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「情熱のシェフ」

カテゴリー:ヨーロッパ

著者:神山典士、出版社:講談社
 福岡出身のシェフがフランスでミシュランの星を獲得しました。それも、わずか28歳とは、恐るべきことです。この本は、その若きオーナー・シェフである松嶋啓介の足どりを丹念に追いかけています。いやあ、プロの料理人(シェフ)というのは、すごいものです。一度は、ぜひとも味わってみたいものです。
 この本の人物紹介を紹介します。
 1977年に福岡県で生まれる。高校を卒業したあと、上京し、料理学校「エコール辻東京」に学ぶ。渋谷「ヴァンセーヌ」などで働いたあと、20歳でフランスへ渡る。フランス国内で修業を重ね、南仏ニースに2002年12月、25歳のとき自分の店
「Kei’s Passion」をオープン。素材の魅力を存分に生かした斬新な料理が話題を呼び、3年後の2006年、28歳でミシュラン一つ星を獲得した。
 その後、店を拡張し、「KEISUKE MATSUSHIMA」に改めた。近く東京にも進出する。
 ケイは、食材の組み合わせは基本的なものであっても、完成したときに意外性を出す。料理はエンタテイメントなのだから、「驚き」は大切な要素だ。
 まずは食材・素材ありき。食材に対する感動こそ、料理人に対する最大の賛辞となる。料理人は、ある意味で、生産者の通訳である。
 ケイは味覚を複雑にせず、食材の良さを前面に出すような作品を心がける。その代わり、シンプルな料理は味覚の組み立てが完璧でなければいけない。
 ケイにとって料理をつくるのも楽しいことだが、一番うれしいのはフロアーに出て客から「メルシー」と言われた瞬間だ。料理は、自分のためではなく、人に喜んでもらうためにこそある。
 ケイの父は福岡市城南区に住む団塊世代の営業マン。祖父は太宰府に住む。1000坪の農地でニワトリを飼っていた。
 ケイは子どものころ、やんちゃの一言に尽きる悪さ坊主だった。ただし、味覚の良さは抜群だったし、母親はいつも手づくりの料理で、冷凍食品はめったにつかわなかった。
 ケイは東京で調理師学校に通うかたわら、東京の有名レストランを見てまわった。
 ニースのレストランが居抜きで1000万円に売りに出されるのを買ったのです。すごい決断ですね。24歳のときです。25歳の誕生日に店はオープンしました。20歳でフランスに渡って、わずか4年でフランスで店を構えるというのですから、その実行力と決断力は常識はずれのものがあります。
 しかも、開店して3日目には22席が満席になったというのです。
 今や、夏に月商13万ユーロ(2100万円)、冬でも10万ユーロ(1600万円)。1日の売上が平均4000ユーロです。店は150平方メートル(45坪)です。フロアと調理場をあわせて17人。うち日本人が6人(19万円の給与)、フランス人11人。平均年齢は、なんと22.6歳。最年少は15歳。調理場にも16歳2人、17歳、19歳がいる。ニースの料理学校から実習に来ている少年少女たち。
 ところが、スタッフの確保と養成は大変なようです。
 毎朝、市場にまで買い出しに行って、そこで生産者と顔を合わせながら、食材を自分の目で選び、その食材に合わせて料理を考えるというケイのスタイルに大いに魅かれるものがありました。これからも大いに活躍してほしい日本人、いえ福岡県人です。
(2008年6月刊。1700円+税)

