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冤罪司法の砦、ある医師の挑戦

カテゴリー:司法

著者:石田文之祐、出版社:現代人文社
 贈収賄事件で有罪となった医師が司法制度を激しく弾劾した本です。
 日本の裁判は、とても裁判といえるものではない。少なくとも、欧米諸国がとっくの昔に到達した近代司法に遠く及ばない。これが著者の結論です。
 事件は、国立大学の医局を主宰する教授に対して著者の営む民間病院への医師派遣を要請し、その見返りに月10万円を医局に寄付したことが教授個人への贈収賄とされたというものです。教授は公務員であり、お金が動いたことには争いがありません。
 民間病院の理事長である著者は、あくまでも医局への寄付だったという認識(主張)です。最高裁は、法令上は根拠のない、医局に属する医師を派遣する行為は職務密接関連行為と認定して贈賄性ありとし、有罪にしました。これは、ロッキード事件で首相の行為を職務密接関連行為と認定したのと同じ論法です。
 これについて、医局医師の派遣行為にまで拡大することは、処罰範囲をいたずらに拡大するもので、罪刑法定主義に反する。土屋公献元日弁連会長はこのように批判しています。
 司法の世界は、まさに惨状であり、信じられない怠惰・蒙昧・不正義の世界だ。
 被告人が法廷でしゃべったことを裁判官は信用できない、虚偽だという。しかし、取調中の供述調書には、被告人の署名があるとはいえ、それはあくまでも検察官の作文であり、文責は検察官にある。もちろん、供述調書作成の共同作業者としての責任が被告人にもある。しかし、妥協や迎合も当然考えられてよい。しかも、長い勾留という異常な抑圧状態のもとで、まったく虚偽だと意識しつつも、署名捺印せざるをえないときもある。つまり、供述調書には、被疑者の供述がそのまま記述されてはいない。ところが、裁判官は、取調中の検察官作成の供述調書は信用できても、法廷での被告人本人の発言は信用できないという。なぜか?
 勾留42日間の中でとられた検察官調書を全面的に評価し、5年間、1人の被告人が誠実に、できる限り正確に、と心がけて公判で話したことを信用できないという裁判官とは、一体どんな人種だろう。彼らも日本人なのか?
 外国に比べてはるかに長い勾留は、日本の司法が人質司法と呼ばれる所以の一つだ。これは、適性手続に対する検察と裁判所の無知と無理解、法令無視か歪曲の結果であり、専門職としての責任感と使命感の欠如、すなわち堕落が原因だ。
 判決文を読めば分かるとおり、被告人が公判廷で述べることに裁判官は聞く耳をもたない。もっぱら供述調書に依存する。法令を守る頭脳と精神がない。
 著者は、取り調べを受けているとき、検察官に対して黙秘権はあるのかと質した。それに対する検察官の答えは、黙秘権はあるが、捜査に協力しないということになって、取り調べが長引くだけだ。というものだった。
 このような黙秘権を否定する検察官の発言を弁護人は無視した。裁判官も重大な憲法違反だと認識しなかった。この点、法曹三者は、みな一蓮托生のなれないだ。日本の司法は生きていない。
 検察と裁判所は、市民の厄介者でしかない。有罪と冤罪とのふり分けができないのであれば、厄介者以外の何者だというのか。市民の名誉を汚し、ウソを並べ立てて正義を台なしにし、市民の人生を破壊し、場合によっては汚名を着せて生命さえ奪っている。彼らを早く撲滅しなければならない。彼らこそ、人の世の悪の極みである。
 ここまで言われると、35年間、司法の世界で生きてきた私は身の縮む思いがします。なるほど、大いに反省すべきなのですが・・・。
 1日15分だけ認められる接見のとき、弁護人は、できるだけ本当のことをしゃべってくださいと言うのみだった。被疑者はできるだけ真実を言いたいが、検察官の思いこみと期待は、逆である。供述調書の作成作業は、まさに検察官と被疑者との闘いでもある。
 裁判官の有罪主義は、眼に見えないもっとも難儀な心の問題である。検察官に不利益な決定をすることは、一般的にいって、裁判官にかなりの勇気を必要とする。
 日本は、検察にとって、天国とも楽園とも言われる所以である。
 うむむ、法曹三者に対する厳しい指弾のオンパレードです。これで裁判員裁判になったら、どうなるのだろうかと、ちょっと論点はずれますが、つい心配になりました。
(2007年12月刊。1600円+税)

