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広開土王碑との対話

カテゴリー:日本史(古代史)

著者:武田幸男、出版社:白帝社
 高句麗の「広開土王碑」は、日本でもよく知られた存在です。
 広開大王といいますが、本名は談徳で、生前は永楽太王と称し、広開土境好太王とか、いろいろな名前で呼ばれる。
 著者は、この広開土王碑を現地で3度も見たそうです。1984年、1985年、  1997年です。私も一度、現地で見たいとは思いますが、恐らく無理でしょうね。
 1913年初冬に撮られた広開土王碑の写真が紹介されています。広い大平原が雪に覆われ、民家のそばに碑がむき出しのまま、ポツンと建っています。
 広開土王碑は、高句麗の広開大王(在位391〜412年)の事績を後世に示すため、山陸に埋葬した414年に中国の吉林省集安市の小丘の上に立てた石碑。高さ6.39メートル、重さ30トンの不正形柱状の自然石。
 1905年、1913年、1918年、1935年、1985年、2004年にとられた6枚の石碑の写真が紹介されています。今は、建物内にきちんと保存されているようですが、長く風雪にさらされていたことが分かります。
 この碑文の拓本が古くから出まわっていましたが、実は、石灰拓本でした。ニカワと水で練った石灰泥で崩れた字画を整え、明晰な碑字に手直しして拓出したものです。
 つまり、碑面や碑字をそのまま拓出した墨本ではない。したがって、一次資料ではない。それを無視して、一次資料と広く扱われてきた。
 現在、肝心の碑面は永久に復元不可能の部分があり、多くの碑字は今なお釈文不能である。王碑の完全完璧な釈文は望めない。しかし、先人の英知と努力を継承して、ほぼ8割が釈文され、推釈可能なものを加えたら9割近い。
 著者は広開土王碑が発見されたのは1880年のことで、それは当時の中国の懐仁県知県(知事)によるものだとしています。
 そして、日本陸軍参謀本部につとめる酒匂景信(さかわかげあき)陸軍少尉が1883年に「拓本」(墨本)を取得して日本へ帰って、広めた。
 碑面を目にした著者は、波うつような凹凸の碑面、碑面に穿たれた数えきれないほどの傷痕に驚いています。満身創痍の王碑なのです。なぜか?
 1600年間にこうむった風化作用の結果が第一。自然石は、比較的軟弱な角礫凝灰岩である。拓本の作成者たちは、たえず碑面に石灰を塗り、石灰で補修をつづけてきた。
 しかも、1880年に発見された碑石の拓本をとるため、からみついていた苔蘇に火をかけて除去した。碑石が埋もれていたとか、水難にあったというのは考えられないが、たしかに火難にはあっているというのが著者の考えです。
 1913年に碑石を実見した中野政一陸軍少佐は、拓匠が碑面の凹所に石灰を塗りこみ、字を刻って石摺りするのを見て憤慨しました。
 つまり、拓本作製者は、「碑文抄本」にしたがい、あれこれの碑字を確かめながら、碑面に石灰をぬって石灰整形をほどこしていたのです。継続して大量の石灰が塗布され、激しい風化や罹災等で損傷し、荒みきった碑面を平らに調整しつづけた。
 実は、広開土王碑については李進熙氏による日本軍が石灰で加工し、偽造したものだという説が1972年から唱導されており、私もそれを読んで、大いに動揺したものでした。
 著者は、日本軍部による偽造説をまったく根拠がないと排斥しています。
 私も、この本を読んで、なるほどと思いました。というのは、碑文の読み方が、これまで、まさにてんでんばらばらだったからです。たとえば、於と自、山と岡、黄と履、負と首・頁、土と上、碑と稗、永と衣・木・不というように、同じ字について見解が分かれ、あるいはいくつもの読み方が充てられているのです。
 この碑文が日本で有名なのは、倭が登場するからです。辛卯年(391年)に、高句麗と倭のほか、百済(百残)と新羅の両国が再出し、かつて高句麗が両国を属民・朝貢関係においたこと、わけても倭がその只中に登場して、両国を臣民にしたことが読みとれるからです。つまり、大和朝廷が日本全土を統一して、朝鮮半島まで進出していたと解するわけです。そこで、それは日本軍部が偽造したという説が出てくるのです。
 李進熙氏は意識的なすり替えを主張したが、では本来の碑字が何であったのか明らかにしない。本字があっての「すり替え」偽造のはずなのに、その本字を明らかにしないのはおかしい。著者は李氏を、このように厳しく批判しています。
 ただし、この倭とは何者なのかについて著者はこの本ではふれていません。倭を大和朝廷を中心とする日本のことと考えることはできないというのが今日の学者の多くの考えだと思いますが、いかがでしょうか。朝鮮半島と日本(とくに九州)とにまたがって勢力をふるっていた人々を倭と呼んだという考えです。
 いずれにしても大変勉強になる貴重な本で、広開土王碑についての認識を深めました。
(2007年10月刊。1800円+税)

高学歴ワーキングプア

カテゴリー:未分類

水月昭道
ISBN:9784334034238
私が大学生だった15年前、大学院というのは理系の学生が修士号をとるために行く場所でした。文系の学生は大学に研究者として残る者しかおよそ通わない場所でした。ところが、いまやたくさんの就職浪人が大学院で生み出されているそうです。自分もその被害者だということで感情的な文章ではありますが、実態を世間一般に告発するために新書を使った点は評価すべきでしょう。ノラ博士はあと数年後に確実にロースクールからも出てきます。甘言に惑わされた若者達の行く道はいずこにあるのでしょうね