虚構のナチズム

カテゴリー:未分類

著者:池田浩士、出版社:人文書院
 1930年当時のドイツの人口は6300万人。そのうち、ユダヤ人は56万人ほど。つまり、全人口の1%にもみたなかった。いったい1%しかいないユダヤ人がどうして全ドイツの脅威として感じられたのか。また、ドイツにいたユダヤ人が56万人というのなら、アウシュヴィッツなどで殺された600万人ものユダヤ人はどこから来た(連行されて来た)のか。これをドイツの若者たちに考えさせたという教育実践が紹介されています。なるほど、と思いました。
 1936年にオリンピックがドイツで開催された。このときヒトラーは、ニュルンベルク法の精神に反する超法規的な譲歩を行ってまて、オリンピックを実現した。オリンピック期間中は、ドイツの町々から反ユダヤ人キャンペーンのポスターその他をすべて撤去した。外国の選手団にユダヤ人がふくまれていても妨害しないし、ドイツ代表団に2人のユダヤ人選手を加えることも決めた。うひょー、そ、そうだったのですか・・・。
 オリンピックの終わった3週間後にニュルンベルクで開会されたナチ党の第8回大会は、「名誉の党大会」という名称を掲げた。
 1937年7月、ミュンヘンでヒトラー頽廃芸術展と題する美術展を開いた。その4ヶ月半のあいだに200万人ものドイツ人が観賞した。終了後、オークションで売却され、国家は莫大な利益を得た。
 ナチズム体制とともに、ドイツ市民の映画をみる回数が増えていった。それはドイツにとって戦況が不利になっていった1943年になっても変わらなかった。
 窮屈な暮らしのなかで人々が映画に娯楽を求め、時代が悪くなればなるほど映画が遺されたわずかな楽しみとなっていた。
 1934年6月、ヒトラーはSA隊長のエルンスト・レームなど幹部たちを急襲し、裁判抜きで処刑した。当時の公式発表では死者77人とされていたが、実は1000人をこえることが大戦後わかった。
 SA隊員には「第二革命」を唱えるものが少なくなかった。ヒトラーの首相就任は「国民革命」の第一段階にすぎず、このあと、民族民衆自身が真に国家社会の主人公となるための「第二革命」が闘われるはずだというもの。これはヒトラーにとって容認しがたい過激主義だった。ヒトラーは、この事件のあと以後、千年間、ドイツにはもはや革命は起きないと宣言した。
 ナチス・ドイツの社会の実情を多面的に追跡した労作です。たくさんの知らないことが書かれていましたが、大半を省略してしまいました。
(2004年3月刊。3900円+税)

性犯罪被害にあうということ

カテゴリー:司法

著者:小林美佳、出版社:朝日新聞出版
 読んでいるうちに思わず粛然とした思いになり、襟をただされ、背筋の伸びる思いがしました。若い女性の悲痛な叫びが私の心にもいくらかは届いた気がします。
 24歳の夏、私は見知らぬ男2人にレイプされた。道を聞かれ、教えようと近づいたところを、車内に引きずりこまれた。犯人はいまも、誰だか分からない。
 その夜から、私は生まれ変わったと思って過ごし、放たれた矢のように、何かに向かって飛び出した。
 この本は、このような書き出しから始まります。レイプされてからの著者の痛ましいばかりの変わりようが、淡々と描写されていきます。何回となく吐き気を催したという記述があり、読んでいる私のほうまで気が重くなり、胸に重たいしこりを感じました。
 警察に届けに行き、警察官から被害者としての取り調べを受けたとき、著者は被害の事実をありのまま語ることができませんでした。
 事実と嘘が、めちゃくちゃだった。聞いて助けてほしい気持ちと、知られたくない、離したくない、思い出したくない気持ちがまざり、中途半端な証言になってしまっていた。警察とよりは他人に対する防衛本能、拒否感は自然に芽生えていた。
 たとえ相手が警察とはいえ、初対面の人をいきなり信用することができなかったのかもしれない。冷静に、いま起こったことの順を追って話せるほど気持ちも落ち着いていなかった。自分さえ、夢だと言い聞かせていたのだから。
 著者は、事件後、職場を欠勤も遅刻もしなかった。そのとき、事件のことを隠すことや言えないことへの疑問や反感、悔しさがあり、事件そのものを偽って伝えることに抵抗があった。どこまでを他人に話し、どこからを隠したらよいのか判断がつかず、本当は誰かの口から休む理由を伝えてほしかった。毎日の生活は、いつもと変わらない日常をこなすことで精一杯だった。仕事や社会生活など、周りに他人がいて事件のことを公言できない場での私の生活は、何かあったと悟られないように過ごし、それまでと変わらないように見えていたはずだ。しかし、一人の時間には、それまでと同じ生活はまったくできなくなっていた。
 食べることも忘れてしまう日々が続いた。ひと月で13キロも体重が落ちた。そもそも、生きる気力を失った人間が、食べようと思うわけがない。辛くて食べられないのではなく、食べる必要がなかった。だから、お腹も減らなかった。昼休みは飲み物を片手に、一時間、ずっと歩き続けていた。
 セックスで理性が外れることが、とても怖かった。自分の快楽だけのために時間を過ごしている人のために、苦痛に耐えさせられることがとても悔しかった。うむむ、なるほど、この表現って、なんとなく分かりますね。
 カウンセリングは、決して弱い人が行くところではない。自分の考えや気持ちに気づきはじめた人が、他人に合わせることに違和感をもちはじめたとき、その違和感を取り除く方法を見つけに行く。カウンセリングは、そんな場である。
 人が人を裏切った瞬間が、とても汚いものに思えて寂しいし、悲しかった。加害者が著者に手をかけた瞬間は、加害者が道を教えようとした著者の信頼や親切を裏切った瞬間なのだ。その一瞬の信頼を裏切られたときのショックは大きかった。
 著者の顔写真が表紙にのっています。いかにも寂しげです。信頼を裏切られた思いを今も重くひきずっている表情です。
 忘れることのできる体験ではないと思いますが、ぜひ前を向いて生きていってほしい。私は心からそう思います。それにしても、恐らく私とほとんど同じ世代であろう父親の対応が残念でなりませんでした。子どもにもっと寄りそう柔軟性があっても良かったのでは・・・、そう思いました。私も、あまり偉そうなことは言えませんけれども。
(2008年4月刊。1200円+税)