シェフの哲学

カテゴリー:ヨーロッパ

著者:ギイ・マルタン、出版社:白水社
 パリの三ツ星レストラン『グラン・ヴェフール』のシェフが語った美味しい話です。読むだけで思わずよだれがこぼれ落ちてきます。フランス人は食に人生をかけているのです。
 私がフランスが好きなのは、そこに魅かれるのです。あっ、中国人も食を大切にしていますよね。それに比べてアメリカ人って、なんであんなに食事を粗末にするのでしょうけ。ファーストフードなんて、身体にも良くありませんよ。
 原産地証明つきの食材でしか仕事をしない。そのためには納入業者の質が重要だ。その質こそが食文化を洗練するための基礎になる。そして、もっとも時宜にかなった最良の食材を探し求める。季節の移り変わりに完全に合致した旬の食材追求を片時も中断してはならない。これには、強い好奇心が必要だ。
 著者は冷凍魚や長期にわたって氷漬けになっていた魚は断固拒否します。ブルターニュや地中海から直接に取り寄せたものですし、養殖物ではありません。
 食材のなかの最良のものを探し出すのが、シェフの挑戦なのだ。
 な、なーるほど。やっぱり、まずは素材なんですね。インチキ産地はいけません。
 人は単に食べるためだけにレストランにやって来るのではない。期待にみち、喜びを求めてやって来る。だから料理には、香り、味わい、彩りはもとより、質感、たとえばぐっと凝固しているとかスポンジ状であるとか、蜂の巣状であるといった姿。さらに柔らかい、溶ろける、パリパリした、カリカリしたという食感が求められている。
 料理は、感覚全体、つまり味覚は当然のこととして、さらに嗅覚、視覚、触覚そして聴覚の五感で賞味されるものだ。シェフはこんなあらゆる要求を満足させるように、あらゆる期待感を呼び起こすように自分だけのレシピを入念に仕上げる。
 シェフは幸福を売るセールスマンのようなものである。
 多くのシェフと違って、著者はゼロから始めました。業界内にコネはなく、家系も別にありません。今日の有名シェフの多くは、その両親もこの業界に身を置いていたそうです。
 プロフェッショナルな試食・試飲は、冷静に、技術的に、客観的に行われなければならない。著者が自店でつかうすべての食材をパリで試食・試飲するのは、そのためだ。余人を交えずに比較し、メモをとり、議論し、最後に自分たちだけで決める。
 たとえば、フォワグラの生産者が売り込んできたら、その鴨はどのように飼育されたのか、どこから来た鴨か、何日間肥育したのか、肥育にはどのような穀物のどのバリエーションをつかったのか、その原産地はどこか、などを訊く。それに答えられなかったら、話はそこで終わる。それに詳しい説明ができたら、その人が有機農法規則にしたがって仕事をしていたら、見本を求める。そして試食してみる。見本をみて、このフォワグラは、処理場まで生きたまま運ばれたのか、殺されて処理場で取り出されたのか、などを確認する。
 うむむ、おぬし、そこまでやるか・・・。驚きました。
 私はフランス料理のなかでは、リ・ド・ヴォーが大好物なのですが、日本ではなかなかめぐりあうことができません。もし、あなたがリ・ド・ヴォーを食べたことがなかったら、一度、挑戦してみてください。もちろん、人によって好きじゃないということになるかもしれませんが・・・。
 厨房では、舞台裏と同じく、秩序ある興奮が支配していなければならない。
 料理という芸術を実践することは、毎日、綱渡りをしているようなものなのだ。シェフは独奏者であると同時に、オーケストラの指揮者でもある。常に自分の協力者たちの真ん中にいて、ジュを味わい、火入れの加減を確認するまさにその瞬間に、これから起こることを想定し、うまくいかないであろうと思えることを見分け、修正し、改めて必要な説明を行ない、安定して質的に統一されたやり方で、正確なリズムをチームにもたらすことができなければならない。
 もし、シェフが美食の殿堂の警護を自認するなら、それぞれの皿のごく細かい部分までコントロールしなければならず、料理人たちの驚きを誘うことにこだわりながら、新しいレシピを構成しなければならない。そのためには、まず何をおいてもオリジナリティ、創造性、新しいアイデアが不可欠である。
 あらゆる料理は、いくつ作っても同じ出来でなければならない。シェフと同等と考えられているセカンドたちと、スー・シェフは、シェフが不在であっても、火入れの加減、香り付け、盛り付けを変えることなく、それぞれのレシピが料理できなければならない。
 シェフの協力者たちは、単に創造のプロセスを全体として理解しているだけでなく、シェフ固有の感受性にいたるまで、ミリ単位ですべてを転写するように、また、シェフのどんな細かい眼差しの違いにもいちいち対応させられるように同化していなければならない。
 うひょー、これってすごいことですよね。たしかに、毎回ちがった味では困ります。といっても、マックといったファーストフード店のように、全世界どこでも同じ味つけというのはいやですね。私はマックは食べません。合成的な味つけに舌を慣らしたくないからです。あんなものを食べるくらいなら、メロンパンにしておきます。
 フォワグラは、曲げの力を加えたときに割れずに曲げられなければならないし、かといって、あまりにも柔軟であり過ぎてもいけない。つまり、固すぎても柔らかすぎてもよろしくない。その次に、見た目、色、肌理(きめ)が検証される。目に快い仕上がりでなければならない。小さな粒子感があって、高密度に締まっており胆汁の痕跡は無視できる程度でなければならない。
 料理人には味覚がもっとも重要だ。味覚を訓練し、繊細なものにしていかなければならない。これは一朝一夕ではつくり出せない。さまざまな味に徐々になじんでいく必要がある。繊細な舌、繊細な味覚をもつというのは、必ずしも生まれつきの才能ではなく、勉強であり、一つ一つの味や匂いを記憶していくことだ。薫り(アローム)は、個々の食材や香辛料の香りがきわめて複雑にまざりあって出来あがっているものだが、シェフであるからには、さまざまな香辛料を含んだ料理を味わったとき、直接的に何がつかわれているかを識別できなければならないし、つかわれた主な香辛料は何か、これをだいたい把握出来なければいけない。
 むひゃあ、すごーい。とても私にはできそうもありません。さすが三ツ星レストランのシェフですね。そのプライドがよく伝わってくる本です。
 高級レストランの経営も大変なんだという話も出てきます。こんなお店で、気のおけない友だちとおしゃべりしながら美味しく味わいたい、そんな本です。
(2008年2月刊。2700円+税)

