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ヒトラーを支持したドイツ国民

カテゴリー:ヨーロッパ

著者:ロバート・ジェラテリー、出版社:みすず書房
 ヒトラー独裁といっても、それは多くのドイツ国民の最後までの支持なしにはありえなかったし、ドイツ国民は強制収容所の存在、そして、そこでの囚人虐待を知っていたという本です。ドイツ国民は何も知らなかったという従来の通説とは異なりますが、当時のマスコミ報道をふくめて資料を丹念に掘り起こしていますから、説得力があります。目を背けてはいけない事実です。
 いま日本で、75歳の人が後期高齢者として保険料の年金からの天引きそして医療費の大幅な制限が始まり、多くの人が怒っています。でも、それを決めたのは小泉元首相でした。小泉フィーバーに乗っていた人々が、いま手痛いシッペ返しをくらっているとも言える事態です。スケールは断然違いますが、事の大小はともかくとして、ドイツでも日本でも、本質的には似たようなものだと私は思いますが、いかがでしょうか。
 ヒトラーが1933年1月30日にドイツ(ワイマール共和国)の宰相に任命されたのは、43歳のとき。そのころのドイツには絶望感がみなぎっていた。それは自殺率に反映された。1932年には、イギリスの4倍、アメリカの2倍だった。そして、ヒトラーの任命前の3回の選挙において共産党は毎回3位を占め、得票は増えていた。
 ヒトラーが宰相に任命された直後の国会解散のとき、ヒトラーの選挙スローガンは、「マルクス主義を攻撃せよ」だった。これは、善良な市民と資産家に訴える効果を狙っていた。
 ヒトラーの1935年の徴兵制度の再導入は、労働市場から大量の就労年齢の男性を吸い上げ、失業者数を減らした。雇用と収入が突然戻ってきて、ドイツ国民に希望がよみがえった。それは、ことに青年男女にとって顕著だった。そこで、多くのドイツ国民が競ってナチ運動に参加しようとした。ナチ党員は、1930年に 13万人、1933年に85万人、その後、数年で500万人となった。ナチ党突撃隊 (SA)には1931年に8万人、1932年に50万人、1934年に300万人いた。女性も同じ。ナチの女性組織(NSF)は1932年に11万人、1933年に85万人、1934年に150万人、そして1938年には400万人だった。
 警察官はナチに簡単に順応した。98%の制服警察官、90%の幹部が引き続き勤務でした。いやあ、こんな数字をあげられると、大衆操作の怖さをつくづく実感します。
 ナチによる逮捕者は、裁判なしに強制収容所に送られたが、それは広く報道され、隠されてはいない。囚人の多くが共産党員であり、普通の監獄が満員なので、一時的に収容所に送られたと報道された。法なきところに罪なしという原則が、罰なき罪なしの原則に変えられたと市民に告知された。このスローガンは、犯罪者にあまりに権利を与えすぎて社会負担を無視する法制度にうんざりしていた人たちの心をつかむものだった。
 ヒトラーの新警察は、時間のかかる法手続を無視して迅速な措置がとれるうま味をいったん覚えると、もう二度と後戻りできなかった。
 1933年に非合法で逮捕され、強制収容所に収容された人は10万人をこえる。それらの人々は、なんらかの形で共産党に関係していた。ベルリンには、共産党員と社民党員の多い労働者居住区に100以上の拷問部屋があった。
 世論懐柔のため、強制収容所は、もっぱら共産党員用だと宣伝された。ドイツのほとんどの町にあるといってもよい強制収容所について、新聞が一斉に報道したのだから、収容所の存在は秘密でもなんでもなかった。しばらくとはいえ、むしろ町民たちは、町に強制収容所があることを誇りに思っていた。ええーっ、そうだったんですか・・・。
 警察は、ユダヤ人が共産主義者のような裏切り活動と結託していることを示す努力を払った。ユダヤ人憎悪を広めるもう一つのやり方は、ユダヤ人を犯罪と結びつけること。横領、詐欺、密輸、性犯罪、金銭、麻薬、どんな罪でも、ユダヤ人がかかわるものを新聞は記事にした。うむむ、まさに権力によるデッチ上げの犯罪行為ですね。