ゲバルト時代

カテゴリー:社会

著者:中野正夫、出版社:バジリコ
 東京は神田に生まれ育った早熟の高校生時に全共闘活動家になり、浪人してからも中核派のデモに参加していた著者の半生をつづった本です。
 共産党に対する敵意心が強く、ひどい悪口もあって辟易するところがありますが、当時の三派系学生の生態をかなりあからさまに描いているところを興味深く読みました。
 ベ平連が党派との距離を置いていた(努力していた)ことも知ることができます。
 三里塚へデモに行ったとき初めて警察に捕まりましたが、19歳の浪人生だと身分を明かして、釈放されます。警察も、こんなチンピラ浪人を相手にしても仕方ないと思ったのでしょう。
 やがて、著者は日大闘争そして東大闘争に浪人生として関わるようになります。
 そのころ、全共闘の必読雑誌として月刊『現代の眼』と週刊『朝日ジャーナル』がありました。『現代の眼』は右翼総会屋からお金を巻き上げるための雑誌だったが、その執筆陣は新左翼の人間で占められていた。総会屋は売れる雑誌であれば、内容は問題にしなかったわけだ。なーるほど、そういうことだったのですね。新左翼と右翼、財界とは黒い結びつきがあったわけです。
 東大駒場の第八本館に全共闘がたてこもっているところにも著者は出かけています。「八本」の内部はまだ整然としていた。全共闘は民青にはゲバルトで勝てなかった。民青の部隊はよく訓練されていて、統制がきいていた。全共闘は掛け声と気合いだけで、自己表現と自己満足のみであり、甘かった。これは本当のことです。私も目撃しました。
 駒場寮(明寮)攻防戦にも参加しています。私は、寮生の一人としてたまたま明寮にいました。それというのも私の部屋が明寮にあったからです。ですから、「既に民青がすべての寮をバリケード封鎖して立てこもっていた」というのは事実に反します。
 700人いた寮生のかなりは依然として寮で生活していました。1969年2月の駒場寮委員長選挙でも、全共闘支持派の寮生が当選こそしませんでしたが、かなりの票数を集めていたことからも裏付けられます。色眼鏡で世の中を見ると、まったく間違ってしまうという見本のようなものです。
 民青と全共闘の捕虜交換があったことは事実ですし、民青の応援部隊に学生ではない人たちがいたのも事実のようです。
 そして安田講堂にも著者は立入っています。大講堂の中にグランドピアノがあり、インターナショナルを弾いてみたそうです。それはありうることです。このピアノは結局、機動隊が進入してきたときに楯につかわれて壊されたようです。
 著者はブントに入り、やがて赤軍派に接近します。ただし、連合赤軍には入っていません。1970年5月に赤軍から逃亡しました。
 連合赤軍の森恒夫と永田洋子に対する評は手厳しいものがあります。
 著者は、その後、共産同RG(エルゲー)派に入りますが、連合赤軍のリンチ殺人事件の発覚を知って、吹っ切れてしまうのです。
 「革命ごっこ」は終わったと心底から思った。
 それはそうでしょうね。あんなひどいことって考えられもしませんよね。
 「努力」や「決意」や「死の覚悟」で革命ができると信ずるなら、それほど簡単なことはない。しかし、それではテロリストと同じレベルだ。飛び込んで自爆すればいいのだから。
 この本には、当時の活動家たちのその後、現況が報告されています。既に何人も亡くなっています。そのなかで、こんな文章が目にとまりました。
 緒方は70年に東大文?に合格し、フロントの活動をしていた。当時のフロントの上司活動家たちの中に、今は衆議院議員になってホラやラッパを吹いている者が何人もいるという。ええーっ、いったい誰のことでしょうか。実名で知りたいものです。
 同じ時代を描いた『清冽の炎』(神水理一郎、花伝社)の第4巻がとくに、この本と同じ時代を描いています。正確かつ詳しく知りたい人は、ぜひこの本を読んでみてください。秋には1969年2月、3月を描いた第5巻が刊行される予定です。そして、その後、登場人物がいま何をしているのかを明らかにする第6巻が出る予定です。やはり、みんな、その後、いま何をしているのか、知りたいですよね。この本は大胆にそこまで踏み込んだところがいいと思いました。
(2008年6月刊。1800円+税)