トカゲ

カテゴリー:警察

著者:今野 敏、出版社:朝日新聞社
 『隠蔽捜査』もなかなか読ませましたが、これも面白くて、車中で一気に読み上げてしまいました。とてもよくできた警察小説です。
 警視庁捜査一課には、トカゲと呼ばれる覆面捜査チームが存在する。トカゲはバイク部隊だ。特殊犯係だけでなく、刑事部のなかにメンバーが分散していて、いざというときに招集される。ウソかマコトか知りませんが、ありうる設定になっています。
 銀行員3人が誘拐され、犯人は身代金として10億円を要求した。ところが、銀行のトップは他人事のような対応で、銀行の蒙る損害のみを気にしている。
 銀行が庶民のことを考えたことなど、歴史上一度もない。これからは小額の口座なんか作らせたくないと考えている。1千万円以下は小額口座だ。いずれ口座維持手数料を支払えと言ってくるだろう。
 なーるほど、そうですよね。私の事務所との対応をみても、まったくゴミのような存在としかみていないことがよく分かります。もちろん、億単位ではありませんが、1千万円よりはずっと大きい預金なのです。それでも、やっぱり小額扱いされています。何億、何十億円もの預金する人だけが得意先なのですね。だけど、銀行員に聞くと、合併・統廃合がすすんで内部も、ますます大変のようです。ノルマ、やっかみ、対立抗争など・・・。
 銀行は、ほんまの悪もんや。世の中、えげつないことやる連中はぎょうさんおる。トイチの金貸しも地上げやるヤクザも悪もんやけど、その裏に必ず銀行がおる。銀行は手を汚さんと、汚い金を吸い上げるわけや。金をたいして必要としてへん大企業には格安の金利で金をどんどん貸して、一方で切実に金に困っとる中小企業には、びた一文貸さへん。なあ、こんな悪いやつ、ほかにおるか。銀行員てのは、人殺しより悪いやつや。人殺しは、少なくとも切実な理由があることが多いし、罪の意識もある。けど、銀行のやつら、どんなに悪いことしても、罪の意識があらへん。
 なーるほど、なるほど、そうですよね。もちろん、大半の銀行員はノルマに追われながらも真面目に働いておられることと思います。問題はトップの意識と行動です。
 犯人検挙のためにNシステムが活用されている。Nシステムの全貌は明らかにされていない。これって怖いことですよね。莫大な税金を投入しているのですから、私たちには知る権利があります。
 銀行がなぜ、警察OBを顧問として雇うかというと、脅迫などの問題を自力で解決したいという思惑があるから。銀行には、なるべく警察沙汰にはしたくないという体質がある。それは、銀行内部は叩けば埃だらけなので、できるだけ警察なんかに触ってほしくないからだ。
 警察内部の特殊捜査犯、殺人犯、公安などのナワバリ根性のぶつかりあいも描かれていて、ふむふむ、そうなんだろうなと読ませる本です。
 チューリップの花が散りはじめました。そばにアイリスがすっくと伸びた花を咲かせています。白地に気品のある黄色い花です。少し離れたところに青紫のアイリスも咲いています。アスパラガスが伸びてきました。でも、まだエンピツほどの太さしかありません。親指ほどの太さのものが出てきたら食べようと思っています。
(2008年1月刊。1500円+税)