 ヒトラーは激烈な死刑論者だった。だから、ナチ党が権力につくと、死刑判決の数が増え、死刑執行も増えた。死刑判決を受けた者の80%が執行された。1933年から45年までのあいだにドイツ国内の法廷で1万6500人に死刑を宣告し、その4分の3は執行された。その大多数はユダヤ人ではない。また、軍事裁判は、1万5000人に近い人々に死刑を宣告し、その85%が執行された。
 ヒトラー独裁制は当初から反ユダヤ主義を培ってきた。けれども最初の2年半は、一般に想像されているよりも用心深くおこなわれた。ユダヤ人を狙った行動は、1935年5月から勢いを増し、7月半ばになると、ベルリン中心部の高級店を乱暴者が襲うようになった。それでも、地下に潜った社会民主党員は総じて楽天的でありつづけた。彼らは人々がナチの嘘を見破るのを期待し、多くのドイツ人がナチの仕業を支持するはずがないと信じこんでいた。しかし、ナチは、反ユダヤ主義を広めるバネとして、ユダヤ人の逮捕とは、共産主義者を逮捕することと同じなんだと請合った。これで、多くの善良な市民が騙されたわけです。
 ヒトラーは、1939年9月、ドイツ国民が外国放送を聴くことを禁止した。ナチ警察は、こんな法律を守らせるのはきわめて難しいという理由から態度を保留した。たしかに、ドイツ人は、禁止されたイギリスのBBC放送をしっかり聴いていたし、それは公然の秘密だった。外国放送を聴いているという密告が数多くなされたが、その75%は、ナチへの支持とは無縁の、利己的な目的によってなされた。ドイツ全土が密告の雰囲気に包まれた。普通のドイツ人は、ゲシュタポを心配して四六時中ビクビクするどころか、自分たちの利益になるように制度を操作するように、この制度に順応した。
 ドイツ人は、囚人服を着て木靴をはいた囚人を色眼鏡をとおして見た。よくて無関心か恐怖心、悪くて看守と一緒になって侮蔑、敵意、憎悪をむき出しにして囚人を見ていた。
 一般市民も囚人を自分たちのために強制して働かせることをなんとも思っていなかった。囚人は、人間以下の人間として、国家の敵、犯罪者としての烙印が押されていたから。そして、ドイツの民間企業こそが、強制収容所囚人の最大の搾取者だった。IGファルベン、ジーメンス、ダイムラー、ベンツ、フォルクスワーゲン、BMW、などなど。
 1941年にダッハウ収容所には、8つの衛星収容所があった。それは120ヶ所にまで増えた。衛星収容所の多くは市町村のまんなかに置かれたから、住民としては見ないわけにはいかなかった。ベルリンには30ほどの衛星収容所があって、そのうち半数は女性だった。そのほか、700の外国人労働者用のさまざまな収容所があった。このように囚人を住民の目と心から切り離すことは不可能だった。
 住民は、囚人を犯罪者か共産党員だと信じこんでいたし、無反応であり無関心だった。
 300頁ほどの本ですが、大変重たく感じる本です。いまの日本は、小泉元首相への熱狂によって悪い方向に大きく切り換えられてしまいました。このことは、今では明確だと思うのですが、まだまだ多くの日本人はそのことを自覚しないまま、景気回復の幻想にひたっているような気がしてなりません。残念です。
 連休は熊本以外、どこにも出かけず、モノカキと庭仕事に精を出しました。ウグイスの鳴き声を聞きながら、庭を掘り下げて、野菜と木を植えました。まずアスパラガスです。今年は例年とちがって、なかなか芽が出てきません。植えてから、もう10年にはなりますので、寿命が来てしまったのかもしれない。そう思って、新しい苗を買ってきたのです。そして、少し離れたところに沈丁花の木を植えました。毎年、早春に咲いてくれていたのですが、近くのアンデスの乙女にでも負けてしまったのか、枯れてしまいました。最後にツルバラです。フェンスにからんで咲いてくれていたのですが、これも枯れたので、前と同じ紅い花のツルバラを植えました。
 サクランボの実が、ぎっしりなっています。ヒヨドリが早速食べにやってきました。ヒマワリが庭のあちこちでぐんぐん伸びています。連休が終わると、もうすぐホタルも見れるようになります。初夏はもうすぐです。
(2008年2月刊。5200円+税)

カランパ!

