)とを並べてみると、巷説と雑説の方は、その内容に信頼度が低く、風聞のほうが信憑性が高いと考えられていた。
 物言(ものいい)というのは、まだ起こしていない事件についての予言的なうわさを言う。「国中風聞」という事実が、殺害事件の真実に迫る重要な証言とされるのも、人口(じんこう)に乗ることが悪党である徴証のひとつにあげられるのも、落書起請(らくしょきしょう)で犯人を特定する際に実証と並んで風聞にも一定の席が用意されているのも、すべて、中世のうわさに付与されていた力、神慮の世界との密接なかかわりによる。
 同時に、うわさされている内容をくつがえそうとするときには、やはり神慮を問うための手続きが必要とされていた。そのひとつが、精進潔斎したうえで、神前に籠もり、起請文を書いて一定の期間内に「失」があらわれるか否かを問う「参籠起請」であった。
 うむむ、こうなると、中世の日本人と現代の日本人とは、同じ日本人であっても、全然別の人間かなと一瞬思ってしまいました。でも、よくよく考えてみると、今の日本人でも神頼みする人はたくさんいるわけですので、あまり変わっていないのでしょうね。
(2007年3月刊。2600円+税)

顔のない男

カテゴリー:ヨーロッパ

著者:熊谷 徹、出版社:新潮社
 東ドイツの最強スパイの栄光と挫折というサブ・タイトルのついた本です。東ドイツのスパイ・マスターの実像を追跡しています。
 東ドイツには悪名高いシュタージ(国家保安省)がありました。シュタージは、国内の反体制勢力の監視と摘発を主たる任務とし、東ドイツ社会の隅々にまで目を光らせていた秘密警察です。
 シュタージは、ソ連のKGBと同じく軍隊組織だった。この本の主人公であるマルクス・ヴォルフは、陸軍大将の階級を与えられていた。
 東ドイツは盟主ソ連をしのぐ、世界最大の秘密警察国家だった。シュタージの正職員は、ベルリンの壁が崩壊した1989年秋の時点で、9万1000人いた。これは、東ドイツ市民180人に1人の割合で秘密警察職員がいたことを意味する。ナチスのゲシュタポが7000人だったことを考えても、はるかに多い。
 職員のほか、17万4000人の東ドイツ市民が非公然職員(IM)として登録し、情報を提供していた。その数はのべ60万人にのぼる。
 ヴォルフの率いるHVAが利用していた西ドイツ在住のスパイは、1988年の時点で1553人。のべにすると、6000人という推定、また2〜3万人にのぼるという推定もある。
 ヴォルフのつかったスパイのうち、もっとも有名な人物にブラント首相の側近(補佐官)として活躍していたギョームがいる。ただし、ギョーム事件は諜報作戦がうまく行き過ぎると、政治的な利益をそこなうことがあるという失敗例でもある。
 このギョームは、資本主義社会の現実に接しても、自分の使命を固く信じ、社会主義の理想を失わず、性格的にも実直であった。
 西ドイツの対外諜報機関BNDに潜入し、女性として幹部職員となり、その優秀さを買われて、ソ連情勢分析部の副部長にまで出世したスパイもいた。
 HVAにリクルートされた秘書スパイの半分以上はボーイフレンドがいなかった。  1949年からの38年間に、西ドイツの捜査当局が摘発した秘書スパイは58人にのぼる。誰かに愛されたい。もう独りぼっちはたくさんだと悩む女性の心につけいった。
 西側の人間がヴォルフのスパイになった動機は三つある。政治的な信条、恋愛関係、そしてお金。西ドイツの憲法擁護庁の対スパイ課員たちが次々にヴォルフのスパイになっていった。それは、給料や昇進に関する不満が高まっていたことによる。
 西ドイツの諜報機関BNDは、1925年以来、東ドイツの諜報機関を率いていたヴォルフの顔を20年以上も特定できなかった。このため、ヴォルフは、西側のスパイ機関から、「顔のない男」と呼ばれていた。それが発覚したのは、スウェーデンで不審な旅行者団をうつした写真のなかで発見されたため。1979年3月のこと。
 ヴォルフはHVAを隠退して、1989年にベストセラー作家としてデビューした。『トロイカ』という本を出版して、ベストセラーになった。
 その後、ヴォルフは東西ドイツの統一のあと、国家反逆罪で起訴され、一審では有罪となったものの、連邦憲法裁判所において、国家反逆罪は成立しないという勝訴判決を得ている。
 ドイツの検警当局は、統一したあと、2303人のHVA職員に対してスパイ活動などの疑いで捜査したが、そのうちの98%は嫌疑なしとして起訴されなかった。有罪判決を受けたHVA職員は12人にすぎない。
 HVAのスパイとして登録されていた1553人の西ドイツ人に対して捜査をはじめたが、そのうち有罪判決を受けたのは181人にすぎない。全体のわずか12%。2年をこえる禁固刑の実刑判決を受けたのは66人だけ。残り115人は、2年以下の禁固刑か、執行猶予または罰金刑だった。
 ヴォルフが亡くなり、HVAが消滅したあとも、統一ドイツはスパイの影に怯えている。
 HVAが西ドイツに送りこんでいたスパイの半分以上は10年以上も諜報活動に従事していた。なかには40年近くも東ドイツにスパイとして協力していた者がいる。
 うむむ、すごいことですね、これって・・・。
 映画『エディット・ピアフ』をみました。2時間20分、彼女の歌声に聞きほれ、至福のひとときを過ごしました。フランス語を勉強して良かったと思いました。もちろん、全部ではありませんが、今ではかなり会話そして歌詞が聞きとれます。
(2007年8月刊。1300円+税)