南京、南京、南京

カテゴリー:中国

著者:仙洞田英子、出版社:草の根出版会
 54歳の独身女性が一人で、南京大学に語学研修のため留学した体験記です。すごいですね。たいしたものです。本文を読んで、さすが土性骨がすわっていると感嘆しました。
 ほとんど団塊世代です。司法書士を48歳で辞め、50歳のとき大学に入ったといいます。子ども3人を育て上げ、41歳のとき離婚して独り身でした。
 授業は朝8時に始まる。だから、朝は5時半に起床する。6時半に食事、7時半に登校。その途中、屋台で温かい豆乳を買い、教室で飲む。
 昼には食事のあと、1時間ほど昼寝する。そのあと、復習や宿題をする。夕方は散歩に出かける。土曜と日曜は授業がないので、一人で映画をみに行く。そのあとは、繁華街やデパートをぶらぶらする。
 私も、エクサンプロヴァンスで過ごした4週間を思い出しました。40歳になってまもなくのことでした。弁護士生活10年ごとに40日間の休暇を保障するという北九州第一法律事務所を真似て、さっそく実行したのです。午前中は9時からみっちりフランス語の勉強をして、昼食は大学の食堂で安くて美味しいものを食べ、午後からは市内を散策したり、映画をみたりして過ごしました。夏でしたから陽が長くて、夜10時近くまで真昼のような明るさでした。家族を放っぽらかして一人出かけたバカンスでしたので、大変な顰蹙を買いましたが、今も、あのとき行って良かったと思っています。やはり、行動あるのみです。
 中国では、一回その店で買い物をすると、老客(なじみの客)と呼んで大事にする。店員は老客の顔を感心するほど覚えていて、素晴らしい笑顔で迎え、そして安く負けてくれたりする。
 中国のバスの運転手の4割は女性。中国の女性は強い。仕事から帰ると、ソファに腰をおろし、新聞を読む。夫は仕事を終えると、買い物をして帰り、食事の支度をする。夕飯ができたら、「ご飯ができたよ」と妻や家族に声をかける。
 うへーっ、そ、そうなんですか・・・。とても信じられません。
 日本人で南京大虐殺記念館(正確には殉難同胞記念館)に行ったとき、「30万人は多すぎる」とか「政治的メッセージが強すぎる」と言う人が多いそうです。日本で南京事件否定論が大手を振って横行しているせいでしょうね。でも、日本軍が大虐殺をしたことはまぎれもない事実です。それを人数が30万人だったかどうかに焦点をしぼって議論するようなことを日本人はしてはいけません。私も著者の考え方にまったく同感です。日本人は反省が足りなさすぎると思います。
 私も南京には一度行きましたが、とてもいい古都だと思いました。申し訳ありませんが、記念館には行っていません。
(2007年9月刊。1800円+税)