カテゴリー:アメリカ

著者:高野 潤、出版社:理論社
 アマゾン奥地を生命がけで旅をする話です。怖いもの見たさに読みました。
 著者は、30年来、アマゾン源流に通っている団塊世代の写真家です。南アメリカのアンデス高地やアマゾン奥地を歩き続け、著書や写真集をたくさん出しています。怖い、こわーい、ぞっとするような話がたくさん登場してきます。なかでも怖いと思ったのが、ジャングルで道に迷って、ひとり取り残されたという話です。まさに生きた心地がしなかったでしょうね。
 セスナ機で目的地まで飛び、目的地まで達したら、現地の人たちのすむ集落の上からお菓子を入れた小さな袋をハンカチ大の布とむすんで落下傘形にして落とす。それが飛行場に着陸する知らせとなって、河に舟を走らせ迎えに来る。
 なんという連絡のとり方でしょう。電話も無線も利用されないわけです。
 現地の人々には一日3食という決まりはない。一日中、何もせずハンモックで休んでいることが多い。突然、腹が減ったという感じで、近くの畑に出かけ、とってきたものを焼いたり煮たりして食べる。吹き矢で野生のサルを仕留めて、それをぶつ切りにし、鍋で煮こんで食べることもある。
 家づくりも簡単なもの。ヤシの葉をすき間がある程度に重ねて屋根とする。ぎっしり重ねると空気が流れず暑さが増すし、真っ暗くなってしまう。だから大雨のときに困って、ヤシの葉をつぎ足さなくてはいけないくらいがちょうどいい。いやあ、そういうことなんですか。やはり、現地の風土にあった家づくりなんですよね。
 家族ごとに住んでいて、そのあいだは、徒歩で半日以上かかる。この距離が大切で、それはお互いの猟の領域がぶつからないようにする意味がある。
 な、なーるほど、そういうことだったんですね。それにしても淋しい気がします。子どもたち同士で遊べませんよね。
 糖分は、ミツバチの巣からとり、木の実や野生のイモ類で空腹をおさえる。森を歩きまわっていると、それほど食べるのに不自由はしない。
 住居の建材や槍、吹き矢は固い木やヤシの樹皮や葉を利用し、矢先にぬる毒はつるの樹皮からとる。すべて森のめぐみの中から得る。
 ジャングルの中にはジャガーがいる。川にはワニがいる。そして森の中、足元には蛇がいる。何がこわいといっても、いちばんこわいのは、やはり毒ヘビだ。タキギをひろおうとしていると、ズルズルと黒くて大きなヘビが動き出したこともある。
 足元にタランチュラの巣があったこともある。だから、たとえ1メートルであっても、森の中にふみこむときには、必ず長靴をはくことにしていた。ひゃあ、ぞくぞくしてきます。
 カランパ、という言葉は、日本語でいうと、こりゃまた、しまった、なんてこった、という意味で使われる。
 いやあ、怖い、こわい。いかにも軟弱な私は、本と写真だけで結構です。高野さん、ご苦労さまです。ありがとうございました。
 連休中に熊本城の大広間を見に出かけましたが、1時間待ちと表示されていましたので断念し、市街地の裏通りにあるレストランで美味しいランチをゆっくりいただきました。そこで出されたオードブルの塩トマトの味がとても良かったので、あとでデパ地下で買って家でも食べてみました。小ぶりでしっかり実がしまっています。ちょっぴり塩気もあり、すばらしいトマトです。初めて食べました。
 ジャーマンアイリスが盛りです。青紫色、純白、チョコレート色、黄色と、たくさんの花が咲いてくれています。頭上にはサクランボもたくさん紅いルビー色の実をつけています。佐藤錦のように甘くないのが残念です。
(2008年1月刊。1500円+税)

江戸のなりたち

カテゴリー:日本史(江戸)