ぼくは少年兵だった

カテゴリー:アフリカ

著者:イシメール・ベア、出版社:河出書房新社
 初めて戦争の巻き添えをくったとき、ぼくは12歳だった。
 激しい内乱の起きていた西アフリカのシェラレオネで12歳から15歳まで少年兵士として戦闘に従事し、生き抜いた著者の体験記です。この本は「戦場から生きのびて」というのがメイン・タイトルになっていますが、この本を読むと、まさしく実感させられます。よくぞ戦火のなかを生きのびられたものです。大勢の友人・仲間が次々に銃弾で倒れていくなか家族をみんな失い、著者ひとり生きのびました。それだけ運が強かったのです。
 戦争を賛美する人がいるが、戦争にロマンなどはなく、あるのは悲惨さだけ。人間を殺すことは、相手を非人間化させる行為だが、それは同時に自分の人間性もうしなわせてしまう。
 シェラレオネでなぜ内乱が起きたのかは、この本を読んでもさっぱり理解できません。ルワンダのツチ族とフツ族のような争いという明確なものはなかったようです。政府軍と反乱軍との戦いとしか書かれていません。そして、反乱軍はデビル(悪魔)というべき存在でしかありません。
 反乱軍に捕まった少年はすぐに兵士にされ、熱した銃剣で身体のどこかに反乱軍を意味するRUFを刻みつけられる。これは一生消えない傷痕になるばかりか反乱軍から絶対に逃げられないことを意味した。反逆者のイニシャルの刻印をつけて逃げるのは、殺してくださいと言っているようなもの。政府軍の兵士はそれを見たら一も二もなく殺すだろうし、好戦的な民間人だってそうするだろう。
 歌と踊りが大好きだった著者たち6人の少年は、戦争から逃げようとジャングルの中をさまよったあげく、政府軍に組み込まれてしまいます。そして、わずかの訓練を受けると、たちまち本物の戦場へ駆り出されていきます。
 戦闘行為の前に白いカプセルが渡される。それをのむと夜じゅう目がさえて眠れないのが一週間も続いた。そのうち、平気で銃をうてるようになった。
 火薬とコカインを混ぜたブラウン・ブラウニと呼ぶものを吸引し、白いカプセルを大量に飲む。それがたっぷりのエネルギーをくれる。汗びっしょりになり、着ている服をすべて脱いでしまった。身体がふるえ、目はかすみ、耳も聞こえない。あてもなく村を歩きまわる。そわそわした気分になった。何に対しても無感覚になる。何週間も眠れなくなるほどの莫大なエネルギーを感じた。夜にはみんなで戦争映画をみる。『ランボー』や『コマンドー』だ。
 ぼくらは獰猛になった。死という考えは頭をよぎりもしなかった。人を殺すのが、水を飲むのと同じくらい簡単になった。ぼくの頭は、初めて殺しの最中にぷつんと切れた。良心の呵責に耐えられないことを記憶するのをやめた。
 ぼくらは2年あまり戦い続け、殺人が日常茶飯事になっていた。誰にも同情しなかった。
 そんな元少年兵の社会復帰訓練センターに収容されます。収容所のなかで、元少年兵たちは元いた政府軍と反乱軍の2派に分かれて殺しあいもしてしまいます。
 薬の助けを借りずに眠れるようになるまでに数ヶ月かかった。ようやく寝入ることができるようになっても、1時間とたたないうちに目が覚めてしまう。夢のなかで、顔のない武装兵がぼくをしばりあげ、銃剣ののこぎり刃でぼくの喉を切り裂きはじめる。ぼくはそのナイフが与える痛みを感じる。汗びっしょりなって目を覚まし、虚空にパンチをくり出す。それから外に飛び出し、サッカー場の真ん中まで走って行って、膝をかかえこんで身体を前後に揺らす。子どものころのことを必死で思い出そうとしても、できなかった。戦争の記憶が邪魔をするのだ。
 樹皮に赤い樹液がこびりついている木のそばに行くと、捕虜を木にしばりつけて撃つという、何度も実行した処刑の光景を思い出す。彼らの血は木々を染め、雨期の最中でさえ、決して洗い落とされなかった。
 著者は社会復帰訓練センターを経て、おじさんの家庭にあたたかく迎えいれてもらって社会復帰できました。ところが、シェラレオネそのものがまた内乱の危機におそわれ、ついに国外へ脱出することになるのです。
 少年兵士たちのおかれている厳しい現実、そして少年兵士を社会復帰させることがいかに大変な事業であるかを理解させてくれる本です。
 表紙にうつっている、いかにも聡明そうで、明るい笑顔からはとても想像できない過去をもつ元少年兵士です。
 庭にある小さな合歓(ねむ)の木が花を咲かせています。紅い、ぽよぽよとした可愛らしい花です。
(2008年2月刊。1600円+税)

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