自衛隊の国際貢献は憲法9条で

カテゴリー:社会

著者:伊勢?賢治、出版社:かもがわ出版
 現在の日本国憲法の前文と第9条は、一句一文たりとも変えてはならない。
 これが著者の結論として言いたいことです。なにしろ世界の戦争現場に臨場してきた日本人のいうことですので、説得力があり、迫力があります。
 いやあ、日本人の男にも、こんなにたくましい男性がいたのですね。ほれぼれ、します。
 著者は戦火のおさまらない東チモール(インドネシア軍と戦いました)に派遣された国連平和維持軍を統括し、アフリカのシエラレオネでは国連平和維持活動の武装解除部長として何万人もの武装勢力と対峙し、アフガニスタンでも日本政府の代表として同じく武装解除に取り組んだのです。その体験をふまえて、護憲的改憲論から、すっきりした護憲の立場に変わったというのです。では、一体、どうして変わったのか。素直に耳を傾けてみようではありませんか。
 著者は、改憲派も護憲派も現場を知らなければいけないと強調しています。そのうえで、日本国憲法9条を生かしてこそ、日本は外交できるというのです。その言葉には圧倒的な重みがあります。
 普通、国家の武力装置というと、軍か警察をさす。そして、軍と警察の役割分担は明確で、軍は領土・領海・領空を守る。つまり、外敵に対して国を守る。いわば、国境の問題を担当する。一方、警察は日常の暮らしを守る。警察は、毎日、市民の隣にいるけれど、軍はいない。軍は国家有事のためにある。ところが、途上国では、この2つの区分けが難しい。この2つの役割分担があいまいな複数の武力装置が存在することには危険性もある。
 著者は、1988年から4年間、シエラレオネにいて、NGOで福祉や開発の仕事をしました。内戦が広まっていった時代のことです。
 シエラレオネは、世界でも最良質のダイヤモンドの産地であり、チタンの原料の産出国でもあるから、本来は豊かな国であっていいはず。ところが、世界最貧国のままだった。その原因は腐敗にある。国の富は、外国企業やそれに結びついた一部の政治家と官僚によって国外へ持ち出されていく。そして、現場で虐殺を指揮した指揮官400人全員が免責された。しかも、トップは副大統領になり、ダイヤを所管する天然資源大臣を兼任した。
 ひゃー、すごいことですね。これって・・・。
 アフガニスタンでの武装解除は2005年に完了した。もと北部同盟側の軍閥勢力6万人以上が武装解除された。ところが、現在のアフガニスタン情勢はどんどん悪化している。武装解除は完了したが、治安改革の分野では武装解除が生んだ力の空白が埋められずに、タリバンが復活し、治安情勢が極端に悪化している。
 著者はアフガニスタンでの経験から、日本は憲法9条を堅持することが大切だと確信するようになったのです。
 アフガニスタン人にとっての日本のイメージは、世界屈指の経済的な超大国で、戦争はやらない唯一の国というもの。もちろん、アフガニスタンの軍閥が憲法9条なんて知るはずもない。しかし、憲法9条のつくり出した戦後日本の体臭がある。9条のもとで暮らしてきた我々日本人に好戦性のないことは、戦国の世をずっと生き抜いてきた彼らは敏感に感じる。そういう匂いが日本人にはある。これは、日本が国際紛争に関与し、外向的にそれを解決するうえで、他国にはもちえない財産だ。そんな日本の特性のおかげで、よその国には絶対にできなかったことをアフガニスタンでできた。これは美しい話ではなく、誤解なのだ。そこに、悲しさがある。 
 日本は、アフガニスタンの武装解除のため、100億円を拠出した。つまり、アフガニスタンの軍閥が武装解除されたのは、日本のお金があったればこそのことなのである。
 日本は、憲法9条があったからこそ、軍事的な貢献は難しいということで、お金を出すことに集中した。お金を出してきたことは、日本が恥じるようなことではない。
 先進国の中で日本だけがもっている特質は、中立もしくは、人畜無害な経済大国というイメージである。したがって、日本にとってもっとも重要な判断基準は、憲法9条にもとづく外交という特徴が維持・活用できるのかどうかということになる。海外へ自衛隊を派遣することによって、それが台なしになるなら、それは日本の国益にならない。
 傾聴に値する貴重な本です。150頁たらずの本ですから、重たい内容にもかかわらずさらっと読めます。ぜひ、手にとって読んでみてください。
(2008年3月刊。1400円+税)

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