著者:追川吉生、出版社:新泉社
 都心の再開発をきっかけとして、江戸考古学がスタートした。はじめは大名屋敷の調査・研究が中心的なテーマだったが、そのうちに直参旗本の武家屋敷や墓地、上・下水道など、多様な遺跡が発掘されていった。
 JR御茶ノ水駅の南側一帯、神田駿河台は、日比谷入江に埋め立てるために切り崩された神田山のなごり。家康が死んだあと、江戸に戻った駿河衆(駿府城に付きしたがっていた旗本)が暮らしたことから、駿河台と呼ばれた。旗本の多く住む武家地だった。
 旗本は、もともと戦(いくさ)に際して、主君の旗を守る武士団のこと。御目見以下の御家人とは区別される。目安としては、200俵から1万石程をもらう。その旗本屋敷から、内職として和傘づくりをしていた証拠が出てきた。
 そして、泥面子(どろめんこ)という土製の玩具が8000点も出土した。
 土蔵とともに、地下室もつくられていたことが発掘によって証明されています。江戸の火災の多さからのことです。
 江戸時代は肉食しなかったと思われていますが、獣骨が山のように出てきて、そのイメージをくつがえしました。想像以上に江戸時代の人々は肉食していたのです。
 お墓も発掘しています。3歳で死んだ子どものカメ棺には、副葬品が34点も納められていました。たとえば、羽子板が8枚も入っていました。そのほかには、鶏や猿の人形や、三味線でした。
 桜のソメイヨシノで有名な染井には、地下室がありました。江戸時代の末期に、イギリス人のフォーチュンが、ここを訪れています。フォーチュンは、世界中のどこへ行っても、こんなに大規模に売り物の植物を栽培しているのを見たことがないと報告しています。その染井の植木屋が地下室もろとも発掘されているのです。
 写真と図版によって、江戸時代が現代の私たちの目前に、まざまざとよみがえらせてくれる貴重な本です。
(2007年11月刊。1800円+税)

おたすけ鍼(ばり)

カテゴリー:日本史(江戸)

著者:山本一力、出版社:朝日新聞社
 江戸を舞台とする山本一力ワールドは、いつ読んでも、読む人の心をほんわか、あっためてくれます。いいですよね。この感触が・・・。現代日本人が忘れ去った、ほんわか、ふんわりとした心地良いあたたかさです。
 オビに書かれているキャッチ・フレーズを紹介します。
 江戸の人情と心意気、「一力節」が冴えわたる!鍼(はり)一本、灸ひとつ、人助け、世直しいたします。「ツボ師」の異名を持つ気骨の鍼灸師、染谷(せんこく)と剛直の大商人、野島屋仁左衛門との交情を軸に描く痛快長編時代小説。
 まさしく、このオビのとおりなのです。まあ、私に騙されたと思って読んでみてください。最近、身体の節々が何かしら痛むな、ちょっと疲れてるな、そう思ったときに読む本として、おすすめします。きっと、ハリ・灸でも打ってもらおうかな、という気になることでしょう。
 実は、私の長男がまさに、この鍼灸師を目ざしているのです。いろんな経過を経て、ようやく鍼灸師として一人立ちしようとしている彼に対して、私は心よりエールを送りたいと思っています。親のようにはなりたくない。しかし、親のようであってほしい。この相克を、彼なりに乗りこえて鍼灸師を目ざしているのです。
 ひとは、だれしもが、おのれの身体をおのれが治す、生まれながらの力を秘めている。鍼灸や薬は、眠っているその力を、呼び覚ますための助けにすぎない。
 なーるほど、きっと、そういうことなのでしょうね。でも、なかなか、凡人はそのことを自覚できませんよね。
(2008年1月刊。1500円+税)