裁判官の爆笑お言葉集

カテゴリー:司法

長嶺超輝 ISBN:9784344980303
読むのは1日も要りません。ちなみに
わたくしは1時間の立ち読みで済ませて
しまいました。が資料として保存する
つもりのある人は買ってください。
さだまさしの償いを引用した一工夫ある
説示もあれば、タクシー乗務員は雲助
まがいだとか、暴走族はリサイクルの
できない産業廃棄物以下だとか、いま
振り返ってみれば、結構裁判官も
法廷に私見を持ち込んでたんですね。
タイトルに「爆笑」と書いてありますが、
一つ一つの事件にど真面目に裁判官が
取り組んだ痕跡が窺える代物です。

真犯人

カテゴリー:社会

著者:森下香枝、出版社:朝日新聞社
 「週刊朝日」に今年3月に連載されていた記事をもとに書きおろした本です。グリコ・森永事件の犯人と5億4000万円強奪事件の犯人は同じだというのが著者の考えです。その真偽のほどは分かりませんが、犯人不明のまま幕引きとなったグリコ・森永事件を改めて考え直すことができました。
 5億4000億円強奪事件というのは、日本では史上最大の銀行強盗事件です。   1994年(平成6年)8月5日午前9時20分、神戸市にある福徳銀行神戸支店から5億4000万円が強奪された。
 そして、この事件は、時効が成立した。ところが、その犯人は、本年2月に、同じように銀行強盗しようとして捕まった。犯人には、韓国人女性の愛人がいた。女性は時効が成立したあと、ホテルを現金で買収した。もう一人の犯人は、自殺している。
 グリコ事件が起きたのは、昭和59年(1984年)3月18日のこと。江崎勝久社長が子どもたち2人と風呂に入っていたところを犯人に連行された。江崎社長が監禁されたのは新大阪駅から遠くない水防倉庫。
 グリコ事件の犯人の一人、キツネ目の男は大阪府警捜査一課に属する7人の特殊犯罪捜査員に目撃されたが、結局、16年にも及んだ捜査もむなしく時効を迎えた。捜査員がキツネ目の男を目撃したのは、京都駅でのこと。
 このあとも警察は、大失態をくり返した。丸大事件のとき、キツネ目の男はハウス事件の現場に2度も出没したが、みすみす見逃した。
 滋賀県警は、現金投下場所のすぐ近くにとまっていた不審者を職務質問しておきながら取り逃がした。この失態の責任を感じた滋賀県警本部長は昭和60年8月7日、定年退職した日に本部長公舎で焼身自殺した。
 この本は、5億4000万円事件の犯人とグリコ・森永事件の犯人は同一人物であり、その犯人は10年前に警察が容疑不十分で釈放した翌朝、自殺した、としています。
 かい人21面相の挑戦状を久しぶりに読みましたが、警察の内情もそれなりにつかんだ文面なので、どうやってこんな情報を得ていたのか、改めて疑問に思いました。
 ともかく、この世は不思議なことだらけです。
 それにしても5億円も強奪した犯人たちは幸せな生活は過ごせなかったようです。やはり、人生はお金だけではないとつくづく思ったことでした。
(2007年9月刊。1300円+税)

ゴードン・スミスの見た明治の日本

カテゴリー:日本史(明治)

著者:伊井春樹、出版社:角川選書
 イギリス人のリチャード・ゴードン・スミスは1858年生まれ(1920年死亡)、41歳のとき、日本にやって来た。日露戦争のとき、日本に滞在して、日本兵と日本人を観察した。
 明治37年(1904年)11月の203高地の日本軍の空貫突撃の様子が、日本兵の故郷への手紙で紹介されています。現代文のほうを紹介します。
 11月26日に突撃隊が編成され、「突貫」との命令のもとに午後4時に山腹より突進する。上部の堅固な塹壕を築いた要塞からは、容赦のない弾丸の雨が降り注ぎ、どうにか敵の陣地に近づいたとはいえ、犠牲者は増えるばかり。中隊長の戦死、次々と命を失い負傷する友軍、気がつくと残った中隊は自分を含めて10人ばかりというありさま。しかも、その死者の姿は実に残酷で、弾薬に焼けただれていた。あー、湯上がりにせめて一杯の白米のご飯が食べたい。ロシア軍による上からの容赦のない攻撃、自分が生きながらえたのは奇跡というほかなく、無数の屍(しかばね)をこえての二〇三高地の占領だった。その悪夢が、今では毎日毎晩のシラミ虫の攻撃に悩まされている。
 次に、ロシア兵の手紙も紹介されています。
 朝6時。日本兵は縦列になって接近し、第一隊砲火を浴びて倒れても、次の第二隊が、さらに第三隊が前進してくる。我々は銃剣を手にして20分もの死闘を続け、日本兵は 4000人ばかり戦死し、あたりにはおびただしい死体の山が築かれた。日本兵が退却したあと、死体を片づけるのだが、その光景はとても表現できない有り様だった。負傷者は水を求めて泣き喚き、ある者はもう一度、戦闘に加わって死にたいという。
 スミスは大英博物館の標本採集員という任務を帯びていました。新種の魚や動植物を発見したいという冒険心が行動に駆り立てていたのです。
 日記を8冊残していて、当時の日本人の生活や考え方を記録していました。
(2007年7月刊。1600円+税)

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