パール判事

カテゴリー:日本史(戦後)

著者:中島岳志、出版社:白水社
 日本の戦争責任を裁いた東京裁判において、敢然と「日本無罪」論を主張したインド出身のパール判事の実像を描いた貴重な労作です。パール判決が「日本無罪」を主張したわけではないことを改めて認識しました。小林よしのりをはじめとする右翼の論者にぜひ読んでもらいたい本です。
 パール判事は1886年の生まれ。インドはカルカッタ出身というのではなく、今のバングラデシュのベンガル地方の小さな農村に生まれた。陶工カースト出身で、父親が急死して経済的にも貧しかった。それでも、村の小学校を優秀な成績で卒業したため、奨学金を得て、カルカッタ大学に入ることができた。
 パールは、熱烈なガンジー信奉者だった。
 東京裁判の判事に就任するまで、パールはカルカッタ大学の副総長であった。東京裁判に判事を派遣できるかどうかは、インドの国際的地位と名誉に関わる重大な問題であった。宗主国のイギリスを味方につけ、アメリカに圧力をかけて、インドはようやく判事の地位を獲得することができた。
 東京裁判は1946年5月3日に開廷した。遅れて着任したパールが法廷に初めて姿を現したのは5月17日のこと。だから、パールは東京裁判の正当性をめぐる弁護人の意見を聞くことができなかった。
 ブレークニー弁護人は、戦争は犯罪ではない、もしそれが犯罪とされるのなら、原爆投下によって広島・長崎で罪なき市民を大量虐殺したアメリカの戦争犯罪の責任が問われないのは不公平だと指摘した。
 パールは、原爆投下について、残虐で非人道的な行為であり、決して許すことはできないとしつつ、しかしながら、「人道に対する罪」が国際法として成立していなかった以上は、この罪で裁くことはできないと判断した。
 さらに、日本軍による南京大虐殺について、パールは法廷に提出された証拠や証言には問題があることを鋭く指摘しつつ、それでもなお南京虐殺の存在を証明する証拠は圧倒的であり、この事件は事実あったと認定した。すなわち、南京虐殺は実際に起こった事件であり、個別的なケースはともかくとして、その存在自体を疑うことはできないと断言した。
 パールは、検察官の起訴した事実について無罪としたが、それはあくまで国際法上の刑事責任において「無罪」としただけで、日本の道義的責任までも「無罪」としたわけではない。パールは次のように述べました。
 日本の為政者はさまざまな過ちを犯し、悪事を行った。また、アジア各地で残虐行為をくり返し、多大なる被害を与えた。その行為は鬼畜のような性格をもっており、どれほど非難してもし過ぎることはない。当然、その道義的罪は重い。しかし、「平和に対する罪」と「人道に対する罪」は事後法であり、そもそも国際法上の犯罪として確立されていないため、刑事上の「犯罪」に問うことができない。
 パールは、再び日本にやって来たとき、広島の原爆慰霊碑の碑文を読んで憤りの声明を発表した。
 原爆の責任の所在をあいまいにし、アメリカの顔色をうかがう日本人。主体性を失い、無批判にアメリカに追随する日本人。東京裁判を忘却し、再軍備の道を突きすすみ、朝鮮戦争をサポートする日本人。
 そうなんです。パールはアメリカの意向を至上の価値として仰ぐ戦後日本の軽薄さに憤ったのです。戦争に対する反省の仕方を誤り、再び平和の道を踏み外そうとする日本に苛立ったわけです。
 パールは、東京裁判の判決書において、あくまでも「A級戦犯の刑事責任」のみを対象としていた。パールはB級戦犯の刑事上の責任は認めており、日本の行為のすべてを免罪にしたわけではない。
 パールは、判決書の中で、東条一派は多くの悪事を行った、日本の為政者、外交官そして政治家はおそらく間違っていた、みずから過ちを犯したのであろうと明言した。
 パールは決して「日本無罪」と主張したわけではない。「A級戦犯は法的には無罪」と言っただけで、指導者たちの道義的責任までも冤罪したわけではない。ましてや、日本の植民地政策を正当化したり、大東亜戦争を肯定する主張など、一切していない。
 なーるほど、やっぱり、そうなんですよね・・・。
(2007年8月刊。1800円+税)