私はこうして受付からCEOになった

カテゴリー:アメリカ

著者:カーリー・フィオリーナ、出版社:ダイヤモンド社
 アメリカ屈指の大会社の社長(CEO)にまでなった女性の語る自叙伝です。それなりに、読みごたえがあり、教訓にみちています。アメリカでは、恐らく日本でも同じことでしょうが、大会社のなかで勝ち抜くのは大変のようです。
 スタンフォード大学では、フランス語でカミュの『異邦人』を読んだ。少し荷が重すぎた。ヘーゲルの弁証法も学んだ。これは、ビジネスでも応用している。
 UCLAのロースクールに入学して、一日目で選択を誤ったことに気がついた。過去のことばかりで、新しいことが何もない。そう感じられた。しかも、正義ではなく、判例法で決められたことに従うだけ。まったく魅力を感じなかった。毎日、頭痛がして、眠れない夜が何ヶ月も続いた。父が様子を見に来たとき、法律が嫌いだと言ってやった。
 いやあ、こんなふうに言われると弱ってしまいます。過去をふまえてこそ、明日に生きる解釈もできると思うのですが・・・。
 ある朝、シャワーを浴びながら、頭痛の原因に思い至った。そのとき私は22歳だった。両親を喜ばせるための人生はありえないことに気がついたのだ。私の人生は、私のもの。やりたいことをやらなければ。そう気がついた瞬間、私の頭痛はウソのように消え去った。
 たしかに、私の人生は私のもの。その点はまったく同感です。一度しかない人生ですからね。やはり、親の束縛はごめんです。
 怒ったときには、低い声で話す。大声は出さない。静かに言う。最後までやり抜く覚悟がないなら、人を脅かしてはいけない。こちらが絶対に正しいという確信がないなら、そして本当に重要な問題でないなら、脅してはいけない。
 このまま黙って罵られていたら、女がすたる。こう考えて、バーンと両手で机を叩いた。「黙んなさい。この、すっとこどっこい。黙って聞いていれば、いい気になって。よくも、私をタコ呼ばわりしたわね。ふざけるんじゃないわよ」
 いやあ、激しいですね。見上げたものです。
 上手に交渉をすすめるためには、相手を知ること、相手に敬意を払うことが欠かせない。相手が大切にすることも自分も大切にし、時間をかけて信頼を得る。ビジネスの世界では、人は信頼と尊敬で結ばれている。信頼と尊敬だけが交渉を成功させ、対立する人同士を結びつける役割を果たせる。
 ひゃあ、こんなことを成功したアメリカのビジネス・ウーマンが言うのですね・・・。トップ・ビジネスの世界では、人情みたいなものを全部切り捨てるのかと思っていましたが、違うのですね。
 部下が何かしらの成果を上げたとき、ことの大小を問わず、認めて評価した。これが自分にできる最善のことだった。なーるほど、ですね。
 自分をビジネスウーマンだと思ったことはない。私はビジネスパーソンだ。たまたま女だというだけ。いつも、こう答えた。なるほど、なるほど。そうですよね。
 有名人というのは、公共物である。血の通った人間ではなく、公園の銅像のようなものだ。じろじろ眺められ、批判され、風刺の対象にもなる。スターの誕生は喝采で迎えられるが、転落にも同じくらいの喝采が送られる。
 ヒューレット・パッカードのCEOになる前、2つの心理テストを受けさせられた。一つは、ウェブ上で質問に答える。3時間かかった。もう一つは、2人の心理学専門家との面接で、こちらも2時間以上かかった。
 うひょー、社長を選ぶのに、アメリカでは心理テストなんてものをやるのですか、ちっとも知りませんでした。日本では、とても考えられないことだと思いますが・・・。
 リーダーが求められる資質は3つ。第一は、人格。率直で勇気があること。第二は、能力。自分の強みを知り、それを生かせること。足りないところを知り、他人に任せたり、学習したりできること。第三は、協調性。いつ助けが必要かを見越して手を差しのべること。広い人脈をもち、すすんで情報の共有ができること。
 誰でも、いつでも、どこでも、リーダーになることは可能だが、言動が終始一貫していなければならない。
 会社を改革するには、一人ひとりがこれまでと違う状況に身を置いて考えることが必要だ。自分の地位を守ろうとしたら、共通の立場に立つことはできない。
 リーダーは生まれながらにしてリーダーなのではなく、つくられるもの。リーダーシップは、放っておいても自然に身につくものではなく、教え、育てるものだ。
 さすが、ビジネスと経営に苦労した人の言葉であると感心しました。資本家、恐るべし。
(2007年11月刊。1600円+税)

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