新潟 樽きぬた

カテゴリー:日本史(江戸)

著者:火坂雅志、出版社:小学館
 江戸時代に、小さいながらもパリ・コミューンみたいなことが起きていたなんて、ちっとも知りませんでした。
 長岡藩は、固定資産税である地子(ぢし)のほか、新潟湊(みなと)に出入りする船の積み荷の取引にかかる仲金(すあいきん)を取り立ててきた。そのうえ、臨時税として1500両もの御用金として新潟町に課した。新潟町の町政を取り仕切る検断は、昔から定員3人で、長岡藩が指名した。このときは1人欠けて2人の検断となっていた。室屋と加賀屋である。いずれも新潟で一、二を争う廻船問屋である。
 廻船問屋は新潟湊へ出入りする船から荷を買いつけ、売りさばく権利を一手に握っている。そのうえ、千石船、五百石船を何艘も所持し、大坂と蝦夷地の松前を結ぶ西廻り航路であきないをおこない、莫大な利益を得ていた。この豊富な資金力を元手に、田畑や山林を買って大地主となり、さらに経済力をつけていった。
 検断や町老人以下の町役人には、御用金の免除という特権も与えられていた。
 ときは明和5年(1768年)。天候が不順だった。雨の日が続いて、河川が氾濫して洪水が起きた。7月には台風に襲われ、イナゴの大発生によって田畑は壊滅的な打撃を受けた。米の不作は深刻となり米価は天井知らずに暴騰していった。
 そこで、長岡藩に対して、御用金の残る半分750両の先延ばしを嘆願することになった。ところが、裏切り者が出て、町会所(まちがいしょ)に洩れてしまった。
 検断は謀議の首謀者を町会所に呼び出し、入牢を申しつけた。
 それに町民が怒り、暴動を起こした。検断や町役人、米問屋などが次々に打ちこわされていく。ついに、町奉行は、これ以上の一揆の広がりを恐れて首謀者を釈放した。新潟町の打ちこわしは、9月26日、27日の2日間で終わった。2日で24軒が襲撃された。
 そして、町民自治が始まった。交代で町を警戒し、困窮した町民を救済した。買い占めていた米問屋に米を供出させ、米価を引き下げた。豆腐も酒も、日常用品を強制的に値下げさせた。質屋の利息を月2分に下げ、臨時に5軒の質屋を新設して、誰もが借金できるようにした。
 これより町中公事(くじ)、沙汰、また金銀の出入りごと、何ごとも、涌井藤四郎の取り計らいにてすまずということなし。
 町会所の町役人が失脚し、代わって選ばれた町中惣代となった藤四郎が町民の話しあいをもとに町政を取り仕切った。まさしく前代未聞の次第である。
 わずか二ヶ月とはいえ、この状態が続いたのです。しかし、ようやく態勢を立て直した長岡藩は、涌井藤四郎ともう一人を騒動の責任者として市中引き廻しのうえ打首獄門としました。
 涌井大明神として、今も人々に敬われているというのです。すごーい、ですよね。
(2007年9月刊。1400円+税)

西南戦争従軍記

カテゴリー:日本史(明治)

著者:風間三郎、出版社:南方新社
 明治10年(1877年)の西南戦争に病院係として従軍した久米清太郎(25歳)の7ヶ月間の日記を読みものにした本です。西南戦争の悲惨な実情がよく伝わってきます。
 著者は久米清太郎の子孫です。久米清太郎は幸いにも生きのび、屋久島に渡って、製糖事業をおこしました。
 2月14日、大雪のふるなか、大将・西郷隆盛の前に1万をこえる兵士たちが勢ぞろいした。一大隊は10小隊から成し、一小隊は200人の兵士からなる。したがって、一大隊は2000人規模。小隊の中心的存在は、城下士。郷士は、城下士の絶対的統率に従わねばならない。
 清太郎は大砲隊二番隊病院掛役を命じられる。砲隊は200人を二隊に分け、保有する砲は山砲28門、野砲2門、臼砲30門であった。
 2月15日、一番大隊長の篠原国幹以下4000人が先陣を切って出発した。
 2月19日、前日から降り出した雪は大雪となった。薩軍兵には制服はなく、大半が着物に草履と脚絆を巻いただけの軽装だった。大砲を引いての雪中行軍は遅々として進まない。
 山門砲や臼砲などの重装備を人力で運搬せざるをえなかった薩軍は雪を甘くみていた。これは誤算だった。
 2月22日、午前4時から熊本で戦争が始まった。
 3月7日、薩軍の大砲が一斉に熊本城へ向かって撃ちこまれた。
 3月10日、田原坂での激戦が続いていて、負傷者が次々に運ばれてきた。田原坂では17日間も決死の闘いが繰り広げられた。
 3月19日、官軍の別働隊が八代に上陸した。官軍の新鋭艦「春日」「鳳翔」「清輝」などが八代湾に入港し、4000人が上陸した。黒田清隆の考えた作戦である。
 4月21日、官軍は3万人にふくれあがり、薩軍は人吉に逃げた。御船で激戦となった。
 5月27日、薩軍は人吉城跡地で、住民の手もかりて、一日2000発の鉛弾をつくった。
 5月29日、清太郎の弟(18歳)が戦死した。この日の清太郎の日記には何も書かれていない。空白は弟の死を哀しむ気持ちのあらわれだろう。
 そのあと、清太郎たちは宮崎県の都城へ逃げた。都城でも、薩軍は追ってきた官軍に大敗した。近代装備を施した官軍2万の前に、心意気だけで戦う薩軍に勝ち目はなかった。
 8月11日、清太郎は、西郷隆盛の息子、17歳の西郷菊次郎に会った。母親の愛加那に似て、目の大きい彫りの深い顔立ちをしていた。
 8月15日、西郷隆盛が和田越の決戦のとき初めて戦場に立った。率いる兵は3500。対する山県有朋の率いる官軍は5万。午後2時、薩軍は全軍が敗走を始めた。菊次郎も官軍に捕らえられた。この菊次郎はその後どうなったのでしょうか?
 清太郎は、8月13日の官軍の延岡総攻撃のとき捕まっていた。
 9月24日、西郷隆盛は49歳で自決した。別府晋介が西郷の首をはねた。
 この日、薩軍の戦死者160余人、降伏した者200余人だった。
(1999年6月刊。1800+税)

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